2011年2月8日火曜日

*When we know the truth, we are redy t die in the evening

【2月8日という、「今」論】

●時の流れ

 今、この瞬間だけをみる。
遅々として進まない時間。
今朝は風もない。
昨日までの強風は消え、今は、庭の木々も、動きを止めている。

 これが時間か?
時間というものか?

 しかしそこにあるのは、「今」だけ。
過去は、ない。
未来は、ない。
つねに「つぎの今」がやってきて、また「過去の今」へと去っていく。
よい例が、人の死。

 NG先生が亡くなって、もう2か月になる。
早いというよりは、今と2か月前との間に「時間」がない。
「2か月」という数字はあるが、その実感がない。
つい数日前……というよりは、この2か月が、瞬時に消え去った。
……消え去ってしまった。

●人の死

 学研の幼児局に、斉藤洋三氏という編集長がいた。
世話になった。
その人が亡くなって、もう20年以上になる。

 そのあと、その斉藤洋三氏を追うように、本郷左智夫氏という編集長がが亡くなった。
「学習」「科学」という、日本を代表する学習雑誌を創りあげた編集長である。

 これら両氏が、今、ここでどうこうというのではない。
今、そういう人たちを思い出しながら、こう思う。
「瞬時だな」と。
その間に「20年」という時の流れがあるはず。
が、その実感が、どこにもない。

 さらに40年前に亡くなった、伯父がいる。
30年前に亡くなった叔父がいる。
それらのオジにしても、ともにその「時」から、今に至るまで、「瞬時」。
どの人を思い出しても、つい瞬間前に亡くなったような気がする。

 言い換えると、この先、10年、あるいは20年など、その瞬時に過ぎる。
いくら私やあなたが、「私たちは生きている」と実感しても、
その実感は、つぎの瞬時には、またたく間に消える。
時の流れというのは、そういうもの。

●順番

 人の死について、「順番」と考える人がいる。
それはその通りと思う。
うまくいけば(?)、人はその順番に従って、この世を去っていく。
ときどきその順番が狂う人もいる。
若くしてこの世を去る人もいる。
しかしおおむね、「順番」という考え方は、まちがってはいない。

 毎年、私より年上の人たちは、どんどんとこの世を去っていく。
どんどんと消えていく。
とくにこの数年の動きは、はげしい。
人も60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そのさみしさ。
そのはかなさ。

 しかしそれが人の世と割り切れば、同時に自分の死も割り切れる。
そのときが来たら、それを受け入れる。
仮にその先10年、長生きしたところで、(あるいは20年、長生きしたところで)、
それがどうだというのか。
瞬時は、瞬時。
だからこそ、私たちは、「今」を懸命に生きる。
一瞬一秒とて、無駄にできる時間はない。
また無駄にしては、いけない。

●死の恐怖

 先日、私は後頭部にはげしい神経痛を覚え、その場に倒れてしまった。
首を不意にひねったようなとき、ときどきそれが起きる。
が、そのときは、ちがった。
太い何百本もの神経が、一度にひねられたような痛さだった。

 私は床に倒れたとき、こう思った。
「ああ、これで死ねる」と。

 けっして死を望んでいたわけではない。
またそういう状況でもなかった。
が、不思議なことに、本当に不思議なことに、何もこわくなかった。
その瞬間だが、私は死をすなおに受け入れていた。
幸い……というか、いつもそうだが、その痛みは、数秒単位の短い時間で収まる。
私はそのあと、ゆっくりと床から、立ち上がった。

 私たちがなぜ死を恐れるか。
これはあくまでも私のばあいだが、私は死ぬまでのプロセスがこわい。
生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
簡単には死なせてくれない。
ワイフもときどき、こう言う。

「ボケ老人になり、みなに、迷惑をかけて死ぬのはいや」と。
同時に、「どうしてこの日本では、安楽死を認めてくれないのかしら」とも。

●ワイフと……

 昨夜は、寝床に入ってから、ワイフとこんな会話をした。

私「もしぼくが死ぬことになっても、悲しまないでよ。
ぼくが死んでも、やがてお前が死ぬときまでは、瞬時だからね」
ワ「私はあなたが死ぬまで、しっかりとめんどうをみるわ」
私「ありがとう。
そのかわり、お前が死ぬときは、かならず迎えに来るよ。
どんなことがあってもね。
神様や仏様が怒っても、迎えに来るよ」
ワ「頼むわ」と。

 そのほかにもいろいろ話した。
時計をみると、午前1時を過ぎていた。
それを最後に、私たちはいつの間にか、眠ってしまった。
 
 私たちは、こうする。

 私が死んでも、葬式などは、いっさい、しない。
だれにも知らせない。
だれも来なくてよい。
ただワイフだけ、一晩、横にいてくれれば、それでよい。
で、そのあと、火葬場で焼かれて、灰になる。
その灰は、ワイフが死ぬまで預かる。

 昨夜もワイフは、それをしっかりと約束してくれた。
私は何度も念を押した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 遺言 晃子への遺言)

●懸命さ

 私たちはこの宇宙で、瞬時に生まれ、そのまた瞬時に死んでいく。
その間に、長い時間があるように見えるが、もともとそんな「時間」など、存在しない。
100年前に生きた人も、1000年前に生きた人も、みな同じ。
1万年前に生きた人も、10万年前に生きた人も、みな同じ。

 この先の「未来」についても、同じ。
この先10年生きようが、20年生きようが、それがどうだというのか。
50年でもよい。
つぎの瞬時には、私もあなたも、この世から消えてなくなる。
それがわからなければ、私やあなた自身の過去をみればよい。
この10年間は、どうだったか?
この20年間は、どうだったか?
どれも瞬時に過ぎたはず。
そのいとおしさ。
切なさ。

 大切なことは、「今」を懸命に生きること。
懸命に生きて、生きて、生き抜く。
つぎの「今」は、その結果として、からなずやってくる。
が、それでも、「今日はよくがんばった」と思える日など、ない。
一日もない。
が、だからといって、生きるのが無駄というのではない。
その逆。
その(懸命さ)の中から、無数のドラマが生まれる。
人がなぜ、この世界に生まれ、そして死んでいくか。
その答は、シンプル。
無数の人間が織りなすドラマにこそ、価値があるから。
意味があるから。

 不完全でボロボロの世界。
だからこそ、おもしろい。
楽しい。

●はやし浩司 2011-0208

 今朝も5時に起きた。
睡眠時間は4時間(?)。
すぐウォーキングマシンで運動。
今朝は、10分間だけ、した。
書きたいことがたくさんあった。
汗が体ににじんだところで、そのまま書斎へ。

 パソコンを立ち上げ、メールに目を通す。
ニュースを読んで、あちこちのサイトのアクセス数を知る。
そのあと昨日撮影したビデオを、編集。
そのままYOUTUBEにアップ。
原稿を書き始めたのは、そのあと。
そう言えば、昨晩、ふとんの中でワイフがこう言った。

「あなたはいいわね。自分の書いたものが残るから」と。

 ワイフはいつもそう言う。
が、私は、そんな安易な気持ちで原稿を書いているのではない。
原稿イコール、私の墓石。
毎日自分の墓石に文字を刻むようなつもりで、文を書いている。
「私の命」そのもの。
「今」を生きる私の命そのもの。
今という瞬間を、実感のあるものにするためには、それしか方法がない。
だから書く。

●今日も始まった

 ……こうして今日も始まった。
何が書けるかということではない。
どんな新しい発見ができるか。
それが重要。
何か新しい発見ができれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。

 ただ願うことは、夜、床に就いたとき、深い後悔のため息だけは
つきたくないということ。
あれほどつまらない敗北感は、ない。
何としても、それだけは避けたい。
またそうあってはいけない。

 まさに『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』(論語)。
それをもう一度、深く、胸に刻む。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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