●似顔絵
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幼稚園児が、私の似顔絵を書いてくれた。
それを加工して、似顔絵から声が出るようにしたい。
そのセリフを、考える。
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Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司
●羞恥心(しゅうちしん)(生の文化論)
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週に1度は、近くの温泉へ行って、気分転換を図る。
夜遅く行くことが多い。
そこでのこと。
こんなことに気がついた。
最近の若い男たちは、タオルで前を隠さない。
平気というか、あれをブラブラさせて、浴場内を
歩いている。
そのことをワイフに話すと、ワイフも、同じような
ことを言った。
女湯の一部に、大理石を敷き詰めたようなところがあるらしい。
「先日もね、若い女の子が3人、大の字になって、
寝ころんで、話をしていたわ。
もちろんどこも隠さないで……」と。
私たちが子どものころには、どこの街角にも
銭湯というものがあった。
それなりにマナーが確立していた。
しかし今は、そのマナーも消えた。
私「前を隠す女の子はいないのか?」
ワ「そんな女の子はいないわよ」
私「平気なのか?」
ワ「平気みたい」と。
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●文化
学生時代……といっても、40年も前のことだが、オーストラリアでは、
みな、素っ裸で泳いでいた。
男も、女も、ない。
(もちろん公設の海水浴場では、みな、水着をつけていたが……。)
あるいはメルボルン市内のスーパーマーケットが、「裸の客は、50%引き」
という広告を出したこともある。
(数字は、記憶によるものなので、不正確。)
経営者は裸になる客はだれもいない……あるいは少ないと思っていた(?)。
客寄せの宣伝のつもりだった(?)。
しかし店を開いてみると、裸の客が、どっと押し寄せた。
みな、素っ裸。
素っ裸で、買い物をし始めた。
女性の客のほうが多かったという話も聞いている。
また当時、大学の構内でも、ブラジャーをつけている女子学生は、ほとんど
いなかった。
中には、下の下着すら身につけていない女子学生もいた。
そういう女子学生が、男子学生の前で、平気であぐらを組んで座る。
さらにこんなこともあった。
私がある女子学生の部屋でお茶を飲んでいたら、その女子学生が
私の目の前で、衣服を着替え始めた。
私のガールフレンドでも、何でもなかった。
その女子学生が、上半身、裸で、である。
あるいは大学では、ストリーキングというのが、流行(はや)った。
紙袋で顔だけを隠し、素っ裸で、大学構内を走り回るという遊びだった。
それを見かけると、学生たちはみな、歓声をあげて喜んだ。
そのとき私が受けたショックがどんなものか……。
今の若い人には理解できないかもしれない。
「裸」に対する考え方が、日本人の私とは、まったくちがっていた。
が、40年前に青春時代を送った人なら、私が受けたショックを理解できる
はず。
●生の文化
羞恥心のある者からは、羞恥心のない者が、理解できない。
羞恥心のない者からは、羞恥心のある者も、これまた理解できない。
たとえばイスラム教国の中には、女性のばあい、顔すら隠しているところがある。
日本人の私たちにすれば、奇異な風習に見えるが、彼らは、けっして
そうは思っていない。
そういう国の人が、この日本へやってきたら、どうなるか。
それはちょうど、40年前の私と、逆の立場ということになる。
つまり羞恥心というのは、その国の文化と深く結びついている。
そしてそれがその国の人たちの常識になっている。
となると、「文化とは何か」ということになるが、言うなれば、「約束の
集合体」ということになる。
それが如実に表れるのが、裸文化。
言うなれば、「生の文化」。
「生」は、「ナマ」と読んでもよいし、「セイ」と読んでもよい。
「衣服」などというものは、それが着物であれ、ドレスであれ、
裸文化を包む、包装紙のようなもの。
「裸」をどう考えるか。
少し大げさな感じがしないでもないが、それが文化の基本と考えてよい。
その文化の基本が、このところ、大きく変化し始めている。
そのひとつとして、日本人から、羞恥心が、急速に消え始めている。
肉体の羞恥心だけではない。
心の羞恥心も、それに含まれる。
みなが、自分の心を赤裸々に語り始めている。
おもしろい現象である。
ちなみに私は、この年齢になっても、そういった場所では、きちんと
タオルであそこを隠して歩いている。
Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司
2010年3月13日土曜日
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