2010年3月11日木曜日

*The Heaven in Buddhism

●仏教でいう「あの世」論

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仏教では、「あの世(=来世)」思想を、
信仰の根幹にしている。
しかし釈迦自身は、「あの世」という
言葉も、また概念も一度も、口にしていない。
ウソだと思うなら、原始仏教典である、
『法句経』を、端から端まで読んでみる
ことだ。

仏教に「あの世」思想が混入したのは、
インドにもともとあった生天(しょうてん)
思想を、後の仏教学者たちが取り入れた
ためと考えてよい。

「生前に行いにより、人は死後、天上界
という理想郷で、生まれ変わることが
できる」というのが、生天思想である。

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●釈迦

 釈迦自身は、きわめて現実主義的な、つまり現代の実存主義に通ずるものの考え方をしていた。
いろいろな説話が残っている。

たとえば1人の男が釈迦のところへやってきて、こう言う。
「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればいいか」と。
すると釈迦は、こう言って、その男を諭す。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 ここでは記憶によるものなので、内容は不正確。
またこの説話は、私のエッセーの中でも、たびたび取りあげてきた。
しかしこの説話の中でも、釈迦は、「あの世」という言葉を、まったく使っていない。
もしそのとき釈迦が「あの世」を信じていたのなら、その男に、こう言っただろう。
「心配しなくてもいい。あの世でちゃんと生まれ変わるから」と。

●あの世論

 一方、キリスト教やイスラム教では、「天国」を、しっかりと説く。
仏教で言う「天上の理想郷」ということになる。
どちらが正しいとか、正しくないとか、そんなことを論じても意味はない。
また釈迦自身はどう考えていたかを論じても、意味はない。

 現実に私たちは、今、こうしてここに生きている。
そしてやがていつか、近い将来、この肉体は分子レベルまで、バラバラになる。
こうした(現実)の中で、いかに有意義に、心豊かな人生を送るか。
それが重要。
そのために宗教というものがある。
そのひとつに、「あの世」に希望を託して生きるという方法もある。
「天国」でも構わない。

 しかし私自身は、「ない」という前提で生きている。
何度も書くが、それは宝くじと同じ。
当たるか当たらないか、それがわからないまま、当たることを予想して、家を買ったり、
車を買ったりする人はいない。
同じように、あるか、ないか、それがわからないまま、「あの世」に、希望を託して
生きることはできない。

 死んでみて、「あの世」があれば、もうけもの。
そのときは、そのときで、考えればよい。
宝くじにしても、当たってから、賞金の使い道を考えればよい。

●珍問答

 話はぐんと脱線する。
こんな珍問答がある。
(私が考えた珍問答だが……。)

 平均寿命が、40年とか50年とかいう時代には、こうした問題は起こらなかった。
その前に、人は死んだ。
しかしその平均寿命が、70年とか80年になった。
とたん、ボケ問題が、大きくクローズアップされるようになった。

 そこで「あの世」へ行く老人たちは、どういう状態で、「あの世」へ行くのかという問題。
私の印象に残っている老人に、こんな老人がいた。
特養にいた老人(女性、85歳くらい)だが、一日中、顔をひきつらせ、こう言って
叫んでいた。
「メシ(飯)は、まだかア!」「メシは、まだかア!」と。

 細面の美しい顔立ちを、そのまま残した女性だった。
だからよけいに、印象に残った。
そこで珍問答というのは、これ。

そういった女性が「あの世」へ入ったら、どうなるか?、と。
「あの世」でも、やはり同じように、「メシはまだかア!」と叫びつづけるのだろうか。
それとも、一度、若くて美しい女性にもどって、「あの世」へ入るのだろうか。

 インドの生天思想によれば、「生まれ変わる」ということだから、赤ん坊になって
生まれ変わるということになる。
すると、ここで最大の矛盾が生じてくる。

●矛盾

 善人と悪人のちがいは、0歳期~の環境によって決まる。
その人個人の責任というよりは、その人を縛りつけている「運命」による。
私たちの身体には、無数の「糸」がからみついている。
その「糸」が、ときとして、私たちをして、望まぬ方向に導くことがある。
それを私は、「運命」という。

 言い替えると、どんな赤ん坊でも、理想郷で生まれ育てば、善人になる。
だとするなら、その入り口で、人間を差別する方が、おかしい。
「あなたは悪人だったから、理想郷には入れません」と、どうして言うことが
できるのか。
だれが言うことができるのか。

●「この世」が「あの世」

 ……とまあ、こういう意味のない問答は、しても、時間の無駄。
もし「あの世」がほんとうにあるのなら、私がすでに何度も書いているように、
今、わたしたちが住んでいる「この世」のほうが、「あの世」と考えるのが正しい。
私たちは、理想郷である「あの世」に住んでいて、ときどき「この世」、つまり
「あの世」から見れば、「あの世」へやってきて、「この世」で生きている。

 「この世」には、地獄もあれば、極楽もある。
国単位で、地獄もあれば、極楽もある。
さしずめ、餓死者が続出しているK国は、地獄ということになる。
イラクでも、アフガニスタンでもよい。
一方、北欧の国々は、極楽ということになる。
そういう理屈なら、私にもわかる。
納得する。

●希望

 では、生きがいとは、何かということになる。
死んだら、何もかもおしまいというのは、あまりにもさみしい。
それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。
「努力によって、神のような人間になることもできる。
それが希望」と。

それをそのまま紹介して、このエッセーをしめくくりたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

 つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

 その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

 もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

 たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

 私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

 「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

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