【老人心理】(回顧性との闘い)
●前向きに生きる
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今、すべきことをする。
今、したいことをする。
今、できることをする。
それが「前向きに生きる」ということ。
年齢は関係ない。
年齢を考える必要はない。
年齢に制限される必要もない。
私は私。
どこまでいっても、私は私。
……ということで、昨日、パソコンの
モニターを新調した。
(あまり関係ないかな?)
サイズは、25・5インチ。
ワードで書いた文章を、丸々4ページずつ
表示できる。
ワイフもこう言った。
「やりたいと思ったら、どんどん
したほうがいいわ」
「今しか、するときがないから」と。
YES!
そのモニターの前に座ったとき、
私は、こう思った。
「ようし、やりたいことをする」と。
……とまあ、今朝もそう自分に言い聞かせながら、
始まった。
(11-13朝)
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●展望性vs回顧性
加齢とともに、展望性が弱くなり、回顧性が強くなる。
ちょうどこの2つが交差するのは、満55歳前後と言われている。
つまりその年齢を境にして、未来に向かって何かをしたいと思うよりも、
過去を懐かしむことのほうが、多くなる。
が、展望性と回顧性は、バランスの問題ではない。
展望性というのは、その人を前向きに引っ張っていく。
回顧性というのは、その人の生き様を、うしろへと後退させる。
つまり回顧性というのは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
では、そのためには、どうするか。
●回顧性との闘い
2つの方法がある。
ひとつは、回顧性を排除する。
もうひとつは、展望性を自ら大きくふくらます。
この2つを同時に実行してはじめて、回顧性を闇に葬ることができる。
「回顧性を排除する」というのは、要するに過去を振り返らないということ。
が、それだけでは足りない。
そこで「展望性をふくらます」ということになる。
未来に夢や希望をもち、しっかりとした目標を定める。
しかし夢や希望などというものは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
その努力は、怠ってはならない。
目標は、そこから生まれる。
●特徴
回顧性が強くなると、親戚づきあいとか、近所づきあいという言葉を、よく
使うようになる。
自分の身の回りを、(過去の時間)で、固めるようになる。
満50歳を過ぎると、同窓会のような会が急にふえるのも、そのためと考えてよい。
特徴をいくつかあげてみる。
(1) 生活が防衛的になる。(ケチになる。)
(2) 生活圏が縮小される。(狭い世界で生きる。)
(3) 慢性的な自信喪失状態になる。(「何をしてもだめだ」と思う。)
(4) 自己中心性が強くなる。(自分に合わない人を、否定する。)
こうした傾向は相互に関連しあいながら、ときにはその人の心をむしばむ。
「初老性うつ」に代表される、精神疾患も、そのひとつ。
回顧性に毒されてよいことは、何もない。
●(老い)の受容
これについては、以前書いた原稿を、もう一度、手直してみる。
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老いの受容段階説
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【老人心理】
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キューブラー・ロスの『死の受容段階論』は、よく知られている。
死を宣告されたとき、人は、(否認期)→(怒り期)→(取り引き期)
→(抑うつ期)→(受容期)を経て、やがて死を迎え入れるように
なるという。
このロスの『死の受容段階論』については、すでにたびたび書いてきた。
(たった今、ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司 死の受容段階」
を検索してみたら、113件もヒットした。)
で、またまた『死の受容段階論』(死の受容段階説、死の受容過程説、
死の受容段階理論などともいう)。
その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。
●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)
(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病
気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。
(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健
康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。
(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引
きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。
(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。
(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の
終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)
●老人心理
老人心理を一言で表現すれば、要するに、キューブラー・ロスの『死の受容段階論」に、
(第0期) を加えるということになる。
(第0期) 、つまり、不安期、ということになる。
「まだ死を宣告されたわけではない」、しかし「いつも死はそこにあって、私たちを
見つめている」と。
不治の病などの宣告を、短期的な死の宣告とするなら、老後は、ダラダラとつづく、
長期的な死の宣告と考えてよい。
「短期」か「長期」かのちがいはあるが、置かれた状況に、それほど大きなちがいは
ない。
ロスの説く、(第1期)から(第5期)まぜが混然一体となって、漠然とした不安感
を生みだす。
それがここでいう0期ということになる。
ある友人(満62歳)は、こう言った。
「若いころは何かの病気になっても、それを死に直接結びつけることはなかった。
しかし今は、経験したことのない痛みや疲れを感じただけで、もしや……と思う
ようになった」と。
そしてそれが老人心理の基盤を作る。
●死の受容
死の宣告をされたわけではなくても、しかし死の受容は、老人共通の最大のテーマ
と考えてよい。
常に私たちは「死」をそこに感じ、「死」の恐怖から逃れることはできない。
加齢とともに、その傾向は、ますます強くなる。
で、時に死を否認し、時に死に怒りを覚え、時に死と取り引きをしようとし、時に、
抑うつ的になり、そして時に死を受容したりする。
もちろん死を忘れようと試みることもある。
しかし全体としてみると、自分の心が定まりなく、ユラユラと動いているのがわかる。
それについては、こんなエピソードがある。
恩師のMN先生の自宅を訪れたときのこと。
MN先生は、私を幼児教育の世界に導いてくれた先生である。
そのとき80歳を過ぎていた。
縁側に座って、何かを話しているとき、私はこう聞いた。
「先生、歳をとると、死ぬのがこわくなくなるものですか?」と。
すると先生は、笑いながら、こう言った。
「林さん、いくつになっても、死ぬのはこわいですよ」と。
●「死の確認期」
この「0期の不安期」をさらに詳しく分析してみると、そこにもまた、いくつかの
段階があるのがわかる。
(1) 老齢の否認期
(2) 老齢の確認期
(3) 老齢の受容期
(1)の老齢の否認期というのは、「私はまだ若い」とがんばる時期をいう。
若いとき以上に趣味や体力作りに力を入れたり、さかんに旅行を繰り返したりする時期
をいう。
若い人たちに対して、無茶な競争を挑んだりすることもある。
(2) の老齢の確認期というのは、まわりの人たちの「死」に触れるにつけ、自分自身
もその死に近づきつつあることを確認する時期をいう。
(老齢)イコール(死)は、避けられないものであることを知る。
(3) の受容期というのは、自らを老人と認め、死と共存する時期をいう。
この段階になると、時間や財産(人的財産や金銭的財産)に、意味を感じなくなり、
死に対して、心の準備を始めるようになる。
(反対に、モノや財産、お金に異常なまでの執着心を見せる人もいるが……。)
もっともこれについては、「老人は何歳になったら、自分を老人と認めるか」という問題も
含まれる。
国連の世界保健機構の定義によれば、65歳以上を高齢者という。
そのうち、65~74歳を、前期高齢者といい、75歳以上を、後期高齢者という。
が、実際には、国民の意識調査によると、「自分を老人」と認める年齢は、70~74歳が
一番多いそうだ。半数以上の52・8%という数字が出ている。(内閣府の調査では
70歳以上が57%。)
つまり日本人は70~74歳くらいにかけて、「私は老人」と認めるようになるという。
そのころから0期がはじまる。
●「0期不安記」
この0期の特徴は、ロスの説く、『死の受容段階論』のうち、早期のうちは、(第1期)
~(第3期)が相対的に強く、後期になると、(第3期)~(第5期)が強くなる。
つまり加齢とともに、人は死に対して、心の準備をより強く意識するようになる。
友や近親者の死を前にすると、「つぎは私の番だ」と思ったりするのも、それ。
言いかえると、若い人ほど、ロスの説く(否認期)(怒り期)(取り引き期)の期間が
長く、葛藤もはげしいということ。
しかし老人のばあいは、死の宣告を受けても、(否認期)(怒り期)(取り引き期)の
期間も短く、葛藤も弱いということになる。
そしてつぎの(抑うつ期)(受容期)へと進む。
が、ここで誤解してはいけないことは、だからといって、死に対しての恐怖感が
消えるのではないということ。
強弱の度合をいっても意味はない。
若い人でも、また老人でも、死への恐怖感に、強弱はない。
(死の受容)イコール、(生の放棄)ではない。
老人にも、(否認期)はあり、(怒り期)も(取り引き期)もある。
それゆえに、老人にもまた、若い人たちと同じように、死の恐怖はある。
繰り返すが、それには、強弱の度合は、ない。
●死の否認期
第0期の中で、とくに重要なのは、「死の否認期」ということになる。
「死の否認」は、0期全般にわたってつづく。
が、その内容は、けっして一様ではない。
来世思想に希望をつなぎ、死の恐怖をやわらげようとする人もいる。
反対に、友人や近親者が死んだあと、その霊を認めることによって、孤独をやわらげ
ようとする人もいる。
懸命に体力作りをしたり、脳の健康をもくろんだりする人もいる。
趣味や道楽に、生きがいを見出す人もいる。
が、そこは両側を暗い壁でおおわれた細い路地のようなもの。
路地は先へ行けば行くほど、狭くなり、暗くなる。
そしてさらにその先は、体も通らなくなるほどの細い道。
そこが死の世界……。
老人が頭の中で描く(将来像)というのは、おおむね、そんなものと考えてよい。
そしてそこから生まれる恐怖感や孤独感は、個人のもつ力で、処理できるような
ものではない。
つまりそれを救済するために、宗教があり、信仰があるということになる。
宗教や信仰に、救いの道を見出そうという傾向は、加齢とともにますます大きくなる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●では、どうするか
かなり暗い話になってしまったが、回顧性が強くなればなるほど、同時進行の形で、
上記「0期の不安期」が始まる。
そこでこう考える。
「もし私(あなた)が、今、30歳なら、どうするか?」と。
ひとつの例として、冠婚葬祭、とくに葬儀をあげる。
たまたま昨夜、叔母が亡くなった。
いとこから、そういう連絡が入った。
葬儀は明日(土曜日)ということらしいが、K市での講演と重なり、私は参列できない。
そこで昨夜、私は香典を送金し、お悔やみの電報を打った。
が、そのときいろいろと複雑な心理が働く。
「失礼はないだろうか」「これでいいのだろうか」と。
そうした心理が働く背景には、私流の回顧性がある。
そこで私自身を、30歳という年齢に置き換えてみる。
すると葬儀に対する考え方が、一変する。
「死者をていねいに送ることは大切なことだが、私には遠い未来の話」と。
そこでもう一度、こう考える。
「私の息子なら、どうするだろう」
「私は、私の息子に、どうしてほしいだろう」と。
息子たちはみな、30歳前後である。
するとそこにひとつの答が見えてくる。
叔母の死は悲しいことだが、ひとつの(事実)として受け入れるしかない、と。
つまり甥(おい)として、やるべきことはやる。
しかしそれをきっかけとして、自分を回顧性に追い込んではいけない。
だからといって、叔母の死を軽く見ろということではない。
私たちが若いころそうであったように、老人の死は、淡々と見送るしかないということ。
早く忘れて、「私は私」という生き方に、戻るということ。
●展望性の維持vs回顧性との闘い
そこで最後に、展望性の維持と回顧性との闘いについて考えてみたい。
これは私自身の努力目標ということになる。
○展望性の維持
(1) 若い人たちと、努めて交際する。
(2) いつも新しいものに興味をもつ。
(3) 今できることは、つぎに延ばさない。
(4) 体力と知力の維持に、努力する。
(5) 夢と希望をしっかりともつ。
(6) 1日の目標、1年の目標を、いつも定める。
○回顧性との闘い
(1) 過去を振り返らない。
(2) 退職したら、肩書き、名誉、地位を捨てる。
(3) 「死」にまつわる行事、法事は、最小限に。
(4) 常に「今、あるのみ」と心得る。
(5) 過去にしがみつかない。
(6) 「老人はこうあるべき」という常識を作らない。
ざっと思いついたまま書いたので、荒っぽい努力目標になってしまった。
私の母や兄などは、ともに60歳を過ぎるころから、仏壇の金具ばかりを磨いていた。
要するに、そういう人生になってはいけないということ。
この努力目標を三唱して、ともかくも、今日も始まった。
がんばろう!
どこまでできるかわからないが、がんばろう!
09年11月14日、土曜日の朝
今朝は生暖かい雨が、シトシトと降っている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 老人心理 老人の心理 回顧性と展望性 回顧性 展望性)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
2009年11月14日土曜日
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