●「Nothing(無)」論
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今朝、パソコンを開くと、TK先生から
メールが届いていた。
先生について書いたときには、かならず、
その原稿を、先生に届けるようにしている。
これは暗黙の、つまり紳士協定のような
もの。
で、TK先生からの、その返事。
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林様: 大変に長い文書をよく書けますね。何か分かったような分からないような
nothing の問題について。それだけでも感心しています。
毎日英国のケンブリッジのSir John Thomas さんが書いてくれるという私の話はと
ても楽しみになっている一方で、Berlin の Haber Institute の創立百年祭が来年に
大きくあるというのでH子も一緒に行こうよと言ってくれていますが。亡父が創立時
の研究職員に抜擢されているだけに、向こうでも今更ながら私を大事に注目していま
すので、思いがけない親孝行でした。当時新設でも世界一の研究所でしたから。アイ
ンシュタインの他ノーベル賞が幾人もいましたし。昔の輝かしい歴史を大幅に宣伝す
るらしいです。「空気からパンを作って」人類の危機を救ったハーバーの偉業に亡父
が大変に貢献したというので。 私のホームページにあるハ―バーの話を書いてくれ
という依頼も国内できています。もう消えていい時期なのですが。長生きしていると
思いがけないことがあります。貴方も貴重な人生ですからくれぐれもご自愛の上お
元気に過ごして下さい。素晴らしい奥さんによろしく。
TK
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●科学vs哲学
科学は「命」を救い、哲学は「魂」を救う。
科学と哲学のちがいを一言で言えば、そういうことになる。
が、どちらが優位性をもつかと言えば、当然、哲学ということになる。
(たぶん、TK先生は、猛反発するだろうが……。)
人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしで、数億年という長い年月を生き延びてきた。
哲学という「形」があったわけではないが、(生きるための常識)が、生命を支えた。
鳥は水にもぐらない。
魚は陸にあがらない。
そんなことをすれば、死んでしまうことを、知っていたからだ。
哲学は、その(生きるための常識)が、昇華したもの。
言い替えると、人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしでも生きていかれる。
しかし哲学なしでは、生きていかれない。
が、相互に補完関係がないわけではない。
哲学のない科学は、ときに人間の生存に脅威をもたらす。
原子爆弾や化学兵器にその例をみる。
一方、科学性のない哲学は、ときとして、人間を誤った方向に導く。
狂信的なカルト教団にその例をみる。
●「だからどうなの?」
私たちは、常に、「だからどうなの?」を問いかけながら、生きる。
それが哲学ということになる。
一方、科学は、「なぜ?」を繰り返す。
あのアインシュタインも、「問いつづけることが重要」と書き残している。
が、そこに落とし穴がある。
TK先生もいつか言っていたが、そのためどうしても視野が狭くなる。
「中には、こんな研究をして、何になるのかと思われるようなのもある」と。
ひとつの例として、中国南部の民族楽器の研究をあげてくれた。
ときとして科学者は、細分の、そのまた細分化された世界で、自分の立場を権威づけようとする。
つまり視野が狭くなる分だけ、外の世界が見えなくなる。
先生が書いた、ハーバー博士にしても、空中窒素固定法で、「空気からパン」を作った。
が、その一方で、第一次大戦中は、毒ガスの研究にも手を染め、毒ガス戦の一線に立ってしまった。
もしそのときハーバーが、「だからどうなの?」と一言でも、自分に問いかけていたら、毒ガスの研究には、手を染めなかっただろう。
やがてハーバーは、ユダヤ人であることにより、ドイツを追われる。
しかしアウシュビッツで使用されたチクロンBは、そのハーバーによって開発されたものである。
●「Nothing」論
仏教でも、「一切皆空」(後述)を、その根本理念としている。
それから約2000年を経て、実存主義を私たちに教えた、あのサルトルも、最後は「無の概念」という言葉を使って、「無」を説いた。
TK先生が言う、「Nothing」というのは、「ナンセンス」という意味である。
つまり私を痛烈に批判している。
一読すると、私をほめているようにも見えるが、本当は、心底、私をバカにしている。
が、ちょっと待ってほしい。
私には、そういうTK先生が、ありがたい。
今の私に、そこまで面と向かってものを言ってくれる人は、いない。
言われた私は、何も怒っていない。
こういう言い方を、たがいにしあいながら、すでに40年になる。
(40年だぞ!)
反対にTK先生の周囲には、私のように、TK先生を批判する人はいない。
……できない。
だからこのところ、TK先生を、いつも怒らせてばかりいる。
話を戻す。
この「Nothing」という言葉だが、むしろそこに、真理のすべてが凝縮されている。
「だからどうしたの?」と問いつづけると、そのいきつくところが、「Nothing」ということになる。
私が言っているのではない。
あの老荘思想に始まり、西田幾多郎へとつづく。
西田幾多郎は、東洋的な無の概念から、「絶対無」という言葉を使って、「無」を論理化、体系化させている。
●死の克服
人は裸で生まれて、裸で生きて、そして裸で死ぬ。
その間のプロセスは、「無」。
いかに無であるかによって、魂の解放が完成される。
あのサルトルも、「死は不条理なり」という言葉を、一度は、使った。
「自由刑」という言葉も使った。
そして「いくらがんばっても、死がある以上、人間には真の自由はない」と、一度は、説いた。
(このあたりは、学生時代に学んだ記憶なので、不正確。)
しかし最後は、「無の概念」という言葉を使って、サルトルは、死を克服する。
私には、それが何であるか、今のところまだよくわからない。
あえて言えば、仏教的な「空」の概念に通ずるものではないか。
「一切皆空」……「色即是空(しきそくぜくう)」ともいう。
仏教では、すべてのもの、それは自己、他者、万物を問わず、すべてのものは、実体のない空であると説く。
私たちがなぜ「死」を恐れるかと言えば、そこに「私」があるからである。
私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
しかしその「私」から、「私」を取り去ってしまう。
残るのは、「裸の私」ということになる。
が、こうなってしまうと、もうこわいものはない。
失うものがないのだから、何も恐れる必要はない。
あとはただひたすら、自分を燃焼させて生きていく。
(その日)が来たら、「ああそうですか」と言って、この世を去っていけばよい。
それが結局は、「真の自由」ということになる。
久々に、「Nothing」について考えてみた。
このつづきは、またの機会にしたい。
今朝は、昼からの仕事の説明会の準備をしなければならない。
私とTK先生の、おおきなちがいは、ここにある。
ともかくも、私は死ぬまで、「札」という金銭を稼がねばならない。
がんばろう!
がんばります!
2010年3月27日
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 無 無の概念 一切皆苦 色即是空 西田幾多郎 絶対無 はやし浩司 Nothing)
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