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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10年 3月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●親のウソ(強化の原理)
++++++++++++++++++++++
この話は以前にも書いた。
こんな話。
ある母親がこう言った。
「うちの子(年長児)は、字を書くのがへたでしょ。
みなさんは、じょうずに書けるでしょ。
だから本人もそれを気にして、BW教室(=私の教室)
へ行くのをいやがっています」と。
この話は、ウソ。
親の作り話。
が、どこがウソか、あなたはわかるだろうか?
親の話には、この種のウソが多い。
+++++++++++++++++++++
●強化の親vs弱化の親
発達心理学の世界には、「強化の原理」「弱化の原理」という言葉がある。
何ごとも前向きに取り組んでいる子どもは、そこに強化の原理が働き、ますます前向きに伸びて
いく。
反対に、「いやだ」「つまらない」と思っている子どもは、そこに弱化の原理が働き、子ども自身
が、自ら伸びる芽をつんでしまう。
同じように、親にも、(子どもを伸ばす親)と、(子どもが伸びる芽を摘んでしまう親)がいる。
前者を、(強化の親)というなら、後者は、(弱化の親)ということになる。
(この言葉は、はやし浩司の造語。)
たとえばときどき教室を参観して、「うちの子はすばらしい」「できがいい」と思っている親の子
どもは、どんどんと伸びていく。
反対に、「だめだ」「できない」と思っている親の子どもは、表情も暗くなり、やがて伸び悩む。
●「わざとほめてくれるのよ!」
この話も前に書いたが、こういう話。
ある女の子(年長児)の話。
その女の子は、おかしなことに、私がほめればほめるほど、表情が固く、暗くなっていった。
ふだんから静かな子どもだった。
私はその理由が、わからなかった。
が、ある日、レッスンが終わって廊下に出てみたときのこと。
いつも、その子どもの祖母にあたる女性が、その子どもを教室へ連れてきていた。
その女性が、その女の子(=孫)に向かって、こう言っていた。
「どうしてあなたは、もっとハキハキしないの!
あなたができないから、先生がああしてわざとほめてくれるのよ。
どうしてそれがわからないの!」と。
●自己評価力
自分を客観的に評価する・・・それを自己評価力という。
「現実検証能力」と言ってもよい。
この自己評価力は、小学3年生前後(10歳前後)を境にして、急速に発達する。
が、それ以前の子どもには、その力は、ない。
よくある例が、落ち着きのない子ども。
AD・HD児もそれに含まれる。
このタイプの子どもに向かって、「もっと静かにしなさい」とか、「君が騒ぐと、みなが迷惑す
るよ」とか、教えても、意味はない。
自分が騒々しいことにすら、気づいていない。
その自覚がない。
またそれを気づかせる方法は、ない。
いわんや、幼稚園児をや、ということになるが、文字についてもそうである。
自分の書いた文字を見て、それがじょうずか、へたか、それを判断できる子どもはいない。
それを判断し、子どもに伝えるのは、親ということになる。
つまり親が、「自分の子どもの書く字がへた」と思っている。
だからそれを子どもに言う。
「あなたは、字がへた」と。
ここで冒頭に書いた話を思い出してほしい。
私はその母親の言ったことを、ウソと書いた。
理由は、もうわかってもらえたと思う。
繰り返しになるが、年長児くらいで、自分の書いた字がじょうずか、へたか、それを客観的に判
断できる子どもはいない。
子どもは、親の反応を見ながら、じょうずかへたかを知る。
しかしそれでも、どこがどうへたなのか、それがわかる子どもはいない。
つまり子どもの書いた字を、へたと決め込んでいるのは、母親自身ということになる。
が、それだけではない。
むしろ子どもの伸びる芽を、親が摘んでしまっている!
●強化の原理
子どもが何か、文字らしきものを書いたら、ほめる。
それがどんな文字であっても、ほめる。
「ホホー、じょうずに書けるようになったね」と。
こういう働きかけが、子どもに自信をもたせる。
その自信が、強化の原理となって、子どもを前向きに引っ張っていく。
この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよく伸びる。
「私はすばらしい」という思いが、強化の原理として働く。
最初の話に戻るが、こういうときは、その反対のことを言う。
「あなたは、字がじょうずになったわね。
先生も、ほめてくれていたわよ」と。
以前、『欠点はほめろ』という格言を、私は考えた。
これもそのひとつ。
子どもに何か問題を見つけたら、それを指摘して、責めてはいけない。
反対に、ほめて、伸ばす。
たとえば意見を発表するとき、声が小さかったら、「もっと大きな声で!」ではなく、「あなたは
この前より、大きな声が出るようになったね」とか、「あなたの声は、いい声よ」とか、など。
これは子どもを伸ばすための、第一の鉄則である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 欠点はほめる 親のウソ 親の嘘 子どもを伸ばす 強化の原理 弱化の
原理)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【裏の心】(臨界期)
+++++++++++++++
(表の心)があるとするなら、(裏の心)がある。
(表の心)は、外から見える。
それだけにつかみやすい。
しかし(裏の心)は、外からは見えない。
そのため何かと無視されやすい。
しかし(表の心)より、(裏の心)のほうが、
はるかに重要。
人間の心、つまり「私」の大部分は、この
(裏の心)でつくられていく。
+++++++++++++++
●別の脳
どんなに熟睡していても、(「熟睡」の定義もむずかしいが)、人はベッドから落ちない。
それは自分では、いくら熟睡していると思っても、脳の別の部分が、それを意識している
からにほかならない。
「それ」というのは、「自分の体とベッドの位置関係」ということになる。
もし「その部分」まで、本当に眠ってしまえば、それこそ人は寝返りを打つたびに、ドス
ン、ドスンと、ベッドからころげ落ちることになる。
これは眠っているときの話である。
が、目を覚ましているときも、実は脳の別の部分は、意識とは別に、別の働きをしている。
このことは、子どもを観察してみると、わかる。
たとえば私と母親と、その子どもについて、何かを話していたとする。
子どもは、少し離れたところで、何かのおもちゃと遊んでいる。
私と母親の話を聞いているようには見えない。
そういうときでも、私がその子どもをほめたりすると、話の内容がわかっているかのよう
に、私たちのほうを見て、ニコッと微笑んだりする。
あるいは、その子どもの問題点を指摘することもある。
そういうとき、もし子どもが近くにいるようなら、私はできるだけ難解な言葉を使うよう
にする。
子どもに、話の内容を悟られたくない。
「行動面では問題ないと思いますが、識字能力が心配です。黙読にすると、読解力が著し
く落ちます」と。
すると子どもは、そういうとき、こちらのほうを見て、何か心配そうな表情をして見せ
る。
●2人の(自分)
ここに書いたことと、同じ現象と考えてよいかどうかはわからない。
わからないが、私はよく、こんなことを経験する。
最初に、それがわかったのは、私がどこかの会場で、講演をしているときだった。
私は、自分の脳の中に、2人の(自分)がいることを知った。
1人の(自分)は、講演の内容について考えている。
もう1人の(自分)は、そういう自分を、別のところから見ていて、「あと30分しか時間
がないぞ」「つぎの話は簡単にして、すませ」「時間があるから、ついでにあの話もしろ」
などと命令する。
このように(意識)というのは、二重、三重構造になっている。
少なくとも、一重ではない。
そんな単純なものではない。
そうした意識の下に、意識できない意識の世界がある。
一般的には、意識の世界よりも、意識できない世界のほうが広いと言われている。
しかも、意識できない世界のほうが、意識できる世界よりも、数万倍から、数10万倍も
広いと言われている。
言い換えると、私たちが今意識している世界などというのは、脳の中でも、ほんの一部
でしかない。
●子育ての世界では・・・
ここに1人の子どもがいる。
その子どもは、自分の好きなことをしている。
そういうときでも、その子どもは、周囲の変化や様子に、絶えず注意を払っている。
注意を払っているだけではない。
周囲のあらゆるものを、どんどんと自分の脳の中に蓄積している。
その子どもの外見的な様子に、だまされてはいけない。
まわりの様子に無頓着で、無関心に見えるからといって、「注意を払っていない」と考えて
はいけない。
親の立場、あるいは教師の立場から言うと、けっして、油断してはいけない。
たとえばあなたが今、車を運転しているとする。
子どもは助手席に座って、ゲーム機器をいじっている。
そんなとき、携帯電話の呼び鈴が鳴った。
あなたは携帯電話を手にすると、「まあ、いいか」という思いで、携帯電話で相手と話し始
める。
横を見ると、子どもは、どうやら気づいていないようだ。
相変わらず、ゲームに夢中になっている。
が、実際には、そうではない。
子どもは、見えない目、見えない耳で、あなたの行動すべてを観察している。
それを脳の中に、しっかりと焼きつけている。
つまりこうしてあなたの子どもは、あなたという人間の人物像を、少しずつだが、つくり
あげていく。
「ママ(パパ)は、ずるい人間」と。
が、それだけではない。
そうした人間像は、そっくりそのまま、その子どもの人間像となって、反映されるように
なる。
●赤ん坊の記憶
こう書いても、まだ私の話を信用しない人がいるかもしれない。
しかしこんな話を書けば、どんなに疑い深い人だって、私の話に納得するだろう。
実は、あの生まれたての赤ん坊にしても、まわりの様子をどんどんと記憶している。
それを証明したのは、ワシントン大学のメルツオフという人だが、まさに怒涛のごとく記
憶している。
仮にこの時期、子どもが人間の手を離れ、たとえば動物によって育てられたとすると、
その子どもは、そのまま動物になってしまう。
インドで1920年代に発見された、オオカミ姉妹の例をあげるまでもない。
で、ここが重要だが、この時期、一度、動物になってしまうと、仮に再び人間によって育
てられたとしても、人間に戻ることはない。
オオカミ姉妹にしても、同じころ、フランスで見つかった、ビクトールという少年にして
も、人間らしさを取り戻すことはなかった。
ここで登場するのが、「臨界期」という言葉になる。
D・H・ヒューベルとT・N・ヴィーゼルという2人の科学者が、子ネコについて行った
実験で、世に知られるようになった※。
つまり人間というのは、(ほかの動物もそうだが)、その時期において、適切な指導や刺激
を受けないと、脳の機能が変化してしまうことをいう。
「赤ん坊には記憶はない」と考えるのは、誤解というより、まちがい。
赤ん坊は赤ん坊で、まわりの様子を、猛烈な勢いで吸収、それを記憶にとどめている。
●母の心
私はこんな経験もした。
最後の2年間を、母は、この浜松市で過ごした。
1年たったころ、脳梗塞を起こしてからは、そういうことはなかったが、私の家に来たこ
ろは、頭の働きも達者で、冗談をたがいに言いあうほどだった。
そんなある日、母が、親類の人たちの話を始めた。
「あの人は、いい人や」「あの人は、悪い人や」と。
その話を聞いて、私は、驚いた。
話の内容に、驚いたのではない。
母は、私が子どものころにもっていた印象と、まったく同じことを口にしたからだ。
たとえば私は、子どものころ、Aさんという親類の男性が嫌いだった。
あるいはBさんという親類の女性が好きだった。
そのAさんについて、「あのAさんは、タヌキ(=うそつき)だった」とか、「Bさんは、
やさしい人だった」とか、言った。
私は私がもっていた印象は、何のことはない、子どものころ、母によって作られたこと
を知った。
つまり親子というのは、そういうもの。
「以心伝心」という言葉もある。
「魚心あれば、水心」という諺もある。
親がもっている心は、そっくりそのまま子どもに伝わる。
あなたという親が、言葉として、何も話さなくても、伝わる。
それを見たり、聞いたりするのが、冒頭に書いた、「別の脳」ということになる。
●核心
いよいよ子育ての核心部分ということになる。
あなたは今、子育てをしている。
「ほら、算数だ」「ほら、英語だ」「ほら、ひらがなだ」と。
それを(表の子育て)とするなら、(裏の子育て)がある。
「教えずして教えてしまう」のが、(裏の子育て)ということになる。
そして実は、その(裏の子育て)のほうが、実は重要で、かつ比重的には、(表の子育て)
よりも、はるかに大きい。
もちろん子どもに与える影響も、はるかに大きい。
たとえば私は子どものころ、たいへん小ずるい子どもだった。
ずるいことが平気でできた。
しかしそのほとんどは、私が母から受け継いだものだった。
もし私があのまま、郷里の町で、生活していたら、その小ずるさそのものに気づくことも
なかったかもしれない。
幸か不幸か、私は郷里を離れた。
その結果として、私は私自身を、客観的に見る機会を得た。
外国の人たちと、自分を、比較することもできた。
そして(あの世界)が、全体として、その(小ずるさ)で成り立った世界であることを知
った。
母とて、その中のワンノブゼム(多数の中の1人)に過ぎなかった!
●別の心
子育てをするときは、常に子どもの中で、どのような(裏の心)が作られているかに注
意する。
たとえば私のばあい、幼児に文字を教えたとする。
そのとき重要なのは、その幼児が、(文字を書けるかどうか)(文字を書けるようになった
かどうか)ということよりも、(文字を楽しんだかどうか)ということになる。
(できる・できない)は、別。
もっとわかりやすく言えば、その子どもの中に、(文字に対する前向きな姿勢ができたかど
うか)ということになる。
これは文字の話だが、こうした指導法は、幼児の指導法の原点ということになる。
文字、数などの学習面にかぎらない。
行動、情緒、知育、性格、性質など、あらゆる部分に及ぶ。
さらには、人間性にまで及ぶ。
先に書いたオオカミ姉妹の例を、もう一度、思い浮かべてみてほしい。
オオカミ姉妹にしても、その適切な時期に、適切な刺激を受けなかったため、生涯にわた
って、人間らしさを取り戻すことはできなかった。
「私は私」と思っている、あなた。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている、あなた。
今一度、あなたの中にいる、別の(あなた)を、探索してみてほしい。
そこに本当の(あなた)がいる。
(注※……臨界期)(理化学研究所のHPより、転載)
『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽す
ると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この
変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきました
が、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳
機能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。
(中略)
サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、
大脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見
され、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、
多数の研究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を
起こすのは生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じよ
うに、この期間は「臨界期」と呼ばれるようになりました。
この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほか
の領域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性
を示す例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影
響を与えてきました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早
期教育の重要性の科学的根拠とする主張も出現してきました。
最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳
皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron
2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持さ
れるとすればどの程度なのかは不明のままでした。
研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、
それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の
解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 臨界期 別の心 別のあなた 本当の私)
(注)この原稿は、心理の発達段階論と、臨界期をやや混同、誤解している部分がありま
す。
その点をご理解の上、お読みください。
近く、改めて、この原稿を書き改めてみます。
(2010-2-19記)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●老人大国(これは、たいへんなことになるぞ!)
++++++++++++++++++++++++++++++++
A町での講演会を終え、浜松駅を出たときのこと。
デパートの地下にある、その店に行こうとして、一瞬、足を止めた。
私とワイフは、カレーライスを食べるつもりだった。
見ると、老人、また老人……。
そこはまさに老人のたまり場だった。
年齢は70~80歳前後。
そういった老人たちが、長椅子を占拠し、
そこにズラリと座っていた。
何かを食べたり、たがいに話し込んだりしていた。
あと15~20年もすると、日本人の3分の1が、そうした高齢者になるという。
が、そこはすでに3分の1以上が、高齢者だった。
私はその異様な光景に、驚いた。
「何だ、これ!」と思った。
が、つぎの瞬間、私もその仲間であることを知って、口を閉じた。
++++++++++++++++++++++++++++++++
●老人ファッション
昨日、眼鏡屋でこんな女性を見かけた。
その女性は、店員と、何かを話していた。
前かがみになっていたので、背中の下が大きく割れ、ジーパンの端から、中のパンティが
見えていた。
シマシマのピンクのパンティだった。
ついでに言うと、上から、大きな毛糸の帽子、黒い毛皮のコート、それにジーパン。
ひざまで届くような、長いブーツをはいていた。
私は「最近の若い人は……」と思った。
「平気で下着を見せる!」と。
が、横に座って、私は我が目を疑った。
顔半分を覆うようなマスクをしていたので気がつかなかった。
が、若い女性と思ったその女性は、50歳は超えたの年配の女性だった。
全体が茶髪で、髪の毛の一部を、紫色に染めていた。
こういうとき「男」というのは、「しまった!」と思う。
「若い女性と思って、損をした!」と。
どうしてそう思うのか、わからないが、そう思う。
●落差
似合うか、似合わないかということになれば、似合うはずがない。
見た目はともかくも、見た人は、その(落差)に驚く。
その女性の服装は、どう見ても、10代後半、もしくは20代前半の、未婚の
女性のものだった。
うしろ姿だけを見たら、だれだって、そう思う。
私だけではない。
いっしょにいた、ワイフだって、そう思った。
驚いた。
が、だからといって、年配の女性が、そういう格好(かっこう)をしてはいけないとか、
そういう失敬なことを書いているのではない。
落差。
その落差が、問題。
たとえば50代の人が、それなりの格好をしているなら、まだよい。
しかし50代の女性が、10代の女性のマネをして、どうなる?
つまりそんなことをしても、若い人たちに、バカにされるだけ。
……というのは、書き過ぎ。
しかし老人は老人としての、ステータスを確保する。
「これが年の功」と言えるようなものを用意する。
極端な言い方をすれば、若い人が、老人を見習う。
あるいはマネをする。
そういうものを示してこそ、私たちは老人、つまり「Aged People」。
「円熟した人」ということになる。
ファッションについて言えば、老人臭くない、老人ファッションというものが、
あってもよいのでは?
若い人たちが着る服を着れば、それでよいというものではない。
●駅前で……
駅前といっても、それぞれコーナーらしきものが、できあがっている。
大きく、若い人たちが集まっているコーナー。
老人たちが集まっている、コーナー。
老人たちは、デパートの地下、その出入り口のところに集まっている。
集まっているというよりは、先にも書いたように、占拠している。
地下には、スーパーマーケットや、食料品店が並んでいる。
買い物をしたついでに、そこへみなが集まるのだろう。
見方によっては、のどかな風景。
しかし異様は、異様。
私はそれを見て、「これは、たいへんなことになるぞ!」と思った。
その第一。
老人たちが、若い人たちと、融和していない。
それはちょうど、日本の街角で、それぞれの外国人が集団を作ってたむろしている様子に
似ている。
そうでない人たちを、はじき飛ばしてしまうかのような、排他性すらある。
が、それは同時に、若い人たちから見れば、そのまま差別意識につながる。
もっとも今は、まだよい。
デパートの出入り口という一部。
しかしそれが日本中の、いたるところでそうなったら、どうなる?
目的意識もない老人たちが、ブラブラとうたるところで、たむろするようになったら、
どうなる?
そのとき若い人たちが、私たち老人をながめて、「どうせ老人だから……」と、
寛大に見てくれるだろうか?
結論を先に言えば、老人は老人として、やるべきことがある。
そのやるべきことをして、老人は、老人である。
身勝手で、自己中心的で、自分勝手な老人は、「老人」ではない。
いわんや終日、デパートの出入り口に陣取って、世間話に夢中になる老人は、「老人」では
ない。
そんなことばかりしていたら、それこそ、私たちは社会のゴミになってしまう!
それがわからなければ、逆に、年少の子どもたちが、デパートに出入り口あたりで、
たむろしていたら、あなたはどう思うだろうか。
おそらくあなたは、子どもたちに向かってこう言うにちがいない。
「君たち、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。
だから私は言いたい。
「老人たちよ、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。
●まとめて老人
このところ、急速に肩身が狭くなってきているのを感ずる。
ときどき生きているのが、申し訳ないような気分にすら、なる。
現実問題として、長生きをすればするほど、みなに、迷惑をかける。
介護制度にしても、この先20年、悪化することはあっても、よくなることはありえない。
いくら私一人ががんばったところで、若い人たちは、私を区別してくれない。
区別できない。
「まとめて老人」と考える。
そうなったとき、私やあなたの生きる場所はあるのか。
あるいはどう生きたらよいのか。
本来なら老人というのは、人生の先輩として、知恵や経験を若い人たちに伝えていく
立場にいる。
そうした老人がむしろ逆に、若い人たちに、バカにされるようなことばかりしている。
自分たちだけで、小さな世界をつくり、そこにたむろしている。
冒頭に書いた女性にしても、そうだ。
そういう服装を見て、若い女性たちは、どう思うだろうか。
だから「これは、たいへんなことになるぞ」となる。
やがて私たち老人は、(社会のゴミ)となってしまう。
が、そうなっても、私たちには、それと戦う気力も体力もない。
財力もない。
虐待されるようなことになっても、私たちは、それを受け入れるしかない。
現に今、老人虐待が、あちこちで問題になっている。
やがてそれが世間一般で、おおっぴらになされるようになるかもしれない。
●では、どうするか?
何度も書くが、老人たちは自ら(やるべきこと)を定め、それを(現実にする)。
この両者を一致させることを、「統合性の確立」という。
けっして、現在の立場に安住してはいけない。
「人生の先輩」として、若い人たちの上に、君臨してはいけない。
デパートの出入り口にたむろするくらいなら、カニばさみと、ポリ袋をもって、
街の清掃くらいしたらよい。
「街のガイドをします」というような小さなネーム・カードを、胸につけるだけでも、
外から来た人には助かる。
「私は料理のプロです」「中国語の通訳ができます」というカードでもよい。
その気になれば、何だってできるはず。
それを「私は人生を終えました」と、居直ってしまう。
居直って、奥にひっこんでしまう。
自分のしたいことだけをする。
私は、それではいけないと言っている。
若い人たちから見て、「やはり、ジーチャン、バーチャンは、必要なのだ」と。
そういう存在感を作る。
でないと、「3分の1」という数字を乗り越えることはできない。
やがてすぐ、日本人の3分の1が、その老人になる。
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