2009年11月11日水曜日

*Magazine Nov. 11th





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 11日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【満62歳の懺悔】

+++++++++++++++++++++

10月2x日(2009)、私は満62歳になる。
ちょうど満60歳のとき、「これからの人生は儲けもの」
(友人のS君の言葉)と考えていたので、私は2年、
儲けたことになる。

この2年間、健康で、楽しく過ごせた。
息子たちも健康で、それぞれ、大きな問題もなく、現在も、
元気で暮らしている。
孫たちも元気のようだ。

で、満62歳を迎えるにあたって、この1年間を、
振り返ってみたい。

+++++++++++++++++++++

●BW公開教室

 仕事では、教室(=BW教室)の様子を、ほとんど毎日、ビデオカメラに収めている。
それをYOUTUBEにアプロードして、公開している。
視聴者の反応はあまりないが、これはだれのためでもない。
私自身のため。

 当初、ビデオに収め始めたときには、心のどこかで、「この先、1年間、無事、仕事がで
きるだろうか?」と、不安に思った。
過去の1年は、短いが、未来の1年は、長い。
で、今月は、10月。
1月から収録を始めたので、あと数か月分を収録すればよい。
(実際には、来年3月までの、5か月分あるが……。)

 今は、先のことはあまり考えず、淡々と、ルーティーン(=日常スケジュール)をこな
すだけ。


●古里との決別

 私は満62歳にして、はじめて古里と、決別できた。
そういう意味では、この1年……というよりは、2009年は、私の人生においても、特
筆すべき1年ということになった。
肩の荷がおりた。
足腰が軽快になった。

 実家の古家も売却したので、気も軽くなった。
今までは、台風や大雨のたびに、実家の心配をしなければならなかった。
今は、それがない。
先週も、超大型台風18号が、実家の近くを通過したが、その夜は、何も考えず、ぐっす
りと眠ることができた。

 やれやれ!


●原稿書き

 緊張感が薄れたのか、それとも脳みその働きが悪くなったのか、このところあまり原稿
を書いていない。
子育てについて書くのも、疲れた……というより、飽きた。
……というより、書きつくした。

 返事を書かなければならない、読者からの相談もいくつかたまっている。
講演用のレジュメも、今夜中に、2組、仕上げなければならない。
が、その緊迫感がわいてこない。

パソコンのカタログをぼんやりとながめて、時間をつぶす。
ときどきウォーキング・マシンで、運動する。
雑誌をパラパラとめくって、テーブルの上の果物をかじる。

 ホームページ(メイン)の更新もしたいが、心の方が先に引いてしまう。
つまりめんどう。


●認知症

 何と言っても気になるのが、認知症。
昨年亡くなった兄は、晩年、うつ病から、認知症的な症状を示していた。
もうひとり姉がいるが、この姉も、このところおかしな言動が目立つ。
順番からいけば、つぎは私ということになる。

 認知症になれば、私が私でなくなってしまう。
そうなれば、私はものを考えられなくなる。
ものを書けなくなる。
それがこわい。

 だから毎日のように、ワイフと何かの脳トレをしている。
教室でも生徒を相手に、脳トレをしている。
もう少し若いころには、(遊び)として、それをしていたが、今は、真剣勝負。
中学生や高校生を相手に、数学の問題を解きあっている。

 ……で、今のところは、だいじょうぶなようだ。
ホッ!


●遊ぶ

 とくにスケジュールを決めているわけではないが、ワイフとつぎのようにしている。

(1)週に1度は映画を、劇場で観る。
(2)週に1度は近くの温泉(舘山寺温泉)の大浴場へ行く。
(3)月に2、3度は、軽い旅行をする。

 あとは自宅と山荘を行ったり、来たり……。

できるだけ運動を兼ねるようにしている。
今日(10月11日)も、ウォーキング・マシンで40分。
プラス、2キロほど先にある、大型ショッピングセンターまで、歩いて往復してきた。

 気になるのは、今の生活に、「だから、それがどうしたの?」という部分がないこと。
現状維持が精いっぱい。
「明日は、ひょっとしたら、何かいいことがあるかもしれない」という淡い期待だけで生
きている。
目標が、生活の中に浮かび上がってこない。


●目標

 「目標」という言葉が出てきたので、一言。
10月2x日に、私は満62歳になる。
62年間、生きてきたことになる。
で、その翌日から、「3年目」。

 このままダラダラと生きていくのも、1年。
しかしそれでは、ただの(儲けもの)で終わってしまう。
何か、目標をもたなければならない。
作らなければならない。
が、それが浮かび上がってこない。

 どうしてだろう?

 やはり現状維持が精いっぱいということか。
健康で、それなりの生活ができれば、御の字。
それで感謝しなければならない。
今、何か目標をもてと言われても、ひょっとしたら、それはぜいたくな悩みかもしれない。
今、ここにこうして生きているだけでも、ありがたいこと。
あとは、それをどう、みなに還元していくか。
つまりそれが、今の私の目標ということになる。


●楽しみ

 近くWINDOW7(=パソコンのOS)が、発売になる。
しばらく様子をみたあと、新型の最先端のデスクトップを購入する。
「しばらく様子をみる」というのは、発売直後は、値段も高いということ。
それに周辺機器との相性も気になる。
プリンターについては、新しく買い換えようと考えている。
ほかに、今使っているソフトは、どうなのか。
そのまま使えるのか。
いろいろ心配な点も、多い。

 が、1~2か月もすると、その様子もわかってくる。
値段もさがってくる。
そのころ、デスクトップを購入する。
どの機種にするかは、ほぼ決まっている。
が、今は、TOP・SECRET。


●最後に

 ……ということで、もうすぐ満62歳。
今年もワイフと長男と私だけの誕生パーティになりそう。

 本当のところ、歳を取るというのは、いやなこと。
何もめでたくない。
祝うとしたら、今まで無事に生きてきたこと。

 来年の今日、満63歳の誕生日に、今と同じようなことを書けたら、いい。
それを目標に、(目標ができたぞ!)、これからの1年をがんばってみる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●テレビ電話

++++++++++++++++++++

昨日、アメリカに住む息子たちと、SKYPEを
利用して、2度ほど、テレビ電話を楽しんだ。

孫たちも元気そうだった。
で、そのテレビ電話をしながら、ふと、こんな
ことを考えた。

「あの世とこの世の間で、霊界通信をしているみたい」と。

+++++++++++++++++++++

●あの世vsこの世

 どちらが(あの世)で、どちらが(この世)か。
どちらでも構わない。
日本のこちらが(あの世)かもしれない。
息子の住んでいるアメリカが、(あの世)かもしれない。
しかし私たちは小さなパソコンの画面を通して、話をした。
あるいは小さなカガミ(鏡)でもよい。
小さなカガミを通して、話をした。

 画面の向こうは、アメリカ。
画面の手前は、日本。
私は画面を通して、孫たちの様子をながめる。
元気そうな様子を見て、安心する。
たぶん、アメリカに住んでいる息子たちもそうだろう。

 物理的な距離は、数万キロ。
その数万キロを隔てて、息子たちが、そこに見える。
テレビ電話といっても、性能はまだ不十分。
ときどき音声が途絶えたり、画面がフリーズしてしまったりする。
画像も、荒い。
だからこそよけいに、私は、(あの世)から息子たちの世界をのぞいているような気分にな
る。
「あの世から、この世を見たら、こんな気分かな」と。

●少ない会話

 しかしテレビ電話もそこまで。
ワイフと私だったら、一日中でも、ペチャペチャとしゃべりあっている。
しかしテレビ電話では、ある程度の話をすると、そこで会話が止まってしまう。
共通の話題がない。
相互の相談もない。
それよりも、たがいに生活が疎遠になってしまった。
「息子」「孫」「嫁」とはいいながら、今は、細い糸でつながっているだけ。

「元気か?」「元気だよ」で終わってしまう。
が、それではいけない。
いけないと思いつつ、あれこれ話すが、長つづきしない。
どこかに(無理)を感ずる。
(疲れ)を感ずる。

 ……と言いながらも、合計で、30~40分ほど、話した。
孫たちが、いろいろなおもちゃを並べて見せてくれた。
英語でいろいろ説明してくれるが、あのフニャフニャ英語は、本当に聞きづらい。
半分も理解できない。
が、理解できたような顔をして、その場をとりつくろう。

 やはり、向うが、(この世)ということか。
私の住んでいる世界の方が、(あの世)。

「これからパンプキン畑へ遊びに行く」と息子たちは言っていた。
ダイナミズムがちがう。
私たちのほうは、たまたま就寝時刻ということもあって、のんびりとお茶を飲む。
「天国」という雰囲気ではないが、それに近い。
だから、こちらが(あの世)。

 私とワイフは、(あの世)にいる。
(あの世)にいて、(この世)にいる息子たちの生活を、のぞいている。
のぞきながら、安心している。

テレビ電話をしながら、そんなことを考えた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●意識の連続性(改)091012版

+++++++++++++++++

ちょうど1か月前、「意識の連続性」について書いた。
その原稿が、ずっと気になっていた。
殴り書きしたような原稿で、電子マガジンの
ほうで、そのまま、発表してしまった。
もう一度、それを読み直し、推敲してみたい。

+++++++++++++++++

【生命から生命へ】(From Life to Life)
We live and die and repeat it again and again, conveying out Life to other all living
creatures and things together with our consciousness.(後日、要推敲)

++++++++++++++

あなたの生命は、ほかのありと
あらゆる生命とつながっている。
過去から未来へと、つながっている。
生物、無生物を問わず、ありとあらゆるものと
つながっている。
それがわかれば、あなたは
もう孤独ではない。

もしあなたに「死」というものが
あるとするなら、それはあなたの
「意識」の死に、過ぎない。
もっと言えば、意識の連続性が、
一度、そこで途切れるに過ぎない。

だから、もしあなたが意識の連続性を、
あなたの肉体を超えて感ずることが
できたら、あなたは、もう「死」を
恐れることはない。

++++++++++++++

●生物の連続性

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルにまでばらばらになり、また
別の生物や無生物の中へと、取りこまれていく。
と、同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、新しい肉体を作り、生きている。

こうして私たちの肉体はありとあらゆる生物と
つながり、「今」というときを生きている。
これを「生物の連続性」という。

●命

では、死んだらどうなるか。
が、基本的には、「死」は存在しない。
その人個人の意識は途絶えるが、生命は、
姿や形を変え、別の生物の中に取りこまれて
生きていく。

虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「生命の連続性」という。

●意識

個人は、その人の意識によって特定される。
「私は・・・」というときの「私」である。
しかしその私にしても、肉体活動の一部で
しかない。
もっと言えば、脳の中を走り回る、電気的
信号のようなもの。
それを私たちは「私」と自覚する。

だからといって、「私」に意味がないというのでは
ない。
私が書きたいのは、その逆。
この「私」があるから、そこから無数の
ドラマが生まれ、人間の生活を、潤い豊かなものに
する。
もし「私」がなかったら、私たち人間は、そこらに
生える雑草のような存在になってしまう。

●死

では、「死」とは何か?
言うまでもなく、意識の途切れをいう。
その人の意識が途切れたとき、「私」は消える。
言うなれば、パソコンの電源を切るようなもの。
そのときから、見ることも、聞くことも、
感ずることもできなくなる。

しかし先にも書いたように、それで生命が
途切れるわけではない。
生物の連続性の中で、つぎつぎとあなたの生命は、
別の生命へとつながっていく。

●再生

そんなわけで、「生命」を、あなたという個人の
中だけに閉じこめておくのは、正しくない。
またそういう視点で、あなたという「私」を見ては
いけない。

もっと具体的に話してみよう。

脳も含めて、上は髪の毛から、下は、足の爪まで、
私たちの肉体は長くて1年足らずで、すべてが作り替えられる。
古い肉体は、つねに便となったりして、外に排出される。
が、それらは自然界でつねにリサイクルされ、無数の
生物の、一部となって再生されていく。
もちろんあなた自身の一部として戻ってくることもある。

●「私」という意識

こうした破壊と再生の中で、連続性をもつものが
あるとすれば、それが意識ということになる。
その意識が、「私」という意識を、もちつづける。

私の肉体、私の財産、私の名誉、私の地位、と。
こうして私という意識が、「私」をつくりあげていく。

●瞬間移動(転送)

映画『スタートレック』の中に、よく「転送」という
言葉が出てくる。
これはある一定の場所から、別の場所に、瞬時に
移動することをいう。
SF映画の世界でのことだから、まともに考えるのも
どうかと思うが、その転送について、こんな議論がある。

「転送されてきた人間は、もとの人間と言えるかどうか」
という議論である。

原理は、こうだ。

まずあなたという人間を、分子レベルにまで、バラバラに
する。
そのバラバラになったあなたを、電磁波か何かの(波)に
乗せて、別の場所に転送する。
そしてその別の場所で、もとどおりに、組み立てなおす。

そこであなたはこう考える。
見た目には、もとの人間と同じだが、しかしもとの人間は
一度死んだはず、と。
新しく再生された人間は、あくまでもまったく別の人間。

つまり転送を10回繰りかえせば、あなたは10回
死に、10回再生されたことになる。

●破壊と再生

人間の肉体は、転送という劇的な変化ではないにしても、
1年単位という時間の流れの中で、映画『スタートレック』の
中の転送と同じことを、繰りかえしている。

「劇的」というのは、映画『スタートレック』の中では、
すべてを瞬時にすることをいう。
一方、肉体のほうは、それぞれがバラバラに、長い時間をかけて、
徐々にする。

そこでもし、映画『スタートレック』の中の転送について、
あれは、「破壊」と「再生」を繰り返したもの、つまり
「一度死んで、再び、生きかえったもの」と考えるなら、
私たち自身も、同じことを繰りかえしていることになる。

「瞬時」にそれをするか、「1年」をかけてそれをするかの、
ちがいだけである。

●伝えられる意識

さらに……。
科学が進めば、(あなた)のコピー人間を作ることも、
可能になるだろう。
すでにクローン牛なども誕生している。

しかし意識は、どうか。
あなたのコピーは、あなたと同じ意識をもつだろうか。
あるいはあなたのもつ意識を、そのままそのコピー人間に
移植できるだろうか。
その答は、NO。

あなたのコピー人間は、ただのコピー人間。
たとえば私のコピーを作ったとしても、そのコピー人間が、
今の私と同じ意識をもつことはありえない。
肉体が別になれば、意識も別になる。
私のワイフを見て、私は逃げ回るかもしれない。

●コピー人間の意識

私が「私」と言えるのは、「意識の連続性」があるからにほかならない。
もし意識の連続性がなかったら、「私」はそのつど分断されてしまう。

たとえばクローン技術を使って、あなたのコピー人間を作ったとしよう。
見た目はもちろん、何から何まであなたと同じ人間である。
しかしそのクローン人間は、ここにも書いたように、「あなた」ではない。
意識の連続性がないからである。

(これに対して、左脳と右脳をつなぐ脳梁のような太い配線で、脳どうし
をつなぐことができれば、意識を共有することも可能になるかもしれない。)

同じように、先にも書いたが、あなたは日々に生まれ変わる。
古い細胞は死に、新しい細胞が生まれる。
1年前のあなたは、どこにも残っていない。
言い換えると、今のあなたは、1年前のクローン人間といっても、
さしつかえない。

が、あなたはあなた。
そういうあなたは、「私は私」と言うだろう。
それが意識の連続性ということになる。

●親子

さらに言えば、親子の関係も、それに似ている。
親子のばあいは、1世代、つまり約30年をかけて、
親は自分のクローン人間を作る。

自分の子どもは、約30年をかけて作る、自分
自身のクローン人間とも考えられる。
顔や姿は、配偶者のそれと半々するということになるが、
それは大きな問題ではない。

それに意識、……このばあい、ものの考え方も、
あなたのそれに似てくる。
ただ親子のばあいは、クローン人間とはちがい、
個人差はあるだろうが、ある程度は、意識の共有が
できるかもしれない。

自分の子どもを、別個の人間と区別できない母親というのは、
たしかにいる。

●意識があるから私

こうして考えていくと、「意識」の重要性が、ますます
理解してもらえると思う。
もっと正確には、「意識の連続性」ということになる。

言うなれば、「意識の連続性があるから、私」ということになる。
「私」イコール、「意識」。
「意識の連続性」。
「意識の連続性」イコール、「私」と考えてよい。

●あやふやな意識

が、その一方で、その「意識」ほど、あてにならない
ものもない。
「私は私」と思っている意識にしても、そのほとんどが、
意識できない「私」、つまり無意識の世界で作られた
私でしかない。

意識している私は、無意識の世界で作られている私に、
操られているにすぎない。
その反対の例が、催眠術ということになる。
「あなたはキツネだ」という強力な暗示をかけられた
被験者は、目が覚めたあとも、キツネのように、
そのあたりをピョンピョンと、とび跳ねたりする。

つまり脳の中には、無数の暗示が詰めこまれていて、
それが私たちを裏から操る。
それを私たちは、「私の意識」と思いこんでいる。

意識には、そういう問題も隠されている。

●私の死

そこで再び、「死」について考える。

「私」という意識は、脳細胞の中を走り回る電気的信号の
集合でしかない。
人間が霊的(スピリチュアル)な存在でないことは、認知症
か何かになった老人を見れば、わかる。
脳の機能が低下すれば、思考力も低下し、ついで、
意識の力も弱体化する。
「私」すら、わからなくなる老人も多い。

人間が霊的な存在であるなら、脳、つまり肉体の一部
としての脳の機能に左右されるということは、ありえない。

で、その電気的信号が止まったら、どうなるか。
それが「意識の途絶え」ということになる。

●すべてが消える

「死」についての説明は、これでじゅうぶんかも
しれない。
結論的を先に言えば、私たちは死によって、意識を失う。
意識の連続性を失う。
見ることもちろん、それを自覚することもない。
「見えない」ということすら、自覚することもない。

この大宇宙を意識している「私」すら、消滅する。
つまりこの大宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが深い眠りの、そのまた数万倍、深い眠りに
陥った状態を想像してみればよい。
夢を見ることもない、深い眠りである。

(それでも、微量の意識は残るが・・・。)

それが「死」に近い状態ということになる。 

では、「私」とは何か。
つまりそれが「意識」ということになる。
「意識の連続性」ということになる。

●意識

結論は、もう出ている。
「意識」イコール、「私」。
「私」イコール、「意識」ということになる。

が、「意識」だけでは足りない。
「私」を意識するためには、繰り返すが、そこに
「連続性」がなければならない。
意識だけなら、空を舞う蚊にすら、ある。
あの蚊に、「私」という意識があるとは、とても
思えない。

しかしその「私」は、努力によっていくらでも
大きくすることができる一方、ばあいによっては、
犬やネコどころか、虫のそれのように小さく
してしまうこともありえる。

人間は平等とはいうが、こと意識に関しては、
平等ということはありえない。
深い、浅い、の差はある。
またその(差)は大きい。
その(差)は努力によって決まる。

そうした努力を、釈迦は、「精進(しょうじん)」
という言葉を使って説明した。

●生命の伝達

そこで生きている人間の最後の使命はといえば、
「生命の伝達」ということになる。
「意識の伝達」と言い換えてもよい。

再び映画『スタートレック』の話に戻る。
もし肉体の転送だけだったら、別の肉体をもう一個、
作っただけということになる。
あなたのコピー人間を作っただけということになる。

そこで当然、意識の伝達が、重要な要素となる。
そうでないと、転送先で、それぞれが、何をしてよいか
わからず、混乱することになる。
本人も、どうして転送されたのか、わからなくなって
しまうだろう。
与えられた使命すら、忘れてしまうかもしれない。
あなたに接する、相手も困るだろう。

(映画『スタートレック』の中では、この問題は
解決されているように見える。
しかしどういう方法を使って意識の連続性を保っているのか?
たいへん興味がある。)

そこで私たちは、生きると同時に、つねに意識の
伝達に心がけなければならない。
その意識の伝達があってはじめて、私たちは、
生命を、つぎの世代に伝えることができる。

●意識の消滅

個人の意識が途切れることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたのほんの一部でしかない。

あなたの数10万分の1、あるいはそれ以下かも
しれない。
そんな意識が途切れることを恐れる必要はない。

●意識の伝達

それよりもすばらしいことは、あなたの生命が、
日々に、ほかの生物へと伝わっていること。
あなたの子どもに、でもよい。
ほかの生物が、日々にあなたを作りあげていくこと。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいること。

つまりあなた自身も、無数の意識の連続性の中で
今を生き、そして無数の連続性を、かぎりなく
他人に与えながら、今を生きている。

が、それにはひとつの条件がある。

●無私

「私」という意識があるかぎり、またそれにとらわれているかぎり、
私たちは、「死」を恐れる。
「死」は、「喪失」以外の何物でもない。

そこで「私」という意識から、「私」をどんどんと取り除いていく。
言うなれば、丸裸にする。
なぜ、私たちが「死」を恐れるかと言えば、「私」があるから。
私の肉体、私の財産、私の名誉、私の地位、と。

そこで先に、その「私」を取り除いてしまう。
失うものが、何もない状態にする。
理論的には、それによって、私たちは、「死」がもたらす
喪失感、つまり恐怖から解放される。

●肉体の死

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
また別の命を構成していく。

●意識の死

繰り返すが、肉体は、1年程度で、すべて入れ替わる。
では、意識はどうか?
意識と言うより、意識の連続性を支える「記憶」はどうか?

このことは、1年とか、2年前、さらには10年前に書いた自分の文章を
読んでみればわかる。
ときに「1年前には、こんなことを書いていたのか?」と驚くことがある。
あるいは自分の書いた文章であることはわかるが、まるで他人が書いた文章の
ように感ずることもある。

さらに最近に至っては、まるでザルで水をすくうように、知識や知恵が、
脳みその中から、ざらざらとこぼれ落ちていくのがわかる。
それを知るたびに、ぞっとすることもある。

若い人たちには理解できないことかもしれないが、現在、あなたがもっている
知識や知恵にしても、しばらく使わないでいると、どんどんと消えてなくなって
いく。
ついでに、意識も、それに並行して、どんどんと変化していく。
何も、肉体の死だけが死ではない。
意識、つまり精神ですら、つねに生まれ、そしてつねに死んでいる。
「私」という意識はそのままかもしれないが、その中身は、
映画のフィルムのコマのように、つねに作られ、つねに消されるを
繰り返しているにすぎない。

●死とは

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の連続性の(途切れ)をいう。
(途切れた)状態が、そのままつづくことをいう。
もう一度、映画のフィルムにたとえるなら、コマが切れた
とき、つぎのコマがなくなった状態をいう。

しかし心配無用!
あなたの意識は、(思想)として、残すことができる。
たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたと、同じ意識を共有する。
たとえそのとき、私という肉体はなくても、意識は
残り、あなたに伝えられる。

私の肉体は、「私」を意識しないかもしれないが、
別の肉体が、「私」を意識する。

もちろんその反対もある。
私があなたの書いた(思想)を読んだとき、私の肉体が、
「あなた」を意識する。

これを「意識の共有性」という。

●重要なのは、意識の共有性

反対に、こうも考えられる。
仮に肉体は別々でも、そこに意識の共有性があれば、「私」ということに
なる。

では、その意識の共有性は、どうすれば可能なのか?

ひとつの方法としては、SF的な方法だが、他人の意識を、自分の脳の
中に注入するという方法がある。
先にも書いたように、他人の脳と、電線のようなものでつなぐという方法もある。
もっと簡単な方法としては、どこかのカルト教団がしているように、たがいに洗脳
しあうという方法もある。

が、自分の肉体にさえこだわらなければ、今、こうして私が自分の意識を
文章にする方法だって、有効である。
この文章を読んだ人は、肉体的には別であっても、またほんの一部の意識かも
しれないが、そこで意識を共有することができる。
それが意識の共有性につながる。

つまりこうして「私」は、無数の人と、意識の共有性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
もちろんそうした人たちも、また別の人たちと共有性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。

人間は、こうして有機的につながりながら、たがいの生命を共有する形で、
永遠に生きる。
つまり「死」などは、存在しない。
繰りかえすが、個体として肉体の「死」は、死ではない。

●時空を超えて

さらに言えば、私という肉体はそのとき、ないかもしれない。
しかし時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

寿命があと1年と宣告されても、あわてる必要はない。
生き方によっては、その1年を100年にすることもできる。
(年数)という(数字)には、まったく意味がない。

●大切なこと

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、その事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに途切れる。
しかしその意識は、かならず、別のだれかに伝えられる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、生き返る。
それを繰り返す。

そこで大切なことは、本当に大切なことは、よい意識を残すこと。
伝えること。
それが私たちが今、ここ生きている、最大の目的ということになる。

●もう恐れない

さあ、もう死を恐れるのをやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。
人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見てはいけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが生命。

●日々に死に、日々に生まれる

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、その一部にすぎない。
何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
眠るだけ。
それだけで、すべてがすむ。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、この地球上に生命が
あるかぎり、永遠に生きる。

しかしそれとて何でもないこと。
なぜならあなたはすでに、毎日、日々の生活の
中で、それをしている。
繰りかえしている。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
あなたという意識を、深めること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすくするために……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 生命論 意識論 生命の連続性 はやし浩司 意識の共有性 死に
ついて 090907)

(補記)
一気に書き上げた文章なので、随所に稚拙な部分、わかりにくい部分があるかもしれない。
今はこのままにし、しばらく時間をおいてから、推敲してみたい。
(文章の一部からでも、何かを感じとってもらえれば、うれしい。)

要するに私は、この原稿の中で、「死」を(肉体の死)と(意識の途切れ)に
分けて考えてみた。
肉体の死については、何も「死」だけが死ではない。
私たちは、毎日、死に、そして生まれ変わっている。
意識にしても、そうだ。

そこで重要なのは、(意識の共有性)ということになる。
たしかに死によって、私たちの意識はそこで途切れるが、
だからといって、それで(意識)が死ぬわけではない。

現に今、あなたはこの文章を読んでいる。
読んだとたん、私の意識は、あなたの中に伝達されることになる。
あなたの中で生きることになる。
そして今度は、あなたは私の意識を土台に、さらに自分の意識を発展させる。
こうして意識もまた、永遠に、生き残っていく。

そこで「死など、恐れる必要はない」と書いたが、それにはひとつの
重要な条件がある。
それは「今を、懸命に生きること」。
とことん懸命に生きること。
過去にしばられるのも、よくない。
明日に、今日すべきことを回すのも、よくない。
要するに、「死」に未練を残さないこと。
とことん燃やしつくして、悔いを明日に残さないこと。
あなたが今、健康であっても、またそうでなくても、だ。
それをしないでいると、死は、恐ろしく孤独なものになる。
人間は、基本的には、その孤独に単独で耐える力はない。

……と書きつつ、これは私の努力目標である。
いろいろ迷いや不安はあるが、とにかくその目標に
向かって進んでいくしかない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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