2009年11月21日土曜日

*Four Essays

●ヒマ(暇)論

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「どうやって1日を 過ごそうか?」
……それを考えるのも、苦痛。
ヒマなときというのは、そういうもの。
もちろんヒマであることも、苦痛。

こういうのを ぜいたくな 悩みという。
しかし 世の中には、そういう
恵まれた人(?)も いる。

「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。

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●「ヒマでヒマで……」

 M氏は、今年65歳になる。
息子と娘がいたが、今は 2人とも、遠くに住んでいる。
私はどこか知らないが、M氏は、そう言った。

 公務員を退職し、つい数か月前まで、郊外の公共施設で 働いていた。
週3日だけの 勤務だった。
が、そこも退職。
今は、悠々自適の隠居生活。
親の代からの 財産も ある。
そのM氏が、こう言った。

 「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。
「朝起きて考えること言えば、今日、1日を どうやって 過ごそうかということです」と。

●気がヘンになる

 M氏は、こう言った。
「日中は まだ何とかなります。
草を買ったり、バイクを直したりします。
問題は、夕食後です。
昨夜も、2時間も 音楽を聴いて、ぼんやりとしていました」と。

 で、私にこう聞いた。
「林さんは、どうしていますか?」と。

 たまたまその前日、私は友人への クリスマス・カードを 作っていた。
今年は、手作りカードに 挑戦している。
色紙に 写真や絵を張りつけ、それを 本のように仕立てる。

「ぼくもねエ、ヒマだと気がヘンになってしまいます。
だからいつも 何かをしています」と。

●生きがい

 M氏には話さなかったが、私のヒマつぶしといえば、インターネット。
ヒマなときは、まずパソコンに 電源を入れる。
とたん、したいこと、すべきことが、ドカッと、目の前に広がる。
趣味でもある。
道楽でもある。
が、それ以上に、今は、それが生きがいになっている。

 文章を書くために、本や雑誌を読んだりする。
マガジンを発行するために、写真を撮ったりする。
HPの更新も、そのつど しなければならない。

 やりたいこと、やるべきことが、あまりにも多い。
ヒマだとか、そんなことを言っている ヒマもない。
が、時として、ヒマになることがある。

●貧乏症

 私のばあいは、軽いパニック障害がある。
少し前までは、「不安神経症」と言った。
簡単に言えば、「貧乏症」。
いつも何かに 追い立てられているような感じがする。
乳幼児期の 不全な家庭環境が、原因と考えている。

 だからヒマであること自体が、苦痛。
何かをしていないと、気がすまない。
いつも、何かを している。

 そういう私の反対側にいるのが、無気力な人。
燃え尽き症候群とか、荷降ろし症候群とかいう。
私の年代には、「空の巣症候群」というのも ある。
子育ても終わり、子どもたちが巣立ってしまうと、とたんに 無気力状態になる。

 が、M氏のばあいは、少しちがうようだ。
「やりたいことは あるはずなのに、それが わからない」と。

●自己の統合性

 青年期には、「自己の同一性」という問題がある。
同じように、退職後には、「自己の統合性」という問題がある。
(やるべきこと)をもち、現実に、(それをする)。
これを「統合性」という。

 この構築に失敗すると、老後は、あわれで みじめなものになる。
M氏が そうだというのではない。
M氏はMしなりに、今のような老後を 夢見ながら、がんばって生きてきた。
しかし実際、それを手にすると、「何をしてよいか、わからない」、となる。

 孤独であるのも いやなこと。
老後になっても、息子や娘のことで、心配の種が尽きない人もいる。
それも いやなこと。
そういう人たちから見ると、M氏の置かれた立場は、うらやましいとなる。
先に「ぜいたくな悩み」と書いたのは、そういう意味。

●「だから、それが どうしたの?」

 そこでM氏が 見せてくれたのは、「太平洋一周、船の旅」という、パンフレット。
1人、150万円前後で、太平洋一周の旅ができるという。
行程は、日本→ハワイ→サンフランシスコ→ニュージーランド→オーストラリア
→東南アジア→中国→日本。

40日間の旅だという。

 「で、それに参加しようかどうかで、迷っている」と。

 私もときどき そうした旅行を考える。
が、そのまま シャボン玉のアワのように消えてしまう。

私のばあい、そういう旅行が、こわくて できない。
帰ってきたときの 虚しさを 想像するだけで、ゾッとする。
かえって虚脱感に襲われる……と思う。

 つまりそうした旅行には、「だから、それが どうしたの」と、そのあとに
つづくものがない。
たとえばそれぞれの国の 教育事情を調べるとか、そういうことなら楽しい。
あるいは私自身が 子どもたちを連れて、何かの指導をするというのでもよい。

 しかし帰ってきたとき、「ただいま!」だけでは、あまりにも さみしい。
一時的に ヒマをつぶすことは できても、そのあと、もっと大きなヒマが 
襲ってくる。
それに耐える自信が、私には、ない。

●老人観察

 老後には いろいろな問題がある。
しかし「ヒマ(暇)」について 考えたことはない。
M氏の話を聞きながら、「そういう問題もあったのか」と、驚いた。

 で、さっそく、あちこちの 老人観察を始めた。
「みんな、どうして いるのだろう?」と。

 もちろん 旅行を繰り返している人も いる。
趣味ざんまいの人も いる。
スポーツをしたり、孫の世話をしている人もいる。
人によって、みなちがう。

 が、こういうことは 言える。
人間というのは 勝手なもの。
忙しいときには、休みが来るのを、何よりも楽しみにする。
が、休みになったとたん、何をしてよいかわからず、ヒマをもてあます。
人生を「曜日」にたとえるなら、月曜日から土曜日までが、仕事。
日曜日が、つまり退職後ということになる。

 毎日が日曜日!

 しかし、これも考えもの。

●私のばあい

 で、私のばあいは、1、2年前に、ひとつの結論を すでに出した。
「私は 死ぬまで、現役で働く」と。
「過去は振り返らない。
前だけを見て、働く」と。

 わかりやすく言えば、身のまわりに、「ヒマ」を作らない。
そういう私の人生を 横から見ながら、「かわいそうなヤツ」と思う人もいる
かもしれない。
自分でも、それがよくわかっている。

 しかし いまだに(やるべきこと)が、何であるか、それがよくわからない。
統合性の確立があやふやなまま、今の仕事をやめてしまったら、それこそ 
たいへんなことになる。

 そのままボケ老人に向かって、まっしぐら!

 ただ幸いなことに、先にも書いたように、私にはまだ、やりたいことが
山のようにある。
どこから手をつけてよいのか、わからなくなることもある。

 で、今は、とりあえずは、新しいパソコンがほしい。
超高性能の、WINDOW7搭載の64ビット・マシン。
今夜も、ワイフに、それをねだったばかり。

 誤解がないように言っておくが、パソコンというのは、電気製品ではない。
買ったあとも、実際、使えるようになるまでに、いろいろな作業がつづく。
その作業が、楽しい。
だから買うとしても、長い休暇の前。

 ……ということで、改めて、究極の選択。

(1) 一生、ヒマで遊んで暮らす。
(2) 一生、仕事で、死ぬ寸前まで働く。

 どちらかを選べと言われたら、私は、迷わず、後者の(2)を選ぶ。
(すでに選んでいるが……。)

 M氏の話を聞いて、ますます強く、そう思うようになった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【ちょうど6~7年前に書いた原稿より、4作】

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原稿の整理をしていたら、たまたま
6~7年前に書いた原稿が出てきた。

いくらたくさんの原稿を書いていても、
読み始めたとたん、これはまちがいなく
私の原稿とわかる。

原稿というのは、そういうもの。

現在の「私」は、その上に乗っている。

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●先生を雑務から解放しよう!

全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそのため休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍、さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。

 理由の第一は、多忙。今、教師は忙し過ぎる。雑務に続く雑務。ある教師(小二担任)はこう言った。「教材研究? そんな時間がどこにありますか。唯一息を抜ける時間は授業中だけです」と。が、それだけではない。こんなこともある。

 俗に「アルツハイマー」と呼ばれる病気がある。脳障害の病気の一つ※だが、その初期症状は、ひどい物忘れ。が、その初期症状のそのまた初期症状というのがあるそうだ。(1)がんこ(自分の意見をゆずらない)、(2)自己中心性(自分が正しいと確信する)、(3)繊細さの欠落(ズケズケとものを言う)など。しかも、だ。四〇歳から、全体の五%前後の人にその傾向が見られるようになるという※。四〇歳といえば、子どもがちょうど中学生になるころ。一クラスに三〇人の生徒がいたとすると、六〇人の親がいることになり、そのうち三人が、あぶない(?)ということになる。家族の一人がアルツハイマーになると、その周囲の家族もたいへんだが、そのまた外にいる人も、何らかの影響を受ける。たとえば学校の先生。

 ある日一人の母親が、私のところへやってきて、こう言った。「小学校で英語教育をするというが、そんな教育は必要ない」と。ものすごい剣幕である。しかしそれはそれから続いた不毛の議論の、ほんの始まりに過ぎなかった。「学校五日制はおかしい」「中高一貫教育には疑問がある」など。毎月のように電話やメールで、あれこれ言ってきた。

が、そのうち私のほうが疲れてしまい、適当に答えていると、最後はこう言った。「あんたは教育評論家だそうだが、その資格はない。あんたが本を書けば、社会に害毒を流すことになる」と。これには私も怒った。怒って電話をすると、夫が出て、こう言った。「すみません、すべてわかっています」と。そして数日後、夫から手紙が届いたが、それにはこうあった。「妻の様子がおかしいので、今、病院へ通っているところです」と。もっとも私のばあい、それまでにもこのタイプの親は最初ではなかったので、それほどキズつかないですんだが、若い未経験の先生だと、そうはいかない。とことん神経をすりへらす。

 結論から言えば、学校の先生には、まず授業に専念してもらう。そういう環境を用意する。ちょうど医療機関におけるドクターのよう、だ。原則として、先生を雑務から解放する。だいたい今のように、教育はもちろんのこと、しつけから果ては、子どもの心の問題、さらには家庭問題まで押しつけるほうがおかしい。ある先生はこう言った。「毎晩親たちからのメールの返事を書くだけで、一時間くらいとられます」と。

こんな状態で、今の先生に「よい授業」を期待するほうがおかしい。たとえばカナダ(バンクーバー市など)では、親が先生に直接連絡をとることすらできない。また原則として先生は、授業以外のことでは一切責任をとらないことになっている。日本も方向性としては。やがてそうするべきではないか。


●人間の豊かさ

 人間の豊かさとは何か。人生の目的とは何か。五〇歳も半ばを過ぎると、そろそろそれについて結論を出さねばならない。

 私には六〇人近い、いとこがいる。その中でも一番の出世がしら(こういう言い方は好きではないが)が、大阪に住むKさん。日本でも一、二を争う大学を出て、某都市銀行に入社した。現役時代は、ドイツ支店の支店長まで勤めている。が、ちょうど同じ年齢のいとこに、Bさんがいる。中学を出るとすぐ理容師の学校に進み、それ以後は長野の田舎にこもり、理容院を経営している。魚釣りがうまく、今ではその地方では、「名人」というニックネームで呼ばれている。

 私はときどきこの二人のいとこを比較して考える。Kさんは、バブル経済崩壊のあと、銀行を離れ、一〇年ほど前に子会社のT金融会社に出向。そののち、定年退職で今は宝塚のほうで年金暮らしをしている。Bさんは、今でも理容院を経営しているが、魚釣りが高じて、釣竿づくりに手を出し、Bさんが作る竿は、芸術品とまで言われるようになっている。

ひところ昔の尺度でみるなら、Kさんは勝ち組み、Bさんは負け組ということになる。が、しかし今、こうして人生全体を振り返ってみると、私にはどちらがどうということが言えなくなってしまった。KさんはT金融会社に出向する少し前私の家に遊びにきて、こう言った。「女房のヤツがね、『私の人生は何だったのよ。返して』と言ってぼくを困らすのだよ」と。Kさんはともかくも、Kさんの出世を陰で支えてきた妻の悲哀も、また大きい。一方Bさんは、その村の村長まで一目置く人物になっているし、かなりの財産もたくわえた。六〇歳を過ぎた今でも、毎日釣りざんまいの優雅な生活を楽しんでいる。

 ただ一つ注意しなければならないのは、「楽な生活」がよいわけではないということ。こんなこともあった。街角で偶然、二五年ぶりにM氏(五四歳)に会ったときのこと。久しぶりのことで、近くのレストランで食事をすることにしたが、話していて、私はハタと困ってしまった。何もないのだ。何も感じないのだ。

私と同じ五四歳なのだから、「この人も何かをしてきたはずだ」と思い、それを懸命にさぐろうとしたのだが、かえってくるものが何もない。話を聞くと、休みはパチンコ、見るテレビは野球中継とバラエティ番組。新聞といっても、読むのはスポーツ新聞だけ、と。いくら楽でも、私はそういう人生には、価値をみない。

 もちろん今でもKさんは、いとこの中でも自慢のいとこだ。Kさんがする話は、私のような田舎者が知る由もない、雲の上の話でおもしろい。が、今、私にもう一度人生が与えられ、Kさんか、それともBさんの人生のどちらかを選べと言われたら、私は迷わず、Bさんのほうの人生を選ぶ。今の自分の人生をみても、私の人生はBさんのほうに、はるかに近い。

しかしこれだけは言える。人生の価値や意味などというものは、世俗の尺度では決まらないということ。つまるところ、その人がどれだけ自分の人生に納得しているかで決まる。言いかえると、納得さえしていれば、それが他人から見てどんな人生であっても、気にすることはない。人間の豊かさというのも、それで決まる。地位や肩書きや名誉や財産ではない。あくまでも自分自身である。

 
●日本の英語教育

 小学校で英語教育が始まることについて、「必要ない」と言ってきた人がいた。「日本語もロクにわからない子どもに、英語など教える必要はない」と。今どき、こういう意見がまかりとおることのほうが、私には理解できない。こんな話がある。

 アメリカの中南部あたりでは、食べ物の味付けが、とにかく甘い。たとえば日本人だと、ケーキのひとかけらすら、食べられない。それを彼らはパクパクと平気で食べる。一方、日本へ来たアメリカ人は、日本の食べ物は、どれもこれも塩からいという。そうそう先日もこんなことを言ったオーストラリア友人がいた。浜松駅におりたったときのこと。「ヒロシ、どうしてこの町はこんなに魚臭いのか」と。自分の味やにおいは、外国へ出てみてはじめてわかる。子育てもそうだ。

 日本人の子育ての特徴を一言で言うなら、「依存性」ということか。子どもが親に依存心をもつことに、日本人は甘い。日本では親にベタベタと甘える子どもほど、かわいい子イコール「いい子」と評価する。そして親は親で、一方的に子どもにあれこれしてしまう。善意や親切を押しつけながら、押しつけているという自覚もない。それは自分自身がそういう子育てを受けたというより、自分も子どもに依存したいという思いから、そうなる。

ある女性(七〇歳)はこう言った。「息子を横浜の嫁に取られてしまいました」と。その女性は、息子が結婚して横浜に住んでいることを、「取られた」と言うのだ。こうした子どもを所有物か何かのように考える意識も、結局は依存性の表われとみる。ほかにこの日本には、忠誠心だの服従心だの、依存性を意味する言葉はいくらでもある。少し前には会社人間という言葉もあった。日本人は互いに依存しあうことによって、自分の身の保全をはかろうとする。

 こうした日本人のもつ問題点も、自分自身が外国に出て、外国を知ることではじめてわかる。観光客の目ではわからない。そこに住んで、そこの人たちと同じ気持ちになってはじめてわかる。日本だけしか知らない人には、日本の味はわからない。浜松のにおいはわからない。外国を知るということは、結局は自分を知ることになる。英語教育というのはそのための教育だ。

ただ北海道の端から沖縄の端まで、同じ教育をという発想もおかしい。英語を勉強したい子どももいる。したくない子どももいる。教えたい親もいる。教えたくない親もいる。英語教育が必要だという教育者もいる。必要でないという教育者もいる。だったら、そんなのは個人に任せればよい。日本人すべてが同じ教育をという発想は、まさに全体主義の亡霊でしかないでしかない。

そこで一つの方法として、カナダやドイツのように、クラブ制にしてはどうだろうか。費用はドイツのように、「子どもマネー」を支給すればよい。ドイツでは子ども一人あたり、一律二三〇ドイツマルク(日本円で一五〇〇〇円程度)が、最長子どもが二七歳になるまで支払われている(二〇〇一年度)。そしてその分、学校を早く終わればよい。日本人ももう少し教育をフレキシブルに考えるべきではないのか。


●アルツハイマーの初期症状

 アルツハイマー病の初期症状は、異常な「物忘れ」。しかしその初期症状のさらに初期症状というのがあるそうだ。(1)がんこになる、(2)自己中心的になる、(3)繊細な感覚がなくなるなど。こうした症状は、早い人で四〇歳くらいから表われ、しかも全体の五%くらいの人にその傾向がみられるという(※)。五%といえば、二〇人に一人。学校でいうなら、中学生をもつ親で、一クラスにつき、三人はその傾向のある親がいるということになる(生徒数三〇人、父母の数六〇人として計算)。

 問題はこういう親にからまれると、かなり経験のある教師でも、かなりダメージを受けるということ。精神そのものが侵される教師もいる。このタイプの親は、ささいなことを一方的に問題にして、とことん教師を追及してくる。私にもこんな経験がある。ある日一人の母親から電話がかかってきた。そしていきなり、「日本の朝鮮併合をどう思うか」と質問してきた。

私は学生時代韓国にユネスコの交換学生として派遣されたことがある。そういう経験もふまえて、「あれはまちがっていた」と言うと、「あんたはそれでも日本人か」と。「韓国は日本が鉄道や道路を作ってあげたおかげで、発展したのではないか。あんたはあちこちで講演をしているということだが、教育者としてふさわしくない」と。繊細な感覚がなくなると、人はそういうことをズケズケと言うようになる。

 もっとも三〇年も親たちを相手にしていると、本能的にこうした親をかぎ分けることができる。「さわらぬ神にたたりなし」というわけではないが、このタイプの親は相手にしないほうがよい。私のばあい、適当にあしらうようにしているが、そうした態度がますます相手を怒らせる。それはわかるが、へたをすると、ドロドロの泥沼に引きずり込まれてしまう。先の母親のケースでも、それから一年近く、ああでもないこうでもないという議論が続いた。

 アルツハイマー病の患者をかかえる家族は、それだけもたいへんだ。(本人は、結構ハッピーなのかもしれないが……。)しかしもっと深刻な問題は、まわりの人が、その患者の不用意な言葉でとことんキズつくということ。相手がアルツハイマー病とわかっていれば、それなりに対処もできるが、初期症状のそのまた初期症状では、それもわからない。

私の知人は、会社の社長に、立ち話で、リストラされたという。「君、来月から、もう、この会社に来なくていい」と。その知人は私に会うまで、毎晩一睡もできないほどくやしがっていたが、私が「その社長はアルツハイマーかもしれないな」と話すと、「そういえば……」と自分で納得した。知人にはほかにも、いろいろ思い当たる症状があったらしい。

 さてもちろんこれだけではないが、今、精神を病む教師は少なくない。東京都教育委員会の調べによると、教職員の全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそのため休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍。さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。まさに現在は、教師受難の時代とも言える。
ああ、先生もたいへんだ! 

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