2013年1月3日木曜日

At the beginning of the New Year

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.        ==  // 
 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2013年 1月 4日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに

選ばれました!

 

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 

休みます。

 
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 

【今年も、懸命に生きる】2013年も始まった!

 

○パソコン

 

 昨日、新しいパソコンに注文をした。

M社の製品。

新製品。

 

OSは、インテルの3930K。

知る人ぞ知る、インテル社の最高峰。

(本当は、もうひとつこの上のものがあるが……。)

メモリーは、32G。

SSD起動で、これも240G。

ハードディスクは、2TB。

これほど高性能マシンになると、ふつうの冷却法では、だめ。

かなりの高熱を発するようになる。

そこで水冷式。

水冷式の冷却装置。

 

 注文をし終えてから、内容を確認。

それを読みなおす。

改めて、ワクワクする。

全体に、現在、私が使っているパソコンの4倍。

あるいはそれ以上の能力。

ハイビジョン・クラスの動画編集も、平気。

2時間ものを編集しても、ビクともしないはず。

 

 ついでにオプションとして、ウィルス対策ソフトをつけた。

3年間のピックアップ保証もつけた。

 

 発送は、1月15日となっている。

2週間後。

楽しみ。

 

○老いへの挑戦

 

 こう書くと、ずいぶんとぜいたくな話と思う人がいるかもしれない。

「そんなパソコンをどうするのか?」と。

説明書にも、「サーバー使用」とある。

つまりパソコンを管理するサーバーとしても使える、と。

 

 しかし欲しいときが華(はな)。

そういう欲望も消えたら、ただの生きる屍(しかばね)。

が、一方で、こういうふうにも考える。

「これから3年間使うとして、3年後には、69歳」と。

 

 69歳といえば、四捨五入すれば、70歳。

(今でも、四捨五入すれば、70歳だが……。)

ワイフに「これが最後の買い替えになるかもしれないね」と言う。

つまりそういう悲壮感が漂うようになる。

ボケ防止というような、生やさしいものではない。

命。

命の問題。

 

○孫

 

 先日、アメリカに住む孫に、別のプレゼントを送った。

クリスマス・プレゼントとは、別のもの。

デニーズさん(嫁)から、令状が届いた。

……ということで、このところ毎日のように、メールの交換をしている。

理知的な女性で、親切。

誠実。

 

 こんなことが息子のBLOGに書いてあった。

何でも、みなで教会へ行ったときのこと。

教会の前にクッキーが並べてあった。

 

 で、2人の孫がそれを取ろうとすると、デニーズさんは、こう言ったという。

「2人で、ひとつにしなさい。

あとで来た人が、何もないと、かわいそうだから」と。

 

 いまどき、こういう女性は珍しい。

 

○善と悪

 

 「悪」を知り、「善」を知る。

人生も、また然(しか)り。

善だけの世界では、善人には、なれない。

悪の世界も知る。

善の世界は、その先で、光る。

もっとわかりやすく言えば、こう。

 

 人は、悪と戦って、はじめて善人になる。

12年ほど前、こんな原稿を書いた。

 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以下、2000年ごろの原稿より)

 

●知恵

++++++++++++++++++++++

布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密(ハラミツ)」という。
このうちの「布施、持戒、忍辱、精進、善定」については、
たびたび書いてきた。
が、「知恵」については、あまりにも当たり前のことと
思い、書いたことがない。

++++++++++++++++++++++

●知恵の重要性

 教育の世界では、「無知は罪」と考えてよい。
親の無知が、子どもの心をゆがめるというケースは少なくない。
相手がいないばあいなら、無知であることも許される。


しかし相手がいて、その相手に影響を及ぼすなら、「無知は罪」となる。
しかもその相手というのが、無抵抗な子どもというのなら、なおさらである。
そういう意味では、総じて言えば、愚鈍は恥ずべきことであって、けっして誇るべきことではない。

 で、六波羅密においては、「知恵」を6番目の徳目としてあげた。
もちろんこれは私の勝手な解釈によるもので、仏教学者の人たちなら、顔を真っ赤にして怒るかもしれない。
六波羅密は、大乗仏教(北伝仏教)の修行法の根幹をなすものである。
「はやし(=私)ごときに、何がわかるか!」と。

●善と悪

 そこで私の善悪論の根幹をなす考え方について。
私はいつもこう書いている。

「悪いことをしないからといって、善人というわけではない」
「よいことをするから、善人というわけでもない」
「人は、悪と積極的に戦ってこそ、善人である」※と。

 「悪と戦う」というのは、(外部の悪)はもちろんのこと、(自分自身の内部に潜む悪)もいう。
このことも、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

 何もしないで、静かにおとなしくしている子どもを、よい子どもとは言わない。
あいさつをきちんとし、先生の言うことをハイハイと、従順に従う子どもを、よい子どもとは言わない。
身近でだれかが悪いことをしたとき、それを制したり、戒める子どもを、よい子どもという。

 実際、よいこともしなければ、悪いこともしないという人は、少なくない。
万事、ことなかれ主義。
小さな世界で、丸く、こじんまりと生きている。
しかしそういう人を、善人とは言わない。
「つまらない人」という。
ハイデッガー風に言えば、「ただの人(das Mann)」。

 で、私たちは、積極的に悪と戦っていく。
そのとき最大の武器となるのが、「知恵」ということになる。
知恵なくして、人は、悪と戦うことはできない。
「悪」のもつ愚鈍性を見抜いたとき、善は悪に打ち勝ったことになる。
これには、(外部の悪)、(内部の悪)もない。

●知恵を磨く

 愚鈍の反対側にあるものが、「知恵」ということになる。
そう考えると、知恵が何であるかが、わかる。
言い替えると、「考える力」、その結果として得られるのが、「知恵」ということになる。

 誤解してはいけないのは、知識イコール、知恵ではないということ。
いくら知識があっても、それを反芻し、消化しなければ、知恵にはならない。
その「反芻し、消化する力」が、「考える力」ということになる。

 このことは反対に、老人の世界を観察してみると、よくわかる。
認知症か何かになって、考える力そのものを喪失したような老人である。
口にすることと言えば、過去の愚痴ばかり。
そういう老人には、ここでいう「悪と戦う力」は、もうない。
もちろん善人ではない。
善人とは、言いがたい。

 が、だからといって、善人になるのは、難しいことではない。
自分で考えて、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声をあげるだけでよい。
たったそれだけのことだが、その人をして、善人にする。

+++++++++++++++++

(注※)3年前に書いた原稿を添付します。
日付は、2007年9月26日(水)と
なっていますが、この原稿自体、
さらにその6、7年前の2000年ごろ
書いたものです。

+++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。

どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。

よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。


●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。

しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。

もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。

もともと善と悪は、対等ではない。

しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。

しかしそれは本来の道徳ではない。

人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。

その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。

そのとき、まわりにはだれもいない。

拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。

そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。

それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳ということになる。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。

ないことはないが、弱い。

だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。

社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。

すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。

交差点へきたら、信号を守る。

黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。

もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。

相手にしない。無視する。

ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。

そういうときでも、結局は、近づかない。

相手にしない。

無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。

考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。

かぎりがある。

そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。

だから、近づかない。

相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。

これはいわば、「逃げ」の手法。

つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。

本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。

そこで改めて考えてみる。

はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。

あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。

子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。

ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。

たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。

印象に残っている女の子(小3)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子ども※がいた。

私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。

「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。

「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。

生まれつきのものだろうか。

ノー! 教育だろうか。

ノー! しつけだろうか。

ノー! それとも頭がかたいからだろうか。

ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。

その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。

考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。

それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。

「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。

あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。

この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。

釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のない人は、そもそも善人にはなりえない。

よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。

悪いことをしないから善人というわけでもない。

人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、2つに分かれることがわかる。

1つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。

子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう1つは、自分で考えるという方法。

前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。

一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。

どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。

それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。

それで正しく行動できるというわけではないが、

もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。

もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。

つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。


(注※)

 

 ここに書いた子ども(女児)のことは、よく覚えている。

旧姓をABさんという。

現在も、連絡を取りあっている。

その女児は、女医になり、山口県の病院に勤めたあと、現在は、東京で暮らしている。

昨年(2012年)の暮れ、喪中のハガキが届いた。

それには「結婚し、今は東京で暮らしています」とあった。


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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以上、2000年ごろ書いた原稿)

 

○ボケ度

 

 12年前の原稿を読み返す。

かなり背伸びした文章で、自分でも、それがよくわかる。

どこか青臭い。

 

 もう1作、そのころ書いた原稿。

 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 

希望論(2000年ごろ書いた原稿より)

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。
『希望とは、めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。
『絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。
『私のばあい、希望をなくしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言っ
た、シャンフォールがいる。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう一〇年にもなるだろうか。
「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子どもたちの世界で流行した。
その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯王、マジギャザというカ
ードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。
そのときその女の子(小一)は、狂ったように泣いた。

「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。
ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。
希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。
それにまつわる人間たちが、勝手につくりだした虚妄にすぎない。

その虚妄にハマり、と
きに希望をもったり、ときに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。

絶望とは何か。
もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。

あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。

「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらなかったのか」と。

それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。


 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

【子どもに善と悪を教えるとき】

四割の善と四割の悪 

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。
おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。

子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。
時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。
あるいはそういうワナにハマりやすい。
ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはど
うなのか。

自分に対しては、そこまできびしいのか。
社会に対しては、そこまできびしいのか。
親だってそうだ。

子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。

しかし自分で勉強している親は、少ない。


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善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。
人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいな
いというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。
無数のドラマも、そこから生まれる。

旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。

「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。


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子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。
それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。


たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。
そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。
高校生の娘もいる。
そこで私はある日、その男にこう聞いた。

「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。

するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。

子どもの世界をゆがめる。
それが問題なのだ。
________________________________________
悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。
そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。
その中に、「希望論」を織りまぜた。

それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。それが希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。

キリスト教では、「堕落(だらく)」という言葉を使って、それを説明する。
もちろんこれはキリスト教の立場にそった、希望論であり、絶望論ということになる。
だからほかの世界では、また違った考え方をする。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶望論を説いた。
が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひかれる。
「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。
だからいきなり、「そういう人間になるのが希望だ」と言われても困る。
しかし何となく、この説話は正しいような気がする。
言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。
つい先日も、私は生徒たち(小四)にこう言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。
強いカードをもっていると、心はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。
幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線を引かないと、時間をムダにすることになるよ。
カードなんかより、自分の時間のほうが、はるかに大切ものだよ。
それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。

しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否定するのは、正しくない。
もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、心を休めたり、癒(いや)したりする。
が、それはあくまでも「趣味」。

決して希望ではない。
またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。
大切なことは、どこかで一線を引くこと。
でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

Hiroshi Hayashi
++++++はやし浩司

 

○再び、2013年に

 

 話を戻す(2013年01月03日)。

 

 この原稿も、どこか青臭い。

どこか気取っている。

背伸びしている。

それに最近の私は、1行を超える文章を書かない。

むずかしい漢字を使わない。

過去の有名人の言葉を、無意味に引用したりしない。

それでもって、自分の文章を飾るようなことはしない。

 

 で、気になったのは、「神」

神論。

 

○限界

 

 この6か月で、私の人生観は、大きく変化した。

『謎の点と線』を調べているうちに、そうなった。

つまり「神の限界」を知った。

それでそうなった。

 

 つまりそれまでの私は、絶対的な神の存在を、心のどこかで認めていた。

が、今は、ちがう。

「限界」が、はっきりとわかる。

謎と線で、自分たちの位置をつないだことが、限界ということになる。

全知全能なら、そんなことはしない。

が、その一方で、こんなこともわかった。

 

 私たちは「無の存在」と。

 

○無の存在

 

 私は無から生まれ、死ぬことによって無に還(かえ)る。

そこには、時の流れすらもない。

その無から生まれる。

そして死んだあと、またその無に還る。

そこには、時の流れすらもない。

まったくの無。

 

 が、悲しむ必要はない。

虚(むな)しく思う必要もない。

私たちの肉体は、分子レベルにまでこなごなに破壊されたあと、また生き返る。

人間ではないかもしれない。

ありとあらゆる動植物の中に入り、そこで再生される。

大半は、土に還る。

が、一部は、有機物となり、別の生物の中に組み込まれる。

生き返る。

あとは、地球があるかぎり、延々とそれを繰り返す。

 

 天国?

地獄?

来生?

前世?

 

 そんなもの、あるわけがない。

宗教家も、宗教哲学者も、そういう言葉を使い、人間をだますのをやめたらよい。

もう、うんざり。

たくさん。

 

○虚無主義

 

 この世界とて、光と分子が織りなす、無の世界。

そこに何かがあるようで、実は、何もない。

「ある」と思い込んでいるだけ。

踊らされているだけ。

が、けっして虚無主義に陥っては、いけない。

 

 大切なことは、懸命に生きること。

ただひたすら懸命に生きること。

その懸命に生きる「様(さま)」の中に、生きる価値がある。

生きる意味がある。

 

 つぎのような原稿を書いたこともある。

一部、  今まで書いてきたことと重複するが、許してほしい。

日付は、2001年になっている。

 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以下、2001年記)

 

【子どもに生きざまを教える法(懸命に生きてみせろ!)】


子どもに生きる意味を教えるとき 


高校野球に学ぶこと


 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。

生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。



 たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。

たかがボールのゲームと笑ってはいけない。

私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。

「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。


人はなぜ生まれ、そして死ぬのか


 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。

幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。



 それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。

そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。


 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。

一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。

そのピエールはこう言う。



 『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。

もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。

映画『フォレスト・ガンプ(「一期一会」)』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。

『人生はチョコレートの箱のようなもの。

食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。


懸命に生きることに価値がある


 そこでもう一度、高校野球にもどる。

一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。

応援団は狂ったように、声援を繰り返す。

みんな必死だ。
命がけだ。

ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。

一瞬時間が止まる。

が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……


 私はそれが人生だと思う。

そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。

つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。

生きる価値をもつ。



 言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。

夢も希望もない。情熱も闘志もない。

毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。



 あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。

感動もない。

見るほうも、つまらない。

そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。

人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。

高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

Hiroshi Hayashi
++++++はやし浩司

●子育てのすばらしさを学ぶ法(許して忘れろ!)


子育てのすばらしさを教えられるとき


子をもって知る至上の愛    


 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。

その一つが、至上の愛を教えられること。

ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。

こうした「自分の命すら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。


自分の中の命の流れ


 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分の中に父がいる」という思いである。

私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。

その顔が父に似ていたからだ。

そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。



 先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。

そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。

いや、姿、形だけではない。

ものの考え方や感じ方もそうだ。

 

私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。

自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。


神の愛と仏の慈悲


 もう一つ。

私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。

死はすべての自由を奪う。

死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。

いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。



 すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。

が、私にはそれができない。

しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。

自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。

いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。

が、私のような凡人にはできない。

できないが、子どもに対してならできる。

いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。

それが孤独な心をいやしてくれる。


神や仏の使者


 たかが子育てと笑うなかれ。

親が子どもを育てると、おごるなかれ。

子育てとは、子どもを大きくすることだと誤解するなかれ。

子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。

それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。



 子どもというのは、ただの子どもではない。

あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。

いや、それだけではない。

子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。

つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。

子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。

いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。

そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。

 

 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以上、2001年記)

 

●2013年1月3日

 

 ともくも、今日も始まった。

「始まった」と言うのも、もどかしい。

が、始まった。

 

 時間が足りない。

時間がほしい。

『古代文明をつなぐ謎の点と線』にしても、つぎつぎと謎がわいてくる。

謎が解ける。

が、それをビデオ化するのが、たいへん。

もどかしい。

毎日が、この繰り返し。

2013年に入っても、状況は変わらない。

すでに睡眠不足。

運動不足。

 

 パジャマに上着を、はおっただけ。

そんな姿で、書斎にこもる。

それを見て、ワイフがこう聞く。

「寒くないの?」と。

 

 が、私は寒くない。

寒さを感じているヒマもない。

が、それについても、ワイフは、こう言う。

「老人になって、寒暖の調整機能が狂ったんじゃないの?」と。

そうかもしれない。

そうでないかもしれない。

 

○田丸謙二先生

 

 たった今、田丸謙二先生から、メールが入った。

昨年(2012年)末まで、東大の名誉教授会の会長をしていた。

年賀状には、「卒寿の祝いをしてもらいました」とあった。

 

 それをそのまま紹介する。

田丸謙二先生は、ただひたすら懸命に生きてきた。

90歳近くになった今も、生きている。

その先生の姿に、感動する。

 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 

(田丸謙二先生より、はやし浩司へ)

 

林様:明けましておめでとうございます。

今年がよい一年になるように祈ります。

 

私のホームページですが、インターネットには出て来るのですが、大元のホームページが出て来なくなってしまいました。

どうしたら本物のホームページが出て来るのでしょうか。

例えばデスクトップに呼び出すにはどうしたらいいのでしょうか。

パソコンに詳しい貴兄にお伺いします。

 

くれぐれもお元気にご活躍下さい。田丸謙二

 

(はやし浩司より田丸謙二先生へ)

 

あけまして、おめでとうございます。

 年賀ハガキを出すのを遅れてすみません。
昨年末は、とにかく忙しく、たいへんでした。
(言い訳はしたくありませんが。
先生にだけです、こんな言い訳をするのは。
あわてて1月1日に出しました。)

A)「おおもとのホームページが出てこなくなった」という意味が、よくわかりません。

たった今、「田丸謙二」で検索をかけてみました(ヤフー)。
で、先生のホームページが、ちゃんとトップに出てきました。
何も問題はないかと思われます。

B)デスクトップに呼び出す

デスクトップで呼び出すということができないときは、こうします。

(1)まず左下の、ウィンドウの「旗印、4色マーク)を、右クリックします。(右ですよ!)

(2)「エクスプローラ」という文字が出てきますので、それを左クリックします。(左ですよ!)

(3)NINJAは、「ドキュメント」の中に格納されていますので、「ドキュメント」を、2回カチカチと左クリックします。(左、2回ですよ!)

(4)「ドキュメント」を開くと、「Homepage Ninja」というのが出てきます。

(5)そのHomepage Ninjaを、2回、左クリックします。(左、2回ですよ!)

(6)するとファイルの一覧がずらりと出てきます。

(7)その中に、青い地球マークがあります。

(8)その地球マーク上で、右クリック(右ですよ)します。
するとタグ(短冊)が現れます。
その中から「COPY」を選び、右クリックします。

(9)そのままデスクトップに戻り、デスクトップ上で、同じように、右クリックをし、「添付(Paste)」を選び、左クリックで、画面に貼り付けます。

以上で、完了です。

 ちょっと面倒な作業ですが、右と左をまちがえないようにしてください。

 で、毎年私のほうは、正月は家で静かにしています。
正月が終わったら、温泉などに行きます。
人ごみと、高料金を避けるためです。

今、時刻は、1月03日、午前2時30分です。

こんな原稿を書いていました。

お笑いください。

 

(以上、2013年01月03日記)

 

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Hiroshi Hayashi+++++++Jan.,2013++++++はやし浩司・林浩司

 
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 
休みます。
 
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