●心を洗う
幼児と接していると、ときどき「すばらしい!」と実感するときがある。幼児と接することができるものだけが覚える、感動と言ってもよい。その「すばらしさ」には、3つある。
(1) 心を洗ってもらえる。
(2) 生きるエネルギーを与えられる。
(3) 命の原点を教えられる。
ほかにもいろいろあるが、私は、(1)の「心を洗ってもらえる」を、その第一にあげる。
幼児の世界では、不正、不平等、不公平、不公正、インチキは、いっさい、通用しない。少しでも、そういう様子を見せると、子どもたちは、すぐ反応する。「先生は、ズルイ!」と。
そう言われたとたん、私は、ハッと、自分を見なおす。修正する。それが「心を洗う」ということになる。昨日(1・12)も、こんなことがあった。
A君(年中児)が、やっと数字が書けるようになった。そこで私がA君の書いた数字に、大きな花丸を描いてやった。するとそれを横で見ていたB君が、「どうしてA君のは、花丸で、ぼくのは、丸だけなの?」と。
そこで私はあわてて、「ごめん」「ごめん」と言いながら、B君の書いた数字に花丸を描いてやった。
毎日というより、すべての瞬間が、そういう(美しさ)に包まれている。幼児の世界は、そういう意味では、純粋。汚(けが)れを知らない。
で、私はレッスンの途中で、ふと、こんなことを言ってしまった。
私「おとなになるほど、心が汚くなるんだよ」
子「……?」
私「君たちも、今の心を大切にしなよ」
子「……?」
私「今のまま、おとなになったら、すてきなのにね」と。
それに引きかえ、おとなの世界は、見苦しさに、満ちあふれている。悲しいほど、満ちあふれている。たとえば教室へ入るとき、クツを並べて脱ぐことを教えると、その瞬間から、幼児たちは、それができるようになる。ほかのだれかが、雑な脱ぎ方をしたりすると、「いけないよ」と、注意しあったりする。
それが小学生、中学生、さらに高校生となっていくにつれて、この習慣が乱れていく。いいかげんになる。どこかで小ズルさを、身につけてしまう。ほとんどの人は、「幼児は幼稚」と考えている。しかし、これはとんでもない誤解。偏見。
知識や経験こそ、とぼしいが、それ以外は、幼児といえども、1人の人間。喜怒哀楽の情もあれば、嫉妬もする。自尊心もある。名誉も、誇りも感ずる。だから私はときどき、こう思う。
もし、人間が、すべての人間が、幼児のころの心を忘れずに、それを大切にしておとなになったら、この世の中は、ずっと住みやすくなるのに、と。それを「教育だの」「しつけだの」と言って、子どもの心を、こなごなになるまで破壊してしまう。しかしこれを悲劇と言わずして、何と言う?
大切なことは、子どもを教えようとは思わないこと。子どもに、教えを乞うこと。幼児教育とは何かと聞かれれば、最終的には、そこへ行きつく。
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
●ゆとり教育
10年前までは、中国や韓国では、「日本に追いつけ」「日本を追い越せ」が、重要な合言葉になっていた。が、今はちがう。「日本を叩きつぶせ」「日本は、もう相手ではない」という雰囲気に変わってきた。
そういう日本を取り巻く環境に、あえて背を向ける形で、数年前、日本の文部省は、「ゆとり教育」なるものを始めた。教科内容も、約3割、削減した。
たとえばそれまでは、小学6年になると、子どもたちは、算数の時間には、分数の割り算、掛け算を学んだ。しかし今は、分数の足し算、引き算である。
さらにずっと昔だが、私が中学3年生のときには、すでに、サイン、コサイン、タンジェントを学んでいた。これらの教科内容は、現在は、高校で教えられている。
「ゆとり教育」は、まさに時代逆行の、大愚策であった。そうでなくても子どもたちの学力は低下し始めていた。ゆとり教育は、それに拍車をかけてしまった。
今では、中学生でも、掛け算の九九を、使えこなせない子どもは、いくらでもいる。調査のし方にもよるが、私は、15~20%の中学生がそうでないかとみている。
これからの日本が日本であるためには、教育しかない。頭脳の質で、世界をリードするしかない。
もっとも、むずかしいことを教えるから、レベルが高いということにはならない。たとえば今、幼稚園でも、掛け算の九九を教えているところがある。九九を丸暗記させているだけだが、だからといって、その幼稚園の教育レベルが高いということにはならない。
それはわかる。
しかし実際には、教育の質そのものが、低下している。教育というよりも、教育力が、低下してきている。たとえば20年前だと、小学2年の段階で、掛け算の九九ができなかったりすると、先生たちは、残り勉強をさせてでも、子どもたちにそれを教えた。掛け算の九九があやしいと、そのあとのあらゆる学習に影響を与えるからである。
だから教える先生も必死だったが、それを学ぶ子どもたちも必死だった。
しかし今は、そういう光景は、ほとんど、見られなくなった。「教えるべきことは、教えます。そのあと、覚えるか覚えないかは、子どもの問題です」(たしかに、そうだが……)と。先生自身が逃げてしまう。
子どもたちも、掛け算の学習が終わるとそのまま、数週間後には、九九すら忘れてしまう。
いや、そうでなくても、学校の先生は、いそがしい。教育はもちろん、しつけから、家庭教育指導まで、ありとあらゆるものを、押しつけられている。ある女性教師は、こう言った。「授業中だけが、心を休めることができるときです」と。
これでは質の高い教育など、望むべきもない。「ゆとり教育」というのは、結局は、先生の負担軽減のことだったのか? ……ということになる。
話をもどすが、この日本の教育に一番欠けるものはといえば、緊張感ではないか。教える側にも、教えられる側にも、その緊張感がない。その緊張感をかろうじて支えているのが、受験勉強ということになる。いろいろ言われているが、もしこの日本から、受験競争をなくしたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら、崩壊する。
教育に夢がない。
教育に目的がない。
教育に希望がない。
そういう教育の中で、子どもたち自身も、自分の進むべき道を見失ってしまっている。では、どうするか?
私は何度も書いているが、教育を自由化すればよいと考えている。今のように、北海道から沖縄まで、金太郎アメのような、画一教育をつづけているほうが、おかしい。さらに、何からなにまで、学校に押しつけて、「しっかりと子どものめんどうをみろ」というのも、おかしい。
子どもの多様化にあわせて、教育そのものを、自由化する。たとえばドイツやイタリアのように、学校での授業はできるだけ午前中ですませ、午後からは、子どもたちが、それぞれの目的をもって、クラブに通えるようにすればよい。政府は、そのために費用を、援助する。
(ドイツでは、クラブの月謝は、1000円程度。子どもをもつ親には、毎月1万5000円ほどの、チャイルド・マネーが支給されている。単純に計算すれば、1人の子どもは、そのお金で、放課後、15のクラブに通うことができることになる。)
大学にしても、単位を共通化すればよい。もちろん、どこの大学で、学位、修士号、博士号が認められるかは重要だが、それはつぎのステップである。……という方向で、日本の大学教育も進みつつあるが、その速度を、もっと加速させる。少なくとも、入学後の学部変更、大学から大学への転籍くらいは、今すぐ、自由化すべきではないだろうか。
これからの日本で求められるのは、その道に秀(ひい)でた、プロである。そういうプロを育てるための教育体制をつくる。
それを追求していけば、自ずと日本の教育の輪郭(りんかく)が見てくる。そしてその輪郭が見えてくれば、子どもたちの間から、夢や目的や希望が生まれてくる。そしてそれが、学校教育の活性化につながっていく。
2009年11月10日火曜日
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