2009年11月1日日曜日

*The Liberalization of Education in Japan

【教育の現場では、今……】

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教育というのは、手をかけようと思えば、
いくらでもかけられる。
手を抜こうと思えば、
いくらでも抜ける。
それこそ、どこかの学習塾のように、
プリント学習だけですませようと
思えば、それもできる。

教育のこわいところは、この一点にある。

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●教育は重労働

 私はいつも、こう書く。
「教育は、重労働である」と。
それは教えたものでないと、わからない。
いや、あなただって、それをわかっているはず。
たった1人や2人の子どもの子育てで、あなたは四苦八苦している。
それを30人近くも1人の教師に押しつけて、「しっかり、面倒をみろ!」は、ない。

 今、現在、園にせよ、学校にせよ、教師たちは雑務、雑務の連続で、
本来の教育そのものができない状態にある。
ある女性教師は、私にこう話してくれた。
「授業中だけが、休める場所です」と。

 「私は教科指導をしていますが、生活指導の先生なんかは、毎日徹夜です」と。
たとえば子どもが家出したとする。
そういうとき親がまっさきに電話をかけるのは、警察ではなく、学校の教師。
そのたびに、教師は、駆り出される。
だから「徹夜になる」と。

 この問題は、教員の数をふやせば解決するとか、給料をあげれば解決する
という問題ではない。
さらに最近では、外国人の子どもの問題もある。
それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

が、私の経験でも、授業のリズムに乗れない子どもが、10人の中に
1人でもいると、リズムそのものが破壊されてしまう。
2人いたら、授業はめちゃめちゃ。
しかし現実には、5人に1人は外国人という小学校もある(K市K小学校)。

●雑音、騒音、騒動

 私たちは園や学校の教師をして、聖職者であると、安易に位置づけしすぎて
いるのではないか。
どの教師も、「私たちだって、ふつうの人間」と叫びたがっている。
が、そういう声を、親たちは、知って知らぬフリをしながら、押しつぶしてしまう。
そして無理難題をふっかけては、教師を窮地に追い込む。

 はっきり言おう。
親の欲望には、際限がない。
進学学校にしても、何とかB中学に入れそうになると、今度は、「A中学へ」となる。
A中学へ入れそうになると、今度は、「S中学へ」となる。
もっと生々しい話もある。

 明らかに緘黙症の子ども(小2男児)であるにもかかわらず、毎週のように
教師に電話をかけ、「どうすれば、うちの子は、もっとハキハキするでしょうか」
と相談していた母親がいた。

 明らかに親の過干渉と過関心で萎縮してしまった子ども(小5男児)もいた。
で、ある日、母親から相談したいという電話が入った。
会って話してみると、その母親は、こう言ったという。

「小4までの担任の教え方が悪くて、うちの子はああなってしまった。
あの教師は、教師として不適格だ。
やめさせてほしい」と。

 こうした雑音、騒音、それに騒動は、まさに日常茶飯事。
それに巻き込まれて、授業がマヒしている教室となると、いまどき珍しくも
なんともない。
けっしておおげさなことを書いているのではない。
学校全体が、マヒ状態のところもある。

 ある小学校では、教師がデジタルカメラで、女児(小5)の着替え姿を
撮った、撮らないで、大騒ぎになってしまった。
親どうしが、言った、言わないで、裁判になってしまったケースもある。
さらにささいな言動や、軽い体罰が理由で、任期半ばで、余儀なく転校
させられていく教師となると、いくらでもいる。

●子どもたちが犠牲者

 今、教育のシステムそのものが、疲弊している。
今のままでよいとは、だれも思っていない。
が、最終的に、その最大の犠牲者はとなると、結局は、子どもたちということになる。

 教育というのは、10年後、20年後を見据えてする。
言い換えると、その結果が出てくるのは、10年後、20年後ということになる。
30年後でもかまわない。

 民主党の管直人氏は、こう言い切った。
「(官僚たちは)知恵、頭を使ってない。霞が関なんて成績が良かっただけで
大ばかだ」と。
10月31日、民主党都連の会合での講演で、である。

 官僚でも、ある年代の人たちは、受験勉強だけで官僚になった。……なれた。
クラブ活動も、人づきあいもしない。
何もしない。
そういう子どもが、受験勉強だけをうまくくぐり抜けて、官僚になった。
現在が、その(結果)と言えなくもない。

 つまりここで子どもたちを、未来の日本を見据えながら、しっかりと教育
しておかないと、そのツケは、10年後、20年後、さらには30年後に、
子どもたち自身が払うことになる。

 もう少しわかりやすい例で言えば、「ゆとり教育」がある。
今では、このあたりの中学生でも、本気で勉強している子どもとなると、40%も
いない(ある中学校の校長談)。

残りの60%は、高校進学についても、「部活でがんばって、推薦で入る」とか、
「勉強で苦労したくないから、進学高校には行きたくない」などと言っている。
すべてが「ゆとり教育」が原因とは思わないが、そうでないとは、もっと思わない。
「ゆとり教育」のおかげで、子どもたちのネジが緩んでしまった。
この10年で、そうなってしまった。

●教育の自由化

 話を戻す。

 今、重要なことは、学校の教育システムを変えること。
教師は教育だけに、(できるだけという条件をつけてもよいが)、専念できる
ような環境を、用意する。
教師を、(できるだけ)、雑務から解放する。

 子どもの教育は、親の自己責任でする。
「何もかも学校で……」という発想は、捨てる。
それが教育の自由化の最終目標ということになる。
「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味である。
そのために、欧米のように、課外のクラブ制度を導入するのもよい。

しかしこれには、文科省は、簡単には応じないだろう。
天下り先として機能している外郭団体だけでも、1700団体以上もある。
その数は、各省庁の中でも、ダントツに多い。
そういう組織に、がんじがらめになっている。

 だからおかしなことに、戦後、文部省だけは、世界の流れに背を向けた。
文部省をのぞく全省庁が、欧米に目を向け、欧米に追いつけ、追い越せを目標にした。
が、文部省だけが教育の自由化に、背を向けた。
そのしわ寄せが、結局は、回りまわって、現場の教師のところにやってきた。
親たちの意識も、旧態依然のまま。
その結果が、現在の状況ということになる。

 で、最後に一言。

 教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでもかけられる。
手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
それこそ、どこかの学習塾のように、プリント学習だけですませようと
思えば、それもできる。
相手は、子ども、批判力もない。
判断力もない。
ないまま、(学ぶこと)から遠ざかってしまう。

 教育のこわいところは、この一点につきる。
やる気をなくした教師たちが、どういう教育をし、どう子どもを育てていくか。
想像するだけでも、ぞっとする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 民主党 管直人 教育問題 教育の自由化 やる気 教師のやる気 ゆとり教育 弊害)

(付記)今、現場では……(現状を知ってもらうために)

●教師のやる気

「教師のやる気を決めるのは、親だ」と、その校長は、明確に述べた。
近くのK小学校のO校長である。
「教師のやる気を奪うのも、親だ」とも。

 教師は、聖職者ではない。
私やあなたと同じ、ごくふつうの人間である。
ふつうの人間であるというのが、悪いというのではない。
もし「悪い」ということになると、私やあなたは、何か
ということになってしまう。

 しかし本当の問題は、もうひとつ、その先にある。
依存性の問題である。
どうして日本の親たちは、こうまで学校に依存するようになってしまったのか。
どうして学校の教師たちは、こうまで何もかも、背負うようになってしまったのか。
そこまでメスを入れないと、この問題は解決しない。

●親の依存性

 たとえば今日の朝、「逆・母子分離不安」について書いた。
母子分離不安というと、子ども側だけの問題と考えがち。
しかし実際には、母親側の母子分離不安というのもある。
その中で、毎日、園の外から自分の子どもをながめている母親の話を書いた。
園の教師たちが、「だいじょうぶです」「任せてください」と何度
言っても、その母親の耳には聞こえない。
2、3日は姿が見えないので、やれやれと思っていると、
また園へやってきて、今度は身を隠しながら、自分の子どもをながめている。

 この話は、近くのY保育園の園長から、直接、聞いた話である。
で、その園長はこう言った。
「みんな(=先生たち)は、知らぬ顔して、園児を指導していますが、
その母親の姿を見るたびに、みな、おびえるようになりました」と。

 たぶん(?)、その母親は、自分の行為が、園の教師たちに、なんら影響を
与えていないと思っている。
「自分は、園の外から、自分の子どもを見ているだけ」と。
しかし実際にはそうでない。
そうでないことは、ここに書いたとおりである。

●青い封筒!

 また別の幼稚園では、こんな話を聞いた。

 その幼稚園に1人、たいへん神経質な母親がいた。
神経質というより、「子どもがすべて」という母親だった。
その母親が、毎週のように、手紙で、あれこれ園に注文をつけてきた。
「ああしてほしい」「こうしてほしい」「ここがいけない」
「あそこが気に入らない」と。
それがいつも、青い封筒に入れられて来た。

 1回や2回なら、ともかくも、それが毎週となると、教師たちに思わぬ
影響を与える。
園長は、こう言った。
「そのうち、みな、青い封筒を見ただけで、震えるようになりました」と。

●親の押しつけ

 こうした話は、あちこちで聞く。
どの幼稚園にも、心を病んで、病院通いしている教師は、1人や2人は、
かならずいる。
長期休暇を取っている教師も、珍しくない。
またこういう話を書くと、「そんなことで!」と思う人もいるかもしれない。
「そんなことで、震えたりするのか!」と。

 しかし現実は、現実。
現実は、そんなもの。
親たちは、幼稚園であれ、小学校であれ、「先生というのは、そういうもの」
と勝手に思い込み、それを教師に押しつけてくる。
しかし冒頭に書いたように、教師といっても、私やあなたと同じ、ごく
ふつうの人間である。

 用もないのに親が園へやってきて、ジロジロと中をのぞいていたら、
この上なく、やりにくい。
毎週、毎週、手紙で苦情を言われても、この上なく、やりにくい。
その(やりにくさ)を、このタイプの親は、理解できない。

 さらに最近では、携帯電話を使って、教師に直接あれこれ言ってくる
母親も多いという。
その教師(女性、30歳未婚)は、こう言った。
「そのため毎日、返事を書くだけで、1~2時間は取られます」と。
(そのあと、その小学校では、携帯電話でのやりとりを禁止したそうだが……。)

 が、先にも書いたように、こうした問題の根は深い。
どうして教師は、できないことは、できないと言わないのか。
いやだったら、いやと言えないのか。
その一方で、親は、どうして教師に、そこまで期待するのか。

 教育のシステムを変えないかぎり、こうした問題も解決しない。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

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