●27キロ、走破!
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昨夜遅く、自宅から山荘までを、
自転車で走ってみた。
片道、27キロ。
寒かった。
手が痛いほど、空気が冷たかった。
夜10時ごろ出発して、着いたのは、午前
1時半。
3時間半もかかったことになる。
その間、いろいろなドラマがあったが、
忘れた。
よく覚えているのは、コンビニのありがたさが、
改めてよくわかったということ。
「セブンiさん、ありがとう!」
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●静かな朝
起きて、雨戸をみな、開けた。
とたん緑の山々と、水色の空がどっと視界に入ってきた。
手前のほうでは、枯れ木がやさしく揺れている。
冬の景色だが、どこか春めいてきた。
ところでなぜ、昨夜、自転車で走ったか?
それにはいろいろな理由がある。
その第一。
家族のことをあれこれと考えていたら、
そのうち収拾がつかなくなった。
ほかのテーマなら、文章にして、モヤモヤを
はき出すということもできる。
しかし「家族」では、それができない。
●自責型人間
ときどき自分がいやになるときがある。
このところめったに、他者という(個人)に対しては、(怒り)を
覚えることはない。
家族であれ、近隣の人たちであれ、あるいは親類の人たちであれ、
(怒り)を覚えることはない。
(怒り)を覚えても、どういうわけか、それがすぐ自分にはね返って
きてしまう。
私は典型的な自責型人間。
外見的には、他責型人間に見えるかもしれないが、自責型。
何があっても、自分を責めてしまう。
そういう(怒り)が、自分に向かった。
それが頂点に達した。
だから自転車で家を飛び出した。
●徘徊
言うなればボケ老人の徘徊(はいかい)のようなもの。
反対に、徘徊するボケ老人の気持ちが、私にはよくわかる。
体を動かしていれば、身のまわりのわずらわしいことを、
すべて忘れられる。
遠ざかれば遠ざかるほど、自分を忘れられる。
が、それだけではない。
昨夜の私がそうだったが、孤独感すらどこかへ消える。
おかしな現象に思う人がいるかもしれない。
孤独な世界に自ら飛び込みながら、孤独感が消える?
そこに(孤独)があるなら、思い切って、飛び込んでみる。
「こわい、こわい」と言って逃げ回っている間は、孤独の
ほうが、どんどんと追いかけてくる。
だから飛び込んでいく。
こちらから飛び込んでいく。
それは、子どもの喧嘩と同じ。
●暴力団の男
私は子どものころから、気が小さいくせに、喧嘩ばやかった。
悶々と悩むことが苦手だった。
だからそこに相手がいるなら、その場で解決する。
パンパンと喧嘩して、それですます。
それが私のやり方だった。
浜松へ来たころも、こんなことがあった。
たまたま知り合った男が、アパートを探していた。
で、私の知り合いの人が、アパートを経営していので、
たがいに紹介してやった。
で、男は、その人のアパートに住むようになった。
が、数か月もすると、アパートの経営者から苦情が入るようになった。
「部屋代を払ってくれない」
「おかしな人たちが、出入りしている」と。
で、私は即座に、アパートを借りた男に電話を入れた。
知り合ったときとは、声の調子がまったく変わっていた。
「貴様、命が惜しくなければ、○○町のxxという喫茶店へ来い。
部屋代は、そこで払ってやる」と。
私は即刻、そこへ出かけた。
喫茶店へ入ると、一番奥のソファに、その男がいた。
両脇を、別の2人の男が囲んでいた。
見るからに暴力団の組員とわかる様子だった。
私は自分の体が震えていることを隠しながら、ツカツカとその男の
前まで行った。
そして「部屋代を払って、今月中にアパートを出てくれ」と言った。
とたんその人の顔は、和らいだ。
「お前って、度胸、あるな。気に入った」と。
●途中で
以後、この私の行動パターンは、変わっていない。
昨夜も家を出るとき、「だいじょうぶかな?」と思った。
思ったが、そのときは、すでにペダルをこぎ始めていた。
最後の3分の1は、山の上り坂。
気温も、さらに下がる。
ここ数日、強力な寒気団が太平洋岸までおりてきて、最低気温は、
3~4度。
昨夜も、その程度だった。
山荘へ着いてストーブにスイッチを入れると、部屋の中で、3度を
示していた。
が、私は来てしまった。
かかった時間は、先にも書いたように、3時間半!
途中で、何度か歩いて自転車を引いたが、そのつど、左足がこむら返しを
起こした。
痛かった。
床に入ったときも、こむら返しを起こした。
痛かった。
●今朝
で、今朝は気分は悪くない。
何かをやり遂げたような充実感がある。
孤独感はそのままだが、どこかでその孤独感を楽しんでいる。
そんな自分が、別のところにいる。
時刻は現在、午前11時ちょうど。
もうすぐワイフも車で、ここへ来るはず。
ポットの湯もわいた。
これからカップヌードルを作って、食べる。
それと庭に除草剤をまく。
春草があちこちで、背丈をかなり伸ばしている。
●1+1=0
話を戻す。
孤独といえば、みな、孤独。
孤独でない人はいない。
その孤独を見つめるのがこわいから、自分をごまかして生きている。
家族や、友だちや、仕事の輪に入って、自分をごまかして生きている。
しかし孤独は、ちゃんとそこにいる。
しっかりとそこに、いる。
が、ここで不思議な足し算が成り立つ。
たとえばここに孤独な2人がいたとする。
その2人が寄り添えば、1+1=2になるはず。
が、こと孤独について言えば、1+1=0になる。
1+1+1も、0。
1+1+1+1も、0。
が、それには条件がある。
たがいに無私無欲でなければならないということ。
たがいに相手を思い、たがいの孤独感を共鳴しあうこと。
●体重
・・・という話はここまでにして、ひとつだけがっかりしたこと。
このところ体重オーバーの日々がつづいている。
で、起きてすぐ、体重計に乗ってみた。
が、ぜんぜん、減っていなかった!
27キロもがんばったのだから、1~2キロは減っていると期待していた。
が、前日と同じ。
これはどういう理由によるものなのか。
かなりのエネルギー(カロリー)を消耗したのだから、その分、体重が
減っていてもおかしくない。
が、同じ?
ただおかしいなと思ったのは、昨夜、あれほど寒いのに、途中で、2度も
尿意をもよおしたということ。
それと山荘に着いてから、のどが渇いたので、お茶を数杯飲んだということ。
汗の替わりに、小便になった。
これはわかる。
その分だけ、お茶を飲んだ。
スポーツ医学については、まったく門外漢。
いちど、それについて調べてみたい。
たった今、ワイフが来たので、この話はここまで。
あとは楽しむ。
せっかくの春休み。
●サガンの「悲しみよ、こんにちは」
数日前、ワイフがDVDを借りてきた。
サガン原作の、「悲しみよ、こんにちは」というタイトルだった。
サガンの名前も、小説の名前もよく知っている。
が、本を読んだことはない。
映画化されていることも、知らなかった。
それについて、ワイフが、横に座って、内容を説明してくれた。
その一部に、こんな話があった。
何かのことで、母親と息子が絶交する。
以来、母親と息子は、何10年もたがいに会わない。
が、母親が臨終のときを迎える。
見るに見かねて、母親の近くにいた人が、息子を呼び寄せる。
息子は連絡を受けて、やってくる。
しかし母親は、息子に、会わない。
会わないまま、死んでいく。
(以上、ワイフの話なので、不正確。)
それについてワイフは、「どうして会わなかったのかしら」と。
で、私はこう言った。
「ぼくだって、会わないよ」と。
ワ「どうして?」
私「母親のほうは、毎日のように自分と闘って生きてきた。
息子への恋慕を否定しながらね・・・。
いくら最後でも、会えば、そういう自分を否定することになる」
ワ「息子の方だって、さみしい思いをしたはずよ」
私「ちがうよ。息子は、母親を恨んだだけだよ。
しかし母親のほうは、そのつどはげしく自分を責めた。
(怒り)の向きがちがう。
愛する人どうしが離反したときは、その向きは、母親と息子とでは、ちがう。
母親は自分を責める。
息子は母親を責める。
だから会わなかった・・・」
ワ「映画『エデンの東』とは、逆ね」
私「あのときは、息子は父親から離反していない。
父親もそれをよく知っていた。
だから父親は、息子を許すことができた」
ワ「サガンのほうは、どうだったの?」
私「ぼくは小説は読んでないけど、母親の気持ちがよくわかるよ。
母親は、息子を恨んだり、息子を怒っているのではない。
そういう息子にした、自分に対して怒っている。
それは絶望感との闘いと言ってもいい。
最後の最後で、『お母さん!』『息子よ!』と抱き合うわけにはいかない。
日本映画なら、そういう終わり方をするだろうけどね・・・」と。
『許して忘れる』は、子育ての基本。
相手が他者なら、許すことができる。
しかし相手が自分では、許すことができない。
サガンは、最後の最後まで、自分を許すことができなかった。
私はワイフの話を聞いて、そう解釈した。
●3月30日
たった今、庭に除草剤をまいてきた。
焚き火をしようかと思ったが、風が強いのでやめた。
今年は30年に1度という寒い春という。
たしかに寒い。
風も強い。
(風が強いのは、毎年のことだが・・・。
このあたりでは、「遠州の空っ風」という。)
こういう寒い日は、体の動きも鈍くなる。
何かをしたいという意欲も半減する。
「このまま山荘で午後を過ごそうか」という怠けた心もある。
「どうしよう?」と思ったところで、おしまい。
やはりこういうときは、行動を開始するのが、いちばん!
悶々としていると、うつ状態になってしまう。
では、みなさん、今朝はここまで。
3月30日は、いつもとちがって始まった。
(補記)
フランソワーズ・サガン
『悲しみよこんにちは』
ウィキペディア百科事典より、転載。
『……ヒロインのセシルと鰥夫(やもめ)である父のレエモンはコート・ダジュールの別荘で夏を過ごしていた。セシルは近くの別荘に滞在している大学生のシリルと恋仲になる。そんな彼らの別荘に亡き母の友人のアンヌがやってくる。アンヌは聡明で美しく、セシルもアンヌを慕う。だが、アンヌと父が再婚する気配を見せ始めると、アンヌは母親然としてセシルに勉強のことやシリルのことについて厳しく接し始める。セシルは今までの父との気楽な生活が変わってしまったり、父をアンヌに取られるのではないかという懸念に駆られ、アンヌに対して反感の気持ちを抱くようになる。やがて、セシルは父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつき、シリルと父の愛人だったエルザを巻き込んで実行に移すが…』(以上、ウィキペディア百科事典より)
Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司
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