2010年3月29日月曜日

*My Childhood Days

【幼年期】

●古い記憶

 いちばん古い記憶は何か。
私の、いちばん古い記憶は何か。
ときどきそれを考える。
しかしそのつど、ちがう。
どれが古いのか、
どちらが古いのか、
それがよくわからない。

 ひとつ覚えているのは、大きな鐘。
大きな鐘が、薄暗い広い部屋の中で、
ゆっくりと揺れている。
斜め向こう側から、こちら側へ……。
こちら側へ来た鐘は、今度は反対側に揺れていく。

 鐘といっても、クリスマスに使うような形の鐘。
西洋式の鐘である。
黒い鐘で、鐘全体が、何かにつり下げられて、揺れる。
音は出ない。

 私はそれを夢の中で見たのだと思う。
よく夢の中に出てきた。
私がかなり大きくなるまで、よく夢の中に出てきた。
だから私はその夢を、すでに赤ん坊のときに
見ていたにちがいない。

 私にとって、いちばん古い記憶といえば、
その鐘の記憶である。
ただここで「鐘」と書いたが、
丸い大きな鉄球のようなものだったかもしれない。
「鐘」と思うようになったのは、
ずっとあとになってからかもしれない。

●トイレ

 それが古い記憶だったということは、
あとになってわかること。
たとえば私は兄が、死んだ日のことを覚えている。
土間に、無数の下足が、並んでいた。
今でも静かに目を閉じると、その下足が
まぶたの中に浮かんでくる。

 そのことをいつだったか、母に話すと、
母は、こう言った。
「あれは、健ちゃん(=兄)が、なくなった日の
ことや。
おまえは、まだ2歳やった」と。

 つまり私は2歳のときのことを覚えていることになる。
遠い昔のことと言うよりは、記憶の断片に過ぎない。

 ほかにもいろいろと、断片的な記憶はある。
しかしどれが古いのか、どちらが古いのか、よくわからない。
が、おもしろいことに、そのころの記憶というのは、
何かストーリー性のあるものではない。

 居間の板間の模様とか、天井の木の節穴とか、
そういったもの。
たとえば私はそのころから、家のトイレを使うことが
できなかった。
「そのころ」というのは、自分で排便するように
なったころをいう。
年齢的には、やはり2歳前後ではなかったか。

 私の家のトイレは、家の中でもいちばん奥の、
暗いところにあった。
ボットン便所。
明かりはない。

 そのトイレの壁の黒いシミが、ある日、動いている
ように見えた。
それでそのトイレへ入れなくなった。

 私は大便のほうは、トイレの前に一度紙を敷いてもらい、
その上でしていた。

●家族

 こうして私の幼児期は、始まった。
言い忘れたが、私には生まれたとき、2人の兄と、
1人の姉がいた。
もう1人、兄がいたが、私が生まれる前に
生まれるとすぐ、死んでいる。

 いちばん上の兄は、先に書いたように、
私が2歳前後のときに、死んでいる。
だから私には、兄弟といえば、兄と姉という
ことになる。

 私は「末っ子」として生まれ、育った。
そういう点では、母親の愛情をたっぷりと受けて育った。
「愛」というよりは、「溺愛」だったかもしれない。
そのことは、ずっとあとになって、伯父や伯母から
聞いた。
「おまえは、お母さんに、かわいがってもらったぞ」と。

私は毎晩、小学2年生になるころまで、母親の
ふとんの中で、いっしょに寝た。
ときどき、祖父のふとんの中で寝たこともある。
ひとりで寝ることは、めったになかった。
母の在所(実家)へ遊びに行ったときも、
伯父や伯母と寝た。

 これは母の生まれ育った在所の習慣だったようだ。
いとこの中には、小学2、3年生まで、親と
いっしょに寝た人は多い。

 そういう習慣が残っているのか、私は60歳を過ぎた
今でも、ひとりで寝るのが苦手。
いつもワイフとひとつの布団の中で、寝ている。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、寝るまでには
仲直りする。
あるいはけんかをしていても、いっしょに、寝る。
たまに怒ってひとりで寝るときもあるが、2日つづいて
ひとりで寝ることはない。

 一方、兄や姉はどうだったかは、知らない。
兄とは9歳、年が離れている。
姉とは5歳、年が離れている。
たぶん、兄も、姉も、幼児のころは、母といっしょに
寝たにちがいない。

●父

 そのころの私にとって、父といえば、悲しい思い出
しかない。
父は生涯にわたって、一度も、私を抱いたことがない。
手をつないだこともない。
会話らしい会話も、したことがない。

 父は結核を患っていた。
そのため母は、私を父に近づけなかった。
……といっても、私が生まれたころには、
父の結核は、治っていた。
アメリカ軍がもってきた、ペニシリンという
強力な治療薬のおかげである。

 が、母は、そうは思っていなかった。
私が小学校に入学するころまで、母は毎回、
父の使った食器を、熱湯で消毒していた。
母には、そういう性癖があった。
潔癖症というか、不潔嫌悪症というか……。

 が、私と父を分けたのは、何よりも、父の
酒乱だった。
私が3、4歳になるころには、父は、数晩おきに
酒を飲み、暴れた。
ふつうの暴れ方ではない。

 障子戸をこわしたり、ふすまに穴を開けたりした。
食卓をひっくり返したこともある。
ふだんは学者肌の静かな父親だったが、酒が入ると
人が変わった。
私は恐ろしくて、父には近づけなかった。
静かなときでも、私にはそれが信じられなかった。
その向こうにある父の姿に、おびえた。

 そういう私だったが、祖父母と同居していたおかげで、
飢餓感はほとんどなかった。
今にして思えば、祖父が、私の父親がわりだった。
祖父は、私を、息子のようにかわいがってくれた。
ほしいものは、何でも買ってくれた。

●兄弟

 今でもときどき、仲のよい兄弟を見ると、こう思う。
「いいなあ」と。
しかし私のばあいは、ちがった。
年齢が離れていたせいもある。
私は兄といっしょに遊んだ記憶が、まったくない。
姉とも、ほとんど、ない。
町内でみなといっしょに、川へ泳ぎにいったようなとき、
近くでいっしょに泳いだ記憶はある。
あっても、その程度。

 しかし苦楽をともにしたとか、そういう思い出はない。
また当時は、男が女といっしょに遊ぶということは、
なかった。
遊び方も、ちがった。
だから私は、いつも近所の同年齢の子どもたちと遊んだ。
もちろん相手は、すべて男だけ。
女と遊ぶと、すかさず「女たらし」という
レッテルを張られた。
それは何よりも、不名誉なことだった。

 こうした傾向は、私が中学校を卒業するまで
つづいた。
そういうこともあって、私は家の中では、
いつも孤立していた。
話し相手もいなかった。

 母にしても、私を溺愛はしたが、親絶対教の
信者で、話し相手にはならなかった。
少しでも反抗めいたことを口にすると、すかさず
叱られた。
私の家では、親は絶対的な存在だった。

●故郷

 楽しかったのは、母の在所へ行くこと。
私は岐阜県の美濃市という田舎町で生まれ育った。
田舎といっても、町中にある商家だった。
全体でも33坪しかない。
その土地いっぱいの、2階建ての家だった。
もちろん庭などない。
家の奥に、天窓があり、そこからわずかに光が
差すところがあった。
その光が差すところが、土がむき出しの土間に
なっていた。
私は子どものころ、そこが「庭」と思っていた。

 が、母の在所は、ちがった。
岐阜県の山奥にあった。
板取村という小さな部落だった。
前に川が流れ、うしろに低いが、遊ぶのには
こと欠かない、山が連なっていた。

 私は母の在所では、思う存分、羽を伸ばす
ことができた。
みな、親切だった。
それにいとこたちの中でも、ほぼ最年少という
ことで、みなにかわいがられた。
そんなこともあって、私にとっての故郷といえば、
美濃市というあの町ではなく、
板取村という、あの村をいう。

 今の今でも、都会の街並みは、私の肌には
合わない。
田舎の緑が、好きというわけではないが、
緑の中にいたほうが、気が休まる。

【少年期】

●円通寺

 私は毎日、学校から帰ってくると、そのまま近くの
寺の境内へ遊びに行った。
仲間たちは、みな、そこにいた。
「円通寺」という、さんが住んでいる寺だった。

 缶蹴り、「駆逐・水雷・戦艦」、コマ回し、草履(ぞうり)取りなど。
「駆逐・水雷・戦艦」という遊びは、鬼ごっこのようなもの。
(駆逐艦は潜水艦より強く)、(潜水艦は戦艦より強く)、
(戦艦は駆逐艦より強い)という遊びである。
帽子のかぶり方で、それを決めた。
まだ戦時中の遊びが色濃く残っている時代で、
時には、「処刑ごっこ」というのもした。

 敵兵をつかまえてきたという想定で、鬼の子どもを
壁に立たせ、5~6メートル離れたところから、
ボールを当てるという遊びだった。
痛くはなかったが、恐ろしかった。

 その円通寺の向こうは、低い山になっていた。
私たちは山の中に「陣地」を作り、その中に入って
遊んだ。

●陣地

 陣地について、もう少し詳しく書いておきたい。

 私たちはその山をはさんで、隣町の子どもたちと、
毎日、戦争ごっこをした。
「ごっこ」というよりは、本気に近かった。
そのため、私たちは、山の中に、陣地を作った。
今風に言えば、「ゲリラ戦ごっこ」。

 まず地面に軽い穴を掘る。
まわりを木で覆い、その上から、枝や葉で小屋を隠す。
大きな陣地になると、ドアまでつくる。
中に、棚や、寝場所まで作る。

 けもの道のようになった「道」から、ぜったいに
見えないように作る。
もし敵に見つかったら、陣地は、容赦なく破壊された。
もちろん私たちも、敵の陣地を見つけたら、
容赦なく、破壊した。

 時には、敵の陣地の中に、人糞をばらまくこともあった。
だれかが大便をしたいというと、その子どもを
敵の陣地の中へ連れていき、そこで大便をさせた。

 ときどき破壊しているとき、敵に見つかることもあった。
そこでつかまると、敵に、リンチされた。

 いろいろな方法があったが、いちばんこたえたのが、
チxチxに、かぶれの木の樹液を塗られること。
あれを塗られると、そのあと1週間近く、チxチxが、
まっかに腫れた。
小便も、思うようにできなかった。

 私たちも敵を見つけて、つかまえると、同じような
ことをした。
石を投げ合ったこともある。
今でも私の頭には、そのときにできた傷が残っている。

●道草

 当時は、学校帰りに道草を食うということは、
子どもたちにとっては、当たり前のことだった。
私たちは学校からの帰り道、あちこちで遊びながら、帰った。
まともに、つまりまっすぐ家に帰るなどということは、
ほとんどなかった。

 学校のすぐ横に、小倉公園という公園があった。
公園といっても、小高い山。
小さな動物園もあった。
たいていはその山で、1~2時間は、遊んで帰った。

 それから町には、細い路地がいたるところにあった。
美濃市という町は、昔から和紙の産地として
知られている。
古い町である。
そのこともあって、大通りは直線的だったが、
一歩、大通りからはずれると、そこには、路地が
たくさんあった。
私たちはそれを、「探検ごっこ」と呼んでいた。

 ときに石垣に、はいつくばいながら、民家と民家の
間を抜けていったこともある。
あるいは民家の家の中を、すり通りしていったこともある。
昔からの商家は、どれも、細長いつくりになっていた。
そういうことをしながらも、思い出のどこをさがしても、
だれかに叱られたという記憶がない。

 私たちの要領がよかったのか。
それともまだ世間に、牧歌的な温もりが残っていたのか。
どうであるにせよ、子どもたちは、今よりずっと、
自由だった。
世間もおおらかだった。
あるいはそれだけ放任されていたのかもしれない。

 また「団塊の世代」と言われるほど、当時は、子どもたちは
どこにでもいた。
夕方になると、道路のあちこちから、子どもの声が
聞こえてきた。
一方、親たちは親たちで、生きていくだけで精一杯。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。

●長良川

 美濃市といえば、長良川。
世界一の清流と言っても、過言ではない。
もっとも、それを知ったのは、おとなになってから。
あちこちを旅行するようになってから。
私にとって「川」というのは、長良川をいった。
また世界中の川も、長良川のようなものと思っていた。
が、これはまちがっていた。
 
 私はその長良川で、泳いで育った。
まだプールのない時代で、「泳ぐ」といえば、「川で泳ぐこと」を
いった。
また学校の水泳指導も、川でなされた。

 当時は、水泳能力に応じて、白帽子に黒い線を入れてもらえた。
こまかいことは忘れたが、1本線→2本線→3本線へと、進んでいった。
中学生になるころには、みな、2本線とか3本線になっていった。

 その長良川。
泳ぐだけが楽しみではない。
水中眼鏡をかけて泳ぐと、そのまま天然の水族館。
そこはまったくの別世界だった。
もちろん魚を釣ることもできた。
モリで、魚を突くこともできた。

 私は川での泳ぎは得意だった。
渦を巻くような激流の中でも、平気で泳いだ。
一見、危険な遊びのように思う人もいるかもしれない。
しかし川の渦は、巻き込まれるものの、
渦に身を任せていると、一度、川底に着いたあと、やや川下のほうで、
体がまた浮いてくる。
けっして、あわててはいけない。
渦に身を任す。
その瞬間は、洗濯機の中でグルグル回ったようになる。
それを知らない人は、そこであわてる。
あわててバタバタする。
だから溺れる。

 泳ぎ方も、川での泳ぎ方と、プールでの泳ぎ方は、ちがう。
川では、流れをうまくとらえ、その流れに乗って泳ぐ。
体をななめにして立ち泳ぎをすれば、たいした体力を使うこともなく、
川の向こう側まで渡ることができる。

 当時の子どもたちは、みなその泳ぎ方をよく知っていた。
 
●ひもじさ

 あの時代を総称して言えば、「ひもじさとの闘い」
ということになる。
子どもたちは、みな、いつも腹をすかしていた。
食べるものはそれなりにあったが、育ち盛りの
子ども用というものは、少なかった。

 私はもっと、肉類を食べたかった。
が、家で出される料理といえば、野菜の煮込んだのとか、
そういうものばかりだった。
ハムにせよ、ソーセージにせよ、私たちはめったに
口にすることはできなかった。
寿司にしても、正月か、あるいは風邪をひいて、
病気になったようなときだけ。

 よく覚えているのは、バナナ。
今でこそ、一房、7~8本、まとめて買う。
が、当時は、バナナは1本売り。
それが、ふつうだった。
ミカンも、1個売り、りんごも、1個売り。

 一方、学校の給食では、よくクジラの肉が出た。
私たちには、ごちそうだった。
それにおいしかった。
ミルクがたっぷりと入った、クリーム・シチューなどは、
家ではぜったいに食べられないものだった。

 で、ある日私は決心した。
「おとなになったら、腹一杯、ソーセージを
食べてやる!」と。
いつだったか、町内で旅行に行ったとき、
前に座った子どもが、それをおいしそうに
食べていた。
そのとき、そう決心した。

【思春期】

●思春期

 子どもには思春期という節目がある。
当時、すでに思春期という言葉は、使われていた。
「性にめざめる時期」という意味で、使われていた。
私とて例外ではない。
が、私がそれを意識したのは、かなり早い時期だった。
みなもそうだったのかもしれないが、そういった類(たぐい)の話は、
恥ずかしいものという先入観があった。
私の時代には、とくにそれが強かった。

 いろいろな経験をした。
が、それとて、ごくふつうの子どものそれだった。
私も、小学5、6年生のころから、女性に猛烈に
興味を引かれるようになった。
女性というより、「女の体」のほうだった。

 しかし先にも書いたように、私の時代には、女の子と遊ぶことさえ
タブー視されていた。
「男」と「女」の色分けが、たいへんはっきりしていた。
今でこそ、男が赤いシャツ、赤い靴下、赤い下着を身に着けても
だれもおかしいとは思わない。
が、当時は、そういうこと自体、考えられなかった。

 その上、母はきわめて男尊女卑意識、家父長意識、上下意識の
強い人だった。
そのこともあって、たとえば私のばあい、台所に立っただけで、
母に叱られた。
「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。

●愛情飢餓

 私はいつも愛情に飢えていた。
それはおとなになってからわかったことだが、私はいつもだれかに
恋をしていた。
幼稚園児のときも、幼稚園から帰ってくるたびに、「Y子ちゃんが
好きだ」と言っていたという。
私は覚えていないが、母がそう言っていた。

 つづいて小学3年生のころは、山口K子さんという女の子。
小学5、6年生のころは、相宮F子さんという女の子。
中学に入学すると、小坂Y子さんという女の子。
つぎつぎと恋をしていった。

 私のばあい、すぐ「結婚」という言葉を使った。
「好き」という代わりに、「結婚しよう」と言った。
「好き」という言葉の意味を知らなかったせいだと思う。
「好きどうしなら、結婚する」と、そんなふうに考えていた。
ほかの男たちが、どう考えていたかは知らない。
しかし私のばあいは、そうだった。

 しかし私が中学2年生になるまで、どれも、秘められた思いでしか
なかった。
自分の心を打ち明けるということはなかった。
あの日も、そうだった。

●はじめての電話

 中学に入ってから、小坂Y子さんという女の子が好きになった。
毎日、Y子さんのことばかり考えていた。
そのY子さんというのは、私が幼稚園児のときに好きだったという
女の子である。
幼稚園児のときから、6年を経て、再び好きになったということになる。

 で、ある日、爆発しそうな心を抑えることができず、10円玉を
もって、電車駅のところまで自転車で走った。
家にも電話はあったが、家からは、かけられなかった。
それで電車駅を出たところにある、公衆電話を使うことにした。

 心臓は、今にも爆発しそうだった。
はげしい動悸だけは、よく覚えている。
そして交換手を通して、電話をかけた。
電話はつながり、Y子さんの母親が、電話口に出た。
つづいてY子さんを、その向こうで呼ぶ声がした。
「Y子!」「Y子!」と。
私は夢中だった。
何も考えられなかった。
 
 しばらくすると、……というより、数秒もすると、
受話器を取る音がして、Y子さんが、電話に出た。

「何?」と。

 その瞬間、私ははじめて気がついた。
電話をしなければとは思ったが、何も用事はなかった。
「何?」と聞かれたものの、そのあとの言葉がつづかなかった。
私は、「ぼくです……」と言っただけで、あわてて電話を切った。

 切なくも、淡い初恋は、こうして終わった。

●ゆがんだ心
 
 私の心はゆがんでいた。
「好きだったら、好き」と言えと、私は今、生徒たちにそう教える。
が、私には、それができなかった。
Y子さんのことを好きなはずなのに、私はそれ以後、むしろ嫌っている
ような態度を繰り返した。

 ひどくプライドが傷つけられたように思ったのかもしれない。
理由はわからないが、ともかくも、私は、私のほうからY子さんを
避けるようになった。

 思春期特有の子どもの心理とも考えられるが、それ以上に、私の
心はゆがんでいた。
今にして思うと、それがよくわかる。

 私の中には、いつも、もう1人の「私」がいた。
いつその「私」ができたのかは知らないが、その「私」が、そのつど
現れては、本当の「私」をじゃました。

 よく覚えているのは、小学5年生のとき、好きだった相宮F子さんとの
事件である。
私はある日、F子さんがいないときを見計らって、F子さんの机の
中からノートを取り出し、それに落書きをしてしまった。

 そのあとの記憶は断片的でしかないが、F子さんは、さめざめと
泣いていた。
その泣いている姿を見て、2人の「私」が私の中で、別々のことを
言っているのを覚えている。
「どうして、そんなバカなことをしたのだ」と、私を責める「私」。
「ザマーミロ!」と、それを喜ぶ「私」。

●2人の「私」

 ……と書いても、この程度の思い出は、だれにでもある。
私だけが特別だったとは思わない。
が、私のばあい、この事件が、2人の「私」を知るきっかけになった。

 話は教育的になるが、ふつう「素直な子ども」というときは、
(心の状態)と(表情)が一致している子どものことをいう。
うれしかったら、うれしそうな顔をする。
悲しかったら、悲しそうな顔をする。
もちろん好きだったら、「好き」という。

 が、私のばあい、そのつど、もう1人の「私」が、それをじゃました。
じゃまするだけならまだしも、正反対の「私」となって、外に現れた。
そのため、私はよくいじけた。
ひがんだ。
すねた。
それに意味もなく、つっぱった。

 わざと相手を悲しませたり、苦しめたりすることもあった。
で、そのたびに、つまりいつもそのあとに、深い後悔の念にとらわれた。

●成績

 私は子どものころから、心の開けない人間だった。
母子関係が不全だった。
父はいたが、先のも書いたが、「形」だけ。
形だけの父親。
母の心は、父から完全に離れていた。
それもあって、落ち着かない家庭だった。

 が、子どものころの私を知る人は、みな、こう言う。
「浩司(=私)は、朗らかな、明るい子だった」と。

 しかし当の私は、そうは思っていない。
私はいつも仮面をかぶっていた。
つまり、だれにでもシッポを振るタイプの子どもだった。
シッポを振りながら、自分の立場をとりつくろっていた。

 だから家に帰ると、いつもドカッとした疲れを感じた。
それなりにみなと、うまくやるのだが、そんなわけで集団が苦手だった。
運動会も遠足も、自ら「行きたい」と思ったことは、めったになかった。
小学生のころのことは、よく覚えていないが、中学生になってからは、
その傾向がさらに強くなった。
 
 それが思春期になると、攻撃的な性格となって
現れてきた。
攻撃的といっても、自分に対する攻撃。
私は典型的な、ガリ勉となった。

 当時、私の中学には、1学年、550人の生徒がいた。
11クラス、550人である。
その学校で、3年生のとき、1度たりとも、2番になったことはない。
当時は9教科で順位を争った。
(主要4教科)x100点、(英語、保健、技術、美術、
音楽の5教科)x50点の、合計で、650点満点。
そうした定期試験で、640点を取ることもあった。
2番の男とは、いつも40~50点の差があった。

 勉強を楽しんだというより、自虐的な勉強だった。

●中学時代

 そんなわけで中学時代の思い出は、どこかみな、
灰色ぽい。
というより、中学生になって、思い出か、
色が消えてしまった。
が、思い出が、ないわけではない。

クラブは、コーラス部に属していた。
小学時代は、大の音楽嫌いだった。
その私がコーラス部?

 これにはちゃんとした理由がある。
きっかけは、映画『野ばら』を観たこと。
ウィーン少年合唱団が主演する映画だった。
それを観て、突然、音楽が好きになった。
……ということで、中学へ入学すると、同時に、
私はコーラス部に籍を置いた。

 ほかに毎週、柔道場へ通っていた。
かなりいいとろまで行ったが、左肩の鎖骨を2度つづけて骨折。
それをきっかけに、柔道からは遠ざかった。

 多感な少年だった。
何でもした。
その上、器用だった。
魚釣りもした。
山登りもした。
何でもした。
したが、どれもストーリーとしては、つながっていない。
毎日がバラバラだった。
だから記憶としては、どれも断片的。
こま切れになったまま、そこに散らばっている。

●飛行機
 
 少し話は前後する。 
小学生のころの私は、パイロットにあこがれた。
空を飛ぶ飛行機を見ただけで、興奮状態になった。
実際、木で翼を作り、2階の窓から飛び降りたこともある。
それに当時は、ロケット作りが流行(はや)った。

 短い鉛筆を長くして使う道具がある。
名前は知らない。
細い金属製の管で、ロケット作りには最適だった。
長さは10センチほど。
それに花火の火薬をほぐして詰め、それを飛ばして遊ぶ。
うまく作ると、数十メートル近く、シューッと
音を立てて飛んだ。

 もうひとつは、ピストル。
市販のおもちゃんの鉄砲を改造して、本物に近いピストルを作って
遊んだ。
結構、威力はあった。
至近距離からだと、1~2センチの板なら、簡単に撃ち抜いた。
ときに3センチくらいの板を撃ちぬくこともあった。
私たちは、その威力を競いあった。

 ……こんなことを書くと、なんとも殺伐とした子どもを
思い浮かべる人もいるかもしれない。
しかし当時は、そういう時代だった。
町中で、空気銃を使ってスズメを撃ち落して遊んでいるおとながいた。
川へダイナマイトを放り投げて、魚を採っているおとなもいた。

 が、仲間のひとりが、それで自分の手のひらを撃ち抜くという
事件が起きた。
まぬけな男だった。
おかげでその直後、その遊びは、学校からきびしく禁止されてしまった。

 ともかくも、私は「飛ぶ」ということが好きだった。
今でも飛行機は、模型であれ、戦闘機であれ、あるいはラジコンであれ、
鳥であれ、何でも好きである。

●夢

 で、ある時期は、本気でパイロットになることにあこがれた。
しかしその夢は、あっさりとつぶれた。
「近眼の人は、パイロットになれない」と言われた。
そのころから私は、近眼になり始めた。

 かわりに……というわけではなかったが、私はモノを作るのが、
一方で、好きだった。
工作の時間だけは、楽しかった。
とくに木工が好きだった。
学校から帰ってくると、いつも家の中で、何かを作っていた。
そのためいつしか私は、「大工になる」という夢を持ち始めた。

 学校からの帰り道、新築の家があると、私はその家を近くでじっと
見ていた。

 ほかに……。

 が、何よりも強く思ったことは、「いつか、この町を出る」ということ。
美濃市という町は、三方を、それほど高くはないが、山々に囲まれている。
その中央に長良川が流れ、私の家の近くにも山がある。
「息苦しい」と感じたことはないが、その反動からか、
海の見えるところへ行くと、言いようのない解放感を覚えた。

 だからいつもこう思っていた。
「おとなになったら、海の見える町に住もう」と。
「仕事が何であれ、海の見える町に住もう」と。

●家族

 再び家族のこと。

そういう点では、私の家族は、関係が、
たがいにきわめて希薄なものだった。
父と母が、しんみりと話し合っている姿など、
記憶のどこをさがしても、ない。
母はわがままな性格の女性で、いつも「私がぜったい、正しい」という
姿勢を崩さなかった。
一見、腰の低い人に見えたが、それは母一流の仮面だった。
(表で見せる顔)と、家の中で見せる(裏の顔)は、正反対だった。
また好き嫌いのはげしい人で、自分が気に入った人には、とことん
親切にする。
その一方で、自分が嫌っている人には、とことん意地悪をした。

 それに迷信深く、一貫性がなかった。
足の靴を買うにも、「日」を見て決めて買っていた。
「今日は大安だからいい」とか、「仏滅だからだめ」とか。
「時間」も決めていた。
「昼過ぎには、靴を買ってはいけない」と、母に何度も叱られたのを
よく覚えている。

あるいは、「靴は、脱いだところで履け」とも、よく叱られた。
ふとんにしても、頭を北向きにしただけで、母は狂乱状態になった。
実際には、北向きにしたことは、なかったが……。

 そういう母に、父ははげしく反発していたにちがいない。
私が小学生のころには、さらに酒の量がふえ、数日おきに、近くの
酒屋で酒を飲んでは、暴れた。
祖父母も、70歳を超えるころには、急速に元気をなくしていった。

 私は孤独だった。
さみしかった。
心細かった。
それに不安だった。
「この家は、どうなるのだろう」と、毎日、そんなことばかり考えていた。

●自転車店

 稼業は、自転車屋だった。
「自転車屋」というと、どこか嘲笑的な響きがある。
これは私自身の、多分に偏見によるものだが、私はいつもそう感じていた。

が、大正時代の昔には、花形商売だったらしい。
戦後まもなくまで、そうだった。
またそれなりに、儲かった。
祖父の道楽ぶりは、町でも有名だった。
「芸者を10人連れて、料亭ののれんをくぐった」というような話は、
よく聞いた。
祖父の自慢話のひとつにもなっていた。

 が、私が小学生のころには、すでに家計は火の車。
中学生になるころには、祖父も引退し、それがさらに拍車をかけた。
近くに大型店ができ、そこでも自転車を売るようになった。
何とかパンク張りで生計をたてていたが、それにも限界がある。

 店といっても、7~8坪もない。
そんな狭いところに、自転車を20~30台並べていた。
おまけに、そのうちの半分以上は、中古車だった。
「中古自転車の林」と、よく言われた。
 
 ……いろいろあった。
ということで、私は、自転車は好きだが、自転車屋という商売は好きではなかった。
商売そのものが、好きではなかった。
ウソと駆け引き。
その繰り返し。

美濃市という町は、商圏は名古屋市に属しながら、商習慣は、関西の影響を
強く受けていた。
「売り値」などというものは、あってないようなもの。
その場での客とのやり取りの中で、決まる。
こういった世界では、口のうまい人、うそが平気でつける人でないと、
務まらない。

 が、私が自転車屋という職業を嫌っていたのは、今から考えると、
母の影響だと思う。
母は、自転車屋という職業を、心底、軽蔑していた。
いつも、「ド汚ねえ(どぎたねえ)」と、嫌っていた。
「たいへん汚い仕事」という意味である。
手にほんの少し油がついただけで、母は、それが落ちるまで、何度も
何度も手を洗っていた。

 事実、母は、自転車屋の親父と結婚しながら、生涯にわたって、
ドライバーすら握ったことがない。
それについて、一度、私が母を揶揄(やゆ)したことがある。
すると、母は、こう言った。
「結婚のとき、おじいちゃん(=私の祖父)が、
女は店に立たなくていいと、言いんさったなも(=言ったから)」と。

 つまり父との結婚の条件として、店を手伝わなくていいと、
祖父が言ったという。
それを母は、かたくななまでに、守った。
守ったというより、それを口実に、店には立たなかった。

 そういう母を見ながら、私は私の心を作っていった。
私も自転車屋という職業を嫌うようになった。

●親絶対教

 今でこそ、こうして稼業や母の悪口を書けるようになった。
しかし当時の、私を取り巻く環境の中では、考えられなかった。
父は、親絶対教で知られる、「M教」という教団の熱心な信者だった。
宗教団体ではなかった。
正式には、「倫理団体」ということになっていた。
が、宗教団体的な性格も帯びていた。
宗教的儀式こそしなかったが、天照大神を「神」とたたえ、
天皇を絶対視していた。

 私の家でも、毎月のように、よく会合がもたれた。
その「M教」。
ここに書いたように、「親絶対教」。
私はいつしか、その教団を、そう呼ぶようになった。
「親(=先祖)は、絶対」と考える。

 いろいろな教義はあるが、核心を言えば、そういうこと。
父も母も、私が何かのことで口答えしただけで、私を叱った。
「親に向かって、何てことを言う!」と。
そしてそれと並行して、私は「産んでやった」「育ててやった」
という言葉を、それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。

 そこである日、私は、キレた。
私が高校2年生のときのことだったと思う。
母に向かって、こう言って、怒鳴り返した。

「だれがいつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。
それは私と母の決別を意味した。
私が決別したというよりは、今にして思えば、母のほうが
私を切り捨てた。

●高校時代

 高校は地元のM高校に入った。
トップの成績で、答辞を読んだ。
が、それからの3年間は、私にとっては、2度と戻りたくない時代となった。
とくに高校3年生のときには、笑顔の写真が一枚もないほど、
私には苦しい時代だった。

 ある秋の夕暮れ時のことだった。
補習の授業を受けながら、私はこう思った。
「こんな日々は、いつ終わるのか。
早く終わるなら、命の半分を捨ててもいい」と。
私は赤い太陽が、山の端に沈むのを、ぼんやりとながめていた。

 私には、友だちがいなかった。
みなも、私のことを、いやなヤツと思っていたにちがいない。
私には、それがよくわかっていた。

 だから今でも、こう思う。
神様か何かがいて、もう一度、私をあの時代に戻してやろうかと聞かれたら、
私は、まちがいなく、こう答える。
「いやだ!」と。

●デート

 暗い話がつづいたので、明るい話もしたい。 

 中学時代はコーラス部に属していた。
そのこともあって、私は高校に入ると、合唱クラブに入った。
もうひとつ、化学クラブにもはいっていたが、こちらのほうは、
受験勉強を兼ねたものだった。

 その合唱クラブで、浅野Sさんという女の子を知った。
一目ぼれだった。
スラッとした、本当に美しい人だった。
笑顔がすてきだった。
それに色が白く、声もきれいだった。
しかし自分の気持ちを伝えるのに、1年以上もかかった。
私は子どものころから、「女性」が苦手だった。
女性の心が理解できなかった。

 その浅野Sさんにしても、私は、便をしない人だと思っていた。
つまりそれくらい、私の女性に対する感覚は、常識をはずれていた。

 が、高校2年生になったころ、打ち明けた。
「好きです」と。
それがきっかけで、2、3度、デートすることができた。
が、この話は、どういうわけか、みなが知るところとなってしまった。
同時に、担任の教師の耳に入るところとなった。

 私は職員室の別室に呼び出された。
叱られた。
「受験生が、何をやっている!」と。

●いとこ

 私には、60数人もの、いとこがいる。
母方の伯父、伯母が、12人。
父方の叔父、叔母が、4人。
それで60数人。
正確に数えたことはないが、それくらいはいる。
親戚づきあいの濃厚な家系でもある。

 このことは、ずっとそのあとになって、ワイフの家系と比べてわかった。
私の家系がふつうなのか、それとも、ワイフの家系がふつうなのか。
(ふつう)という言い方には、いろいろと問題がある。
あるが、相対的にみて、私の生まれ育った家系は、少なくともワイフの
生まれ育った家系とくらべると、「異常」。
つまりそれくらい、大きな(差)はある。 

 だから当初、つまりワイフと結婚してから、私は
ワイフの親類とつきあうのに、かなり戸惑った。
私がもっている生来的な常識は、ことワイフの家系では通用しなかった。

 が、悪いことばかりではない。
多くのいとこに恵まれたおかげで、私はそれなりにバラエティ豊かな
親戚づきあいをすることができた。

相手の家に自由に入ることができる。
遠慮なく、ものを言ったり、食べたりすることができる。
何か失敗をしても、すべて父や母のせいにできた。
そういう点では、親戚というのは、気が楽だった。

 言い換えると、いくら親しくても、相手が他人では、
そこまではできない。

●モノづくり

 木工が好きになったのには、理由がある。
昔は、自転車というのは、問屋から、木の箱に入れられて送られてきた。
自転車屋は、それを組み立てて売る。
そのときの木箱、それが残る。
だから自転車屋の店先には、木の廃材が、どこも山のようになっていた。

 厚さは1センチほど。
幅は10センチほど。
長さはまちまち、だった。
私はその廃材を使って、いろいろなものを作って遊んだ。
夏休みの工作にと、組み立て式のボートまで作ったことがある。
小学5年生ごろのことだと思う。

 私はそんなこともあって、モノを作るのが好きだった。
ある時期は、プラモデルに、夢中になったこともある。
当時は、マルサンという会社が、小さな飛行機を売りに出していた。
たしか「マッチボックス・シリーズ」とかいう名前がついていた。
値段は、30円。
よく覚えている。
組み立てると、私は手それを手でもち、家の中を走り回った。

 今でも、モノを作るのは好きだが、そういう「私」が
相互にからみあいながら、今の「私」になっている。
40歳を過ぎたころ、山荘を建てようと思ったのも、
その結果ということになる。
私とワイフは、毎週、現地へ出かけ、ユンボを操縦して、
土地の造成をした。
そのために、6年という年月を費やした。

●卒業

 私は何とか、高校を卒業した。
今で言うなら、いつ不登校児になってもおかしくない状態だった。
しかし不登校を許してくれるような、家庭環境でもなかった。
いくら学校がつらくても、家よりは、ましだった。
……というより、私には逃げ場がなかった。
学校からも、家からも追い詰められた。

 今、覚えているのは、ときに学校に向う自分の足が、鉄のように
重く感じたことがあるということ。
本当に、鉄のように感じた。
その足を引きずりながら、歩いた。

 だから「何とか卒業した」ということになる。
この言葉に偽りはない。

 このつづきは、また別の機会に書いてみたい。
(2010年3月2日記)

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