2009年11月29日日曜日

*The Real Stingy People

●あとから理由(無意識下の思考)

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何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。

たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。

が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。

子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。

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●こじつけ論

 人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。

 たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。

 画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。

●「うしろから車が……」

 その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。

 が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。

「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。

 先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。

●反対の現象

 たまたま昨日、こんなことがあった。

 自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。

 居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。

 が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。

 私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。

 このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。

 このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。

●頭の中のモヤモヤ

 私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。

 もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。

 そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。

 そこでこうも考えられる。

 実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。

●無意識の世界

 今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。

 わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。

 それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。

 反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。

●付記

 私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。

 それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。

「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20~30分程度。
この文章が、それである。

 つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。

 またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。

 で、今は、どうか?

 実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。

 モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。

 ……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●本物のケチ

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金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。

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●ケチな人

自分の時間を、自分のためだけに使う人。

自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

自分の人生を、自分だけのために生きる人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。

視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。

自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。

自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。

失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。

相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。

小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。

来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。

他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。

臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。

わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。

無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。

無私、無欲の世界を、知らない人。

自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。

心よりも、金、モノを大切にする人。

自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。

自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。

他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。

心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。

●心のケチ

 いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。

 この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

 わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。

 その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。

 が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ~カ、いいじゃ、ねエ~カ」と言った。

●寛大さ

 ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。

 で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。

“It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving.”
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。

“I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only more love”.
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。

 これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。

つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。

 卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。

2009年11月29日早朝

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

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