2010年3月20日土曜日

*The More Brain-less Japanese

●バカになる日本人(?)

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書店で「S」という月刊雑誌を立ち読みした。
以前は毎月のように買っていたが、どこか右翼的。
で、今は、立ち読みONLY。

その雑誌が「バカになる日本人」(仮称)という
大見出しで、特集を組んでいた。
小学6年生で、「4+2x5の計算ができないのが
60%もいる」とか。
(数字は記憶によるものなので、不正確。)

「そんなものだろうな」と思ってみたり、
「実際には、もっとひどいのでは?」と思ってみたり……。

「大学生でも、英検4級が合格できない」という
記事も目にとまった。
しかしこうした現象は、何も今、始まったわけで
はない。
すでに20年以上も前から始まっていた。
「中学1年生で、かけ算の九九ができない子どもが
20%いる」というのが、当時、すでに常識だった。

(九九を暗記していても、九九ができるという
ことにはならない。
「七・三(シチ・サン)?」と、ランダムに聞かれて、
即座に「21」と言えることを、「九九ができる」という。)

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●考えない日本人

 日本人は、考えなくなった。
たしかに考えなくなった。
直感的にものをパッパッと言うのは得意。
しかし論理的に、筋道を立てて考えるのが苦手。
きちんとした話し方すらできない日本人も多い。

 子どもたちとて、例外ではない。
10年単位で、子どもたちの「質」が、どんどんと変化している。
それが私にも、よくわかる。
いわゆる思考力の低下である。

 誤解していけない。
(1)知識があるから、思考力があるということにはならない。
(2)専門知識があるから、思考力があるということにもならない。

 ほとんどの親は、「知識が豊富な子ども」イコール、「賢い子ども」と思っている。
……思いこんでいる。
が、これは誤解。
知識は経験や暗記で身につく。
が、(賢さ)は、(考える習慣)で身につく。
その習慣が、子どもたちの生活の中から消えつつある。

 雑誌の中には、世界の子どもたちの比較データが載っていた。
それによれば日本の子どもたちは、テレビを見る時間が多く、家で学習する時間が
少ないそうだ。
100か国中、下から7、8番目くらい。
(記憶によるものなので、不正確。)

●考える習慣

 考えるためには、前提として、(1)静かな環境と、(2)自由な時間が必要である。
そういう環境と時間の中で、ものごとを分析し、つぎに論理として、それを組み立てて
いく。
そのためのひとつの手段として、「書く」という方法がある。
書くことによって、頭の中を整理する。
矛盾に気づいたり、さらに新しい事実に気がついたりする。

 書かないで考えるという方法もあるが、私のばあい、すぐ堂々巡りをしてしまう。
同じことを何度も考えるというのは、それ自体が、時間の無駄。
その無駄を省くために、書きながら、ひとつずつに結論をくだしていく。
一度結論をくだしたことについては、2度目は考えない。
つまりこうして前へ、前へと進んでいく。
これには2つの意味が含まれる。

(1)未開の分野に足を踏み入れるという意味。
(2)もう一つは、思索を深くするという意味。

 だれもそれまで考えたことのない世界へ、足を踏み入れるというのは、スリリングな
ことでもある。
めったにないことだが、その先にキラリと光る石のようなものを見つけることがある。
私はそれを「宝石」と呼んでいる。
それがあるから、書くことがやめられない。

 また当然のことながら、考えれば考えるほど、思索が深くなる。
深いからどうということはないが、深ければ深いほど、視野が広くなる。
といっても、それを自分で実感できるわけではない。
思索の浅い人を見たとき、相対的に、それがよくわかる。
ときには、相手が、サルかそれに近い動物に見えることもある。
それは優越感というよりは、高い山に登ったような爽快感に似ている。
視野が広いから、相手の考えていることが、手に取るようによくわかる。
が、それだけではない。

●思索

 思索を深くすることによって、同時に、人生の密度を濃くすることができる。
与えられた時間は同じでも、使い方によって、それを2倍、3倍にすることができる。
もちろん、反対に、使い方によっては、2分の1、3分の1にしてしまうこともある。

 仮に私の寿命が、あと16年(平均寿命まで16年!)であるとしても、その
16年を、2倍の32年にすることも、3倍の48年にすることもできる。
たった一度しかない(命)なら、できるだけ長く生きた方が得!
みなの知らない世界を見たり知ったりすることができる。
それは実に楽しいことでもある。
楽しいことではあるが、同時に、恐ろしいこともでもある。

 ときに、眼前に無限につづく荒野を見たようなとき、思わず身震いすることもある。
当然のことながら、この世界は、私の知っていることより、知らないことのほうが、
はるかに多い。
話は少しちがうかもしれないが、いつだったか、恩師のTK先生が、こう話してくれたの
を覚えている。

「自然界では、何十万という分子量をもった物質が、いとも簡単に、複製、合成されて
います。
どうしてそういうことができるか、不思議でなりません」と。
光合成の話になったときのことである。

 TK先生はTK先生の立場で、身震いするような場面を、多く経験したにちがいない。
ここでいう「恐ろしいこと」というのは、それをいう。
知れば知るほど、自分が無力であることを、思い知らされる。

●考える人間に……

 基本的には、日本の教育は、システムとして、考える子どもを育てるようにはなって
いない。
冒頭にも書いたように、直感的にものを言う子どもは多い。
知識の豊富な子どもも多い。
もの知りで、ペラペラとよくしゃべる。
しかし中身が、ない。
薄っぺらい。

 私はよく冗談まじりに、「今の学校は、Y本興業の、タレント養成学校のよう」と言う。
お笑いタレントを専門に育てる、あの学校である。
もちろん冗談だが、できあがってくる子どもたちを見ると、そんな感じがする。
またそういう子どもほど、この日本では、(よくできる子)と評される。

 そこでたとえば欧米では、「ライブラリー」の時間を、たいへん重要視している。
ほかの教科は、学士号をもっていれば、教壇に立てる。
しかしライブラリーの授業だけは、修士号をもっていないと、立てない。
週1回の指導だが、教師がその子どもに合った本を選び、読ませ、レポートを書かせる。
私の息子の嫁の母親が、その仕事をしている。

 社会科の授業にしても、教師がテーマだけを与え、それぞれの子どもに、ちがった
研究をさせる。
「あなたは1年をかけて、トラファルガーの戦いについて調べなさい」と。

 こうした教育のちがいというか、土壌のちがいが、そののち、ちがった人間を作る。
日本の教育も、このあたりで本腰を入れて考えなおさないと、それこそほんとうに
大変なことになる。
日本は、ほんとうにこのままダメなってしまう。
TK先生も、いつもそう言っている。

(補記)

「まなぶ」は、「まねぶ」が転じた意味で、「まねる」の意味からきている。
また「学ぶ」は、「學」という文字からきていて、(かんむり)の部分は、両手で
音符を包んでいることを示す。
そのことからもわかるように、「しぐさをまねる」ことを、「学ぶ」という
(以上、参考「心理学とはなんだろうか」(新曜社))。

日本の教育は、総本山における小僧教育にルーツを置く。
その「まねる」から脱却する。
それがこれからの日本の教育の目指す方向とういうことになる。

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