●愛と憎しみ(人間のもつ愛憎劇)
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昔から、「愛と憎しみは、紙一重」という。
深い愛が、ある日突然、深い憎しみに変化する。
そういうことはよくある。
「愛憎劇」という言葉もある。
人間が織りなすドラマの中でも、愛憎劇ほど、
すさまじいものはない。
愛にせよ、憎しみにせよ、その根底には
ものすごいエネルギーがある。
言うなれば精神のマグマ。
そのマグマが、時として、愛に向かい、
時として、憎しみに向かう。
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●同じもの
「愛するが故に、殺したいほど憎い」と。
一見、相反する感情だが、それほど強烈でなくても、似たような感情的動揺は、日常生活の中でも、よく経験する。
が、「愛」と「憎」を、2つに分けて考えてはいけない。
たとえば「愛は良性感情」、「憎は悪性感情」というように、別のものとして分けて考えてはいけない。
(フロイトは、「憎」を、「陰性感情」と位置づけたが……。)
両者は、その原点は同じ。
言うなればその地下にあるマグマと、直接、結びついている。
つまり根は同じ。
わかりやすく言えば、時と状況に応じて、マグマは、愛にもなり、憎しみにもなる。
こんなことがあった。
もう20年近くも前のこと。
1人の女子高校生が、いた。
私をたいへん嫌っていた。
態度にもそれがよく現れた。
何かにつけ、私に向かって暴言を吐いたり、反抗したりした。
で、私はある日、その女子高校生にこう言った。
「あのね、そんなに先生(=私)のことが嫌いなら、この教室をやめてもいいよ」と。
その日を境に、その女子高校生は別人のように、静かでおとなしくなった。
が、「?」と思ったのは、そのあとのことだった。
やがて進学大学も決まった。
ふつうなら、そこでみな、私の教室を去っていく。
が、その女子高校生は、3月の終わりまで、私の教室に来てくれた。
理由を聞くと、「習慣になっているから……」と。
で、その女子高校生には、弟(中3)がいた。
その弟も、私の教室に来ていた。
が、その弟が、私にこう言った。
「ぼくの姉ちゃんねエ、先生の写真を机の前に飾っているよ」と。
これには驚いた。
いつだったか、みなでプリクラへ行き、3~4人の生徒といっしょに、写真を撮った。
その写真を、自分の部屋に飾っているという。
私はその女子高生には、すっかり嫌われていると思っていた。
が、事実は、どうやら逆だったようだ。
●正反対の感情
同じエネルギーなのに、そのエネルギーがまったく別方向に向かうということは、よくある。
よく知られているのが、無神論と有神論。
徹底した無神論者が、ある日突然、熱心な有神論者になるということは、よくある。
(本物の有神論者は、静かで穏やか。)
私も、スピリチュアルとか、オカルトという言葉は、それを聞いただけで、即座に拒絶反応を示す。
そういう話になると、その入り口で、私は逃げてしまう。
そういう私だが、ビデオショップへ行くと、反対の反応を示す。
そういう映画を、好んで、よく借りる。
またそういうビデオのほうが、おもしろい。
映画「シクス・センス」にしても、「ミラーズ」にしても、私にはたいへんおもしろかった。
現実の世界では嫌いながら、映画の世界では、それを求める?
これはどういう心理的反応によるものなのか?
●フリップ・フロップ理論
心理学の世界に、「フリップ・フロップ理論」というのがある。
(日本では、ほとんど紹介されていないが……。)
私は「フラフラ理論」とか、「コロリ理論」とか呼んでいる。
フラフラしていると、突然コロリと変化する。
つまり人間というのは、中途半端な精神状態には、たいへんもろい。
たとえば有神論者が無神論者になったり、反対に無神論者が有神論者になったりするようなときが、それ。
どっちつかずの状態のときというのは、その人は精神の状態がたいへん不安定になる。
またそういう状態は、長つづきしない。
精神の消耗もたいへんはげしい。
そこでどちらか一方に、転んでしまおうとする。
転んでしまえば、気が楽になる。
安定する。
精神の状態も落ち着く。
だから一般論として、有神論者であるにせよ、無神論者であるにせよ、ワーワーと騒いでいる人は、それだけどっちつかずの人とみる。
先にも書いたように、本物の有神論者は、静かで穏やか。
どっしりとしている。
反対に本物の無神論者は、静かで穏やか。
どっしりとしている。
●たとえば離婚劇
愛と憎しみについても、このフリップ・フロップ理論を当てはめることができる。
「私はあなたを愛している」「私を信じて」と言う人ほど、本当は、相手を愛していない。
本当に愛していたら、どっしりとしている。
反対に、「私はあなたを憎んでいる」「嫌いだ」と言う人ほど、本当は、相手を憎んでいない。
本当に憎んでいたら、どっしりとしている。
愛にせよ、憎にせよ、中途半端な状態のとき、その人ははげしく動き回る。
ワーワーと騒ぐ。
このことは離婚劇を見れば、よくわかる。
本当に離婚する夫婦は、静か。
会話もしない。
喧嘩もしない。
冷めきった状態で、どっしりとしている。
が、たがいに相手をののしり、非難しあう夫婦のばあいは、離婚などしない。
離婚したくないから、相手をののしり、非難する。
「お前はなあ……」「あなただって……」と。
憎しみあっているということは、裏を返せば、愛しあっているということ。
だから昔からこう言う。
『夫婦喧嘩は犬も食わぬ』と。
●愛と憎しみ
話が脱線したが、マグマがあれば、……残っていれば、愛は憎しみにもなり、憎しみは愛にもなる。
表面的な様子にだまされてはいけない。
言い換えると、愛にせよ、憎しみにせよ、表面的に静かになってしまったら、おしまい。
人間関係は、すでに終焉している。
夫婦でも、親子でも、友人でも……。
……ということで、もしあなたがその相手に、強い愛を感じていたら、それはいつでも強い憎しみに変化する可能性があるということ。
反対に、もしあなたがその相手に、強い憎しみを感じていたら、それはいつでも強い愛に変化する可能性があるということ。
愛にせよ、憎しみにせよ、そのときの心の状態を、そのまま絶対視してはいけない。
ちょっとしたことで、たとえば憎しみを、愛に変えることもできる。
『愛と憎しみは、紙一重』というときには、そういう意味も含まれる。
2011/09/26記
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Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司
【指導6か月目の年中児(4~5歳児)】
●今年度も、私のねらいどおりの指導ができました。
活発に意見を言いあう。
その伸びやかさこそが大切ですね。
子どもは伸ばすのは、たいへん。
しかし抑えつけるのは、簡単。
ですからこの時期は、伸ばすことだけを考え、指導します。
年長(6歳)の後半になったら、少しずつ、抑えにかかります。
それまでは、思う存分、羽を伸ばさせる。
そういった指導+子どもの様子を、このビデオの中に見てくだされば、うれしいです。
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【小3児に、方程式の概念を教えてみました】
●小2児用に使っている教材を、小3クラスで使ってみました。
小3児には、やや簡単すぎたようです。
で、次回、年長児(6歳児)クラスでも、実験的にこの教材を使い、指導してみようと 思っています。
どんな反応を示すか、楽しみです。
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Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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