2010年3月28日日曜日

*Moral Education

●もしあのとき……(子どもの道徳教育について)

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子どもに道徳を教えることはできるのか。
現在、教育の世界では、「子どもに論語を」という
声が高まりつつある。
しかしどうして今、論語なのか。
またそれでもって、そうして道徳教育なのか。

論語についてはたびたび書いてきたので、
ここでは「道徳とは何か」について、
その基本的な部分を書いてみたい。
ひとつの例として、たまたま今夜、ワイフと
あの阪神・淡路大震災が話題になったので、
そのあたりから、書き出してみる。
少し回りくどいエッセーになると思うが、
許してほしい。

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●阪神・淡路大震災

1995年1月17日、午前5時46分、
あの「阪神・淡路大地震」が起きた。
死者6400人あまり。
負傷者4万4000人弱の、大惨事となった。

一説によると、自衛隊がもっと早く出動
していれば、これほどの大惨事にはならなかった
とも言われている。
というより、実際には、法整備の不備もあり、
自衛隊は、出動できなかった。

(一部の、近くの自衛隊は、「近傍派遣」という
ことで、地震直後に、活動を開始している。
他の部隊は、知事の要請を待ちながら、待機
状態にあったという。
現在は、知事レベルだけではなく、市町村長または、
警察署長などからも要請が行えるようになっている。)

加えていくつかの連絡ミスが重なった。
当時の兵庫県知事のK氏は、「情報が正しく伝えられ
てこなかった」というようなことを、あとになって
述べている。

結局、自衛隊の派遣要請は、4時間後になされた。
それも偶然電話がつながった、兵庫県消防交通安全課
課長補佐(当時)の機転によるものだったという。
(以上参考、ウィキペディア百科事典)

●道徳論

 ここであの大地震について書くつもりはない。
しかしもし、あのとき、私が所轄地域の自衛隊司令官だったら、どうしただろうか。
私でなく、あなたでもよい。
当時は、知事の要請がなければ、自衛隊は、救援活動に出動できなかった(自衛隊法第83条1項)。

【想定】
(1)あなたは、自衛隊の司令官である。
(2)ある地域で大地震が起き、かなりの被害が出ているという内部報告を受けた。
(3)ただちに出動したいが、知事とは連絡が取れない。
(4)首相と連絡を取ろうとしたが、それも取れない。
(5)ジリジリと時間だけが過ぎていく。
(6)被害の模様は刻一刻と、テレビなどで報道されている。

 こういうとき、あなただったら、どうするだろうか。

●エスの人vs超自我の人(フロイト)

 ここでいくつかの意見に分かれる。
まず頭に浮かんだのが、フロイト。
フロイトの「パーソナリティ論」。

(1)法律は法律だから、いくら大惨事であっても、司令官は法を守るべき。
(2)国家的な大惨事だから、自衛隊は独自の判断で行動すべき。
ほかにもいろいろな意見が考えられる。

 以前、「エスの人vs超自我の人」というタイトルで、こんな原稿を書いたことがある。
人間の「パーソナリティ」を考える、ひとつの見方について書いてみた。
少し話が脱線するが、許してほしい。

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●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のところにやってきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつけるようにして、そこに残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカートを置いたら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスがあれば、浮気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。
理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。AならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞うということはできない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことができる人というのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベルに応じて、「自我の人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、どこまでいっても超自我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エスの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。完全に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。超自我の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの人は、いくらがんばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エスの強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいました」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っているという。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1) 横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2) 駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3) 電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4) ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5) サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)~(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

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話を戻す。
「県知事の派遣要請があるまで待つ」のがよいのか、それとも、
「県知事の派遣要請を無視して、出動する」のがよいのか。
あなたなら、どうするだろうか。

が、フロイトのパーソナリティ論だけでは、判断できない。
「派遣要請がないから待つ」というのは、どこかカタブツ的。
だからといって、超自我の人、つまり人格が高邁とは、言えない。

反対に「派遣要請がなくても出動する」からといって、その人がエスの人、つまり欲望に支配された人とは私は思わない。
この問題を考えるときは、もうひとつ別の尺度が必要ではないか。

そこでコールバーグ。

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●コールバーグの道徳論

 コールバーグもフロイトの影響を強く受けた人と考えてよい。
(心理学者で、影響を受けなかった人はいないが……。)
で、話を戻す。
こうした問題、つまり「人間としての選択」の問題を考えるときに、まっさきに思い浮かぶのが、コールバーグということになる。
彼の「道徳論」については、たびたび取り上げてきた。

 選択の仕方によって、コールバーグは、

(1)結果主義者(賞罰によって、判断する。)
(2)相対主義者(そのつど相手の立場で考える。)
(3)動機主義者(動機のよしあしで決める。)
(4)社会秩序派(社会秩序を重んじる。)
(5)超法律主義者(法よりも、正義を重んじる。)
(6)普遍的価値派(普遍的な価値を基準にしてものを考える。)
の6段階に分けた。
(参考:無藤隆著、「心理学とは何だろうか」)

 大震災を前にしたあなたの判断を、この6段階に当てはめてみる。

(1)結果主義者(あとで罰せられるから、出動しない。)
(2)相対主義者(直接的な自分への被害でないから、様子を見て判断する。)
(3)動機主義者(自衛隊は、国防のためのもの。災害救助は、消防庁がすべき。)
(4)社会秩序派(知事もしくは首相の判断に任せる。)
(5)超法律主義者(知事からの要請がなくても、出動する。)
(6)普遍的価値派(人を救うという観点から出動する。責任はすべて自分で取る。)

 かなり荒っぽく当てはめてみたから、細部では無理があるかもしれない。
しかしコールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、その2点で、その人の道徳的な完成度を計る目安にしている。
それによれば、少なくとも(1)よりは、(6)のように判断した人のほうが、道徳的な完成度が高いということになる。

●私なら……

 さてあなたの判断は、どうだっただろうか。
「ケースバイケースで考える」という人もいるかもしれない。
あるいは「あのときは、あれでしかたなかった」と考える人もいるかもしれない。
「連絡不通」という、いくつかの不運が重なった。

 で、私はこう考える。

 ……といっても、それをここに書いても意味はない。
(あなたは(あなた)。
(私)は(私)。

 ただ今でもときどきワイフと、この問題が会話のテーマになることがある。
今夜もそうだった。
「お前ならどうする?」「あなたならどうする?」と。

 私のばあいは、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきた。
そのため、法を守ることは重要と考えるが、必要であれば、法を破ることも、これまた許されると考える。
また破ったところで、ほとんど罪悪感はない。
それで責任を取らされて、司令官をクビになったところで、一向にかまわない。
地位や肩書きには、ほとんど興味がない。
ないから、一向にかまわない。
が、ここにも書いたように、これは私が、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきたことによる。
つまりこうした問題には、その人の生き様が集約される。

 たぶん自衛隊員として長年、そういう職業をしてきた人なら、私とはちがった考え方をするだろう。
またしたところで、その司令官を責めることはできない。
「知事からの出動要請がないから、待機する」と、がんばるかもしれない。

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どうもよくわからない。
今夜は、思考がうまくまとまらない。
道徳とは何か?
頭の中で同じテーマがクルクルと回ってしまう。

そこで「善と悪」。
それについて書いてみたいが、しかいこのテーマも、
それこそ腐るほど、書いてきた。

その中の1つを、再掲載してみる。

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善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

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フ~~ン、まだよくわからない。
道徳、つまりそれぞれの人がもつ倫理規範とは、
何なのか。
またそれは教育になじむものなのか。

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●道徳論

 こうして考えてみると、「道徳」というのも、つまるところその人の日々の生活の中で、作られていくものということがわかる。
つまり明らかに個性をもっている。
それぞれによって、基準も異なる。
(絶対的に正しい)とか、(絶対的にまちがっている)とか、そういうふうに決めつけて考えることはできない。
またそういうものではない。

 で、コールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるかによって、道徳の完成度をみるが、それとて相対的な見方にすぎない。
だから子どもに道徳を教えるとしても、「正解・不正解」という判断は、基本的な部分で、おかしいということになる。
それぞれがそれぞれの道徳観をもち、それぞれの考え方をする。

 もし(教える)ということになれば、より、公正な見方、より普遍的な見方を、子どもに示していくことでしかない。
教えて教えられるものではない。
いわんや(きれいごと)だけを並べる子どもを育てるためでもない。
もちろん「善」を教えたからといって、その子どもが善人になるわけではない。

●道徳教育

 これが私の結論ということではないが、こと教育ということになれば、私は道徳教育は不要ということになる。
道徳教育によって(教えられる部分)よりも、道徳教育によって(人間性が統制される部分)のほうが大きいばあいには、なおさらである。
たとえば戦前には、「修身」という科目があった。
明鏡国語辞典には、こうある。

「(1)身をおさめて正しい行いをするように努めること。
(2)旧学制下の小・中学校で、教育勅語をよりどころに道徳教育を授けた教科名。
◇昭和20(1945)年廃止。現在の「道徳」に当たる」と。

 そういう危険な側面もある。

 と、同時に、「道徳」というのは、先にも書いたように、「個性」がある。
一元的な道徳を押しつけることによって、その個性をつぶしてしまうことにもなりかねない。

 どうもうまく原稿をまとめられない。
このつづきは、また明日にでも考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 道徳 道徳教育 コールバーグ エスの人 超自我の人 道徳の完成論 道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 修身 教育勅語 倫理規範)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

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