【表現の自由とは】
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一度、子どもたちが隠れて回し読みしている
コミック雑誌に目を通してみるとよい。
そこには、かなりの人でもドキッとするような
絵が、ズラズラと並んでいる。
「かなりの人」というのは、かなりそういう世界を
よく知っている人でも、という意味。
私が先日見たのは、10歳前後と思われる女の子が、
裸で椅子にしばられているというものだった。
その女の子の背後と両側から、悪魔(?)の黒い影が、
ニョキニョキとのびてていた。
女の子は恐怖と恥ずかしさで、泣き叫ぶ……。
こうした行きすぎた「表現」には、規制は当然としても、
しかし今さら、それをしたところで、どうにもならない。
つまり手遅れ!
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●性暴力
薄汚い商業主義をカモフラージュするために、「表現の自由」が利用されている。
しかしそれは表現の自由ではない。
表現の自由の濫用という。
またどうしてそれが、「守られなければならない権利」なのか。
かいま見る最近の雑誌には、ものすごいものがある。
先に書いたような例は、まだ序の口。
まだあどけなさを残す少女が、あらゆる体位で、性行為を繰り返す。
輪姦、強姦、緊縛、乱交パーティ……なんでもござれ。
生殖器そのものは描かれていないが、そんなものは鉛筆一本で、描き足せる。
わざとそうなっている。
そういう雑誌を、これまた小学生や中学生が読む。
隠れて読む。
判断力のまだ未成熟な子どもに与える悪影響となると、計り知れない。
一方、欧米では、性描写と暴力描写については、きびしい規制がかけられている。
雑誌だけではない。
私の記憶に残っているのが、『風林火山』という映画があった。
1970年のことだった。
(40年も前の話だぞ!)
●暴力シーン
メルボルンの日本領事主催の映画会が開かれた。
在住の日本人や、親日的な団体の人たちが招待された。
上映されたのは『風林火山』。
で、その映画の中で、ひとりの侍が、目に矢を受けるシーンがあった。
とたん劇場内にはギャーという叫び声。
子どもと一緒に来ていた親たちは、いっせいに、子どもの顔を手でおおった。
が、日本では、あの映画は、まったく問題にならなかった。
当時も、またその後も、テレビでそのまま放映されている。
世界を歩いてみて、こんなバカげた「表現の自由」が野放しになっているのは、
この日本だけ。
その延長線上に、援助交際という「少女売春」がある。
飛躍した考え方に思う人もいるかもしれないが、世界の人は、そう見ている。
●ゆがむ性意識
何も大脳生理学をもちだすまでもなく、思春期前夜、思春期にゆがんだ性意識をもつ
ことは好ましくない。
それがそのままその子ども(人)の性意識の基本になる。
線条体に受容体ができると、そのまま条件反射になってしまう危険性すらある。
女性の下着を見ただけで、興奮状態になる、など。
反対にそれがないと、性的満足感を得られなくなることもある。
マゾ、サド、小児性愛などを例にあげるまでもない。
大学の教授職という立場にありながら、手鏡をもって歩いていた人もいた。
手鏡で、女性のスカートの下をのぞくことによって、快感を覚えていたらしい。
「ゆがんだ性意識」というのは、そういうことをいう。
が、ゆがんだ性意識をもっている人には、それがわからない。
脳のCPU(中央演算装置)がゆがんでいるから、自分がゆがんでいることさえ
わからない。
わからないばかりか、自分の基準でもって、「他人もそうである」と誤解しやすい。
さらにそれを他人に押しつける人もいる。
彼らが説くところの「表現の自由」という言葉の裏には、そういう傲慢性すら、
見え隠れする。
仮にゆがんでいるとしても、何も子どもたちをまでその世界に引き込むことはない。
●非実在青少年
時事通信(2010ー3ー18)は、つぎのように伝える。
『……漫画などでの子供に関する性表現を規制対象とする東京都の青少年健全育成条例改正案について、都議会最大会派の民主党は18日までに、継続審査の動議を提案する方針を固めた。共産党、生活者ネットワーク・みらいも同調する方向。これにより、同改正案は開会中の今都議会では成立せず、継続審査の見通しとなった。
改正案は、漫画やアニメの中の18歳未満と類推される人物を「非実在青少年」と規定。非実在青少年への性暴力などを肯定的に描く図書類を、青少年への販売・閲覧規制の対象に加える内容だが、漫画家有志や出版業界が「表現の自由を奪う」などと反対している』(以上、時事通信)と。
●自由と濫用
「自由」という言葉には、甘美な響きがある。
「表現の自由」と言えば、さらにそうである。
しかし「自由」と「自由の濫用」は、ちがう。
「自由」に名を借りた「濫用」には、警戒したらよい。
先にも書いたように、最近の雑誌には、(ものすごいもの)がある。
道徳も哲学もない。
文化もない。
歯止めもない。
子どもたちの読む雑誌の中には、そのものズバリの描写シーンが載っている。
そういうのを総合して、「表現の自由」とは、言わない。
言うまでもなく、「自由」には、「責任」がともなう。
言うなれば、自転車の前輪と後輪。
「責任」がともなわない「自由」は、自由とは言わない。
無責任という。
もっと言えば、商業主義に踊らされた、権利の濫用。
さらに言えば、「権利」とは、常に弱者から強者に向けられるもの。
弱者の権利を保護するために、「権利」という言葉がある。
子どもの世界を自由に操ることができる強者が、子どもという弱者を操るために、
「権利」を利用するのは、許されない。
●実際には、「非実在的少女」
繰り返す。
明らかに小学生ぽい女の子(=非実在青少年)が、裸で四つんばいになる。
そういう女の子に対して、性的行為を繰り返す。
強要する。
そういう描写が、「表現の自由」なのか。
もしそれが「表現の自由」なら、(もし、娘がいればの話だが……)、同じことを
自分の娘にさせてみたらよい。
裸の写真を、雑誌で公表したらよい。
「責任」というのは、それをいう。
この問題は、漫画家たちの良識と常識にゆだねるしかない。
が、その良識と常識があやしいから、「規制」という問題が出てくる。
こんなことがあった。
●陰毛ヌード
ちょうど22年ほど前のこと。
東京に、「Y書房新社」という出版社があった。
「H&N」という雑誌を出していた。
が、月を重ねるごとに赤字。
そこで社長が、かけに打って出た。
ちょうどそのころ、ヌード写真の(陰毛)に対する、警察に取り締まりが緩くなった。
それをその出版社の社長は、いち早く察知した。
社長は、逮捕覚悟で、陰毛ヌード写真を載せた。
「H&N」という雑誌は、その月、爆発的に売れた。
もちろんその社長に、「表現の自由の追求」などという高邁な精神があったわけではない。
窮地の一策として、陰毛ヌード写真を載せた。
私は当時、その雑誌に、コラムを連載させてもらっていた。
このあたりのいきさつを、私は間近で見聞きしていた。
「表現の自由」と言えば、耳ざわりはよいが、その底流では、薄汚い商業主義が
うごめいている。
出版社にしても、まず「売れる本」を考える。
わかりやすく言えば、金儲けが第一。
本音を言えば、そういうことになる。
●薄汚い商業主義
薄汚い商業主義をカモフラージュするための「表現の自由」。
もしそうなら、どうしてそれが、表現の自由なのか。
またどうしてそれが、「追求しなければならない権利」なのか。
もっと言えば、それによって守られる法益は、何か。
またそれを規制することによって侵害される法益は、何か。
この問題は、そこまで踏み込んで考えてみる必要がある。
「法益」というのは、「法によって守られる利益」をいうが、同時にそれには、
「法がなければ被(こうむ)る不利益」も含まれる。
子どもに与える不利益を考えるなら、「法」による規制もまた、法益ということになる。
仮に百歩譲っても、判断力の未成熟な子どもという読者に、これまた未成熟な
子どもを題材にした性描写をする。
どうしてそれが、「表現の自由」なのか。
「表現の自由」と、どうして言えるのか。
●欲望の追求
この問題は、「もしあなたの娘が・・・」、あるいは「もしあなたの息子が・・・」
という前提で考えてみたらよい。
今の日本に宗教性がないのは、しかたないとしても、それに代わる倫理観や道徳観、
さらには哲学観がないのは、どうしてか。
またそれでよいのか。
欲望のおもむくまま行動し、欲望の追求ばかりしたら、どうなるか。
それこそこの日本という社会は、バラバラになってしまう。
(すでにバラバラだが・・・。)
それに歯止めをかけるのは、当然のことではないのか。
交通規制をしたからといって、「行動の自由」を規制することにはならない。
資格や許可を強化したからといって、「職業選択の自由」を侵害したことにはならない。
それと同じように、「表現の自由」に、ある一定のブレーキをかけることは、
表現の自由を侵害することにはならない。
「性表現」と「暴力表現」ということに的をしぼるのも、一案。
むしろ現実は逆で、「表現の自由」をよいことに、その類(たぐい)の人たちが
好き勝手なことをしている。
写真は、使えない。
実物の子どもは使えない。
だから「絵」を使う?
もし本気で表現の自由を考えているなら、写真を使えばよい。
実物の子どもを使えばよい。
それほどまでに表現しなければならないことなら、そうしたらよい。
●表現の自由
最近、話題になったことで、「表現の自由」が問題になるとしたら、K選手
の服装問題がある。
「だらしないかっこうをしていた」という理由で、冬季オリンピックの開会式への
入場が、処分として停止された。
結局、あの問題は、K選手の謝罪という形で決着した。
が、どうしてあの問題は、「表現の自由」として、問題にならなかったのか。
「表現の自由」とやらを説く人たちは、どうして問題にしなかったのか。
先に書いた、法益という観点からしても、おかしい。
露骨な性描写というのは、私たちが法益として守らなければならない自由なのか。
それを表現したからといって、私たちはどんな利益を受けるのか。
それを規制したからといって、私たちはどんな不利益を受けるのか。
もっとわかりやすい例に、「立て看板」がある。
外国では、道路やビルのまわりに立てる看板を、規制しているところが多い。
けばけばしい看板は、美観をそこねる。
が、これもやはり、日本では野放し。
その結果が、今。
国道、県道は、どこも看板だらけ。
つぎからつぎへと、目に飛び込んでくる。
そうした看板が、いかに周囲の景観をそこねていることか。
あれも、「表現の自由」なのか?
●表現とは
となると、「表現」とは何か、それをもう一度、冷静に見つめなおしてみる必要がある。
端的に言えば、思ったこと、考えたことを、第三者にわかるような形で、外に
向かって表わすことを、「表現」という。
美術、音楽、文学、演劇、服飾、造形などがある。
そこには、内在的に、真・善・美に向かうエネルギーが必要である。
それを外の世界に向かって、表現していく。
それなら私もわかる。
そういうものに規制がかけられるなら、私も反対する。
それが逆に、不正、悪、醜に向かうものであれば、当然、規制がかけられる。
子どもの目に触れるものなら、なおさらである。
もちろんその判断をどうするかという問題もある。
拡大解釈には、当然、警戒しなければならない。
戦時中の日本が、そうだった。
が、『羮(あつもの)に懲りて、膾(なます)を吹く』というのもどうか。
拡大解釈も悪いが、野放しも、これまた悪い。
●言論の自由
対比しやすい例として、「言論の自由」がある。
「言論の自由があるから、何を書いてもいい」ということではない。
いくら相手に非があるからといって、「殺してしまえ」式の、悪の誘発に
結びつくようなことは、許されない。
当然、規制される。
また言論の自由といっても、先にも書いたが、それは弱者が強者に向かうべきもの。
強者が弱者に向かうものは、言論の自由とは言わない。
弱者が強者に規制されたとき、私たちは「言論の自由」という伝家の宝刀を抜く。
ちなみに言論の自由度では、日本は、欧米先進国の中でも毎年、最下位。
愚劣なことをギャーギャーと騒ぐことは自由だが、そこまで。
それ以上のことは、書けない。
同じように表現の自由も、弱者が強者に向かって主張するもの。
強大な資本力をもつ出版社が、子どもに向かって表現の自由とは、何か!
能力、知力でまさるおとなたちが、子どもに向かって表現の自由とは、何か!
●ある種の無政府主義
ああした性描写をもって、「表現の自由」を唱える人たちがいる。
またそういうものを規制しようとする動きに対して、ここぞとばかり、反対する人たちが
いる。
そうした人たちは、ある種の無政府主義者と断言してよい。
「ある種」というのは、ニーチェの言葉を借りるなら、「逆ニヒリズム」。
破滅的な破壊主義を、ニヒリズムとするなら、「形ある社会」で、破滅的に
甘えることを、「逆ニヒリズム」という。
(これは私の造語。)
いうなれば家庭内暴力。
家庭(=民主主義)というワクの中で、無政府主義を唱える。
政府そのものを破壊するほどの度胸はない。
家庭(=民主主義)を破壊するほどの度胸はない。
家(=民主主義)というワクに守られながら、その中で暴れる。
が、考えてみれば、これほど身勝手な論法はない。
つまり「表現の自由」なるものを、利用しているだけ。
アメリカの銃規制問題と比較してみると、それがよくわかる。
●アメリカの銃規制問題
銃規制に反対している人たちもまた、(表現)と(銃)のちがいはあるが、
同じようなことを言っている。
人間には自己防衛の権利があるとか、ないとか。
つまり(銃をもちたい)ということを、カモフラージュするために、「権利」を
主張している。
もちろんその背後では、同じく薄汚い銃器メーカーが暗躍している。
が、日本のように銃の保持を徹底的に規制されている国から見ると、
規制する・しないが、どうしてそれほどまでに重要なのか、よくわからない。
言い換えると、どうしてこの日本では、「銃の規制」について、だれも異議を
唱えないのかということにもなる。
反対に、性描写を徹底的に規制している国もあるはず。
どうしてそういう国に対して、日本は、異議を唱えないのかということにもなる。
手始めに、イスラム教国に対して、自己の正当性を訴えてみればよい。
それほどまでに重要な基本的な権利であるとするなら、国連の人権委員会に
提訴するという方法もある。
「どうか少女の裸体を、自由に描かせてください」、
少女が輪姦される場面を、描かせてください」と。
つまりこうした漫画家たちは、低劣な自分たちの商業主義を守るために、「表現の自由」
という言葉を利用しているだけ。
●結論
が、実際には、この問題は、規制するとか、しないとか、すでにそのレベルを超えて
しまっている。
つまり手遅れ。
というのも、現実には、雑誌どころか、中学生や高校生は、成人向けのDVDを
回し見している。
「雑誌の規制」という発想そのものが、今では、陳腐。
(国会で、少女向け雑誌が問題になったのは、私が37、8歳のころ。
A出版社から出ていた「P」という少女向け雑誌が、問題になった。
つまり今から25年近くも前の話。)
雑誌だけが、情報媒体ではない。
さらに今では、インターネットもある。
パンドラの箱ではないが、一度、空に解き放った欲望という鳥は、二度とカゴには
戻らない。
つまり規制したところで、(一応の規制は必要だろうが)、意味はないということ。
要するに私たちおとなが、それだけの良識と常識をわきまえるしかない。
またそういう良識と常識を作り上げていく。
つまるところ、この問題は、そこへ行き着く。
●最後に……
今回のこの問題は、「表現」とは何か。
「自由」とは何か。
それについて、おおいに考えさせられた。
ただこういうことは言える。
こうした問題に対する感じ方には、東京という(都会)と、私たちの住む浜松(地方)
との間には、「温度差」があるということ。
東京の人たちが東京という範囲で、何をしようが、それは東京の人の勝手。
しかしそういう低劣文化を、地方のほうまで、垂れ流さないでほしい。
この浜松で、あんな絵を描いて、金儲けにつなげている人はいない。
私が知るかぎり、いない。
それが「東京」というだけで、許されてしまう。
この浜松という地方にまで、流れてきてしまう。
ついでに一言!
どこかおかしいぞ、日本の文化!
何が表現の自由だ!
この問題を考えると、どうしてもそこまで考えてしまう。
以上、一気に殴り書きをしてみた。
文書運もつ荒っぽさを、どうか許してほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 言論の自由 表現の自由 非実在青少年 薄汚い商業主義 権利の濫用 コミックの規制)
Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司
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