2011年2月13日日曜日

The Aboliton of Capital Punishment

【今日は、日曜日】

●のんびりとした午後、日曜日

 私は昼寝。
こたつの中。
ワイフは美容院へ。
うっすらと目を覚ます。
そのころ、ワイフが戻ってきた。
庭先を横切って、裏の勝手口へ。

 私は横になったまま。
勝手口があいた。
ワイフが入ってきた。
「よく眠った?」と。
「うん」と答えた。

ワ「何か、食べる?」
私「・・・?」
ワ「そばでも作ろうかしら?」
私「うん」と。

●昼寝

 ときどき昼寝をするようになった。
もう数年になる。
毎日というわけではない。
今日は、人に会う約束もなし。
予定もなし。

 夕方前の白い光。
西のほうからまっすぐ目の前の森を照らす。
風は強そう。
全国的に、今日は、雪模様とか。
浜松は、快晴。
薄っすらと白いモヤがかかった水色の空。
それが枯れた木々の間から見える。
寒そう。
もう一度、こたつの中に、身をもぐらせる。

●ミニ・バブル

 明日の予定を立てる。
ひとつはネット証券との契約解消。
残った株を売り払い、全額、銀行へ移す。
この先、何があるかわからない。
町の景気は、ますます悪くなってきている。

 昨日も、「土地は暴落するかもしれない」と書いた。
土地は今、ミニ・バブル状態。
いつはじけても、おかしくない。
だから「投資には向かない」と書いた。

 ・・・というより、税金が高すぎる!
何をするにも、税金、税金、また税金。
紙切れ一枚発行してもらうだけで、今では500円。
土地の売買をするだけで、20%前後が消える。
不動産屋に支払う手数料を加えると、もっと消える。

●フルーツパーク

 市が経営していた、フルーツパークが事実上、倒産した。
今度、民営化されるという。
いったいそれで、どれだけの税金が無駄になったことか。
無駄にしていることか。

 市が経営するこうした娯楽施設は、どこもガラガラ。
本気度ゼロ。
その本気度のなさが、客を遠ざける。

やる気なさそうに立っている職員。
ダラダラとした動き。
愛想も悪い。

 いくつかの飲食店もある。
が、値段ばかり高くて、まずい。
フルーツパークもそうだった。
施設だけは、やたらと豪華。
すべて鉄筋作り。

ディズニーランドにひけをとらない。
が、ディズニーランドは、一部の建物を除いて、
安価な、鉄骨作り。
何のための施設だったのか。
だれが儲けたのか。

 浜松は、もとももとは工業の町。
楽器とオートバイの町。
それが今では、音楽と花木(かぼく)の町。
金持ちの道楽のようなことばかりしている。
だから衰退する。

●寝覚め

 寝覚めは、よくない。
私の文章を読めば、わかる。
不平、不満、悪口、それにグチ。

低血圧のせいか。
それとも血糖値がさがっているためか。
何を考えても、イライラする。
それがこうして文になって表れる。

で、こういうときは、気分転換がよい。
「TY(=DVDショップ)へ行ってこうようか」と。
ワイフに声をかける。
「うん」という、明るい声が返ってきた。

 TYは書店+DVDショップ。
自由に立ち読みができる。
そういうコーナーまで設けてある。
軽食もできる。
つまり、それが本気度。
本気で客を楽しませようとしている。

 こういう時代に商売を成功させようとしたら、本気になるしかない。
その本気度が客に伝わったとき、その店は繁盛する。
飲食店、ホテル、旅館・・・など。
何でもそうだ。
教育もそのひとつ。

 幼稚園でも、園長を見て選ぶ。
園長の本気度が高い幼稚園は、活気がある。
園児も生き生きとしている。
先生同士の掛け声が、飛び交う。
そういう幼稚園では、子どもが伸びる。
そうでなれば、そうでない。
建物の豪華さに、だまされてはいけない。

●TYにて

 今、DVDショップにいる。
「TY」。
・・・あえて伏字にすりこともない。
「TUTAYA」。
このあたりでは、最大のDVD+書店。
ワイフは緑茶テラ、私はキャラメル・テラ。
私はパソコン雑誌、ワイフは旅行雑誌。
先ほど、DVDを4本、借りた。

 目の前のインド人は、i-Podを読んでいる。
たった今、話しかけてみた。
いろいろ教えてくれた。
おもしろそう。

i-Podは、店で見たことがある。
手で触ってみたのは、今日が始めて。
この世界は、まさに日進月歩。
めまぐるしく変化する。
ついていくだけで、たいへん。

 で、今、私がほしいのは、新しいパソコン。
TOSHIBAの新MX。
とくに必要としているわけではない。
気分転換。
パソコンも、しばらく使っていると、あきてくる。
あきてくると、ただの道具。
そうなると文を書いていても、味気ない。

 で、今日のお供は、TOSHUBAのUX。
キーボードが独立している。
打ちやすい。
バッテリーも、6時間ほどもつ。

●学生

 目の前に、1人の男が座っている。
懸命にこまかい英文を読んでいる。
コピーした紙に、しきりに赤線を入れている。
表題は見えないが、ヘッダーに「article(エッセー)」とある。
何かの原稿らしい。

 30歳くらいかと思ったが、顔をあげた瞬間、学生とわかった。
学生・・・自分の学生時代を思い出す。
私は法科の学生だったが、英語の勉強ばかりしていた。
金沢にいたときだった。
下宿の近くに、アメリカ文化センターがあった。
そこで毎日、2~3時間を過ごした。

 宮崎さんという、館長がいた。
文学者だった。
文学者だったということは、浜松へ来て知った。
毎晩、連続で宮崎さんの書いた本が、ラジオで朗読された。
うれしかった。
で、一度、宮崎さんに電話をかけた。
私のことを、よく覚えていてくれた。

 宮崎??。
名前を忘れた。
遠い遠い、過去の一こま。

●花粉症

 ワイフが話しかけてきた。
伊豆の本を読んでいる。
温泉さがし?
「ここがすてき」とか、そんなことを言っている。
が、鼻声。
花粉症。
数日前から、喉がガラガラすると言っていた。
今日は、朝から鼻がつまると言っていた。

 花粉症による苦しみは、花粉症になったものでないとわからない。
ジクジクと、いつ終わるともなくつづく不快感。
不眠、眠気、呼吸困難、かゆみ、痛み・・・。
粘膜という粘膜、すべてがやられる。
総合的に、その人を苦しめる。

 私も20年以上、苦しんだ。
が、今は、最初の1週間だけ。
毎年、2、3本の注射と、シソの葉エキスだけで治している。

●がん

 少し気分が和らいできた。
よかった。
やはり気分転換というのは、大切。

 ところで今、「免疫学」(ナツメ社)という本を、読んだ。
それによると、がんは、ストレスで起こるのだそうだ。
ストレスが免疫機能を弱体化させる。
それががん細胞の増大を許してしまう。

 免疫機能がしっかりしていれば、数百万個単位のがん細胞を移植しても
がんにならない。
しかしストレスを加えると、数千単位個のがん細胞を移植しただけで、
がんになるという(同書、動物実験)。

 いつか友人のS君(同窓生)がこう言った。
「がんはね、ストレスが原因で起こるんだよ」と。
S君の言ったことは、正しかった。

●朗らかに生きる

 大切なことは、朗らかに生きるということ。
どうもそういうことらしい。
それが結論。

そう言えば、昨日、こんな新聞記事を読んだ。
死刑囚の人たちは、日々に大きなストレスを受ける。
中には、それによって神経を病んでしまう人もいる。
それで政府は、今度、実態調査をすることになったとか。

 ・・・そうだろうな、と思う。
私たちには想像もつかない、ストレスのようだ。
ある死刑囚は、こう書いていた。
毎朝、看守が廊下を歩いてやってくる。
その足音がこわくてならない、と。
その足音が自分の独房の前で止まったとき、
死刑が執行される。
 
 ・・・そうだろうな、と思う。
いくら罪が大きいとはいえ、それを除けば、1人の人間。
脳みそにしても、脳みそ全体が犯罪を犯すわけではない。
ほんの一部が狂う。
狂って、犯罪を犯す。
ほんの一部、だ。
残りの99%以上は、私やあなたと同じ。
99・99%以上は、私やあなたと同じ。

 つまり悪人も善人も、紙一重。
大きくちがうようで、どこもちがわない。
ほんの少し、人生の歯車が狂っただけ。
それで悪人は悪人になり、善人は善人になる。

やはり死刑は廃止すべき。
あれほど残酷な刑罰はない。
残酷すぎる。

+++++++++++++++++

以前、書いた「死刑廃止論」の原稿を
さがしてみる。

+++++++++++++++++

●死刑廃止論(2007年9月記)

+++++++++++++++++

死刑制度に、死刑制度としての
意味があるかどうかというと、
それは疑わしい。

+++++++++++++

●犯罪性の認識

 たとえば死刑に値するような犯罪を犯している最中に、その犯罪者は、「死刑」という
刑罰の重大性を認識しているかどうかというと、答はNOではないか。ふつうの状態であ
れば、「こんなことをすれば死刑になるかもしれない」という思いが、犯罪行為に走るのを、
思いとどまらせる。

 しかしふつうの状態でないから、ふつうでないことをしてしまう。

言うまでもなく、刑罰には、2面性がある。

ひとつは、本人に対する、罰としての「刑」。Aという悪いことをしたら、A罪。Bとい
う悪いことをしたら、B罪というように、あらかじめ決めておく。わかりやすく言えば、「こ
れこれ、こういう悪いことをしたら、それなりの責任を取ってもらいますよ」という意味。

 もうひとつは、世間一般に対する、見せしめとしての「刑」。これによって、犯罪の発
生を予防する。わかりやすく言えば、世間一般に対して、「これこれ、こういう悪いことを
したら、こうなりますよと教える」意味。

死刑には、見せしめとしての意味はあっても、当の本人(=主体)を抹殺してしまうと
いう点で、罰とての「刑」の意味はない。罰を与えたとたん、その犯罪者は、この世から
消えていなくなってしまう。

そこで改めて、この問題の原点について考えてみる。

「公」としての組織体、つまり「国」に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限
はあるのか。

わかりやすい例で考えてみよう。

 ひとりの男が、窃盗をしたとする。その男に対して、「窃盗は悪いことだ」「その窃盗
をしたのは、右手」ということで、右手を切断したとする。そうした行為が、果たして刑
罰として、許されるものかどうかということ。

このばあいは、(1)罰としての刑と、(2)見せしめとしての刑の、双方がまだ成り立
つ。本人は、右手を切られて、何かと不自由することだろう。また多くの人は、右手を切
り取られた人を見て、「窃盗するということは恐ろしいことだ」と知る。

 しかし死刑のばあいは、脳みそも含めて、体そのものを(切り取る)行為に等しい。
右手を切り取るという行為自体、ほとんどの人は、残酷な行為と考える。「いくらなんでも、
それはひどい」と。だったら、肉体全体は、どうなのかということになる。

 そこで最高裁は、ひとつの基準をもうけた。最高裁が83年に定めた「永山基準」と
いうのが、それ。それによれば、つぎのようにある。

(1) 犯罪の罪質
(2) 動機
(3) 殺害の手段方法の執拗性、連続性
(4) 結果の重大性、ことに殺害された被害者の数
(5) 遺族の被害感情
(6) 社会的影響
(7) 犯人の年齢
(8) 前科
(9) 犯行後の情状

 これらの「情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大で、罪刑の均衡の見地から
も、一般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められるばあいは、死刑の選択も許
される」(永山基準)と。

 が、最近の傾向としては、この基準が拡大解釈、つまり、基準がゆるやかに適応され
るようになってきている。つまり死刑判決が、乱発される傾向にある。犯罪そのものが凶
悪化しているという理由もある。

 しかし繰りかえすが、罰すべき(主体)を残しておいてこそ、刑罰は刑罰としての意
味をもつ。罰すべき(主体)を殺してしまったのでは、刑罰は刑罰としての意味を失って
しまう。

 中には、「死という恐怖感を味あわせること自体、社会が与えることができる最大の罰
である」と説く人がいる。

 しかしほんとうに、そうだろうか。反対に、「死ねば、楽になる」と考える人だってい
るかもしれない。たとえば今の私にしても、若いころとはずいぶんと、「死」に対する考え
方が変わってきた。「疲れ」を感じたようなとき、「このまま死ねば楽になるのだろうか」
と、ふと思うことが多くなった。ヨボヨボになって、みなに、迷惑をかけるようになった
ら、それ以上に長生きをしたいとは思わない。

 反対に生きているから、刑が軽いということにもならない。死刑に値する凶悪犯であ
るならなおさら、生かしながら、罪の重さで苦しませる。刑罰としては、そちらのほうが
ずっと重い。

 さらに中には、短絡的に、「悪いヤツは、生かしておいてもしかたない」と考える人も
いるかもしれない。しかしそれこそまさに、幼稚的発想。思考力がまだじゅうぶん発達し
ていない子どもが、ゲームの中で使う言葉である。

 が、もうひとつ、死刑には、重大な問題がある。

 K国のような独裁国家、言いかえると、国民がすべての権限をひとりの独裁者に付託
したような国なら、いざ知らず、日本のような民主主義国家において、「公」としての組織
体、つまり「国」に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限はあるのかということ。

 独裁国家では、死刑にするのは、独裁者個人である。しかし民主主義国家では、死刑
にするのは、国民1人ひとりである。つまり私たち自身が、その人を殺すことになる。私
や、あなたが、だ。もしあなたが「国のやることだから、私には関係ない」と考えている
なら、それこそ、民主主義の放棄ということになる。

 こうして考えていくと、死刑を肯定する理由が、どこからも浮かんでこない。ゆいい
つ残るとすれば、(5)の遺族の被害感情である。

 その犯罪者によって、人生そのものが、大きく狂ってしまうこともある。愛する人を
奪われ、深い悲しみのどん底にたたき落とされる人もいる。犯罪者を殺したいほど憎く思
うこともあるだろう。あるいは「国が殺してくれなければ、私が殺す」と思う人もいるか
もしれない。

 そうした被害者の救済は、どうするかという問題もある。が、それこそ国が考えるべ
き問題ではないだろうか。金銭的な被害はもちろんのこと、精神的苦痛、悲しみ、怒り、
そうした心情を、私たちみなが、力を合わせて、救済していく。それとも犯罪者を抹殺し
たところで、その人は、救済されるとでもいうのだろうか。

 さらに言えば、これは暴論に聞こえるかもしれないが、犯罪者といっても、ふつうの
人と、紙一重のちがいでしかない。どこかで人生の歯車が狂い、狂ったまま、自分の意思
とは無関係に、深みにはまってしまう。私たちが生きているこの社会では、善と悪の間に、
明確な一線を入れることすら、むずかしい。

 ……長い間、私なりに死刑について考えてきたが、このあたりが、私の結論というこ
とになる。つまり死刑について、これからは、明確にその廃止を訴えていきたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
死刑 死刑廃止 死刑廃止論)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●家に戻って

 家に戻ったら、午後7時。
NHKの定時ニュースが始まった。
エジプト情勢、チュニジア情勢、それに新燃岳・・・。
そんなニュースがつづく。

 都城市では、土石流の心配が出てきた。
避難命令が出ているとか。
「たいへんだろうな」と思ったところで、何も考えられない。
そう言えば、たった今、メルボルンに住む友人から、メールと映像が
届いていた。
メルボルンに、理録的な大雨が降ったらしい。
友人の家の前が、川のようになっていた。
例年だと、猛暑と乾燥。
水不足と山火事。
が、今年は大雨。

 内心では、よかったと思った。
水不足よりは、よい。
どこか無責任な感想だが、そう思った。

 しかし火山灰は、どうしようもない。
石灰をまぜて、セメントとして利用する。
レアメタルを取り出す。
そういう方法で利用できないものか。
何かの方法で固めて、レンガにするという方法もある。
どこか無責任な感想だが、そう思った。

●日本相撲協会

 NHKでは、スポーツ報道。
野球に、カウリング、ラグビーとつづく。
ふと相撲を思い浮かべる。
どこか胡散(うさん)臭い。
その裏でうごめく、日本相撲協会。

 もし野球チームのだれかが、八百長をしたとする。
相手のチームを勝たせるため、わざとボールを落としたり、三振に終わったりする。
考えてみれば、たいへんな背信行為。
そんな選手が一人でもいたら、チームはバラバラ。
そういうインチキを、みなが、組織的にする。
(日本相撲協会は、限られた関取りだけに責任を負わせ、幕引きにしようとしている
ようだが・・・。)
それがいかに許しがたいものであるかは、野球に当てはめて考えてみるとわかる。

 それにしても顔は心を表すとか。
そういう偏見をもってはいけない。
それはよくわかっている。
しかしこのところ、みな、どうも人相がよくない。
親方や関取の人相だ。
私には、そう見える。

 一方、ほかのスポーツのスポーツ選手たちは、みな、さわやか。
すがすがしい。
そのさわやかさ、すがすがしさが戻らない限り、相撲には明日はない。
胡散臭さだけ、いつまでも残る。

 「国技」という名前をつけて、守らなければならない時代は終わった。
伝統的国技という範囲で、温存していけばよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 2011+++++++++はやし浩司

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