●映画『沈まぬ太陽』vs日本航空(JAL)
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映画『沈まぬ太陽』が、日本航空(JAL)
内部で、問題になり始めているという。
当然である。
あの映画は、日本航空(JAL)内部の
労使問題を、日本航空(JAL)と明らかに
わかる形で、映画化したもの。
それに日航123便という重大事故をからませて、
おおげさにしただけ。
事実、映画を観てもわかるように、日航123便の
事故以前から、ストーリーは始まっている。
その時点で、労使問題はこじれ、主人公の
恩地は、左遷されている。
「EIGA.COM」には、こうある。
『累計700万部を超える山崎豊子のベストセラー小説を、
渡辺謙主演で映画化。監督は「ホワイトアウト」の若松節朗。
巨大企業・国民航空の労働組合委員長を務める恩地は、
職場環境の改善を目指し会社側と戦うが、懲罰人事で
海外赴任を命じられてしまう。パキスタン、イラン、
ケニアと次々と転勤を強いられた恩地は、10年後に
本社復帰を果たすが、帰国後間もなく自社のジャンボ機が
御巣鷹山に墜落するという事件に直面する』と。
ここが重要な点だから、もう一度、確認しておきたい。
恩地は、労働組合委員長として、会社と戦う。
これは会社内部の問題。
懲罰人事で、海外赴任を命じられる。
これも会社内部の問題。
10年後に、本社復帰を果たす。
これも会社内部の問題。
そのあと、日航123便の墜落事故が発生する。
が、映画は、どういうわけか日航123便の墜落事故から、
始まる……。
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●表現の暴力
あの映画は、「言論の自由」「表現の自由」という枠を、
明らかに超えている。
「言論の暴力」「表現の暴力」と言い換えてもよい。
あの映画は、だれが見ても、日本航空(JAL)が、
モデル。
「NAL123便」という名称ひとつとっても、
それがわかる。
映画は、そのNAL123便の墜落事故の場面から
始まる。
衝撃的な切り口だが、ストーリーが展開されるに
つれて、「いったい、この映画は何を言おうとしている
のか」、それがわからなくなる。
要するに、日本航空の中傷、それだけ。
NAL123便の墜落事故は、むしろそのために
利用されただけ。
遺族の人たちだって、不愉快に思うだろう。
「時期が時期だけに……」という意見もあるが、
時期は関係ない。
もしあなたの勤める企業が、こういう形で、
映画として料理されたら、あなたはどう思う
だろうか。
あなたは社員として、黙って見過ごすだろうか。
いくら会社内部にそういう問題があったとしても、
それは内部の問題。
たとえばあなたの子どもが万引きをしてつかまった
とする。
あなたには大問題かもしれない。
しかしだからといって、それを映画という、
天下の公器を使って暴露されたら、あなたは
黙って見過ごすだろうか。
●ダ作映画
ゆいいつ救いなのは、映画そのものが、ダ作。
わざとらしい演技。
大げさな振り付け。
セリフを棒読みするような、会話。
どの俳優も、みな、同じような言い回し。
視線の動かし方まで、同じ。
舞台演劇のようで、演技も不自然。
主演の渡辺謙をのぞいて、みな、ヘタクソ!
顔と声だけで、力(りき)んでいるだけ!
主人公の妻……あんな他人行儀の妻はいない。
慰霊室で大泣きする女性……?????。
見合いの席で、ふんぞり返る新郎の母親。
女の体にからみつく官僚、などなど。
こまかいところで、稚拙な演技がつづく。
それがチリのように積み重なって、
『沈まぬ太陽』をつまらない映画にしている。
……そう、どの場面も、とってつけたような演技ばかり。
映画全体が、一枚のスクリーンのよう。
薄っぺらい。
奥行きがない。
もちろん娯楽性はない。
つまり、映画として、見るに耐えない。
日本航空(JAL)が、怒るのが当たり前。
●フィクション?
繰り返す。
山崎豊子というより、『沈まぬ太陽』の監督は、
あの映画を通して、いったい、何を言いたかったのか。
説教がましいセリフが出てくるたびに、
私という観客は、うんざり。
ところで日本航空は、すでに2000年の社内報で、
「名誉が著しく傷つけられ……遺憾である」(おおぞら)
とコメントを書いている。
本来なら、この時点で、日本航空は山崎豊子に対して、
決着をつけておくべきだった。
名誉棄損として立件できるだけの構成要件を
じゅうぶん、満たしている。
いくら「この映画はフィクションです」と断りをつけても、
断りそのものが、白々しい。
「フィクション」と言いながら、だれもフィクションとは
思わない。
国民航空と言えば、日本航空。
マークも、鶴から桜(梅?)に変えられただけ。
こうした手法、つまり、事実に「虚偽」を混ぜて、相手を煙に巻く。
その手口は、詐欺師のそれと、どこもちがわない。
さらに卑怯なことに、監督は、あたかも原作者の山崎豊子に
責任をかぶせる形で、自分は逃げている。
私のように、映画『沈まぬ太陽』で、はじめて原作本『沈まぬ
太陽』の概要を知ったものも多いはず。
仮に映画『沈まぬ太陽』を見て、だれかが監督を名誉棄損で
訴えても、「私は原作を忠実に映画化しただけです」と
逃げてしまうだろう。
事実、この映画を担当した脚本家は、映画化までに3人交替
しているという(某週刊誌)。
また脚本は、そのつど、山崎豊子の校閲を受けているという。
だったら、なぜ、今、『沈まぬ太陽』なのか。
日本航空(JAL)が、経営再建問題で、話題にならない日はない。
だれが見ても、それをねらった映画としか、思えない。
「偶然、重なった」(監督・某週刊誌)という言葉は、
「国民航空は、日本航空のことではない」と言うのと同じくらい、
白々しい。
●観客の疑問
……とは言え、『沈まぬ太陽』を観てから、ほぼ10日が過ぎた。
当初の印象は消え、今は、「つまらない映画だった」という
印象しか残っていない。
主演の渡辺謙の演技がダントツに光る一方で、先にも
書いたように、周囲を固める俳優たちの演技が、あまりにも稚拙。
それが主演の渡辺謙の演技を、「ダントツ」にしているわけだが、
そのアンバランスさが、映画そのものをつまらないものに
している。
日本航空(JAL)にとっては、不愉快な映画であることには
ちがいない。
しかしそれほど、気にしなくてよいのでは……。
当時の世相を知っている人なら、だれもがこう思うだろう。
「どこの会社でも、その程度のことはあった」と。
また観客も、一線を引いて、映画を観ている。
一本の映画程度で踊らされるほど、バカではない。
あの映画を観て、「日本航空はひどい会社」と思うよりも前に、
「ああいう一方的な映画が、果たして許されていいのか」という
疑問が先に立つ。
それが冒頭に書いた言葉ということになる。
つまりあの映画は、「言論の自由」「表現の自由」という枠を、
明らかに超えている。
「言論の暴力」「表現の暴力」そのものと考えてよい。
●付記
日航123便の墜落事故は、たしかに不幸な事故であった。
しかし事故は事故。
反社会的行為でもなければ、不正義でもない。
それをあたかも、反社会的行為、もしくは不正義でもあるかの
ように仕立てて、日本航空(JAL)内部の労使問題を
ああした形で映画化するというのは、それ自体が、表現の
暴力と断言してよい。
たとえば日本の首相や政治の、反社会的行為を追及する
というのとは、訳がちがう。
(アメリカ映画では、よく大統領が悪玉とした映画が作られるが、
それはそれ。
大統領は公人。
しかしその企業と明らかに特定できるような企業の名誉を毀損する
ような映画は許されないし、そんなことをすれば、即、訴訟問題
に発展するだろう。)
それがわからなければ、もう一度、自分にこう問うてみればよい。
『沈まぬ太陽』の中では、監督は何を正義として、私たちに
訴えたかったのか、と。
繰り返すが、日航123便の墜落事故は、映画の伏線として、
利用されただけ。
墜落事故の原因を追及していく過程で、日本航空(JAL)の
問題点がえぐり出されていく……というような映画だったら、
それはそれとして正義の追求になる。
あるいは遺族のだれかが、日本航空(JAL)と闘ったという
ような映画だったら、それも正義の追求ということになる。
話もわかる。
しかし映画の柱は、あくまでも日本航空(JAL)内部の
労使問題。
労使問題に翻弄される、1人の社員の物語。
繰り返すが、日航123便の墜落事故は、利用されただけ。
あるいは、別の事故でもよかったはず。
百歩譲って、労使問題をテーマにした映画というのなら、
何も、日本航空を表に出す必要はなかったはず。
映画に(あるいは本に)、重みをつけるため、戦後最大の
重大事故をからませただけ。
利用しただけ。
山崎豊子という作家は、姑息な手法を使う作家と
いうことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 日本航空 国民航空)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
2009年11月4日水曜日
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