2011年2月26日土曜日

*How can we be alive after 60?

【老後の統合性の確立】2011/02/26記


●ある知人


 先月、1人の知人が他界した。
男性、享年、85歳。
55歳のとき退職し、以後、仕事の経験は、なし。
計算すると、30年間、遊んで暮らしたことになる。
(30年間だぞ!)
中央省庁の出先機関の元副長。


 その知人についての最大の謎。
……と言っても、私がそう思うだけだが、心の問題をどう処理したかということ。
私なら1年どころか、1か月でも、気が変になってしまうだろう。
「遊んで暮らせ」と言われても、私にはできない。
何をどうやって遊べばよいのか。


●時刻表的生活


 そこで近所の人に話を聞くと、その知人について、こう教えてくれた。
「毎日、ふつうでない、規則正しい生活をしていました。
家の裏に100坪あまりの畑をもっていました。
一日中、農作業をしていました」と。


 朝、6時に、雨戸を開ける。
午前10時と3時に、ゴルフの練習。
練習時間は、ピッタシ、30分間。
家の横にネットを張った練習場もある。
夕方6時半に、雨戸を閉める。
庭先にある池の金魚に与える時刻まで、決まっていたという。
その間を縫って、もっぱら農作業。
夏も冬もない。
まさに時刻表的生活。


 このあたりにその知人の特性のようなものが、見え隠れする。
「時刻表的生活」というのは、ふつうの人のふつうの生活ではない。
そうであるからこそ、この30年間遊んで暮らせたのかもしれない。


●仕事
 

 仕事ができる喜びを書きたい。
63歳を過ぎても仕事ができる、その喜びを書きたい。
しかしそれを書くと、そうでない人に申し訳ない。
仕事をしたくても、職場から追い出された人も多い。
喜びを書こうとしても、強いブレーキが働く。
それに私だって、明日のことはわからない。


 もちろん仕事ができるためには、いくつかの条件がある。
健康であること。
職場があること。
その仕事を必要とする人がいること。


しかしこれらは、向こうからやってくるものではない。
こちらから求めるもの。
それなりの努力が必要。
その「努力」という部分が、やがて「喜び」につながる。
けっして軽々しく、「ラッキー!」と言えるようなことではない。


●流れ


 が、仕事があれば、それでよいというものでもない。
仕事から生まれる、緊張感。
それに「流れ」。
もちろん「生きがい」も必要だが、この際、ぜいたくは言っておれない。
「流れ」が、大切。


たとえば東洋医学でも、「流水は腐らず」と教える。
これは肉体の健康法について言ったものだが、精神の健康法としても、
そのまま使える。
週単位、月単位、さらには季節単位、年単位で、生活は流れていく。
その「流れ」が重要。


 が、仕事を失うということは、同時に、その「流れ」が止まることを意味する。
「年金があれば、それでよい」という問題ではない。
(もちろん年金は必要だが、それでは十分でない。)


 もっとも私のばあいは、その年金さえアテにならない。
働くしかない。
働くしかないから、仕事を手放すわけにはいかない。
「私は仕事ができる」と、一方的に喜んでいるわけではない。
その下には、切実な問題が隠されている。
どうか、誤解のないように!


●心の問題


 先に「心の問題」という言葉を書いた。
ほとんどの人は、(私も若いころそうだったが)、「老後」というと、健康問題しか
ないように考えている。
また健康であれば、それでよしと考えている。
(もちろん健康であることは必要だが、それでは十分でない。)


窓のない袋小路に立たされると、「だから、どうなの?」と考えることが多くなる。
「健康だからといって、それがどうなの?」と。
つまりその先が、「心の問題」ということになる。


 ただ誤解してほしくないのは、老人といっても、1人の人間ということ。
けっして半人前になるわけではない。
感性も知性も理性も、若いときのまま。
喜怒哀楽の情も、若いときのまま。
反応は多少鈍くなるが、生きることを、あきらめるようになるわけではない。


 が、世間は、否応(いやおう)なしに、あきらめることを強いてくる。
「あなたも歳だから……」と。
つまり老人は、そのはざまで、もがく。
苦しむ。
それが心の問題ということになる。
 

●金太郎飴人生


 だから老人は、現状を1日延ばしで、人生を先に送ろうとする。
今の私がそうだ。
悠々自適の隠居生活などというものは、夢のまた夢。
またそんな生活に、どれほどの意味があるというのか。
けっして負け惜しみではない。
先に書いた知人を思い浮かべてみればよい。


 この30年間、何がどう変わったというのか。
10年前も同じ。
20年前も同じ。
こういうのを、「金太郎飴人生」という。
つまり、どこで切っても、同じ。


 一方、仕事をしている人にしても、そうだ。
もっとも私の年齢になると、地位や名誉など、まったく興味がない。
関心もない。
仕事といっても、どこかで生きがいにつながっていなければならない。
収入につながれば、さらによい。
……というのが、仕事ということになる。


●老後の統合性


 こうして考えていくと、やはり「老後の統合性」の問題に行き着く。
(人間として、すべきこと)と(現実にしていること)を、一致させていく。
それが「統合性」ということになる。


その統合性の確立に成功した老人は、老後を生き生きと過ごすことができる。
日々に満足し、充足感を覚える。
そうでない老人は、そうでない。
日々に後悔し、明日が来るのを恐れる。


私もこの年齢になってわかったことがある。
孫の世話に庭いじり?
そんな生活はけっして理想の老後ではないということ。
これはそれができない私のひがみでは、ない。
今はわからないかもしれない。
しかしあなたも60歳を過ぎたら、それがわかるはず。


●究極の選択


 が、知人は、30年間、遊んで暮らした。
たまに町内の活動をしたことはあるらしい。
しかしいつも、「お偉い様」。
私も息子の運動会で、来賓席に、その知人が座っているのを見たことがある。
何もせず、じっと座っていた。
が、それでは生活に根をおろすことはできない。
晩年を自分のものにすることはできない。


 さみしくなかったのだろうか?
悶々と悩むことはなかったのだろうか?
窓のない部屋の閉じ込められて、息苦しくなかったのだろうか?


 となると、やはり最初の問題にぶつかってしまう。
その知人は、心の問題をどう処理したかということ。
悩みや苦しみもあっただろう。
さみしい思いやつらい思いもしただろう。
ひょっとしたら、遊びたくて遊んでいたわけではないかもしれない。
が、私には、やはり「遊んで暮らした」としか思えない。


 で、最後に究極の選択。
あなたならどちらを選ぶだろうか。


(1) 年金で、死ぬまで、遊んで暮らす。
(2) 死ぬまで、働きながら暮らす。


 私なら(2)を選ぶ。
(本当は先にも書いたように、選ぶしかないが……。)
仮に年金があったとしても、(2)を選ぶ。


 ……ということで、今朝は20分のランニングから始まった。


今日、健康なら、たぶん明日もだいじょうぶだろう。
今週、健康なら、たぶん来週もだいじょうぶだろう。
今月、健康なら、たぶん来月もだいじょうぶだろう。


が、来年のことはわからない。
だれにもわからない。
ここはがんばるしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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