●子育て箴言(しんげん)
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たいへん残念なことですが、
私の書いた原稿が、あちこちで
無断で流用されています。
本になって、書店で並んでいる
のもあります。
そこであえてそれらの原稿を
こうして公開します。
もしどこかで同じような内容の
文章を見られたら、ご一報、
ください。対処いたします。
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【子育て格言】より
●許して、忘れる
親の愛の深さは、どこまで子どもを許して忘れるかで、決まる。英語では、『for・give & for・get 』という。
この単語をよく見ると、「与えるために、許し、得るために忘れる」とも訳せる。(forgive= 許す、 forget=忘れる。「フォ・ギブは、与えるため」、「フォ・ゲッは、得るため」とも訳せる。)
子どもに愛を与えるために、親は許し、子どもから愛を得るために、親は忘れるということになる。
子育てをしていて、袋小路に入り、行きづまりを覚えたら、この言葉を思い出してほしい。心が軽くなるはずである。
●子どもの横を歩く
親には、三つの役目がある。ガイドとして、前を歩く。プロテクター(保護者)として、うしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。
いつも子どもの意思を確かめること。(したいこと)と、(していること)が一致している子どもは、どっしりと落ちついている。夢や希望もある。当然、目的があるから、誘惑にも強い。
●ほどよい親である
やりすぎない。子どもが求めてきたら、与えどきと考えて、そのときは、ていねいに答えてやる。昔から『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。
いつも、「子どもがそれを求めているか」ということを、自分に問いかけながら、子どもに対処するとよい。手のかけすぎ、サービス過剰は、かえって、子ども自身が自ら伸びていく芽をつんでしまうことになる。
●暖かい無視
親の過剰期待、過関心、過干渉ほど、子どもの負担になるものはない。「まあ、うちの子は、こんなもの。親が親だから……」という割りきりが、子どもを伸ばす。
親は、いつも子どもから一歩退いた位置で、子どもを見守る。野生動物保護団体には、『暖かい無視』という言葉がある。その言葉は、そのまま、子育てにも当てはまる。
ちょっと心配のしすぎかな? 手のかけすぎかな? と、感じたら、心のどこかで、暖かい無視を思い浮かべる。子どもを暖かい愛情で包みながら、無視する。
●子どもは使う
使えば使うほど、子どもは、すばらしい子どもになる。家事、仕事、手伝いなど。身近なところから、どんどん、使う。
使えば使うほど、子どもには忍耐力(いやなことをする力)が身につく。この力が、子どもを伸ばす。もちろん学習面でも、伸びる。もともと学習には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗りこえる力が、忍耐力ということになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
● 父親(母親)の悪口は、言わない
心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判し
たりすると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父
親の間に、三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができ
ると、子どもは、親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。
● 逃げ場を大切に
どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その
逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋
ということになる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定にな
る。だから子どもが逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。
●心は、ぬいぐるみで……
年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子ども
が、約80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、
中には、キックしてくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをも
っている子どもは、約80%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかど
うかは、ぬいぐるみを抱かせてみるとわかる。
●国語教育は、言葉から
子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたと
き、「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親が
していて、どうして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどう
でも、「バスがきます。あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子
をかぶっていますか」と話す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。
●計算力は、早数えで……
「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イ
チ、ニ、サン……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。
さらに手をパンパンとたたいてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を
信号化する。たとえば「2足す3」も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の
信号化という。この力が、計算力の基礎となる。
●子どもは使う
使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから
生まれる。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、あ
なたの子どもに、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ~イ」と言
って、喜んで片づけるようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということ
になる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。
●やさしさは苦労から
ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほ
しい。そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そう
でなく、テレビやゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよ
い。今は、(かわいい子)かもしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、
自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから
生まれる。
●釣りザオを買ってやるより……
イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」というの
がある。子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっ
しょに釣りに行け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜
んでいるはず。感謝しているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。し
かしこれは幻想。むしろ逆効果。
●100倍論
子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のもの
でも、100倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはい
けない。一度、お金で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、1
0倍、100倍とエスカレートしていく。高校生や大学生になるころには、1000円や
1万円では、満足しなくなる。子どもが幼児のときから、慎重に!
●子どもは、信じて伸ばす
心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、
あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、
いい人だと思っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでな
ければそうでない。子どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを
伸ばしたいと思うなら、まず自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、
大鉄則である。
●強化の原理
前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくな
る」「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来
に不安をいだかせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバー
して、「ほら、やっぱり、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。
●叱るときの原則
子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高
さをあわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっ
かりと見つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせ
ても意味はない。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというよ
うな様子を見せる子どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。
●仮面に注意
絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前
で、そうであればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしてい
るようであれば、親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見
て、「何を考えているかわからない」というのであれば、さらに要注意。
●根性・がんこ・わがまま
子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりと
げるというのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。
理由もなく、自分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。
その根性は、励まして伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではな
いので、その理由と原因をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。
●アルバムを大切に
おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るため
に、アルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。そ
れもそのはず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアル
バムには、楽しい思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするため
にも、アルバムを、部屋の中央に置いてみるとよい。
●名前を大切に
子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことあるご
とに言う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてそ
の自尊心が、何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たと
えば子どもの名前が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところ
に張ったりする。そういう親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。
●子どもの体で考える
体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、
5本、飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小
食なのかしら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。
●CA、MGの多い食生活を!
イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにしたか
ったら、CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心と
した献立にする。こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。
いわゆるレトルト食品、インスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合
して、リン酸カルシウムとして、CAは、対外へ排出されてしまう。
●親の仕事はすばらしいと言う
親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それ
だけではない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいる
はず。そういうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。
あるいは「私の仕事はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。ま
ちがっても、暗い印象をもたせてはいけない。
●はだし教育を大切に
将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、
足の裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性
は、あらゆる運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうして
それで敏捷性のある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできな
い子どもがふえている。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも
多い。どうか、ご注意!
●自己中心性は、精神的未熟さの証拠
相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」
(サロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そう
でない人を、低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそうい
う人ほど、人格の完成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自
己中心性と戦い、子どもに、その見本を見せるようにする。
●役割形成を大切に
子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。
「いっしょに、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょう
ね」と言ってあげる。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつ
くっていく。これを「個性化」という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、
希望、そして生きる目的へとつながっていく。
●暖かい無視
自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、
過関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向
を感じたら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同
時に『ほどよい親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。
とくに子どもがスキンシップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。
●父親の二大役割
母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、ま
た子どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさび
を打ち込み、是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教える
のも、重要な役割。昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、
父親の役割ということになる。
●欠点は、ほめる
子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなか
ったとしても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるよう
になったわね」と言うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声
で言えるようになったわね」と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ば
すときに、よく使う手である。
●負けるが、勝ち
ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。
これは父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだ
ろう。言いたいこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なこ
とは、子どもが、楽しく、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そ
のときから人間関係は、スムーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこ
じれる。
●ベッドタイム・ゲームを大切に
子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。
これをベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗す
ると、子どもは眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定
になったりする。いきなりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なこと
をしてはいけない。子どもの側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。
●エビでタイを釣る
「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、
10人のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対
して恐怖心をもっているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、
一度、文字嫌いにしてしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いて
も、それをほめる。読んであげる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エ
ビでタイを釣る』の要領である。
●子どもは、人の父
空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。
(ワーズワース・イギリスの詩人)
●冷蔵庫をカラにする
子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。
そのとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と
思ったら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセを
なおす。子どもの小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。
そういう買い物グセが、習慣になっている。それを改める。
●正しい発音で……
世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなも
のではないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるの
は、甘い。子どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に
先立って、音の分離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。その
とき、手をパンパンと叩きながら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。
●よい先生は、1、2歳、年上の子ども
子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。
そういう子どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるよ
うにするとよい。「無理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意
味。あなたの子どもは、その子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。
●ぬり絵のすすめ
手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、き
れいな丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなた
の子どもが、多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。
小さなマスなどを、縦線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。
●ガムをかませる
もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭が
よくなる」という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話す
と、「では」と言って、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5
年後。その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガム
の効用を確認している。この方法は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに
効果的である。
●マンネリは大敵
変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばあ
る母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、
教育評論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤
族の子どもは、頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激に
なっているからと考えられる。
●本は抱きながら読む
子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであ
げるとよい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。
こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆ
る学習の基本となる。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、
学校教育の基本にすえている。
●何でも握らせる
子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。
その感触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない
子どもがふえている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよ
い子どもほど、ものを手にとって調べる傾向が強い。
●才能は見つけるもの
子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのとき
には、風呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚の
ように泳ぎ出した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長し
た。また別の男の子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコン
を買ってあげると、小学3年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるよ
うにまでなった。子どもの才能を見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。
●「してくれ」言葉に注意
日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほ
かに、「たいくつウ~(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ~(だから何とかしてくれ)」
など。老人でも、若い人に向って、「私も歳をとったからねエ~(だから大切にしてほしい)」
というような言い方をする。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こ
んなところにもある。
●人格の完成度は、共鳴性でみる
他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこ
とを、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その
反対側にいる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人
格の完成度は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみ
てほしい。そのときあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフ
リをしているようなら、人格の完成度は、低いとみる。
●平等は、不平等
下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみ
れば、「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の
子は、欲求不満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこ
ともある。それまでしなかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子
に対して攻撃的になることもある。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までの
ことをする。平等は、不平等と覚えておくとよい。
●イライラゲームは、禁物
ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。
動きが速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間
は、禁物。以前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。
そうなれば、すでに(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。
「ゲーム機器は、パパのもの。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのも
よい。遊ばせるにしても、時間と場所を、きちんと決める。
●おもちゃは、一つ
あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておく
とよい。「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切
にする。子どもは、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようにな
る。
●何でも半分
子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、
もう片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。
これは子どもを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうず
にできるようになったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものため
にならない。
●核(コア)攻撃はしない
子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダ
メ人間よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうし
た(核)攻撃が日常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現われてくる。
子どもを責めるとしても、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身
の力では、どうにもならないことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃と
いうことになる。
●引き金を引かない
仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親とい
うことになる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子ど
もを指導する。たとえば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、
だれでも、そうなる。たった一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二
役の、ひとり言をいうようになってしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほ
ど、穏やかで、心静かな環境を大切にする。
●二番底、三番底に注意
子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうと
する。しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たと
えば門限を破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二
番底)、さらには家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起
きたら、それ以上、状況を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。
●あきらめは、悟りの境地
押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもと
いうのは、不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こ
んなはずはない」とがんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。
そこは、おおらかで、実にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。
そういうときは、思い切って、あきらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあ
ける。
●許して、忘れる
英語では、『FOR・GIVE(許す)& FOR・GET(忘れる)』という。この単語
をよく見ると、(何かを与えるために、許し、何かを得るために、忘れる)とも読める。何
を、か? 言うまでもなく、「愛」である。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を
越える。それはまさしく、「許して忘れる」の連続。その度量の深さによって、親の愛の深
さが決まる。カベにぶつかったら、この言葉を思い出してみてほしい。あなたも、その先
に、一筋の光明を見るはずである。
●自らに由らせる
子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由らせる」。だから自由というのは、自分で考
えさせる。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手な
ことを、子どもにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親
の過保護は、子どもから、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をう
ばう。子育ての目標は、子どもを自立させること。それを忘れてはいけない。
●旅は、歩く
便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に
足がつかない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように
心がけるとよい。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きなが
ら、見る景色のほうが、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則
でもある。いかにして、そのときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうこと
も考えながら、旅に出たら、ゆっくりと歩いてみるとよい。
●指示は、具体的に
「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言って
も、ほとんど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にも
っていってあげてね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話を
したか、あとでママに話してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせると
よい。
●休息を求めて、疲れる
イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもな
っている格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学
するため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き
方になる。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねな
い。
●子どもの横を歩く
親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どもの
うしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと
保護者は得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子ど
もの手を引きながら、「早く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わ
せて、ゆっくりと歩いてみるとよい。それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、
見えてくるはず。
●先生の悪口、批評はしない
学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打ったり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもは関係のない世界で、処理する。
●子育ては楽しむ
子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとったり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。
●ウソはていねいにつぶす
子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、ありもしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわせてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもちやすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子どもがウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言うべきことは言っても、あとは、無視する。
●本物を与える
子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえているので、ご注意!
●ほめるのは、努力とやさしさ
子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子どもがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりをほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめすぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に!
●親が、前向きに生きる
親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをいう。生きザマの見本を、親が見せることをいう。
●機嫌をとらない
子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子どもがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子どもは、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。
●親のうしろ姿を見せつけない
生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せたくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするために、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。
●親孝行を美徳にしない
日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない。
●「偉い」を廃語に!
「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。
●家族を大切に
『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。やがてドロシーは、真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、80~90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはまさにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この世界で、一番大切なものは、家族です」と。
●迷信は、否定しよう
子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただけなのだが……。)子どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷信は、まさに合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考える力を失う。
●死は厳粛に
ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするようになるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言えば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛に。どこまでも厳粛に。
●悪玉親意識
「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそう」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすのが、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対教」という。
●達成感が子どもを伸ばす
「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえまちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやったわね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。
●子どもは下から見る
子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、ここに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点から見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ。
●失敗にめげず、前に進む
「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残している。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことである』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみてほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。
●すばらしいと言え、親の仕事
親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はない。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心を豊かに育てる。
●逃げ場を大切に
どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこを神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」ということにもなりかねない。
●代償的過保護に注意
過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それがない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」と呼んでいる。
●同居は出産前に
夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子どもの教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それが同居を成功させる、秘訣のようである。
●無能な親ほど、規則を好む
イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。
●プレゼントは、買ったものはダメ
できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうしのプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこもったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。
●子育ては、質素に
子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そういうぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そうでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。
●ズル休みも、ゆとりのうち
子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためというわけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そんなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。
●ふつうこそ、最善
ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。「もっと……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。よい例が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負担もある。賢い親は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、それをなくしてから気づく。
●限界を知る
子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもというのは不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、やればできるはず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こんなもの」「よくがんばっている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、親がそばにいるだけで、萎縮してしまう子どもも、少なくない。
●ほどよい親
子どもには、いつも、ほどよい親であること。あるいは「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。とくに、子どもが何らかの(愛の確認行為)をしてきたときは、すかさず、いとわず。ていねいに、それに応じてあげる。ベタベタの親子関係がよくないことは、言うまでもない。
●子どもの世界は、社会の縮図
子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子どもの世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同時に、社会にも目を向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」であったり、「セックス」であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、そこから始まる。
●よき家庭人
日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米では、伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。そのため学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリカ)などを教える。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされている。どこか戦後直後の日本を思い出させる言葉である。
●読書は、教育の要(かなめ)
アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもある。つまり、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができるが、ライブラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師は、毎週、その子どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見なおされてきている。読書は、教育の要である。
●教師言葉に注意
教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられたら、額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師言葉を使う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが……」「私の指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、まだその力を出し切っていませんね」というような言い方をする。
●先取り教育は、幼児教育ではない
幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入学準備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教えたりするのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児期には幼児期で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育である。
●でき愛は、愛にあらず
でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマをうめるための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる「愛?」とよく似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。「子どものことを心配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子どもの自立をzちゃましてしまう。
●悪玉家族意識
家族のもつの重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の束縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家族が、自立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責の念から、自己否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論理で、子どもをしばってはいけない。
●伸びたバネは、ちぢむ
受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓など。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。「伸びたバネはちぢむ」と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほしい。
●「利他」度でわかる、人格の完成度
あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、もってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中になってれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、いかに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成度の低い子どもとみる。勉強のできるできないは、関係ない。
●見栄、体裁、世間体
私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子どもの姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人より、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」と、総体的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴について、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分のものとして、生きているか、と。
●私を知る
子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているんどえすが、ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知ること。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロンもこう言っている。「汝自身を、知れ」と。哲学の究極の目標にも、なっている。
●受験は淡々と
子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったときのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわたって、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験は、不合格のときを考えながら、準備する。
●比較しない
情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。できれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……ということにも、なりかねない。
●「入試」「合格・不合格」は、禁句
子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするのは、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要である。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。
●入試内容に迎合しない
たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、すなおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのである。
●子どもらしい子ども
子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、いじける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダメだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には必要である。
●デマにご用心
受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅させる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、その錯誤が大きくなることが知られている。
●成功率(達成率)は50%
子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子どもも楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わりには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。
●無理、強制
無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネは、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロになるということ。
●条件、比較
「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子どもの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子どもの問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)
●方向性は図書館で
どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れていき、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それがその子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸ばす。(役割形成)
●神経症(心身症)に注意
心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例としては、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。
●負担は、少しずつ減らす
子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえって症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らすのがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子どもの立ちなおりが、用意になる。
●荷おろし症候群
何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしているだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10~15%の子どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていやいや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。
●回復は1年単位
一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだが……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年とくらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。
●前向きの暗示を大切に
子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあった。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られるようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっていく。
●未来をおどさない
今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えることもある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもっているなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。
●子どもを伸ばす、三種の神器
子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。
●受験は淡々と
子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったときのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわたって、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験は、不合格のときを考えながら、準備する。
●比較しない
情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。できれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……ということにも、なりかねない。
●「入試」「合格・不合格」は、禁句
子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするのは、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要である。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。
●入試内容に迎合しない
たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、すなおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのである。
●子どもらしい子ども
子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、いじける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダメだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には必要である。
●デマにご用心
受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅させる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、その錯誤が大きくなることが知られている。
●上下意識は、もたない
兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしているようなら、まず、それを改める。
●子どもの名前で、子どもを呼ぶ
「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。
●差別しない
長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれる。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、きわめて敏感に反応しやすい。
●嫉妬はタブー
兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させないようにする。
●たがいを喜ばせる
兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てるためにも、重要である。
●決して批判しない
子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あなたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。
●得意面をさらに伸ばす
子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始めるということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そもそも、その原点からまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の悪循環を繰りかえすようになる。
●悪循環を感じたら、手を引く
子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめて、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自信喪失から、自己否定に走ることもある。
●子どもは、ほめて伸ばす
『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言えば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす原動力になる。
●孤立感と劣等感に注意
家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼくはダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。
●すなおな子ども
従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子どもにやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがする。そういう子どもを、すなおな子どもという。
● 自己意識を育てる
乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なことは、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばADHD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立ちなおりが遅れる。
● まず自分を疑う
子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子どもは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったようなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向かっては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身にある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。
● 「やればできるはず」は禁句
たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「やってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にしてね)」と。※
● 「子はかすがい」論
たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。
● 「親のうしろ姿」論
生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。
● 「親の威厳」論
「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。
● 「育自」論は?
よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。
● 「親孝行」論
安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。
● 「産んでいただきました」論
よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。
● 「水戸黄門」論に注意
日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意!
● 「釣りバカ日誌」論
男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。
● 「MSのおふくろさん」論
夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。
●「かあさんの歌」論
K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。
● 「内助の功」論
封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。
●子育ては、考えてするものではない
だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言う。子育てというのは、もともと、そういうもの。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗をするときは、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわり)があれば、まず、それに気づくこと。あとは時間が解決してくれる。
●子育ては、世代連鎖する
子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖しやすい。またそういう部分が、ほとんどだということになる。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によるもの」と考る。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のうちに繰りかえす。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代に、残さないということ。
●子育ての見本を見せる
子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せるということ。見せるだけでは、足りない。包む。幸福な家庭というのは、こういうものだ。夫婦というのは、こういうものだ、家族というのは、こういうものだ、と。そういう(学習)があって、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになる。
●子どもには負ける
子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしてもしかたないし、本気で相手にしてはいけない。ときに親は、わざと負けて見せたり、バカなフリをして、子どもに自信をもたせる。適当なところで、親のほうが、手を引く。「こんなバカな親など、アテにならないぞ」と子どもが思えば、しめたもの。
●子育ては重労働
子育ては、もともと重労働です。そういう前提で、する。自分だけが苦しんでいるとか、おかしいとか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけない。しかしここが重要だが、そういう(苦しみ)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長する。そのことは、子育てが終わってみると、よくわかる。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親に見せてくれる。どうか、お楽しみに!
●自分の生きザマを!
子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立する。「あなたはあなたで、勝手に生きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクとしがちな、親子関係に、風を通す。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないというのは、それだけあなたの生きザマが、小さいということになる。あなたはあなたで、したいことを、すれば、それでいい。
●問題のない子育てはない
子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それは岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そのつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういうものであるという前提で、子育てを考える。
●解決プロセスを用意する
英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらって、たいていの問題は、その場で解決する。
●動揺しない
株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をする」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやすい。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。この親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。
●自分なら……
賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識だけが強く、「~~あるべき」「~~であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私ならどうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをついてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。
●時間を置く
言葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言ったからといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言いながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこわいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。
●叱られじょうずな子どもにしない
親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子どもがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいからそうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。
●叱っても、人権を踏みにじらない
先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱られじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかしどんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人格の「核」攻撃は、してはいけない。
●「核」攻撃は、禁物
子どもを叱っても、子どもの心の「核」にふれるようなことは、言ってはいけない。「やっぱり、あなたはダメな子ね」「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」などというのが、それ。叱るときは、行為のどこがどのように悪かったかだけを、言う。具体的に、こまかく言う。が、子どもの人格にかかわるようなことは言わない。
●子どもは、親のマネをする
たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則がある。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せておく。
●一事が万事論
あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣らず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。
●代償的過保護に注意
「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何であるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中には、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどきの愛を、愛と錯覚しているだけ。
●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す
子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親としてはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親であることが、よい親の条件。
●許して忘れ、あとはあきらめる
子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そこで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心にも風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも苦しむ。
●強化の原理
子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたとする。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。
●弱化の原理
強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これを弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになると、学習効果が、著しく落ちるようになる。
●内面化
子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、「しつけ」という。
●子どもの意欲
子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対しては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。
●ほどよい目標
過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標をもたせるようにする。
●子どもの恐怖症
恐怖症といっても、内容は、さまざま。対人恐怖症、赤面恐怖症、視線恐怖症、体臭恐怖症、醜形恐怖症、吃音恐怖症、動物恐怖症、広場恐怖症、不潔恐怖症、高所恐怖症、暗所恐怖症、閉所恐怖症、仮面恐怖症、先端恐怖症、水恐怖症、火恐怖症、被毒恐怖症、食事恐怖症などがある。子どもの立場になって、子どもの視線で考えること。「気のせいだ」式の強引な押しつけは、かえって症状を悪くするので注意。
●子どもの肥満度
児童期の肥満度は、(実測体重Kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗で計算する。この計算式で、値が160以上を、肥満児という(ローレル指数計算法)。もっと簡単に見る方法としては、手の甲を上にして、指先を、ぐいと上にそらせてみる。そのとき、指のつけねに腱が現れるが、この腱の部分にくぼみが現れるようになったら、肥満の初期症状とみる。この方法は、満5歳児~の肥満度をみるには、たいへん便利。
●チック
欲求不満など、慢性的にストレスが蓄積すると、子どもは、さまざまな神経症的症状を示す。たとえば爪かみ、指しゃぶり、夜尿、潔癖症、手洗いグセなど。チックもその一つ。こうした症状を総称して、神経性習癖という。このチックは、首から上に出ることが多く、「おかしな行動をする」と感じたら、このチックをうたがってみる。原因の多くは、神経質で、気が抜けない家庭環境にあるとみて、猛省する。
●子どもの姿を正確に
あなたの子どもに、あなたはどのようなイメージをもっているだろうか。中には、問題があるのに、「問題はない」と思いこんでいる親がいる。反対に、問題がないのに、「問題がある」と思いこんでいる親もいる。子どもの姿を正確にとらえるのは、たいへんむずかしい。子どもの概念と、現実の子どもの間のギャップが大きければ大きいほど、親子の関係はギクシャクしたものになりやすい。
●聞きじょうずになる
子どもの姿を正確にとらえるためには、聞きじょうずになること。自分の子どもでも、他人の子どもと思い、一歩退いて見るようにする。教師でも話しにくい親というのは、子どものことになると、すぐカリカリするタイプ。何か言おうとすると、「うちでは問題はありません」「塾では、しかkりとやっています」と反論する。しかしそう反論されると、「どうぞ、ご勝手に」となる。
●自己愛者はご注意
自己中心性が肥大化すると、自己愛者になる。完ぺき主義で、他人の批判を許さない。すべてを自分(あるいは自分の子ども)中心に考えるようになる。こうなると、子育ては、独善化する。他人の批評に耳を傾けなくなるからである。子育てじょうずな親というのは、ものごとに謙虚である。その謙虚さが、心に風穴をあける。まずいのは、「自分は正しい」と思いこんで、他人の意見を聞かないこと。
●心の一致
(したいこと)と(していること)が一致しているとき、子どもの心は、安定する。しかし(したいこと)と(していること)が一致していないと、子どもの心は、急速に不安定化する。非行の多くは、こうして始まる。そこで重要なことは、いつも、(子どものしたいこと)に静かに耳を傾けて、それを(していること)に結びつけていく。これを心理学の世界でも、自我の同一性(アイデンテンティ)と呼ぶ。
●善行は、ささいなことから
あなたの子どもを善人にしたいなら、日常的な、ごくささいなことから、約束やルールを守る姿を、子どもに見せておく。そういう積み重ねが、あなたの子どもを善人にする。つまり日々の積み重ねが、月々の積み重ねとなり、それが年々、積もって、その人の人格となる。あなたが、平気で空き缶をポイ捨てしていおいて、あなたの子どもに「いい子になれ」は、ない。
●シャドウをつくらない
あなたが仮面をかぶればかぶるほど、あなたの背後に、その正反対のシャドウ(影)ができる。子どもというのは、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。よく例に出されるのが、佐木隆三の『復讐するは、我にあり』である。敬虔な牧師の息子が、殺人鬼になるという小説である。緒方拳の主演で、映画にもなった。父親は牧師をしながら、息子の嫁と不倫関係になる。そうしたシャドウが、その息子を殺人鬼にしたとも考えられなくはない。
●ウソはつかない
子どもには、ウソをつかない。これは親子関係を守るための、最後の砦(とりで)と考えてよい。もしウソをつきたくなかったら、だまっていればよい。飾ったり、見栄をはったりしてもいけない。ありのままを、すなおに見せておく。あとの判断は、子どもに任せればよい。
●ウソはていねいにつぶす
子どもは、よくウソをつく。いろいろなウソがあるが、その中でも、空想したことを、あたかも本当のことのように話す子どもがいる。空想的虚言(妄想的虚言)というのが、それ。はげしい親の過干渉が日常化すると、子どもは、この空想的虚言を口にするようになる。そういうとき親は、子どもをはげしく叱ったりするが、反省すべきは、むしろ親のほうである。こうしたウソは、ていねいに、つぶす。言うべきことは言いながら、あとは時間を待つ。
●計算力と「数」の力
子どもにとって、計算力と、「数」の力は、別のものと考えてよい。たとえば(3+4=7)は、計算力があればできる。しかし「7は、5と□」という問題は、計算力だけでは、カバーできない。ほかに「3と□で、6」「□は、3と4」など。小学1年生の問題だが、それができる子どもは、スラスラとできる。しかしできない子どもは、何度説明しても、できない。それがここでいう「数」の力ということになる。
(はやし浩司 子供の計算力)
●「遊び」を大切に
自動車のハンドルでも、「遊び」があるから、運転できる。その「遊び」がなく、ギスギスだったら、運転できない。子どもの勉強も、その運転に似ている。多くの親たちは、「勉強」というと、机に向かって黙々とするものだという偏見と誤解をもっている。しかしそれは大学の研究者のような人がする勉強であって、少なくとも、子どもの勉強ではない。小学校の低学年児だったら、30分机に向かって座って、10分、勉強らしきことをすれば、よしとする。
●子どものリズムをつかむ
子ども自身がもつ、学習のリズムは、みな、ちがう。数分きざみに、騒いだり、しゃべったりする子どももいれば、5分くらい静かに作業したあと、1~2分、休んだりする。勉強にとりかかるまでに、10分以上かかる子どももいれば、すぐ、勉強に入れる子どもいる。大切なことは、それぞれのリズムに合わせて、指導するということ。とくに子どもが小さいうちは、そうする。
●ささいなミスは、許す
たとえば20問、計算問題をする。そのとき、1、2問くらいなら、まちがっていても、何も言わない。「よくがんばったね」と、ねぎらう。そして大きな丸を描いてすます。とくに子どもが、懸命にしたときは、そうする。正解よりも、この時期大切なのは、達成感。その達成感が、子どもを伸ばす。こまごまとした神経質な指導は、一見、親切に見えるが、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうこともあるので注意する。
●テーマは、一つ
子どもに何かを教えようとするときは、いつも、テーマは、一つにする。あれこれ、同時に指示を与えても、意味がないばかりか、かえって、「二兎を追うもの、一兎……」ということになりかねない。たとえば作文練習のときは、作文の内容だけを見て、文字のまちがいなどは、無視する。作文の内容だけを見て、判断する。
●子どもを伸ばすのは、子ども
子どもを伸ばすのは、子ども。しかしその子どもをつぶすのも、これまた子ども。とても残念なことだが、「質」のよい子どももいれば、そうでない子どももいる。質がよいというのは、おだやかで、知性的。自己管理能力もしっかりしていて、もの静か。そういう子どもは、そういう子どもどうし集まる傾向がある。で、もしあなたの子どもが、そういう子どもであれば、努力して、そういう子どもどうしが集まれるような環境をつくってやるとよい。あなたの子どもは、さらに伸びる。
(はやし浩司 子供の冴え)
●冴(さ)えを伸ばす
子どもが、「アレッ」と思うようなヒラメキを示したときは、すかさず、それをほめて、伸ばす。この時期、あとあと子どもほど、思考が柔軟で、臨機応変に、ものごとに対処できる。趣味も多く、多芸多才。興味の範囲は広く、何か新しいことを見せると、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる。この時期、することと言えば、テレビゲームだけ。友だちも少ないというのは、子どもにとっては、望ましいことではない。
●一歩手前で、やめる
子どもが30分ほど、勉強しそうだったら、20分くらいのところで、やめる。ワークを10ページくらいしそうだったら、7~8ページくらいのところで、やめる。子どもを伸ばすコツは、無理をしない。強制をしない。もしあなたが、「子どもというのは、しぼればしぼるほど伸びる」とか、「子どもの勉強には、きびしさが必要」と考えているなら、それは、とんでもない誤解。どこかの総本山での、小僧教育ならともかくも、今は、そういう時代ではない。
●バカなフリをして伸ばす
おとなは、決して、おとなの優位性を子どもに、見せつけてはいけない。押しつけてはいけない。子どもにとって、最大の喜びは、父親や、母親を、何かのことで、負かすことである。親の立場でいえば、子どもに負けることを、恥じることはない。反対に、ときには、バカな親のフリをして、子どもに自信をもたせる。「こんな親では、アテにできない」と子どもが思うようになったら、しめたもの。
●集中力も「力」のうち
よく、「うちの子は、集中力がありません。集中力をつけるには、どうしたらいいでしょうか」という質問をもらう。しかし集中力も、「力」のうち。頭をよくする方法が、そんなにないように、集中力をつける方法というのも、それほど、ない。あれば、私が知りたいくらいである。ただ指導のし方によって、子どもを、ぐいぐいとこちらのペースに引きこんでいくことはできる。しかし集中力のある・なしは、子どもの問題ではなく、指導する側の問題ということになる。
(はやし浩司 子供の集中力)
●一貫性
内容がどうであれ、よき親と、そうでない親のちがいといえば、一貫性のある、なしで、決まる。権威主義的なら権威主義的でもかまわない。(本当は、そうでないほうがよいが……。)親にその一貫性があれば、やがて子どものほうが、それに合わせる。私の叔父の中には、権威主義のかたまりのような人がいた。しかし私は、その叔父は叔父として、認めることで、良好な人間関係をつくることができた。それなりに尊敬もしている。子どもの前では、いつも、同じ親であること。それが子どもの心に、大きな安定感を与える。
(はやし浩司 一貫性)
●子育ては工夫
子育ては工夫に始まって、工夫に終わる。わかりやすく言えば、知恵比べ。この知恵比べによって、子どもは、伸びる。が、それだけではない。何か問題が起きたときも、同じ。家庭環境は千差万別。状態も状況も、みなちがう。子どもについて言うなら、性格も性質も、みなちがう。能力もちがう。そんなわけで、「子育ては知恵くらべ」と心得る。この知恵比べを、前向きにできる人を、賢い親という。
●内政不干渉
たとえ親類でも、兄弟でも、内政については、干渉しない。相手が相談をもちかけてきたときは別として、こちらからあれこれアドバイスしたり、口を出したりしてはいけない。相手を説教するなどということは、タブー中のタブー。ばあいによっては、それだけで、人間関係は、破壊される。それぞれの家庭には、人には言うに言われぬ事情というものがある。その事情も知らないで、つまり自分の頭の中だけで考えてものを言うのは、たいへん危険なことである。
●受験についての話は、タブー
「受験家族は、病人家族」と心得るべし。受験生をもつ親に向かって、「どこを受験するの?」「合格したの?」と聞くことは、病人に向かって、「病名は何?」「寿命はどれくらい?」と聞くのと同じくらい、失礼なこと。相手のほうから話題にするばあいは、べつとして、そうでなければ、それについて触れるのは、タブー。出身校、学歴についても、同じ。
●同一性の危機
万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に立たされる。
●夢・希望・目的
夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。
●子どもの忍耐力
同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。
●同一性の崩壊
同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的を見失う。
●顔のない自分
同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。
●校内暴力
暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズムは、こうして説明される。
●子どもの自殺
おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。
●自虐的攻撃性
攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。
●自我の同一性
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。
●心の抵抗力
「私は~~をしたい」「ぼくは~~する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその世界に入ってしまう。
●夢や希望を育てる
たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。
●子どもを伸ばす三種の神器
子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。
●役割混乱
子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。
●思考プロセス(回路)
しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばっていた子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。
●進学校と受験勉強
たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になりえたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊してしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子どもにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」という意識すらないまま……。
●これからはプロの時代
これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロのほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けない」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。
●大学生の問題
現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでいる。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。
●自我の同一性と役割形成
子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そんなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。
(はやし浩司 子どもを伸ばす 子供を伸ばす 自我の同一性 役割形成 思考プロセス 子供の非行 子どもの非行 はやし浩司 子供を非行から守る 非行のメカニズム)
●作文の前に、速書きの練習を
計算力は、算数の力の基礎である。計算力があるからといって、算数の力があるということにはならない。しかし計算力がないと、算数の力を下へ引っ張ってしまう。同じように、速書きは、作文力(表現力)の基礎である。速く書くことができるからといって、作文力があるということにはならない。しかし速く書くことができないと、作文力を発揮できない。小1~2レベルで、15分間に、100~150文字を筆写できるようにするのを目標とする。
●国語力が、学力の基礎
理科は、理科的な国語、社会は、社会的な国語と考える。国語力(読解力、理解力、表現力)のあるなしは、すべての科目に大きな影響を与える。「本を読む」、つまり読書の重要性は、今さら説明するまでもない。方法としては、大きな図書館で、子どもを自由に遊ばせてみるとよい。それを定期的な習慣にする。
●会話は、正しい日本語で!
「ほら、バス、バス、バスよ」ではなく、「もうすぐ、バスが来ます。あなたは外に立って、バスを待ちます」と言う。こうした正しい言い方が、子どもの国語力の基礎となる。子どもの国語力は、親、とくに母親が決める。なおこうした語りかけは、生後直後から始める。赤ちゃん言葉(ウマウマ、ブーブーなど)、幼稚語(ワンワン、ニャーゴなど)は、避ける。
●思考は作文力で
これだけ視覚情報(テレビやゲーム)が多い中、さらにその上、右脳教育をあえてする必要はないのではないか。それよりも大切なのは、分析力、論理的な思考力。こうした能力は左脳が司っていると言われている。その分析力、思考力は、左脳が司る。分析力、思考力を養うには、作文が第一。作文に始まって、作文に終わる。ものを書くという習慣を大切に。
●思考と情報を分ける
もの知りだからといって、その子どもに思考力があるということにはならない。かけ算の九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもに算数の力があるということにはならない。思考と情報は、いつも分けて考える。思考力のある子どもの目つきは、いつも深く、静かに落ち着いている。
●「文化」は、心の体力
その人(子ども)の精神的な深みは、日ごろの文化性で決まる。何かの事件に遭遇したとき、あわてふためいて、ボロを出す人もいれば、そうでない人もいる。そのためにも、子どもには、日ごろから、本物を見せておく。絵画でも音楽でも、さらに子どもが読む絵本にしても、本物を見せておく。そういう日ごろの姿勢が、子どもの中の文化性を高める。それが精神的な深みとなって、その人(子ども)を側面から支える。
●反面教師のゴーストに注意
あなたの周囲にも、反面教師と呼んでよいような人がいるかもしれない。ひょっとしたら、あなたの親が、そうであるかもしれない。人は(子どもも)、反面教師を教師として、自分を高めることができるが、対処のし方を誤ると、あなた自身が、いつかその反面教師そっくりの人間になることもある。これを「ゴースト」という。反面教師がいても、批判のための批判だけに終わってはいけない。どこかでその人を乗り越える努力を忘れてはいけない。
☆上下意識は、親子にキレツを入れる
「親が上、子ガ下」という上下意識は、親子の間に、キレツを入れる。「上」の者にとっては、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の者にとっては、そうでない。言いたいことも言えない、したいこともできないというのは、親子の間では、あってはならないこと。親はいつも子どもの友として、横に立つ。そういう姿勢が、良好な親子関係を育てる。
☆「ダカラ論」は、論理にあらず
「親だから……」「子だから……」「長男だから……」「夫だから……」というのを、『ダカラ論』という。このダカラ論は、論理ではない。えてして、問答無用式に相手をしばる道具として、利用される。使い方をまちがえると、相手を苦しめる道具にもなりかねない。先日もテレビを見ていたら、妻が、夫に、「あなたは一家の大黒柱なんだからね」と言っているのを見かけた。それを見ていて、そういうふうに言われる夫は、つらいだろうなと、私は、ふと、そう思った。
☆親の恩着せ、子どもの足かせ
「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と親が、子どもに恩を着せれば着せるほど、子どもの心は親から遠ざかる。そればかりか、子どもが伸びる芽を摘んでしまうこともある。たとえ親がそう思ったとしても、それを口にしたら、おしまい。親に恩を押しつけられ、苦しんでいる子どもは、いくらでもいる。
☆家族主義は、親の手本から
まず子どもを幸福な家庭で包んでやる。「幸福な家庭というのは、こういうものですよ」と。それが家族主義の原点。見せるだけでは足りない。子どもの体の中にしみこませておく。その(しみこみ)があってはじめて、子どもは、今度は、自分が親になったとき、自然な形で、幸福な家庭を築くことができる。夫婦が助けあい、いたわりあい、励ましあう姿は、遠慮なく、子どもに見せておく。
☆離婚は淡々と、さわやかに
親が離婚するとき、離婚そのものは、大きな問題ではない。離婚にいたる家庭内騒動が、子どもの心に暗い影を落とす。ばあいによっては、それがトラウマになることもある。だから離婚するにしても、子どもの前では淡々と。子どものいない世界で、問題を解決する。子どもを巻きこんでの離婚劇、それにいたる激しい夫婦げんかは、タブー中のタブー。夫婦げんかは、子どもへの「間接虐待」と心得ること。
☆よい聞き役が、子どもの思考力を育てる
親は、子どもの前では、よき聞き役であること。ある人は、『沈黙の価値を知るものだけが、しゃべれ』というが、この格言をもじると、『沈黙の価値を知る親だけが、しゃべれ』となる。子どもの意見だから、不完全で未熟であるのは、当たり前。決して頭ごなしに、「お前の考え方はおかしい」とか、「まちがっている」とかは、言ってはいけない。「それはおもしろい考え方だ」と言って、いつも前向きに、子どもの意見を引き出す。そういう姿勢が、子どもの思考力を育てる。
☆子どもの前では、いつも天下国家を論じる
子どもに話すテーマは、いつも大きいほうがよい。できれば、天下国家を論ずる。宇宙の話でも、歴史の話でもよい。親が小さくなればなるほど、子どもは小さくなる。隣や近所の人たちの悪口や批判は、タブー。見栄、体裁、世間体は、気にしない。こうした生き様は、子どものものの考え方を卑屈にする。「日本はねえ……」「世界はねえ……」という語りかけが、子どもを大きくする。
☆仮面をはずし、子どもには本音で生きる
あなたが悪人なら、悪人でもかまわない。大切なことは、子どもの前では、仮面をはずし、本音で生きること。あるがままのあなたを、正直にさらけ出しながら生きる。かっこつけたり、飾ったりする必要はない。そういうあなたの中に、子どもは、いつか(一人の人間)を見る。ただし一言。子育てといっても、あなたはいつも一人の人間として、自分を伸ばしていかねばならない。それが結局は、真の子育て法ということになる。
☆優越感の押しつけは、子どもをつぶす
おとなや親の優越性を、子どもに押しつけてはいけない。賢い親は、(教師もそうだが……)、バカなフリをしながら、子どもに自信をもたせ、そして子どもを伸ばす。相手は子ども。本気で相手にしてはいけない。ゲームをしても、運動をしても、ときにはわざと子どもに負けてみる。子どもが、「うちの父(母)は、アテにならない」と思うようなったら、しめたもの。勉強について言うなら、「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがマシ」と思うようになったら、しめたもの。
☆親の動揺、子どもを不安にする
たとえば子どもが不登校的な拒否症状を示すと、たいていの親は、狂乱状態になる。そして親が感ずる不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。が、この一撃が、さらに子どもの心に、大きなキズをつける。数か月ですんだはずの不登校が、1年、2年とのびてしまう。子どもの心の問題を感じたら、一喜一憂は、厳禁。半年単位でものを考える。「半年前はどうだったか?」「1年前はどうだったか?」と。
☆言うべきことは言っても、あとは時を待つ
親は言うべきことは言っても、そこで一歩引き下がる。すぐわからせようとか、実行させようと考えてはいけない。子どもの耳は、そういう意味で長い。脳に届いてから、それを理解するまでに、時間がかかる。実行するまでには、さらに時間がかかる。まずいのは、その場で、とことん子どもを追いつめてしまうような行為。子どもはかえってそれに反発し、その反対のことをするようになる。
☆質素が子どもの心を豊かにする
子どもには、質素な生活は、どんどん見せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところでする。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜいたくを、経験させない。
なお質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素というのは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをできるだけはぶく。要するに、こまやかな心が通いあう生活を、質素な生活という。
☆うしろ姿を押し売りは、子どもを卑屈にする
生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、しかしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。
☆生きる力は、死を厳粛に扱うことから
死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反射的効果として、「生」を大切にするためである。子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それがたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。
☆度量の大きさは、立方体で計算する
子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘れるかという、その深さのこと。もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れることができるかということ。
☆「今」を大切に、「今」を懸命に生きる
過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しくない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明日は、その結果として、必ずやってくる。だからといって、過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝かせて生きていくこと。
☆『休息を求めて疲れる』は、愚かな生き方
イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「いつか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」ということ。しかしほんの少し考え方を変えれば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも1呼吸だけ、今までのリズムを遅くすればよい。
☆行きづまったら、生きる源流に視点を
「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、そのとたん、子育てにまつわるあらゆる問題は、解決する。「この子は生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題は解決する。あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみるとよい。それですべての問題は解決する。
☆モノより思い出
イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほしいものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。
☆子育てじょうずは、よき先輩をもつことから
あなたの近くに、あなたの子どもより、1~3歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、あなたの悩みは、解消する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その人の子どもの影響を受けて、伸びる。
☆子どもの先生は、子ども
あなたの近くに、あなたの子どもより1~3歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よくしたらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界には、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。子ども自身も、同じ仲間という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、1、2年、先を見ながら、勉強するということは、それなりに重要である。
☆指示は具体的に
子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あまり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのですよ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわよ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。
(はやし浩司 子育て格言 子育てのコツ)
【付記:世界の教育格言】
●種を蒔いたように……
As you sow, so we shall you reap. 「あなたが種を蒔いたように、あなたはそれを刈らねばならない」。イギリスの教育格言。つまり因果応報ということか。子育てについて言えば、ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、「子どもをなおそう」とする。しかしなおすべきは、子どものほうではなく、親のほうである。そういう視点から、子どもの問題を見つめなおしてみる。
●引いて、発(はな)たず
孟子(紀元前3世紀ごろの、中国の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典のひとつとされる)が残した言葉である。子どもに矢の射り方を教えるときは、矢の引き方までは教える。しかし、その矢を放つところまでは見せてはいけないという意味。教育といっても、やりすぎはよくない。たとえば手取り、足取り教える教育法がある。一見、親切な指導法に見えるかもしれないが、かえって子どものためにならない。
●子どもは人の父
The Child is Father of the Man. 「子どもは人の父」、イギリスのワーズワースの詩の一節である。子どもが成長し、やがておとなになっていくのを見ていると、この感を強くする。つまり、子どもは、人の父、と。子育てというのは、子どもを育てることではない。子どもに、子育ての仕方を見せておく。見本を見せておく。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育てるのですよ」と。それが子育て。
●食欲がないときに……
『食欲がないときに食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』。Studying without an inquiring desire will be not retained in ones' memory. レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)の言葉である。子どもの学習指導の常識と言ってもよい。日本では教育というと、「教え育てる」が基本になっているが、それは昔の話。子どもから意欲を引き出し、それをじょうずに育てる。あとは子ども自身がもつ「力」に任せればよい。
●忠告は密かに……
Give advice secretly, and praise children openly. 「忠告は密かに、賞賛はおおやけに」。古代ローマの劇作家、シルスの言葉である。子どもを叱ったり、子どもの名誉をキズつけるような行為は、だれもいないところでせよ。しかし子どもをほめるときは、みなの前でせよ、という意味である。子育ての行動規範のひとつとして覚えておくとよい。
●教育の秘法
あのエマーソン(アメリカの詩人、思想家、1803~1882)は、こう書いている。『教育に秘法があるとするなら、それは生活を尊重することである』と。欧米では、「自立したよき家庭人」を育てるのが、教育の柱になっている。とくにアメリカでは、デューイの時代から、より実用的なことを教えるのが、教育の柱になっている。生活に根ざさない教育は、そも役に立たない。生活を尊重してこそ、そこに真の教育があるというわけである。
●かわいくば……
『かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ』(二宮尊徳、江戸時代後期の農政家、1787~1856)と。「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼吸おいて、まずよいところを三つみつけて、それをほめる。そしてそのあと、二つくらいの割合で、叱れ」という意味。子どもをほめる、子どもを叱る……。それは家庭教育の要(かなめ)と言ってもよい。
●最初に受けた印象が……
First impressions are most lasting. イギリスの教育格言。つまりものごとは、第一印象が大切ということ。とくに子どもの教育では、そうである。その第一印象で、すべてが決まるといっても、過言ではない。だから子育てをしていて、「はじめの一歩」を感じたときは、とくに慎重に! コツは、叱らない、おどさない。「小学校はきびしいのよ」「先生はこわいわよ」と教えたため、学校へ行きたがらなくなる子どもは少なくない。
●玉、磨かざれば……
『玉、磨かざれば、器(うつわ)ならず。人、学ばざれば、道知らず』(礼記、中国五経の一つ)。脳の健康は、肉体の健康と似ている。究極の健康法などというものはない。同じように、究極の思想などというものはない。運動を怠ったら、その日から、健康はくだり坂に向かう。同じように考えることを怠ったら、その日から、脳は老化する。人は、日々に研鑽(けんさん)してこそ、人でありえる。学ばない人、考えない人は、それだけで、大切な人生を無駄にしていると言える。
●馬を水場に……
A man may lead a horse to the water, but he cannot make it drink. 「馬を水場に連れて行くことはできても、その馬に水を飲ませることはできない」。イギリスの教育格言である。子どもを伸ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。楽しむことによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを伸ばす(スキナー)。しかし無理は禁物。無理をしても、意味がない。それがこの格言の意味ということになる。
●ビロードのクッションより……
It is better to sit on a pumpkin in the field rather than to sit on the soft velvet cushion of the palace. 『ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうがよい』(ソロー、アメリカの随筆家、1812~1862)。子どもにとって家庭とは、すべからく、カボチャのようでなくてはならない。子どももある程度の年齢になったら、家庭は、しつけの場から、心を癒す、憩いの場となる。またそうでなくては、いけない。
●教育は、母のひざに始まり……
I・バロー(17世紀のイギリスの数学者)は、こう言っている。「Education starts in mother's lap and what children hear in those days will form their character.(教育は母のひざに始まり、幼年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する)」と。この時期、母親の子どもへの影響は、絶対的なものであり、絶大である。母親が、子どもの方向性のすべてを決定づけると言っても過言ではない。子どもの教育は、子どもをひざに抱いたときから始まると、バローは言っている。
●約束(ルール)を守る、ウソをつかない
日々の積み重ねが月となり、その月が積み重なって、年となる。その年が、10年、20年と積
み重なって、その人の人格となる。その日々の積み重ねは、身の回りのほんのささいなことか
ら始まる。子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことには関係なく、約束(ルール)を
守る。ウソをつかない。そういう親の姿を、子どもは、うしろから見る。自分の人格とする。
●子どもは使う
子どもは使えば使うほど、よい子になる。忍耐力(=いやなことをする力)も、それで身につく。
社会性も身につく。が、それ以上に、他人の苦しみや悲しみを理解できるようになる。言うまで
もなく、子どもにかぎらず人は、自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労が理解できるよう
になる。その心のポケットができる。あなたが重い荷物をもって歩いているとき、「もってあげ
る!」と子どもが助けてくれれば、それでよし。そうでなければ、家庭教育のあり方を、猛省す
る。
●夢と希望、そして目的
目的(目標)をもった子どもは、強い。多少の誘惑くらいなら、自らはねのけてしまう。心の抵抗
力ができていると考える。その心の抵抗力をつける第一。それが夢と希望。その先に目標(目
的)ができる。そのため、子どもの夢や希望は、大切にする。親の価値観を、けっして、押しつ
けてはいけない。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、それはすてき
ね」と言い返してやる。そういう親の姿勢が、子どもの夢や希望を育てる。
●子どもの横に立つ
子育てには、3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前に立つ。保護者として、子どものうし
ろに立つ。そして友として、子どもの横に立つ。日本人は、伝統的に、子どもの前やうしろに立
つのは得意だが、横に立つのが苦手。そのため多くのばあい、子どもが親離れを始めるころ
から、親子の間にキレツが入るようになり、さらに多くのばあい、そのキレツは、断絶へとつな
がっていく。
●忍耐力は、いやなことをする力
試しに、台所のシンクにたまった生ごみを、始末させてみればよい。あるいは風呂場の排水口
にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハ~イ」と言って、あなたの子どもがそれを始末したとし
たら、あなたの子どもは、すばらしい子どもとみてよい。またこのタイプの子どもは、学習面で
も、伸びる。なぜなら、勉強というのは、もともと(イヤなもの)。そのイヤなことを乗り切る力が、
ここでいう忍耐力ということになる。その忍耐力を育てるためには、子どもは、使う。
●思考回路というレール
夢や希望をもち、さらには目標(目的)をもち、その目標に向かって努力する。その道筋を、思
考回路という。大切なのは、その思考回路。というのも、夢や希望というのは、そのつど変化す
る。変化して当然。幼児のころは、「お花屋さんになりたい」と言っていた子どもでも、小学生に
なると、「パン屋さんになりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言うかもしれない。中身は何であ
れ、思考回路にできている子どもは、その思考回路の上に夢や希望を乗せて、前向きに進ん
でいくことができる。
●子どもに育てられる
親は、子育てをしながら、子どもに否応(いやおう)なしに育てられる。はじめて子どもを幼稚園
へ連れてきたような母親は、たしかに若くて美しいが、中身がない。そんな母親でも、子育てで
苦労をするうち、やがて姿勢が低くなる。幼稚園を卒園するころになると、みなに、深々と頭を
さげるようになる。中身ができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育て
る。子どもに育てられることを、恐れてはいけない。
●熟成される「善」
西洋では、「善と悪は、神の左手と右手である」という。しかし善と悪は、決して、平等ではな
い。善人ぶることは簡単なこと。しかし自分の体の中から、悪を抜くのは、容易なことではな
い。しかもその善と悪は、長い時間をかけて、心の中で熟成される。とくに善は、10年とか、2
0年とか、長い年月を経て熟成される。いつか、あなたも、親ではなく、1人の人間として、子ど
もに評価されるときがやってくる。その評価に耐えうる人間になれるかどうか。それは子育てに
おける、大きなテーマのひとつと考えてよい。
●すなおな子ども
親や教師の言うことに従順で、それに静かに従う子どもを、すなおな子どもというのではない。
すなおな子どもというときは、(1)心の状態(=情意)が、そのまま表情となって表れる子ども、
(2)心のゆがみ(いじける、つっぱる、ひねくれるなど)のない子どもをいう。イヤだったら、「イ
ヤ!」と言う。何でもないことかもしれないが、それが自然な形でできる子どもを、すなおな子ど
もという。
●至上の愛
ある母親は、自分の子どもが死ぬか、生きるかの大病を繰りかえしたとき、天に向かって、こう
言って祈ったという。「私の命は、どうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、子どもの
命を救ってエ!」と。こうした(自分の命すら惜しくない)という、まさに至上の愛は、人は、子ど
もをもってはじめて知る。子どもを、ただの子どもと思ってはいけない。あなたの子どもは、あな
たに何かを教えるために、そこにいる。
●シャドウに警戒する
人は善人ぶることによって、自分の中に潜む(邪悪な部分)を、どこかへ押し込める。これをユ
ングという学者は、「シャドウ」と呼んだ。そのシャドウを、子どもはうしろから見ていて、そっくり
そのまま、引き継いでしまう。ときとして、牧師や僧侶など、聖職者と呼ばれる人の子どもが、
凶悪犯罪人になるプロセスは、こうして説明される。善人ぶるとしても、それを仮面(ペルソナ)
として、意識すること。仮面を脱ぎ忘れてはいけない。
●自立したよき家庭人
アメリカでもオーストラリアでも、そしてドイツでもフランスでも、親や教師たちはみな、こう言う。
「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」と。が、一方、この日本では、
いまだに、出世主義、名誉主義、さらには権威主義が、大手を振って、まかり通っている。封建
時代の亡霊たちが、いまだに、のさばっている。そしてそれが教育について言えば、諸悪の根
源になっている。
●「偉い」という言葉を、廃語にしよう
日本では、地位や肩書のある人を、「偉い人」という。一方、英語には、「偉い人」にあたる言葉
すらない。あえて言うなら、「respected man」ということになる。「尊敬される人」という意味であ
る。地位や肩書は、関係ない。だから子どもには、「偉い人になれ」ではなく、「尊敬される人に
なれ」と言う。それが子どもの心をまっすぐ伸ばす。
●「家族」という重圧
家族は、それ自体、美徳であり、個々の人の心をいやす、心のより所である。が、その家族
も、ひとたびリズムが狂うと、今度は、重圧感となって、その人を苦しめることもある。事実、そ
の重圧感(=家族自我群)の中で、もがき苦しんでいる人も多い。反対に、自分の子どもを、安
易な親意識で、縛りつける親も少なくない。「産んでやった」「育ててやった」と。こうした言葉
は、親子の間では、使うとしても、心して最小限にする。
●恩の押し売り
日本の親たちは、無意識のうちにも、子どもに対して、恩の押し売りをする。「産んでやった」
「育ててやった」と。その代表的なものが、窪田聡という人が作詞した、『かあさんの歌』。「♪せ
っせと手袋編んでやった」「♪おとうは土間で、藁打ち仕事」と。あれほどまでに恩着せがましい
歌はない。言うとしたら、「♪春になれば、温泉へ行ってくるよ」「♪家のことは心配しなくていい
からね」だ。
●悪玉親意識
親意識にも、2種類ある。善玉親意識(=私は親としての責任を果たすという親意識)と、悪玉
親意識(=親風を吹かし、自分の子どもを自分の支配下に置こうとする親意識)。悪玉親意識
が強い親は、「産んでいやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、そのつど、親の恩
を子どもに押しつける。そしてあげくの果てには、「大学まで出してやったのに、何だ、その態
度は!」と言うようになる。悪玉親意識に、注意!
●親の統合性
子どもは、自分のしたいこと(=自己概念)を、現実にすること(=現実自己)によって、自分を
確立することができる。これを「自己の同一性」という。一方、親は、それでは満足できない。親
は、自分がすべきことを、現実にすることによって、自分を確立する。これを「自己の統合性」と
いう。その(すべきこと)には、多くのばあい、苦労や苦痛がともなう。親は子育てをしながらも、
自己の統合性をめざす。
●人生の正午
満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つまり
「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこと)ではない。
(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、みじめなものになる。孫
の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべき(老後の生活)ではない。
●「だから、それがどうしたの?」
(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、自分にこ
う問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?、と。ある
いは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。(したいこと)をして
も、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その答が返ってくる。
●子育ては、子離れ
心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子どもの
親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも子離れできなく
なってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生活をしている自分の
息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私のことは心配しなくていい」
「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、けっして美化してはいけない。
●「釣りバカ日誌」論
浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。日本
人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い(=パー
ティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそいそと旅行に行こうも
のなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識は、けっして世界の常識
ではない。
Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司
2011年9月17日土曜日
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