2010年3月22日月曜日

*Magazine (March 22nd)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 22日
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(珍問答)

●チx毛

+++++++++++++++++++++

小5、6の子どもたちが騒いでいる。
そういうときは、こう言う。
「チx毛の生えてきた人は、しゃべっていい」と。
すると、たいてい水を打ったように静かになる。

が、しばらく沈黙を保ったあと、S君がこう聞いた。
「じゃあ、先生はどうなんだ?」と。

そこで私が、「ぼくのは、もう白髪(しらが)だ」と言うと、
みなが、ドッと笑った。
あとは、収拾がつかないほど、みなが笑った。
私も笑った。

念のため申し添えると、どういうわけか、あのチx毛だけは、
白髪にならない。
あるいは頭より、ずっと後れて、白髪になる?
どうしてだろう?

ある教室での一こまでした!


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

【集団性と個人性】

●ライブ

+++++++++++++++++

某国、某所でのライブ会場。
よくあるライブ。
が、ひとつだけ、ほかのライブ会場とはちがった。
異様な雰囲気。
それもそのはず。
よく見ると、ファンたちが、みな、何かをかぶっている。
色は様々だが、白が多い。
パンティである。
女性用のパンティである。
そのパンティを頭からかぶり、両目を、足の部分から出している。
中央部は上から下へと、鼻から口を覆っている。
写真で見る限り、女性が多い。
中には、男性らしき人もいるが、ほとんどが、女性。
若い女性。
そういう女性が、みな、パンティを頭からかぶっている!

++++++++++++++++++

●後追い自殺

 以前、後追い自殺について書いた。
ある有名なロックバンドのメンバーが自殺した。
それにつづいて、何人かの若いファンが、後追い自殺をした。
実際には、親族たちによって闇から闇へと葬られるケースもあるから、もっと数が多いは
ず。

 それについて、7、8年ほど前、批判記事を書いた。
それについて、数は数件程度だったが、はげしい文句を並べた抗議のメールが届いた。
内容は忘れたが、はげしい文句だった。
私はそれを読んで、「この世界も、カルト化している」と感じた。

●麻薬性

 音楽は、読んで字の通り、「音を楽しむ」ことをいう。
私も、毎日、いろいろな音楽を聴いている。
しかしそこには、限度(?)がある。
あくまでも「楽しむため」。

 脳の中には、そういう受容体があるらしい。
聴覚を通して音楽を聴いていると、脳内はやがてモルヒネ様のホルモンで満たされる。
それが甘い陶酔感を引き起こす。
その陶酔感があるから、人は、音楽を聴く。

 そのため音楽にも、習慣性、つまり麻薬性がある。
メカニズムは、ニコチン中毒、あるいはアルコール中毒と同じに考えてよい。
中には、1日中、音楽を聴いていないと、落ち着かないという人もいる。

●パンティ

 が、音楽を聴くというだけなら、だれにも迷惑をかけない。
だれしも、それを、その人の趣味と理解するだろう。
仮にあなたの子どもが、1日中、耳にヘッドフォンをあてていたところで、あなたはそれ
を、とがめることはない。

 しかし危険性がないわけではない。
それが冒頭にあげた例である。
(そのときのライブの写真で載せておく。)
若い女性たちが、みな、頭からパンティをかぶっている!
よく見ると、似たようなパンティが多いので、会場で配られたものかもしれない。
あるいはあらかじめ、そういうパンティをもってくるように指示されたのかもしれない。
しかしふつうの常識のある人なら、こんな奇天烈(きてれつ)な格好はしない。

 仮にあなたの子どもが、頭から女性用のパンティをかぶって歩いたら、あなたはそれを
どう思うだろうか。
「若者のバカ騒ぎ」と、簡単にかたづけることができるだろうか。

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●集団洗脳

 それ以上の情報はわからない。
私は、1枚の写真しか見ていない。
が、その写真には、こんなコメントが添えられていた。
「ファンの娘が、一斉に(パンティを)装着。ステージから見る変態度たるや、ハンパじ
ゃない。(これでは)男は誰しもミュージシャンに一度は、憧れるわけだ」(「B誌」)と。

 私はその写真を見たとき、即座に、カルト教団による集団洗脳会場を思い浮かべた。
どこのカルト教団とは言わない。
この日本には、届けられた宗教法人だけで、20数万団体もある。
その中には、似たような方法で、信者を獲得したり、洗脳したり、再教育しているところ
がある。

 一斉に読経したり、あるいは指導者の名前を連呼する、など。

 中には「宗教と音楽はちがう」と考える人もいるかもしれない。
しかし中身は、同じ。
どこがどうちがうというのか?

●魔力

 集団への帰属性と、個人的な思考性は、常に対立関係にある。
その人の集団への帰属性が強くなればなるほど、その人のもつ個人的な思考性は、犠牲に
なる。
カルト教団では、個人的な思考性は、徹底的に排除される。
へたに個人的な主張をしようものなら、即座にその教団からはじき飛ばされるか、「あなた
の信仰心は不十分」とか言われて、のけものにされる。

 が、ここで誤解してはいけないことがある。
カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団がある。

 それぞれの人は、何らかの悩みや苦しみをもち、それから救われたいために、カルト教
団に身を寄せる。
つまりはじめから個人的な思考性を捨てている。
だからそのまま洗脳されてしまう。
洗脳されていると気づかず、洗脳されてしまう。

 そこは実に心地よい世界でもある。
信者どうしが、親子以上の親子、兄弟以上の兄弟になることもある。
甘くて、心もとろけるような世界。
だから人は、そのままその世界に陶酔するようになる。

 カルトにかぎらず、集団への帰属には、そういう魅力というか、魔力がある。

●トンデモ本

 が、それはカルト教団の話。
私が見たのは、どこかのライブ会場での写真。
若い人たちといっても、それなりの教育を受けている人たちである。
またそれほど苦しみや悲しみがあるとも、思われない。
そういう若い人たちが、頭からパンティをかぶっている。
パンティをかぶって、ライブに夢中になっている!

 私はこの「集団性」こそが、問題と言っている。
またそのような本も書いたことがある。
『ポケモン・カルト』(三一書房)というのが、その本である。

 私はポケモンを攻撃したのではない。
あくまでもポケモン現象を通して見た「集団性」、さらには「カルト性」を問題にした。
が、その本は、その世界の人たちから、「トンデモ本」として、攻撃されつづけている。
(どこかの検索エンジンを使って、検索してみてほしい。
ついでにどういう人たちが、攻撃しているかも知ってほしい。)

 「人間は、ここまでバカになれる」。
言い方を変えると、「人間を指導すれば、ここまでバカにすることができる」。
その恐ろしさは、この1枚の写真を見ただけでもわかる。

 繰り返すが、「ライブだからいい。カルトは悪い」という論法は、通用しない。
(ライブ)と(カルト)。
その差は、紙一重もない。
こうした(集団性)が、いつなんどき、(カルト)に向かわないとは、だれにも言えない。

●個人的な思考性

 集団の中で、いかに個人的な思考性を守るか。
あるいはそれを育てていくか。
これは民主主義教育の根幹でもある。
戦前のあの、全体主義教育を例にあげるまでもない。

 が、実のところ、私は、日本人の集団性が、ここまで進んでいるとは思っていなかった。
集団性というより、「愚民化」と書くべきかもしれない。
最近読んだ雑誌の中には、それを特集しているのもあった。
若い人たちには辛辣(しんらつ)な意見に聞こえるかもしれない。
が、私もそう思う。
「日本の若者たちは、たしかにバカになりつつある」。

 その原因の第一が、自分の頭を使って、自分で考えないこと。
考えることそのものを放棄してしまっている若者も多い。
が、それがいかに危険なものであるかは、やはり戦前、もしくは戦時中の日本を見ればわ
かるはず。

 たった1枚の写真だが、その写真を見て、いろいろと考えさせられた。
あるいは、あなたなら、この写真を見て、どう思うだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 集団性 個人的な思考性 思考能力 カルト)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●中日春秋(2010-2-24)「直葬についての誤解」

+++++++++++++++++

今朝の中日新聞、『中日春秋』に、こんなコラムが載っていた。
いわく「……葬儀業界には、『直葬』という言葉があるのだそうだ。
病院から火葬場へと直行、翌日葬儀なしで、荼毘(だび)に付す。
それが格安の『直葬プラン』らしい。
とにかく『省く』は、当節のキーワードだ。
第一は不況による節約ムードのせいだろうが、少し前、ある業界の卸売会社
の経営者から聞いた話には、やりきれない思いがした……」(以上、原文のまま)と。

つまり、節約ムードの中で、省く目的で、「直葬」がふえている、と。

以下、「省く」ということで、中間卸売会社が省かれる例、インターネットで、
小売店が省かれる例がつづく。

そしてしめくくりは、「……効率化の名の下、今後も一層、旧来の手順や仕組みを
「省く」方へと社会を押しやるに違いない。
そしてその都度、省くべきでない何かも一緒に省かれていくだろう」と。

+++++++++++++++++

●すでに30%以上が直葬

 要するに、「直葬というのは、省くことから生まれた」。
その理由は、「不況による節約ムードだ」と。
しかしこのコラムを書いた人は、このコラムを書くまで、「直葬」という言葉すら知らなか
ったらしい。
「言葉があるのだそうだ」、つまり「……そうだ」と、書いている。
たぶん、若い人か、今まで葬儀を経験したことのない人なのだろう。
が、現実は、ちがう。
「不況」、「節約」、「省く」に関係なく、すでに首都圏では、30%以上もの人たちが、そ
の直葬により、葬儀を行っている。

 もちろんその中には、ほかの宗教を信じている人も含まれる。
無神論の人も含まれている。
さらに主義主張をもち、自己の哲学に従って、直葬を行っている人もいる。
今ごろ「……そうだ」というのは、おかしい。

●思慮

 思慮の深さは、その人の書いた文章を読んでみればわかる。
とくに、こうしたデリケートなテーマについて書いた文章を読んでみればわかる。
……というより、人の死に関する文章を書くときは、この私でも細心の注意を払う。
このコラムを書いた人は、しかし、直葬というより、それを行う遺族たちの心を、「節約」
と決めつけた上、「不況によるもの」と、大上段に切り捨てている。
無神経というか、傲慢というか……?
あまりにも思慮がない。
ないというより、浅い。
浅すぎる!
私たちの世界の用語を使えば、「切り口が甘い」。

 批判はさておき、直葬について、改めて考えてなおしてみたい。

●節約が理由ではない

 その第一。
私は、(私のワイフも)、直葬を望んでいる。
理由はいくつかあるが、何といっても、現在の葬儀の仕方には、おおきな疑問を覚える。
私たちの主義、主張に反する。
「不況」、「節約」、「省く」が、理由ではない。
またそれを押しつけられても、困る。

 あえて言うなら、3人の息子たちに、迷惑をかけたくないという思いがある。
さらに言えば、僧侶による読経を拒否したからといって、どうしてそれが「省く」ことに
なるのか。
その前に、僧侶による読経に、どれほどの意味があるというのか。
和式仏教、さらには北伝仏教に対する疑問が、それにつづく。

●金銭的な負担

 その第二。
現実問題として、たいていの人は、それまでの介護で、クタクタになっている。
「親の介護が2年つづけば、兄弟関係は壊れる」とも言われる。
遺産相続問題がからめば、なおさら。
みながみな、裕福なわけではない。
介護により、親の財産どころか、自分の財産まで食いつぶしてしまっている人も多い。

 私も一昨年、実兄と実母を相次いで亡くした。
それまでの30年以上、生活費、税金をすべて負担してきた。
その上で、葬儀となった。

 実兄のときは、葬儀費用だけで、200万円を超えた。
加えて僧侶への供養、戒名料などなど。
計250万円以上。
一方、親族などからの香典による収入は、60万円弱。

 2か月後に今度は、母が他界した。
私は質素に葬儀を行うことを決めた。
が、それでも、……つまりいくら節約(?)しても、僧侶を呼ぶような葬儀となると、1
00万円をくだることはない。
僧侶のほうから、「お宅は、みな、院号がついていますから」と、戒名に、院号をつけるこ
とを求めてきた。
戒名によって、値段が異なることは、すでにみなさん、ご存知の通り。

が、それで終わるわけではない。
それにつづく、七七回忌、一周忌などなど。
今年は三回忌。
私のばあい、仏壇を新調し、「精(しょう)抜き」「精入れ」の法事もしなければならなか
った。

●中身は様々

 その第三。
親子関係、親族関係といっても、中身は様々。
「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』ほど、いいかげんなものはない。
『ダカラ論』は、論理ではない。
その『ダカラ論』で苦しんでいる人となると、ゴマンといる。
私自身が、そうだった。

 無神経な親族は、表面的な部分だけを見て、また一方的な意見だけを聞いて、容赦なく
私に『ダカラ論』をぶつけてきた。
「浩司君、君は男だろが」とか、「何と言っても、親は親だからな」とか、など。
「本家だからな」と言った人もいた。
そうした『ダカラ論』から受ける苦痛には、相当なものがある。
そのつど、自分のもっている主義主張をねじまげなければならない。
世俗に妥協しなければならない。
 
 もちろん良好な親子関係、親族関係がベースにあれば、問題はない。
またそういう人たちから見れば、直葬というのは、「とんでもない葬儀の仕方」ということ
になる。
またそういう人たちの感覚からすれば、「不況」、「節約」、「省く」という言葉も出てくる。
先の中日春秋のコラムを書いた人は、たぶん、きわめて恵まれた家庭環境の中で、生まれ
育った人なのだろう。
が、見方を変えれば、ノー天気。

●直葬

 私の恩師のT先生も、直葬を望んでいる。
会うたびに、私にそう言う。
東京大学の副総長(総長特別補佐)も経験している。
「天皇陛下のテニス友だちなのだから、先生は、そういうわけにはいきませんよ」と、私
は言う。
しかしT先生は、すでにそう決めている。
意志は固い。

 T先生がそうであるからというわけではない。
それ以前から、私は戒名なし、葬儀なしの直葬を望んでいる。
私は、葬儀そのものの意義を認めていない。
それが納得できなければ、あなたも、一応仏教徒なのだから、釈迦からはじまって、現在
に至る仏教なるものを、一度は、紐解いて調べてみたらよい。

 ためしに『地蔵十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)』あたりから調べてみたらどうだろう
か。
和式仏教が、いかにインチキにインチキを重ねてできあがったものかが、それでわかるは
ず。
戒名の由来について、調べてみるのもよい。
が、何よりも重要なことは、釈迦の原点に立ち返って、仏教をもう一度、見直してみるこ
と。

 私は、その結果、直葬でよい……というより、直葬を強く望むようになった。

●人の死

 「誕生」が静かなものであるように、「死」もまた静かなもの。
仰々しく、儀式を行う方が、おかしい。
たとえば親類や友の死にしても、「ああ、あの人は、もう亡くなった」で、よいではないか。
私の死にしても、私は、だれにも知らせなくてもよいと、家族に伝えてある。
いつかだれかが、「あの林(=私)は、~~年前に死んだそうだ」と言ったところで、一向
にかまわない。
そのほうが自然。

 もしその人を弔う方法があるとするなら、その人の(心)に触れること。
私のばあいなら、いつか、どこかでだれかが私の書いた文章を読んでくれれば、それでよ
い。

 さらに言えば、葬儀というと、死者を弔うための儀式と考える人は多い。
しかし現実には、葬儀は、その人の人生に終止符を打つことによって、その人の人生に、
その時点で、区切りをつけてしまう。
「ああ、あの人の人生は終わった」と。
しかしむしろそちらのほうが、その人に対する冒涜ではないのか。

 少なくとも、私は「死」という死によっては、死なない。
肉体が滅んだからといって、死んだことにはならない。
反対に、ただ息(いき)ているだけなら、生きていることにはならない。
「死」のとらえ方そのものが、ちがう。
だからこそ、今、こうして自分をさらけ出して、文章を書いている。

●中日春秋

 中日春秋の論説が、年々、浅くなっていると感ずるのは、私だけだろうか。
この「直葬」に関するコラムにしても、そこにあるのは、「直葬は悪である」という、きわ
めて通俗的なものの見方でしかない。

中には、本当に貧しくて、したくても、それができない人もいる。
「独居老人」と呼ばれている人もいる。
そういう人たちを一緒くたにして、「省く」という言葉を使って、書き殴ってよいものか。

 一読して、「おかしい?」と感じたので、こうして文章にして書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 中日春秋 直葬 葬儀の仕方 葬儀論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【パソコンと人生論】

++++++++++++++++++++++++++

新しいパソコンを買った。
が、いくら性能がよくても、だからといって
それでよい文章が書けるようになるというわけではない。
大切なのは、使い方。
どう使うか?
磨いて飾っておくだけなら、無用の長物。

人生も、どこか、それに似ている。
ただ生きていれば、それでよいというのではない。
大切なのは、生き方。
生き方で、その人の人生の価値が決まる。

++++++++++++++++++++++++++

●新型パソコン

 先日、ある母親から、その母親の息子のために、パソコンを選んでくれと頼まれた。 
こういう依頼は、うれしい。
楽しい。
が、その生徒のパソコンを選んでいるうちに、私も同じものがほしくなった。
これは私のビョーキ。
カタログをながめているだけで、物欲がググーッとわいてくる。

そこで買ったのが、TOSHIBAのMX33(白)。
店では、7万9800円(=ほぼ8万円)。
ネットで買うと、4万6000円(税込み、手数料こみ)。
ただし09年の秋・冬モデル。
ちがいは、ハードディスクの容量だけ。
もちろんネットで買った。

 TOSHIBAは、TX(16インチ、ノート)を買って以来、ファンになった。
デスクトップ以外は、みな、TOSHIBAと決めている。
性能が、安定している。
作りもよい。
そのパソコンを使って、今、この文章を叩いている。
言うなれば、処女作。

 キーの形状が、四角で、指をすべらせたようなとき、指がひかかるような感じがする。
エンターキーが、小さく、打ちにくい。
本で言えば、余白があるわけだから、どうしてその分だけ、エンターキーを大きくしなか
ったのか。
やや不満は残るが、価格が価格だから、文句は言えない。

 書き忘れたが、バッテリーだけで、9時間半ももつという。
(9時間半!)
すごい!

●ネットショップ

 私もこのところ、数万円を超えるような買い物は、すべてネットですませている。
便利で、早い。
代引きで買うから、安全。
少し前までは、多少の不安もあったが、今では、ショップの評価までネットでわかる。
「客の満足度、80%」とか、など。
そういうふうに評価される。
それを見て、ショップを選ぶ。

 ……ということで、今、ものの売買の仕方が、大きく変わりつつある。
それがどうこうということを考えても、意味はない。
この流れは、もうだれにも、止められない。
これから先、この仕方が、当たり前というより、主流になる。
そのうち、自動車も、ネットで買えるようになるかもしれない。

●小売店

 半面、小売店が苦境に立たされている。
製造メーカーが、直接、個人客にモノを売る時代になった。
小売店だけではない。
大規模店ですら、売り上げ高が減少している。
いわんや、小売店をや、……ということになる。

 が、すべてをネットの責任になすりつけるわけには、いかない。
実のところ、小売店の窮状は、15年以上も前から始まっている。
そのころから郊外に大型店ができ、客を奪われるようになった。
町によっては、市内の商店街がゴーストタウン化したところもある。
私がよく知っているのは、岐阜県関市のH町通り。

私が子どものころは、ゾロゾロと人ごみで埋まっていた。
が、今は、見る影もない。
ほとんどの店が、シャッターをおろしたまま。
もっともそのH町にしても、もとはと言えば、郊外の大型店ができたのが理由ではない。
車社会の発展とともに、「道」が、車に占領されてしまった。
車がビュンビュンと道路を走るようになった。
同時に、駐車場問題が起きた。
「駐車場がないから、買い物ができない」となった。

●時代の流れ

 こうして過去へ、過去へとさかのぼっていくと、そのときどきに、(時代の流れ)がある
のがわかる。
そのつど、ささやかな抵抗運動のようなことは起こるが、長つづきしない。
街中に駐車場をふやしてみたり、あるいは郊外の大型店の進出に反対してみたりする。
今は、ネット。

 では、どうすればよいのか。
方法はないわけではない。

(1)高度に専門化する。
(2)人員による直接サービスを充実する。
(3)特殊技術を売り物にする、など。

 たとえば理髪店のように、客が直接、店に来なければできない仕事もある。
あるいは自転車店のように、そのつど修理で稼げる仕事もある。
こうした分野で、小売店は、生き残りを図るしかない。
残念ながら、その努力を怠った小売店は、ジワジワと、衰退の一途をたどる。

●復古主義

 「昔はよかった」と言うときは、注意しなければならない。
安易な復古主義は、さらに未来に向かう(時代の流れ)をも、敵に回すことになる。
しかしこと、「心」ということになると、昔のほうが牧歌的な温もりがあった。
私の父親などは、客が来ても、別の客と平気で将棋を指して遊んでいた。
時間が、今より、はるかにゆるやかに流れていた。

 が、さらにその昔となると、どうだったのか。
大正時代とか、明治時代とかである。
おそらく時間は、もっとゆるやかに流れていたにちがいない。
ということは、今のこの時間にしても、50年後、100年後になってみると、それなり
にゆるやかに流れているのかもしれない。

 で、そこで登場するのが、私の持論。
『……だから、それがどうしたの?』論。

●『だから、それがどうしたの?』

 私は近くの店での価格の半額程度で、新しいパソコンを手に入れた。
このことは冒頭で書いた。
で、この1~2年で買ったパソコンを並べてみる。

HPの1233(故障して、放棄)、
MSのWINDBOOK(生徒にあげた)、
AcerのASPIRE・ONE、
TOSHIBAのTX、
それにUXと、今回買ったMX。
その間に、MCJの最先端デスクトップ。
もう1台、NECのLavie(故障して、放棄)。
計8台ということになる。

つまり新しく買う必要など、どこにもない。……なかった。
現に昨日まで、モバイルには、TOSHIBAのUXを使っていた。
今、使っているMXと、性能はほとんど同じ。

 簡単に言えば、買わなくてもよいものを、買った。
もっと言えば、「だからそれがどうしたの?」という答がないまま、買った。
つまり世の中が高速で回転すればするようになるほど、ものの売買も高速で回転する。
たとえばこのパソコンにしても、だからといって、よい文章が書けるようになるわけでは
ない。
パソコンの性能がよくなったからといって、また7台もっているからといって、よい文章
が書けるようになるわけではない。

●使い方
 
 「進歩とは何か?」
たとえば情報。

ネット時代になって、情報量が、それまでの量とは比較にならないほど、ふえた。
以前だと、中央の図書館へ行かなければ手に入らなかったような情報が、瞬時、瞬時に手
に入るようになった。
それだけではない。
以前だと、一部の特殊な人たち(=官僚)でないと手に入らなかったような情報ですら、
手に入るようになった。
まだ、ある。
ネット時代になって、(中央)と(地方)を分け隔てていた、壁が取れた。
私の中からも、地方コンプレックスが、急速に消え始めている。
「東京だけが文化の中心」という考え方も、このところ改まりつつある。

 が、ここで立ち止まる。
「だから、それがどうしたの?」と。
つまりそこにある(現実)を、いくら変えても、意味はない。
大切なのは、その現実から、どう自分を組みたてていくかということ。
パソコンを例にあげるまでもない。
いくらよいパソコンをもっていたとしても、使い方がわからないようであれば、意味はな
い。

 情報にしても、そうだ。
へたをすれば、情報の洪水の中で、溺れてしまう。

●人生論

 こうして考えていくと、この問題は、人生論に直結しているのがわかる。
健康だ……だから、それがどうしたの?
生きている……だから、それがどうしたの?、と。
その反対でもよい。

 病気だ……だから、それがどうしたの?
死んでしまった……だから、それがどうしたの?、と。

 今、ここに「私」が生きているなら、大切なことは、どう生きるかということ。
その視点を踏みはずすと、生きる意味そのものを見失ってしまう。

 ……ということで、今は、指慣らし。
キーを時折、指先でこすりながら、指をキーになじませる。
あるいはキーを指になじませる。
キーが体の一部になったとき、思ったことや考えたことが、そのままモニター上に、文章
となって、現れる。

 そう言えば、つまり今、こうして書いた文章を読みなおしてみたが、どこかぎこちない。
バラバラでまとまっていない(?)。
新しいパソコンを使い始めたときは、いつもそうだ。
今、しばらく、こうして使いこなしてみるしかない。
そのうち、もう少しまとまりのある文章が書けるようになるだろう。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【雑感】

●引佐町

 この引佐町に住むようになって、もう15年。
その前、6年かけて、土地の造成をした。
毎週、ここへやってきて、ユンボを動かした。
石垣を組んだ。
砂利を運んだ。
地目を変更するために、一度、植林もした。
たいへんだったのは、水道工事と下水道工事。
これらの工事は、私とワイフの2人でした。
ほかにもある。

私には、農業資格がなかった。
そのため直接、農地の売買をすることができなかった。
言い忘れたが、このあたりでは、南側の土地は、ほとんどが農地になっている。

農地を宅地にするためには、一度(山林)に転用し、法務局の検査を経て、宅地に転用
しなければならない。
家が建てられるようになるのは、そのあと。
だからこの町とのつきあいは、15+6=21年ということになる。
人生の3分の1を、ここ引佐町で過ごしたことになる。

●3分の1

 3分の1と知って、同時に私はラッキーだったと思う。
カナダやオーストラリアで住むようなわけにはいかないが、しかし自然に包まれて過ごす
ことができた。
「上を見れば、キリなし」。
私にしてみれば、ほどほどの人生だった。
だから「ラッキーだった」と。

 で、再び、「引佐町」の話。
「いなさ・ちょう」と読む。
この引佐町は、「引佐原人」が住んでいた部落として知られている。
何でも日本最古に原人だそうだ。
わかるかな?
引佐原人だぞ!

 しかし不思議なことに、この引佐町の人たちは、引佐原人のことをあまり話題にしたが
らない。
「村興(おこ)し」に使えば、もっと観光などにも、利用できるはず。
どうしてだろう?

●四季

 この引佐町に住むようになって……といっても、週に、1、2度来る程度だが、自然の
変化に敏感になった。
森に囲まれて住むと、四季が、極彩色のカラー映画のように移り変わっていく。
春は、極端に春らしくなる。
夏は、極端に夏らしくなる。
それに比べると、浜松市内での生活は、セピアとまではいかないにしても、いつも灰色の
モヤに包まれている。
季節の変わり目が、はっきりしないまま、冬が終わり、春になっていく。

 私が好きなのは、5月ごろの初夏と、10月ごろの晩夏。
5月ごろには、野生のジャスミンが咲き誇り、空をホトトギスが舞う。
野いちご、ビワの収穫とつづく。
しばらくすると、今度は、ヒグラシが鳴き始める。

 10月もすばらしい。
夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から、湿った冷気が吹きあげてくる。
そういうとき私は、虫の大合唱を聴きながら、あたりが真っ暗になるまで、ベンチに座っ
て、時が過ぎていくのを待つ。

 で、そのつど、私はこう思う。
「生きていて、よかった」と。
大げさに聞こえるかもしれないが、そう思う。
心底、そう思う。

 引佐町という町は、私にとって、そういう町である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 引佐町 山荘ライフ 引佐)


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