2011年9月30日金曜日

*We live in an Unbelievable World

●9月30日(金曜日)(9月、最終日)

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昨夜、仕事の帰りに、書店に立ち寄る。
「週刊新潮」誌を買う。
そのときついでに横に並んだ、女性週刊誌
を開くと、こんな記事が目にとまった。

何でも今度の皇太子妃のMさんの警備費に、
5000万円以上もかかったという。
(Mさんが、娘のサマーキャンプに同行した
ときの費用をいう。)
ホテルは、1泊、10万円。
プラス、あれこれ。
実際には、もっと多額の費用がかかったという(「週刊Z」誌)。

 女性週刊誌というと、皇室の(耳障りのよい)記事だけを
流していると思っていた。
その女性週刊誌が、皇室の批判記事。
こうした記事は、たいへん珍しい。
珍しいから、驚いた。

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●北朝鮮の金ファミリー

 韓国の中央日報は、こんな記事を配信している。

 なんでも金正日(キム・ジョンイル)一家が、愛犬に年間10万~20万ドルを支出するなど豪華生活をしているという。

 いわく、『北朝鮮が2009-2010年に購入した米国製シードゥー・ジェットスキー10余台は元山(ウォンサン)などの専用別荘で金正恩(キム・ジョンウン)が使用している」とし「昨年10月にはロシアの代表的な馬を数十頭も購入し、金正恩とその家族が乗馬用に利用している」と明らかにした』と。

金ファミリーのぜいたく生活は、以前から報道されている。
ほかにも、『金正日一家は09年、中国から「ジョニーウォーカーブルーラベル」など高級ウイスキー200本を輸入、金正日が主管する宴会で消費した。昨年は仏ピカール社から購入した最高級ワイン600余本を金正日が準備した宴会で消費したという』(同)と。

 その一方で、今年の北朝鮮は、台風に見舞われ、米作が大被害を受けたという。
そんなニュースも伝わっている。

●国それぞれ

 お金のある人は、それなりの生活をすればよい。
お金のある国は、それなりの国家運営をすればよい。
日本は日本だし、北朝鮮は北朝鮮。
国民がそれに納得しているのだから、私としては、これ以上のことは、ここには書けない。
ただ、こういうことは言える。

 個人としての幸福感は、もっと別のところにあるのではないか、と。
満足感でもよい。

 警備にそれだけの費用がかかるのは、しかたないことかもしれない。
必要経費。
しかし警備されるMさん自身は、どうなのだろうか。
さぞかし迷惑したことだろう……と思う。
私なら、「うるさい! 私のしたいようにさせて!」と叫んだかもしれない。

 一方、北朝鮮の金ファミリー。
ジェット・スキーを10余台も購入していたという。
さらに愛犬に、年間10万~20万ドルを支出しているとか。
20万ドルということは、北朝鮮人の平均月収の、10万倍!
(日本円に換算しても、1400万円。)
もちろん愛犬の世話係として、何10人もの担当者が割り当てられているにちがいない。
こちらは必要経費というより、「ぜいたく」。

 しかしどうであれ、ともに桁外れ。
「そういう世界もあるのだなあ」と思ったところで、思考停止。
私がおととい泊まった旅館は、1泊、7500円。
なんだか自分がみじめになる……と書きたいが、私はゼンゼン、みじめとは思っていない。
メルボルン大学にいたとき、私はインターナショナル・ハウスにいた。
当時、ハウスの留学生は、そのほとんどが、各国からの王子や皇太子ばかりだった。
そういう学生と、1年間、寝食を共にしたことがある。
そのとき書いた原稿を、いくつか、紹介する。

【世にも不思議な留学記』byはやし浩司、より(中日新聞掲載済み)

隣人は西ジャワの王子だった【1】

●世話人は正田英三郎氏だった

 私は幸運にも、オ-ストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究生活を送ることができた。

 世話人になってくださったのが正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。

 おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。私の寝泊りした、インターナショナル・ハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。西ジャワの王子やモ-リシャスの皇太子。ナイジェリアの王族の息子に、マレ-シアの大蔵大臣の息子など。ベネズエラの石油王の息子もいた。

 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。「インドネシア語か、それとも家族の文字か」と。

 「家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあった。また「マレ-シアのお札には、ぜんぶうちのおやじのサインがある」と聞かされたときにも、驚いた。一人名前は出せないが、香港マフィアの親分の息子もいた。「ピンキーとキラーズ」(当時の人気歌手)が香港で公演したときの写真を見せ、「横に立っているのが兄だ」と笑った。

 今度は私の番。「おまえのおやじは、何をしているか」と聞かれた。そこで「自転車屋だ」というと、「日本で一番大きい自転車屋か」と。私が「いや、田舎の自転車屋だ」というと、「ビルは何階建てか」「車は、何台もっているか」「従業員の数は何人か」と。

●マダム・ガンジーもやってきた

 そんなわけで世界各国から要人が来ると、必ず私たちのハウスへやってきては、夕食を共にし、スピ-チをして帰った。よど号ハイジャック事件で、北朝鮮に渡った山村政務次官が、井口領事に連れられてやってきたこともある。

 山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンに来ていた。その前年にはマダム・ガンジ-も来たし、『サ-』の称号をもつ人物も、毎週のようにやってきた。インドネシアの海軍が来たときには、上級将校たちがバスを連ねて、西ジャワの王子のところへ、あいさつに来た。そのときは私は彼と並んで、最敬礼する兵隊の前を歩かされた。

 また韓国の金外務大臣が来たときには、「大臣が不愉快に思うといけないから」という理由で、私は席をはずすように言われた。当時は、まだそういう時代だった。変わった人物では、トロイ・ドナヒュ-という映画スタ-も来て、一週間ほど寝食をともにしていったこともある。『ル-ト66』という映画に出ていたが、今では知っている人も少ない。

 そうそう、こんなこともあった。たまたまミス・ユニバースの一行が、開催国のアルゼンチンからの帰り道、私たちのハウスへやってきた。そしてダンスパ-ティをしたのだが、ある国の王子が日本代表の、ジュンコという女性に、一目惚れしてしまった。で、彼のためにラブレタ-を書いてやったのだが、そのお礼にと、彼が彼の国のミス代表を、私にくれた。

 「くれた」という言い方もへんだが、そういうような、やり方だった。その国では、彼にさからう人間など、誰もいない。さからえない。おかげで私は、オ-ストラリアへ着いてからすぐに、すばらしい女性とデートすることができた。そんなことはどうでもよいが、そのときのジュンコという女性は、後に大橋巨泉というタレントと結婚したと聞いている。

 ……こんな話を今、しても、誰も「ホラ」だと思うらしい。私もそう思われるのがいやで、めったにこの話はしない。が、私の世にも不思議な留学時代は、こうして始まった。一九七〇年の春。そのころ日本の大阪では、万博が始まろうとしていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

王子の悩み【11】

●王子や皇太子は皆、偽名!

 ハウスの留学生は、各国の皇太子や王子、あるいは、皇室や王家の子息ばかりだった。ほかの連中は、その国のケタはずれの金持ちばかり。このことは前にも書いた。


 しかし日本へ帰国したあと、その国から来た人に、そういう男を知っているかと聞いても、皆、「知らない」「そんな男はいない」と言う。そんなはずはない。そこである日、それも五年ほどもたってからのことだが、同じハウスにいたオーストラリアの友人にそのことを聞くと、こう教えてくれた。


 「ヒロシ、君は知らなかったのか。彼らは皆、偽名を使っていた」と。つまり警護上の理由で、ハウスでは、偽名を使っていたというのだ。しかも私が彼らの仲のよい友人だと思っていた男たちは、友人ではなく、それぞれの国の大使館から派遣された、護衛官であったという。

 もちろん私は本名で通した。護衛官など、私にはつくはずもない。が、こんなことがあった。

 ハウスでは、毎晩二人一組で電話交換をすることになっていた。外からかかってきた電話を、それぞれの部屋につなぐ係だ。その夜は、私とM国の王子が当番になっていた。しかし彼は約束の時間になっても来なかった。

 そこで私は彼の部屋に電話をつなぎ、「早く来い」と命令をした。しかしやってきたのは、彼の友人(あとで護衛官とわかった男)だった。私は怒った。怒ってまた電話をつなぎ、「君が来るべきだ。代理をよこすとは、一体、どういうことだ」と叱った。

 やがて「ごめん、ごめん」と言ってその王子はやってきたが、それから数日後のこと。その友人が私の部屋にやってきて、こう言った。「君は、わが国の王子に何をしているのか、それがわかっているのか。モスリム(イスラム教)には、地下組織がある。この町にもある。じゅうぶん気をつけろ」と。その地下組織では、秘密の裁判はもちろんのこと、そこで有罪と決まると、誘拐、処刑までするということだった。

 その王子。どういうわけだか、私には気を許した。許して、いろいろなことを話してくれた。彼の国では、日本の女性とつきあうことが、ステータスになっているとか、など。夜遊びをしたこともある。モグリの酒場に忍び込んで、禁制の酒を一緒に飲んだこともある。

 が、一見、華々しく見える世界だが、彼は、王子であるがゆえに、そこから生ずる重圧感にも苦しんでいた。ほんの一時期だけだったが、自分の部屋に引きこもってしまい、誰にも会おうとしなくなってしまったこともある。詳しくは書けないが、たびたび奇行を繰り返し、ハウスの中で話題になったこともある。

●「あなたはホテルへ帰る」

 そうそう私が三〇歳になる少し前のこと。私は彼の国を旅行することになった。旅行と言っても、ほんの一両日、立ち寄っただけだが、彼が王族の一員として、立派に活躍しているのを知った。街角のところどころに、王様と並んで、彼の肖像画がかかげられていた。

 それを見ながら、私がふと、タクシーの運転手に、「彼はぼくの友だちだ」と言うと、運転手はこう言った。「王子は、私の友だち。あなたの友だち。みんなの友だち」と。そこで私が「彼と一緒に勉強したことがある」と言うと、「王子は、私とも勉強した。あなたとも勉強した。みんなと勉強した」と。

 そこでさらに私が、「彼の家へ連れていってほしい。彼をびっくりさせてやる」と言うと、「あなたはホテルへ帰る。私は会えない。あなたも会えない。誰も会えない」と。まったく会話がかみ合わなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最高の教育とは【15】

●私はとんでもない世界に!

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。現在の皇后陛下の父君。このことは前にも書いた。そしてその正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本Y氏だった。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いていた。

 私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くたびに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたことがある。

 正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩(ひろ)』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。このことも前に書いたことだが、私が寝泊まりをすることになったメルボルン大学のインターナショナルハウスは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。

 私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子などなど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にした。

 首相や元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。ときどき各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあった。東京大学から来ていた田丸先生(二〇〇〇年度日本学士院賞受賞)もいたし、井口領事が、よど号ハイジャック事件(七〇年三月)で北朝鮮へ人質となって行った山村運輸政務次官を連れてきたこともある。山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンへ来ていた。

 が、「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしていることすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一度だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

●落ちていた五〇セント硬貨 

 ハウスの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあった。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。だれかが落としたものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。

 当時の五〇セントは、今の貨幣価値で八〇〇円くらい。もって行こうと思えば、だれにでもできた。しかしそのコインは、次の日も、また次の日も、そこにあった。四日後も、五日後もそこにあった。私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「最高の教育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いているという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも私を支え、救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。

 私は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの五〇セント硬貨のおかげだった。私はあの五〇セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きることができた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

非日常的な日常【19】
 
●ケタ違いの金持ちたち

 王族や皇族の子弟はもちろんのこと、公費留学生は別として、私費で留学してきたような連中は、その国でもケタ違いの金持ちばかりだった。

 アルジェリアのレミ(実名)、ベネズエラのリカルド(実名)などは、ともにその国の石油王の息子だった。フィージーから来ていたペイテル(実名)もそうだった。しかしその中でも異色中の異色は、香港から来ていたC君という学生だった。実名は書けない。書けないが、わかりやすく言えば、香港マフィアの大親分の息子ということだった。

 彼の兄ですら、香港の芸能界はもちろんのこと、映画、演劇などの興行を一人で牛耳っていた。ある日C君の部屋に行くと、彼の兄が「ピンキーとキラーズ」(当時の日本を代表するポップシンガー)や布施明と、仲よく並んで立っている写真があった。彼らが、香港で公演したときとった写真ということだった。

 いつかC君が、「シドニーにも、おやじの地下組織がある。何かあったら、ぼくに連絡してくれ」と話してくれたのを覚えている。

●インドネシア海軍の前で閲兵

 こういう世界だから、日常の会話も、きわめて非日常的だった。夏休みに日本でスキーをしてきたという学生がいた。話を聞くと、こう言った。

 「ヒロシ、ユーイチローを知っているか」と。私が「ユー……」と口ごもっていると、「ユーイチロー・ミウラ(三浦雄一郎、当時の日本を代表するスキー選手)だ。ぼくはユーイチローにコーチをしてもらった。君はユーイチローを知っているか?」と。しかも「日本の大使館で大使をしている叔父と、一緒に行ってきた」などと言う。

 そういう世界には、そういう世界の人どうしのつながりがある。そしてそういうつながりが、無数にからんで、独特の特権階級をつくる。それは狂おしいほどに甘美な世界だ。

 一度、ある国の女王が、ハウスへやってきたことがある。息子の部屋へ、お忍びで、である。しかしその美しさは、私の度肝を抜くものだった。私は紹介されたものの、言葉を失ってしまった。
「これが同じ人間か……」と。

 あるいはインドネシア海軍がメルボルン港へやってきたときのこと。将校以下、数一〇名が、わざわざバスに乗って、西ジャワの王子のところへ挨拶にやってきた。たまたま休暇中で、ハウスにはほとんど学生がいなかったこともある。私はその王子と並んで、最敬礼をする将校の前を並んで歩かされた、などなど。

●やがて離反

 が、私の心はやがて別の方へ向き始めた。もう少しわかりやすく言えば、そういう世界を知れば知るほど、それに違和感を覚えるようになった。私はどこまでいっても、ただの学生、あるいはそれ以下の自転車屋の息子だった。

 一方、彼らはいつもスリーピースのスーツで身を包み、そのうちのまた何人かは運転手つきの車をもっていた。そういう連中と張りあっても、勝ち目はない。仮に私が生涯懸命に働いても、彼らの一日分の生活費も稼げないだろう。

 そう感じたとき、それは「矛盾」となって私の心をふさいだ。最近になって、無頓着な人は、「そういう王子や皇太子と、もっと親しくなっておけばよかったですね」などと言う。「旅行したら、王宮に泊めてもらいなさい」と言う人もいる。今でも手紙を書けば、返事ぐらいは来るかもしれない。しかし私はいやだ。そういうことをしてペコペコすること自体、私にとっては敗北を認めるようなものだ。

 やがて私は彼らとは一線を引くようになった。彼らもまた、私がただの商人の息子とわかると、一線を引くようになった。同じ留学生でありながら、彼らは彼らにふさわしい連中と、そして私は私にふさわしい連中と、それぞれグループを作るようになった。そしてそれぞれのグループは、どこか互いに遠慮がちになり、やがて疎遠になっていった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

王子、皇太子の中で【27】

●VIPとして

 夏休みが近づくと、王子や皇太子たちは、つぎつぎと母国へ帰っていった。もともと彼らは、勉強に来たのではない。研究に来たのでもない。目的はよくわからないが、いわゆるハクづけ。

 ある国の王子の履歴書(公式の紹介パンフ)を見せてもらったことがある。当時は、海外へ旅行するだけでも、その国では重大事であったらしい。それには旅行の内容まで書いてあった。
「○○年X月、イギリスを親善訪問」とか。

 一方、オーストラリア政府は、こうしたVIPを手厚く接待することにより、親豪派の人間にしようとしていた。そういうおもわくは、随所に見えた。いわば、先行投資のようなもの。一〇年先、二〇年先には、大きな利益となって帰ってくる。

 私のばあいも、ライオンズクラブのメンバーが二人つき、そのつど交互にあちこちを案内してくれたり、食事に誘ってくれたりした。おかげで生まれてはじめて、競馬なるものも見た。生まれてはじめて、ゴルフコースにも立った。生まれてはじめて、フランス料理も食べた。

●帝王学の違い?

 私たち日本人は、王子だ、皇太子だというと、特別の目で見る。そういうふうに洗脳されている。しかしオーストラリア人は、違う。イギリスにも王室はあるが、それでも違う。少なくとも「おそれ多い」という見方はしない。

 このことは反対に、イスラム教国からやってきた留学生を見ればわかる。王子や皇太子を前にすると、「おそれ多い」というよりは、まさに王と奴隷の関係になる。頭をさげたまま、視線すら合わせようとしない。その極端さが、ときには、こっけいに見えるときもある(失礼!)。

 で、こうした王子や皇太子には、二つのタイプがある。いつかオーストラリア人のR君がそう言っていた。ひとつは、そういう立場を嫌い、フレンドリーになるタイプ。もうひとつは、オーストラリア人にも頭をさげるように迫るタイプ。アジア系は概して前者。アラブ系は概して後者、と。

 しかしこれは民族の違いというよりは、それまでにどんな教育を受けたかの違いによるものではないか。いわゆる帝王学というのである。たとえば同じ王子でも、M国のD君は、ハウスの外ではまったく目立たない、ふつうのズボンをはいて歩いていた。かたやS国のM君は、必ずスリーピースのスーツを身につけ、いつも取り巻きを数人連れて歩いていた。(あとでその国の護衛官だったと知ったが、当時は、友人だと思っていた。)

●王族たちの苦しみ

 私は複雑な心境にあった。「皇室は絶対」という意識。「身分差別はくだらない」という意識。この二つがそのつど同時に現れては消え、私を迷わせた。

 私も子どものとき、「天皇」と言っただけで、父親に殴られたことがある。「陛下と言え!」と。だから今でも、つまり五六歳になった今でも、こうして皇室について書くときは、ツンとした緊張感が走る。が、それと同時に、なぜ王子や皇太子が存在するのかという疑問もないわけではない。ただこういうことは言える。

 どんな帝王学を身につけたかの違いにもよるが、「王子や皇太子がそれを望んでいるか」という問題である。私たち庶民は、ワーワーとたたえれば、王子や皇太子は喜ぶハズという「ハズ論」でものを考える。しかしそのハズ論が、かえって王子や皇太子を苦しめることもある。

 それは想像を絶する苦痛と言ってもよい。言いたいことも言えない。したいこともできない。一瞬一秒ですら、人の目から逃れることができない……。本人だけではない。まわりの人も、決して本心を見せない。そこはまさに仮面と虚偽の世界。私はいつしかこう思うようになった。

 「王子や皇太子にならなくて、よかった」と。これは負け惜しみでも何でもない。一人の人間がもつ「自由」には、あらゆる身分や立場を超え、それでもあまりあるほどの価値がある。「王子か、自由か」と問われれば、私は迷わず自由をとる。

 私はガランとしたハウスの食堂で、ひとりで食事をしながら、そんなことを考えていた。

(注:さらに読んでくださる方は、「はやし浩司のHP」より、「世にも不思議な留学記」へどうぞ!(http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●時代は変わった?

 まあ、書きたいことは、いろいろある。
正田氏から聞いた話も、たくさんある。
しかしこの話は、ここまで。

 私は良識ある日本国民。
国として、国が定めたことには、従う。
2011/09/30朝記


Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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