☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 11月 4日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page004.html
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
************************************
【もうすぐ、(10月28日)、私の誕生日です。満62歳になります。
特集として、過去、その前後に発行したマガジンを、そのまま転載して送ります。】
今回から、3回分、過去、私の誕生日前後に発行したマガジンを、特集として
再掲載します。
過去の記事を順に読み比べていただければ、私のボケの進み具合も、ついでに
知っていただけるのではないかと思います。
(特集)2004年10月28日前後(満57歳の誕生日のマガジンより)
************************************
第1回(3回分)2004年10月号より
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒ いつも購読、ありがとうございます!
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 10月 27日(No.481)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page063.html
+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ゆがんだ自然観
もう三〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。
「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシ
ンのよう」と。
この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小
さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子ども
も多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれ
が入ってこない。
「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや
世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部
に過ぎなかった。
が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離オて、「自然は征服されるもの」
(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さ
らには一七四〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。
日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎です
ら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。
が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考
え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本
の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や
農地が失われている。
自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分
けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部で
しかないという事実の再認識である。
さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解
を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少
なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にし
ましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。(はやし浩司のサ
イト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
+++++++++++++++++++++
●机は平机
以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月
で、約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。
いろいろな附属品ついいる棚は、一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくま
でも一時的。棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを
勉強から遠ざける。
あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫
感がどういうものか、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平
机が好ましい。あるいはこの時期、まだ机はいらない。
まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型
にはまりやすい民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。小学校
の
低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もしそう
であれば、それでよい。
この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」という思いを子どもがも
つようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。
子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもが
それをそのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に
移して食べるようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉
強嫌いの遠因になることもある。
よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにあ
る。どんな勉強でも、一〇~三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子ど
もがそのまま机に向かって休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強
が中断する。勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休
むためにある。が、それでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。
あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察し
てみる。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって
勉強部屋にする。あなたの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。
ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなけ
れば失敗する。
++++++++++++++++++++++++
【子育て・あれこれ】
【子育て一口メモ(2)】
●悪玉親意識
「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉
親意識である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、
親の責任をはたそう」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子ど
もに
対して怒鳴り散らすのが、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は
絶対と考えるのを、「親・絶対教」という。
●達成感が子どもを伸ばす
「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、
(できる・できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点
で子どもを見る。たとえまちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんば
ってしたようなら、「よくやったわね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、
子どもをつぶす。
●先生の悪口、批評はしない
学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づち
を打ったり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、
すばらしい人よ」と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはそ
の先生に従わなくなる。これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題
があるなら、子どもとは関係のない世界で、処理する。
●子育ては楽しむ
子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。
その楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの
機嫌をとったり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。
私も幼児にものを教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。
●ウソはていねいにつぶす
子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、
ありもしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の
楼閣に住まわせてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、
こうした妄想をもちやすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますま
すウソがうまくなる。子どもがウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、てい
ねいに、それをつぶす。そして言うべきことは言っても、あとは、無視する。
●本物を与える
子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵
でも、音楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニ
メの主人公のキャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。
食べ物にしても、母親が作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいし
いと言う。こういう環境で育つと、人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外
からの見栄えばかり気にする子どもがふえているので、ご注意!
●ほめるのは、努力とやさしさ
子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、
子どもがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、
そればかりをほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。
「頭がいい」とほめすぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよ
く考えて、慎重に!
●親が、前向きに生きる
親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どもも
また、前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きていると
いう状態では、子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をも
たない子どもは、悪の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見
本を、親が見せることをいう。生きザマの見本を、親が見せることをいう。
●機嫌をとらない
子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみ
る。そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と
誤解する。子どもがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったは
ずと考えたりする。が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間と
して、き然と生きる。子どもは、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、
それで太くなる。
●親のうしろ姿を見せつけない
生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、
親は見せたくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売
りしてはいけない。つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててや
った」「お前を大きくするために、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やが
て親子関係を、破壊する。
●親孝行を美徳にしない
日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。
私たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度
は、子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。
もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。
しかし親孝行は美徳でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけな
い。
●「偉い」を廃語に!
「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人
を、「偉い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リ
スペクティド・マン」という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マ
ンというときは、地位や、名誉には関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。
あな
たの子どもには、「偉い人になれ」と言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。
●家族を大切に
『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求
めて、虹の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。や
がてドロシーは、真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番
大切」と考える人が、80~90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前
後
でしかなかったから、これはまさにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信を
もって、子どもには、こう言おう。「この世界で、一番大切なものは、家族です」と。
●迷信は、否定しよう
子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、
自ら立ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わ
せて行動し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただ
けなのだが……。)子どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」
と言ってやろう。迷信は、まさに合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子ども
は、ものごとを合理的に考える力を失う。
●死は厳粛に
ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、
「死」を学び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てる
ような行為。決して遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きること
そのものを、粗末にするようになるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要
な儀式と位置づけているかと言えば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大
切にするためである。生き物の死は、厳粛に。どこまでも厳粛に。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【みなさんからのご質問から……】
*********************************
たまたまI小学校(静岡市)と、W小学校(浜松市)のみなさんから、
講演に先立ち、相談の手紙をもらった。「子どもを叱る」というテーマ
で、共通していたので、それについて、ここで考えてみたい。
*********************************
Q:子ども(小1)を叱るとき、どうしても感情的になってしまう。プレッシャーをかけ
ない叱り方、子どもがぐずり、わめき、切れているときの対応の仕方を教えてほしい。ま
たがまんすることを教えるには、どうすればいいか。(I小学校、1年生の子どもをもつ、
母親より)
Q:長男はおっとりしているが、その下の長女(小5)は、勝気で気が強い。いつも母親
の私と大喧嘩になってしまう。たがいに好きなのに、です。そういうとき喧嘩をしない方
法は、ありますか。たとえば娘は、最後に謝るとき、「私も謝るから、ママも謝ってよ」
な
どと言います。そういうとき、どうしたらいいでしょうか。(I小学校、5年生の女児を
もつ母親より)
Q:子どもの叱り方がわかりません。あまりきびしく言うと、子どもに嫌われてしまうの
ではないかと、心配です。何か、いい方法はありませんか。(W小学校、1年生の子ども
をもつ母親より)
++++++++++
A:子育ては、考えてするものではありません。その人が過去に受けた子育てを、再現す
る形でするものです。ですから、ほとんどの親は、こう言います。「ついその場になると、
カッとなってしまって……」と。子育てというのは、そういうものです。もっと言えば、
子育ては本能ではなく、学習によるものです。
子どもへの対処の基本は、『子どもに、子育てのし方を教える』です。いつかあなたの子
どもも、親になります。そして今、あなたがしている子育てを再現する形で、子育てを
します。ですから心のどこかで、「私が、そのし方を教えてあげる」「見本を見せてあげ
る」と思えば、よいのです。
心の中で、ワンクッションおくため、ともすればとげとげしくなる子育てを、それで防
ぐことができます。もし今、あなたが感情的になっていれば、あなたの子どももまた、
いつか親になったとき、その子ども(あなたの孫)に対して、感情的になるということ。
あなたの目の前で、あなたの子どもがあなたの孫を、カッとなって、叱り飛ばすように
なるかもしれません。それでもよければ、今のままの子育てをつづければよいでしょう。
コツは、いくつかあります。
(1)子どもの横を、友として歩く
(2)悪玉親意識(親風を吹かすこと)をやめる
(3)気負いを捨てる
(4)言うべきことは言いながらも、あとは、時間を待つ
(5)叱り方の見本を見せるつもりで、子どもを叱る、です
W小学校のお母さんは、子どもに嫌われることを心配しています。しかしこれは本末転
倒というべきではないでしょうか。話せば長くなりますが、これは親自身(その母親自身)
がもつ、子どもへの依存性の変形とみます。つまり子どもに依存したいという(甘え)が、
「嫌われては困る」という意識に変化したと考えます。はっきり言えば、そのお母さん自
身の精神的な未熟性によるものです(失礼!)。
お母さん自身が、精神的に成長しないと、子どももまた成長できなくなってしまいます。
「子どもなんかに、嫌われても、かまわない」というき然とした態度が、子育てには必要
です。そのためにも、親は親で、いつまでも前向きに生きていく。
むしろ、親のほうが、子どもに向かって、親離れができるように、しむけます。そして
その結果として、親もまた、子離れしていきます。その時期は、子どもの自己意識が急速
に発達し始める、小学3、4年生ごろと考えます。いつまでも、ベタベタした関係をつづ
けるほうが、おかしい……。そういう前提で、親子のあり方を、もう一度、反省してみて
ください。
ただ誤解してはいけないのは、だからといって、友だち親子が悪いというのではありま
せん。親子関係もつきつめれば、一対一の人間関係です。そのとき、親子が、親と子とい
う上下意識のある関係から離れて、友だち関係になることもあります。それはそれで、す
ばらしいことです。そういう親子関係を、めざしてください。
一般論から言えば、「子どもの機嫌をうかがう」というのは、すでに親子関係が、危険
な状態に入ったことを示しています。たがいの信頼関係が、かなりぐらついているとみま
す。
このままいけば、やがて親子のキレツから断絶へと進むかもしれません。どうか、ご注意
ください。
言うまでもなく、親子の信頼関係(親子だけにかぎりませんが……)は、たがいの(さ
らけ出し)と、(受け入れ)という基盤の上に成りたちます。たがいに遠慮したり、飾っ
たり、虚栄を張ったり、そしてここでいう機嫌をとったり、コビを売ったりという関係で
は、
そもそもたがいの信頼関係は、成りたたないということです。
まだまにあいますから、そのお母さんも、勇気を出して、言いたいことを言えばよいの
です。嫌われて困るのは、子どものほうです。そしてお母さんは、お母さんで、正義を貫
く。そういう姿勢を見て、子どもは、あなたを尊敬し、自分の生きザマを身につけます。
今、すぐにはそれがわからないかもしれませんが、やがてわかるようになります。「ぼく
の母は、すばらしかった」と、です。
さらにいつも、親子喧嘩が絶えないというのであれば、あなた自身の中に潜む、(わだ
かまり)をさぐってみます。不本意な結婚であったとか、不本意な妊娠であったとか。結
婚当初の生活苦や、嫁姑問題などが、そのわだかまりになることもあります。
この問題は、そのわだかまりに気づくだけで、よいのです。あとは、時間が解決してく
れます。ほとんどの人は、そのわだかまりに気づくこともなく、心の裏からそのわだかま
りに振りまわされます。操られます。そしていつも、同じ失敗を繰りかえします。
さらに……。あなた自身の子どもへの愛情も、疑ってみてください。「私は、真に子ど
もを愛しているか」とです。
するとほとんどの親は、「私は、愛している」と言います。しかし本当のところは、自
分のために、そして自分の子どもを、自分の思いどおりにしたいだけではないでしょうか。
自分の心のすき間を埋めるためにです(失礼!)。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔し
ている親です。「子どものため」と言いながら、まったく子どものことなど、考えていな
い。
しかしこれは真の愛ではないですね。真の愛は、無条件、無償の愛です。もっとわかり
やすく言えば、『許して、忘れる』。その度量の深さによって、親の愛の深さも決まると
いうことです。
昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこ
う言いました。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では「Forgive and Forget」と
いいます。
この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せます。同じように「フ
ォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せますね。しかし何を与えるために許し、
何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたよ
うに思います。が、ある日。その意味がわかりました。
私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのことです。この言葉が頭を横切った。「ど
うしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではない
か。許して忘れてしまえ」と。
つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛
を得るために忘れろ」ということになります。そしてその深さ、つまりどこまで子ども
を許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まるということです。もちろん許して忘れると
いうことは、子どもに好き勝手なことをさせろということではありません。子どもの言
いなりになるということでもありません。
許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるというこ
と。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、
その問題を自分のものとして認めるということをいいます。
「子どもを叱る」という話から、とんでもない方向に脱線したような気がしますが、そ
んなことも心のどこかで考えながら、「叱る」というテーマを考えてくださると、子ども
への接し方もまた、変わってくるのではないでしょうか。
最後に子どもを叱るときには、一度、子どもの目の中に、自分を置いてみるとよいです
よ。頭の中で想像してみるのです。「今、私という親は、子どもには、どんなふうに見え
ているか」とです。たいていのお母さんは、その醜さに、驚かれることと思います。
(はやし浩司 子どもを叱る)
(040928)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●女性の「美」
女性がもっとも美しくなるのは、20歳を過ぎてから、35歳前後の間ではないか。こ
の時期、女性は、それまでの年齢とは、まったく別人のようになる。そしてとても悲し
いことだが、この時期をすぎると、今度はこれまた、まったく別人のようになる。
私の通勤路に、小さな電気店がある。私が、その道を通るようになる前からあったから、
昔からの電気店である。
で、私がその電気店の前を通るようになってからしばらくのこと。その店のダンナが結
婚した。ダンナの年齢はそのとき、40歳くらいではなかったか。私が29歳のときであ
る。
が、驚いたのなんのと言って、その奥さんの美しさはなかった。背は高く、スラリと伸
びた足。今でいう小顔。美人というレベルを超えて、清楚な気品をたたえた、まるでモデ
ルのような人だった。色は白く、明るい太陽の光りの下では、さらに輝いて見えた。
私はよくワイフにこう言った。「あのダンナ、かなり年齢が違うようだけど、よくもま
あ、あんな美しい女性と結婚できもんだね」と。
それは私のひがみだった。いや、嫉妬だったかもしれない。以来、私は、その電気店の
前を通るたびに、店の中をのぞいた。
が、私にとっても、30年も前の話である。記憶はあまり残っていない。ただ一度だけ、
何かを買いにその店に入ったことがある。店の番は、ふだんは、その女性がしていた。が、
その日にかぎって、その女性がいなかった。私はたいへんがっかりした。そのがっかりし
た思いだけは、よく覚えている。
で、5年がたち、10年がたった。ときどき、つまり数か月に1度くらい、道路でみか
けた。美しさはそのままだったが、見かけるたびに、どこか生活に追われている感じがす
るようになった。このころから、個人の電気店は、経営がきびしくなった。大型の電気店
に、押されるようになった。
そのうちダンナの姿は見えなくなった。が、その女性の姿も、見かけなくなった。ダン
ナは、どこか別の職場で働くようになったのかもしれない。と、同時に、私は、その女性
のことを忘れた。その店の前を通っても、中をのぞくということはなかった。
しかし、である。私は、今日、10年ぶりか、15年ぶりか、それはよくわからないが、
その女性を見かけた。いつものように店の前を自転車で通りぬけようとしたとき、その女
性が目の前に立っていた。バッタリと出くわしたような感じだった。この30年でも、そ
れほどまでに、至近距離で、その女性を見たことはなかった。
驚いた。もちらん相手の女性は、私の秘めた心の中など、知るはずもない。私のほうを
瞬間見たあと、すぐ視線をはずした。しかし私は、その女性から目を離すことができなか
った。
相変わらず整った顔立ちをしていた。スタイルは、昔のままだった。しかし顔だけは、
浅黒くなり、無数のシミが、それを覆っていた。年齢は、45歳くらいというところか。
「ああ」と思った、その瞬間、私は、その女性の向こうに、何とも言われない、悲哀感を
覚えた。悲哀感だ。
時は、容赦なく、人間を変えていく。そして女性から、美しさを、奪っていく。時の流
れの無常というべきか、あるいは無情というべきか……。その女性にすればいらぬ節介か
もしれない。しかし私は、その悲哀感をどうすることもできなかった。
そのことを仕事が終わってから、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「そう言え
ば、昔、あなたはそんなことを言っていたわね。あの人のこと?」と。
私「そうなんだ。あの人だよ。美しい人だったよ」
ワ「……」
私「でも今日見たら、すっかり、おばちゃんになっていた……」
ワ「きっと、生活で、苦労をしたのね」
私「うん、ぼくもそう思う」と。
女性というのは、生活で苦労をすると、とたんに老ける。私の意見というよりは、みな
が、そう言う。生活に追われるうちに、心の余裕をなくすためかもしれない。あるいは、
そういう苦労が、ホルモンのバランスを崩すためかもしれない。よくわからないが、たし
かに、そうだ。
いや、だからといって、その女性が、苦労をしたと言っているのではない。だれしも平
等に、老ける。その女性だけが、特別に老けたというわけではない。ただここで書けるこ
とは、みなが、それぞれの方法で、歳をとっていくということ。私も、あなたも。彼も彼
女も。そして彼らも、みなだ。例外はない。
私が感じた悲哀感の理由は、そんなところにあるのかもしれない。
★A good husband makes a good wife.(よい夫は、よい妻をつくる。)(イギリスの格言)。
ただし同時に、A good wife. makes a good husband(よい妻は、よい夫をつくる)という
格言もあるので、注意。
【追記】
街を歩く。
とぼとぼと歩く。
しかしそこは、若者の世界。
私の知っている世界とは、異質の世界。
「私にも、ああいう時代があったはず」と、懸命に思う。
しかし、その思いも、やがて、街の雑踏の中に消えていく。
私は生きた。
懸命に、生きた。
しかしその前にあるのは、老後。
生きてきたはずなのに、その実感がない。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と、ふと、立ち止まる。
しかし、いくら問いかけても、その向こうに見えるのは、乾いた砂漠のみ。
老人は、笑う。
私の愚かさを笑う。
しかし私にはわからない。
何を、どう生きたらいいのか、わからない。
「お前も、やがて私と同じになる」と、その老人は言う。
しかし、その私は、懸命に虚勢を張って、ただひたすら前に歩くだけ。
●脳ミソの容量
人間の脳みそは、コップのようなものかもしれない。容量にかぎりがありということ。
だから新しい情報が頭の中に入れば入るほど、その分だけ、古い情報を忘れていく。私の
ばあい、人の名前で、それをよく経験する。
新しい生徒の名前は、比較的はやく覚える。しかし覚えたとたん、去っていった生徒の
名前を忘れてしまう。半年もすると、よほど印象に残った子どもは別として、大半の子ど
もの名前を忘れてしまう。
情報だけではない。経験も、そうだ。よい例が、プロ野球の試合。
10年前も、20年前も、今日の「今」と同じように、野球の試合はあった。しかし記
憶に残る試合は、ほとんどない。が、それでも今、人々はプロ野球の試合を見て、喜んだ
り、がっかりしたりする。
実のところ、その場の娯楽にはなるが、しかしそうした経験が積み重ねられて、何かの
成果につながるということは、まずない。
新しい経験が脳ミソの中に入ると同時に、古い経験が押し出されるように、どこかへ消
えていく。あとはこの繰りかえし。
そこで容量にかぎりがあるとするなら、そこへ入れる情報や経験は、より良質のもので
あったほうがよい。ムダな情報、俗悪な経験が入れば入るほど、その人は、その分だけ良
質な情報や経験を入れることができなくなる。
そこで私たちは、日常生活の中で、自ら、より良質な情報や経験をよりわけなければな
らない。「これはすばらしい」「これはつまらない」と。そしてより良質な情報や経験は
しながらも、そうでないのは、捨てていく。捨てていくというよりは、最初から脳みその
中
に、入れないようにする。
そうでなくても、歳をとると、脳みその容量そのものが小さくなっていく。若いときは、
1リットルとかそれくらいあった容量が、50歳をすぎるころには、半分の5デシリット
ルになったりする。実感としては、それくらいになる。
だからますます、脳みその中に、どんな情報や経験を入れるかが、重要になってくる。
つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがあるが、それ
はそういう理由による。
人間関係についても同じ。ムダな人と、ムダなつきあいをしているヒマは、もうない。
……とまあ、そういうふうに考える。
ということで、またまたあのバラエティ番組。いつもヤリ玉にあげるので、よくマガジ
ン読者の方から、「先生は、よほど、あのバラエティ番組が嫌いのようですね」というメ
ールをもらう。
しかし私だって、ときどき、見る。若いときは、テレビのワイドショーの企画も書いて
いたこともある。NET(現在の朝日放送)のアフタヌンショーとか、日テレの11PM
の企画を書いていた。とても自慢できるような過去ではないが、ともかくも、仕事として、
それをしていた。
が、あのバラエティ番組などは、いくら見ても、頭に残らない。身につかない。頭の体
操にもならない。それもそのはず。そのレベルの人間たちが、ギャーギャーと騒いでいる
だけ。どうでもよい情報を、右から左へ流しているだけ。むしろ見れば見るほど、自分自
身が俗化していくのがわかる。
だから私のばあい、あくまでも私のばあいだが、このところ情報を、選択するようにな
った。「これはくだらない情報だから、無視しよう」「これは、大切な情報だから、しっ
かりと吸収しておこう」と。
しかしこうした操作は、歳をとればとるほど、重要になってくる。もちろん残りの人生
を、より有意義に生きるためである。
★A fool at forty is a fool indeed.(40歳を過ぎてからの愚か者は、本物の愚か者。)
(イギリスの格言)
●子どもと接することのすばらしさ
昨日、ある母親とこんな話をした。
私が、「子どもたちと接していると、二つの得をします」と話したときのこと。その母
親は、すかさず、「何ですか?」と。
まず、子どもたちに接していると、心が洗われる。そういう意味では、子どもの心は純
粋。けがれていない。常識のかたまり。
反対に、子どもたちと接していない人たちをみると、それがわかる。そういう人たちは、
どこか偏屈。おかしい。心がゆがんでいる。
だから子どもたちと接していると、常に自分の考え方が、修正される。訂正される。
つぎに、これは同業の人たちが、よく言うことだが、子どもたちと接していると、その
活力をもらうことができる。こちらが、いくら落ちこんでいても、子どもたちは、それを
許してくれない。実際、「先生!」と声をかけてくれたとたん、気が、パッと晴れる。
で、もう一つ、つけ加えるなら、こういうこともある。
私のばあい、子どもたちや親たちを通して、無数の人生を、疑似体験している。それぞ
れの子どもの世界に、こっそりと侵入することもあるし、親の世界に、こっそりと侵入す
ることもある。
その子どもや、親になりきって、そのときどきにおいて、別の人生を楽しむ。
もともと私は、空想力が豊かな人間なので、そうして侵入するのは、むずかしいことで
はない。もっとも、母親の世界に入ることは、めったにない。母親と接したときは、相手
の夫の世界に入る。「私は、今、この女性の夫だぞ」と。
実は、冒頭に書いた、その母親と話していたときもそうだ。すてきな母親だったので、
ふと、その母親の夫の世界に侵入してみた。
しかし、この三番目の話はしなかった。あまりにも、不謹慎な内容だったので……。ハ
ハハ!
(040929)
●K国で、何が起こっているのだ!
このところ、K国から伝わってきているニュースを、まとめると、つぎのようになる。
(事実1)K国は、中国国境沿いに、金XX直轄の最強部隊を、配置し終えた(9月)。
(事実2)K国は、6か国協議をボイコットした。
(事実3)日朝実務者会議は、ほとんど成果がないまま終わった。
(事実4)金XXは、6か国協議開催を迫る中国高官の説得に応じなかった。
(事実5)K国は、このままでは、今年の冬から来年の春にかけて、大飢饉におちいる。
(事実6)K国の原油は、今年の冬、枯渇する。
(事実7)にもかかわらず、中国からの1万トンの原油提供を蹴った。
(事実6)K国の政権抗争が、水面下で激化している。
(事実9)時期後継者と思われる、金正Xが、北京に姿を現した。
(事実10)金XXの精神状態が、きわめて不安定と推測される。
(事実11)金XXは、中国訪問をドタキャンした。
(事実12)K国の経済状態は、すでに破綻している
(事実13)ブッシュ再選は、ほぼ確実。アメリカはK国に対して、ますます強硬になる。
以上の事実に加えて、
(事実14)K国は、K国全土で、ミサイル発射準備の兆候を見せている。
(事実15)アメリカ・北太平洋空軍司令官ヘスター氏が、重大懸念を発表。
(2004年9月26日、午後7時33分)
これらの事実を、どう読むか。どうまとめるか。
読み方はいろいろあるのだろうが、ここまでくると、私には、もう理解不能。私には、
金XXが、何を考えているか、まったく理解できない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。