●今朝は風邪
++++++++++++++++++
朝、頭痛で目が覚めた。
時計を見ると、午前6時。
しばらく目を閉じていたが、
思い切って起き上った。
台所へ行き、コーンスープを温める。
それをザーッと飲んだあと、
鎮痛剤と、ビタミンC(アスコルビン酸)を
のむ。
ふとんに入ってから、睡眠導入剤と、
精神安定剤。
それと葛根湯。
ついでに頭に湿布薬を張る。
幸い、風邪のようだ。
昨夜風呂から出て、1時間半あまり、
こたつに入っていたのが、まずかった。
つぎに目を覚ましたのが、午前10時過ぎ。
頭痛が消えていた。
悪寒も消えていた。
で、今のところ風邪の症状はなし。
インフルエンザでなくて、よかった!
というのも、インフルエンザだったら、
こんなに簡単には、治らない。
+++++++++++++++++
●満62歳
満62歳。
私の年齢。
その年齢で、隠居生活に入った人が多いのには、驚いた。
ワイフが属するクラブ仲間(全員女性)には、現在、満62歳の夫をもつ人が、
4人いる。
それに私の近辺にいる満62歳の知人(やはり満62歳の男性)を含めると、計6人。
その中で、現在、仕事をしている人は、たったの1人!
私を含めると、7人中、たったの2人!
残りの5人は、「オサンドン」とか。
「おさんどん」というのは、昔の言葉で、「女中」「下女」をいう。
それが転じて、「台所仕事」という意味になった(以上、広辞苑)。
「お三どん」と書く人もいる。
「みんな、何してるの?」と聞くと、「みんな、家でブラブラしているだけみたいよ」と。
しかし、待ったア!
62歳という年齢は、まだ隠居する年齢ではない。
隠居してはいけない。
隠居したとたん、脳も体もサビつく。
使い物にならなくなる。
私の年齢になると、「1年くらい休んで、来年からまた仕事」ということができなくなる。
理由がある。
50歳を過ぎると、適応能力が、極端に低下する。
新しい環境に適応できなくなる。
新し仕事を始めても、ストレスばかりを感じて、それに適応できなくなる。
慣れ親しんだ仕事ならともかくも、そうでないなら、手続きを記憶するだけでも、
たいへん。
それ以上に、バケツの底に穴があいたような状態になる。
自分では気がつかない間に、知識や知恵、経験が、容赦なく、下へ流れ落ちて行く。
東洋医学では、『流水は腐らず』という。
健康法を説いたものだが、精神面でも、同じことが言える。
隠居したとたん、心がよどむ。
腐る。
そういう人も少なくない。
健康に問題があるならともかくも、そうでないなら、仕事を分担する。
働く。
私たち団塊の世代が、満75歳まで働けば、日本の少子化問題は解決できる。
が、それは同時に、私たちのためでもある。
寿命まで20年あるとする。
20年と言えば、赤ん坊が成人するまでの年数ということになる。
その気になれば、何かができる。
こんな状態では、私たち団塊の世代は、やがて若い人たちから、粗大ゴミと
言われるようになる。
すでに「老害」という言葉が、あちこちでささやかれ始めるようになてきた。
そうなったら、私たちの居場所そのものが、なくなる。
現に、医療の世界では、「75歳」に、一本の線を引きつつある。
「75歳以上は、がん治療でも、手術はしない」と。
暗黙の了解のようなものだが、それがやがて70歳に引き下げられても、私たちは、
文句を言えない。
生きていても、どうせ何の役にも立たない老人なのだから!
……という状態にしてはいけない。
7人のうち、5人が働いているというのはわかる。
しかし7人のうち、5人が、「オサンドン」というのは、尋常ではない!
個人的には、「遊んでいるのは、私だけ」と思っているかもしれないが、そういう世界から
一歩外に出て、私たち団塊の世代を、今一度、客観的に見てほしい。
けっして穴の中に身を潜め、小さな世界に閉じこもってはいけない。
あなたにも、(私にも)、何かやるべきことがあるはず。
この世に生を受けた以上、やるべきことがあるはず。
そのやるべきことをやりながら、自分の(命)を、若い人たちに還元していく。
「還元」という言葉は、F市に住む、I先生が教えてくれた言葉だが、
その一言に、私たちの世代の生きざまが、集約されている。
つまり自分の命を、若い人たちに、感謝の念をこめて、返していく。
けっして自分だけで、食いつぶしてはいけない!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
2009年11月30日月曜日
*E-Magazine (Nov. 30th)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 11月 30日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●睡眠障害(ナルコレプシー)
このところ、朝早く、目が覚める。
理由が、ある。
もともとそういうことはあったが、
昼寝の時間が長くなった。
以前は、昼寝といっても、うたた寝程度。
時間にすれば、30分前後。
それが最近では、長いときは、1時間半ほど、
眠ってしまう。
それで、その分だけ、朝早く目が覚めるようになった。
(あるいは、その逆かもしれない。)
で、今朝も、午前4時に起きた。
先週くらいまでは、それでも……と思って、
目を閉じたまま、横になっていた。
加えて、外気が冷たかった。
起き上がるのが、つらかった。
が、そうしていても、頭の中は、どんどんと、冴えていくばかり。
だからこうして思い切って、起きることにした。
だから、午前4時。
睡眠障害といえば、ナルコレプシーがある。
日中、感情が高ぶったようなときに、ふいに眠ったような状態になる。
かくんと全身から、力が抜けたような状態になる。
が、本人は、「眠っていない」と、言い張る。
意識はしっかりとしている。
幼児では珍しい。
私も過去40年間に、1例しか経験していない。
しかし中高校生になると、急にふえてくる。
何かのことで強く叱ったり、あるいは本人自身が興奮状態に
なったようなとき、そうなる。
そのとき子どもによっては、(もちろんおとなもそうだが……)、
勝手な行動をすることもある。
つまり体が、勝手に動いてしまう。
こういうのを、「自動行動」と呼ぶ。
大切なお知らせを、ふいにゴミ箱へ捨てたりする。
「A先生に渡して」と言って、渡したメモを、B先生に渡してしまったりする。
「どうしてそんなことをするの?」と、たしなめても、
本人には、その自覚がない。
意識的な行為というよりは、無意識的な行為である。
健常者でも、似たような行為をすることがある。
たとえば、そこにかなり背の低い人がいたとする。
だから内心では、「身長の話題は避けよう」と思っている。
が、何かの拍子に、ふいに、身長の話をしてしまう。
こうした現象が、ナルコレプシーでは、極端な形で現れる。
原因は、睡眠障害と考えられている。
ふつう人は、睡眠中、ノン・レム睡眠→レム睡眠を、5~6回繰り返す。
そのリズムが乱れる。
それが慢性化する。
結果として、特異な症状を表すようになる。
そういう意味でも、規則正しい生活は、重要である。
夜遅くまで、興奮性の強いゲームをする。
徹夜で、受験勉強をする。
このタイプの子どもが、ナルコレプシーになりやすい(?)。
で、私のばあい、迷っている。
このまま今のように、昼寝時間を長くして調整するか。
それとも昼寝時間を短くして、夜の睡眠時間を長くするか。
たまたまおとといは、昼寝なしで、がんばってみた。
昨日も、昼寝をしないようにと、がんばってみた。
(夕方、15分程度、椅子に座ったまま、うたた寝をしてしまったが……。)
が、こういう日が数日もつづくと、頭の中がモヤモヤとするだけで、
ものが書けなくなってしまう。
注意力が散漫になってしまう。
やはり体のことは、自然に任せるのがよい。
何ごとにつけても、自然体。
それが一番。
国によっては、昼寝を日課にしているところもある。
ただ気になっていることが、ひとつ、ある。
私とワイフは、ときどき、仕事が終わってから、深夜劇場に足を運んでいる。
時間的には、午後9時以後~ということになる。
家に帰ってくるのは、そういう日は、夜中の12時前後。
そういう生活は、あまり好ましくない。
自分でも、よくわかっている。
これからは別の方法を考えよう。
++++++++++++++++++++
以前、ナルコレプシーではないかと思われる女性がいた。
その人について、その雇い主の方から、相談があった。
その女性は子どものころ、ADHDと診断され、
薬をのんでいたという。
で、今もそれではないか、と。
女性の年齢はわからないが、20歳前後と思われる。
で、立ち話だったので、私は「おとなのADHDは
珍しい。女性のばあい、多弁性が残ることが多いが、
症状としては、落ち着いてくる。子どものころ、
ADHDではなく、活発型自閉症児ではなかったのか」
と話した。
で、翌朝、その女性に症状について詳しく書かれた
メールが、届いていた。
その返事。
++++++++++++++++++++
(補足)ナルコレプシー
SW様へ
おはようございます!
メール、ありがとうございました。
「活発型自閉症」というのは、もう20~30年前までの用語です。
今は、「自閉症スペクトラム」と言います。
当時は、(今もそうですが)、活発型自閉症児と、ADHD児の区別は、
たいへんむずかしいです。
ADHD児は、思考や行動は明晰であるという点で、区別していました。
で、いただいた女性の件ですが、私は、「ADHDではないと思う」と言いました。
おとなになると、表面的な症状はわかりにくくなります。
女性のばあい、ふつうでない多弁性だけは残りますが、ほかの症状は、落ち着いて
きます。
しかしメールによれば、主症状は、注意力散漫、居眠りということですから、
活発型自閉症のおとな型というよりは、ナルコレプシーではないかと
思いました。
ご存知のように、私たちの年齢層には、睡眠時無呼吸症候群という
恐ろしいのもありますが、これは私たちの年代で、かつ肥満型の人に多いものです。
このタイプの人も、日中、突然の睡眠に襲われたりします。
ナルコレプシーのばあいも、突然眠ったような状態になります。
が、そのとき、意識は残ったままになるので、「私は眠っていません」となるのです。
で、ナルコレプシーについては、
以下のHPをさがしてみました。
いちばん詳しく書かれていると思います。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~narukohp/3100.html#Q102
(↑)をクリックしてみてください。
その女性のばあい、(内面的な激怒)が引き金となり、ナルコレプシーを
引き起こすのではないかと思われます。
過去のADHDは、関係ないと思われます。
というのも、ADHD児(子どものばあい)でも、居眠りは、起きません。
ADHDの症状はあったかもしれませんが……。
それは現在の症状とは、関係ないと思われます。
また子どもの世界にも、勝手に別の行動をしてしまう(自動行動)子どもも
ときどき見られます。
ふつう激怒をともないますので、かんしゃく発作ということで、
片づけてしまうことも多いです。
(というのも、私には診断権はないものですから……。)
その女性のばあいも、自動行動が見られるようですね。
もしそうだとするなら、医療従事者としては、不向きかもしれません。
薬をまちがえられたら、こわいですから……。
話は変わりますが、活発型自閉症児と呼んでいた子どもは、
始終、動き回り、勝手な行動を繰り返します。
健常児のような会話ができません。
ADHD児は、そのつど、会話はできます。
強く叱れば、瞬間ですが、シュンとおとなしくなったりします。
が、今では、自閉症による症状が、きわめて多岐にわたり、
また千差万別。
境界がはっきりしないということで、「自閉症スペクトラム」という
言葉を使います。
この点については、立ち話での応答ということもあり、いいかげんな
ものでした。
どうかお許しください。
つまり「おとなのADHDは珍しい」ということで、同じような
症状としては……ということで、「活発型自閉症児」という
言葉をあげました。
しかしメールによれば、ナルコレプシーでは(?)と思うように
なりました。
もちろんこれは私のひとつの意見にすぎません。
以前、そういう子ども(年長・女児)がいました。
睡眠指導をあれこれしてみましたが、効果はありませんでした。
しかしナルコレプシーは、子どもには、たいへん珍しく、
中学、高校くらいから、多くなります。
強く叱ったとたん、かくんと眠ったような状態になる、
あるいは、気を失ったような状態になります。
以上ですが、おとなの世界のことは、本当のところ、
よくわかりません。
ごめんなさい。
では、
はやし浩司
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●満62歳の誕生日に
+++++++++++++++++++++
明日、私は満62歳になる。
62歳?
62歳ねエ~?
「62歳」と言って、
最初に思い浮かんだ言葉が、これ。
「もう2年も、たったのかア」と。
つい先日、「還暦」という言葉に踊らされたばかり。
そんな感じがする。
つまり加齢とともに、脳のクロック数が
落ちるため(はやし浩司説)、
すべての活動のテンポが遅くなる。
そのため、時間が早く進むように感ずるように
なる(これも、はやし浩司説)。
たとえば若いころの脳のクロック数を、
毎秒100ヘルツとする。
現在は、半分の毎秒50ヘルツとする。
すると見かけは同じ状態でも、実感時間は、
若いころの半分になる。
つまり2倍、早く時間が過ぎることになる。
しかし脳全体の機能が速度的に落ちるため、それを
自分で実感することはできない。
(どこか、アインシュタインの相対性理論に似ている?)
このことは、幼児を教えてみると、よくわかる。
もし幼児を、私のもつテンポで教えたら、幼児は、
あっという間に、私のレッスンに飽きてしまうだろう。
そこで私は、幼児のもつクロック数で、教える。
幼児のもつクロック数は、おとなのそれよりも、
はるかに速い。
教える側が、もたもたしていると、すぐ、「つまんナ~イ」
という言葉がはね返ってくる。
(こうした様子は、HP(BW公開教室)で、公開中!)
一方、高齢者のクロック数は、低い。
50どころか、20とか、10にまで下がる。
見た目には、ゆったりと時間が流れるが、
その分だけ、高齢者にとっては、早く時間が過ぎる。
……というわけで、もう2年も過ぎた。
あっという間だった。
この2年間で、私は何をしたか?
何ができたか?
中身を見ていくと、結構いろいろあったような気がする。
母の介護と死去。
その間に、兄の死去。
先月は実家を売却して、故郷とは縁を切った。
精神的には、激動の2年間だった。
(少しおおげさかな?)
が、それでもあっという間に過ぎた。
そんな感じがする。
が、過去は過去。
私には、つぎの1年間が待っている。
いろいろ計画がある。
したいこともある。
すべきこともある。
しかし1年といっても、日々の積み重ねで決まる。
その日々は、今という、一瞬、一瞬の積み重ねで決まる。
大切なことは、クロック数を落とさないこと。
鋭敏さを失わないこと。
それは何度も書くが、健康論と同じ。
日々の体力づくりのみが、明日の健康を約束する。
立ち止まったとたん、そのときから、
健康は、下り坂に向かって、まっしぐら!
新聞を読もう。
本を読もう。
音楽を聴こう。
映画を見よう。
旅をしよう。
人に会おう。
新しいものに興味をもとう。
仕事をしよう。
体を動かそう。
それでクロック数があがるとは思わない。
が、しかし維持することはできる。
50ヘルツなら、50ヘルツでもよい。
その50ヘルツを、できるだけ長く維持する。
つまり長生きするといっても、クロック数が
5ヘルツや10ヘルツでは、しかたない。
で、今日、小学5年生の子どもたちに会うから、
つぎのような問題を出してみよう。
【問】
脳のクロック数が、毎秒100ヘルツの人が、
10年、生きたとする。
一方、脳のクロック数が、毎秒50ヘルツの人が、
20年、生きたとする。
どちらの人が、長生きをしたことになるか。
きっと子どもたちは、「20年、生きた人」と
答えるだろう。
そこで私は、コンピュータを例にあげて説明したあと、
おもむろに、こう教える。
100x10=1000
50x20=1000で、
「実は中身は、同じだよ」と。
平たく言えば、人生の長さは、年数の長さでは
決まらない。
大切なのは、密度。
密度で決まる。
それがわからなければ、あなたも一度でよいから、
あの特別擁護老人ホームにいる老人たちを
のぞいて見てみたらよい。
ホームのテレビの前に座っている老人たちは、
ぼんやりとしたまま、その日、その日を、
過ごしているだけ。
あとは食事をしているか、眠っているだけ。
毎日、同じことしか言わない老人もいる。
1年を1日のようにして、生きている。
やがて私たちも、ああなる。
まちがいなく、ああなる。
が、その時期は、できるだけ先に延ばしたい。
先に延ばして、自分の人生を、2倍にしたい。
3倍にしたい。
どうせ、たった1回しかない人生だから。
……というのが、満62歳の私の抱負と
いうことになる。
けっして立ち止まらない。
ただひたすら前に向かって進む。
そう、あのスティーブンソン(「宝島」の著者)も
こう書いている。
『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』と。
この言葉をもじると、こうなる。
『我らが目的は、年齢に応じた生き方をすることではない。
年齢を無視して、前に進むことである』と。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
● 10月28日
平凡は美徳だが、その美徳に溺れてはいけない。
溺れたとたん、平凡のワナにはまる。
マンネリの世界に陥る。
そこは「虚」の世界。
変化がなく、退屈な世界。
そこで重要なことは、平凡を感じたら、平凡を旨(むね)としつつ、
変化と刺激を求める。
その変化と刺激が、人生を、潤い豊かなものにする。
……とまあ、自分にそう言い聞かせながら、今日も始まった。
昨夜は遅くまで、温泉へ行ってきた。
舘山寺にそういう温泉があって、1~2時間、そこで過ごすことができる。
「静岡県最大級の浴場」という。
平日の、午後7時以後に行くと、ガラガラ。
昨夜も、男湯のほうは、私と長男だけ。
途中、外人の男が2人、入ってきたが、サウナにしばらく入ったあと、すぐ、
出て行ってしまった。
雰囲気的に、同性愛者という感じがした。
その疲れというか、気(け)だるさがまだ残っている。
脳みその緊張感は緩んだまま。
いろいろ書きたいことはあるが、それが頭の中でまとまらない。
言うなれば、霧のよう。
それがモヤモヤと漂っている。
そうそう、ワイフの話では、昨日、山鳩の雛が2羽、私の家の庭に
戻ってきたという。
よかった!
おとといは雨。
冷たい雨だった。
その雨を見ながら、雛のことを心配していた。
で、今日は、私の誕生日。
どうということのない誕生日。
いつもと変わらぬ、1日。
昨夜、三男から電話があった。
「明日は、ぼくの誕生日だから、電話してよ」と言ったら、「わかった」と。
まあ、その程度。
昔から、誕生日は、家族だけで祝うようにしてきた。
それでここ10年は、さみしい誕生日になってしまった。
Happy Birthday to Me!
Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司
●絶望
++++++++++++++++++
Aさん(女性)が、こう言った。
「うちの母(87歳)は、特養(特別養護
老人ホーム)へ入れたとたん、歩かなく
なってしまった。
車椅子に座ったまま、動こうともしない」と。
それを聞いて、「しまった!」と思った。
ショックだった。
うすうす、そうではないかと感じてはいたが、
やはりそうだった!
+++++++++++++++++++++
●私の母
そのときは、そのつもりはなかった。
予約するつもりだけだった。
そのつもりで、近くの特養へ行くと、たまたま園長が応対してくれた。
そのときは、その女性が、園長ということも知らなかった。
で、園長はこう言った。
「ちょうど1人、病院へ移りました。
今なら、すぐ入れます」と。
家に帰って迷っていると、義姉がこう言った。
「すぐ、入れなさい。
順番を待っていたら、早くても1年後とか2年後になるわよ」と。
そこで母を、特養に入れることにした。
●特養の問題
最初、1週間は、毎日、母のところへ通った。
そのたびに、母は、こう言った。
「K村(=母の実家のある村)へ、帰りたい」と。
私とワイフは、そういう母を懸命になだめた。
が、それも一巡すると、母から急速に元気がなくなっていった。
それまでは、デイサービスのときも、どこかに緊張感があった。
その緊張感が、消えた。
その母も、特養では、まったくといってよいほど、運動をしなくなった。
私はそれは、特養のシステムのせいだと思っていた。
介護度が低い高齢者については、いろいろな療法がしてもらえる。
しかし介護度4以上の入所者については、しない、と。
が、いくら介護度が高くても、何かの療法は、必要ではないのか。
ただ座らせておくだけの特養に、心のどこかで不満を感じていた。
●絶望感
が、もし、あなたが、(私が)、ああいう部屋に閉じ込められたら、
あなたは、(私は)、どう思うだろうか。
まわりは、ぼんやりとした高齢者ばかり。
大きなベッドに、鼻からチューブを通されて寝ている高齢者もいる。
会話も通じない。
やることは、何もない。
昼間は、ガンガンと、見たくもないテレビを見せつけられる。
あなたなら、(私なら)、その瞬間、絶望感を覚えるにちがいない。
絶望感だ。
その絶望感を、母は覚えた。
確信はないが、入所したとき、母は、まだ冗談が通ずるほど、頭のほうは、
しっかりとしていた。
私の家でも、パイプをつたって、歩いていた。
が、特養に入ったとたん、元気がなくなった。
●死の待合室
絶望……その恐ろしさは、それを経験したものでないとわからない。
心が自分の体から、抜けてしまったかのようになる。
生きる気力そのものが、消えうせる。
「もうダメだ」という思いが、大波のように打ち寄せては消える。
しかしなす術(すべ)は、ない。
虚脱感。
空虚感。
やがて「死」が、すぐそこに見えてくるようになる。
死への恐怖は、そのときには、もう、ない。
特養へ入った母は、恐らくその絶望感を覚えたにちがいない。
もともと気が強い人だった。
プライドも高く、おまけに虚栄心も強かった。
そんな母だったから、まわりに、そういう人たちを見たとき、
自分がそういう立場であることを知った。
もしそれがあなたなら、(私なら)、そのとたん、生きる気力をなくすだろう。
まさにそこは、死の待合室。
●母の様子
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「私にも、わからなかったわ。
お母さんには、快適な場所のように見えたわ」と。
しかしいくら歳をとっても、いくら頭の働きが鈍くなっても、
死への恐怖心はある。
死の恐怖心がある以上、絶望感もある。
(生きたい)という思いと、(死にたくない)という思いが、はげしくぶつかる。
その(生きたい)という思いが消えたとき、(死んでもいい)となる。
絶望した状態というのは、それをいう。
たしかに特養での母は、おだやかで、やさしかった。
すべてを受け入れ、すべてを許しているかのように見えた。
しかしそれはあくまでも、結果。
母は、絶望感を覚えた。
同時に、生きることをあきらめた。
●ワイフの意見
私「今の特養制度にも、大きな問題があるよ」
ワ「そうね」
私「老人をただ生かしておくだけ、という感じがする」
ワ「そう、そう言えば、そうね」
私「どんな老人にも、生きがいが必要だ。その生きがいを用意し、
それを助けてやるシステムが必要だ」
ワ「でも、みんな、精一杯よ。できるかぎりのことをしてるわ」
私「そうかもしれない。でも、もっとできることは、あるはず。
今のような隔離病棟のようなシステムにするのではなく、元気になって、
退所していくような人の姿が見えるようなシステムにする」と。
母も、毎月のように、特養で亡くなっていく人を、見ていたはず。
母にとっては、それがいかにつらいものであったことか。
私には、知る由もなかった。
目先のサービス、たとえば24時間看護、個別の献立、完全冷暖房、
近代的な入浴システム……。
そういったものばかりに目を奪われて、
母の心の中までは見なかった。
しかしそれでは高齢者の心は救えない。
あなただって、(私だって)、それも運がよければの話だが、
いつか、そういうところへ入る。
早いか遅いかのちがいだけ。
そのとき、あなたは、(私は)、どうしてほしいか。
それを考えれば、特養はどうあるべきか、それがわかるはず。
Aさんの母親も、特養へ入ったとたん、元気をなくしたという。
同じような話は、あちこちでも聞く。
しかしそれは、あなたの、(私の)、近未来の姿でもある。
それとも、あなたは、(私は)、もしだれかに、「君たち老人は、だまって
静かに死ね」と言われたら、それに耐えられるだろうか。
まだ言葉も話せない幼児にも、人権はある。
同じように、寝たきりになった高齢者にも、人権はある。
その視点をふみはずして、老人問題を語ることはできない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 老人の人権 高齢者の人権 特別養護老人ホーム 特養 絶望に
ついて 絶望論)
Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司
●マッサージ
今日、生まれてはじめて、マッサージ・パーラーなるものに行ってきた。
外国で、「マッサージ・パーラー」というと、男性に、(最近では女性専用
の所もあるそうだが)、性的なサービスをするところを意味する。
私が行ったのは、もっと健康的なところ。
息子が、サービス券を贈ってくれた。
2枚、あった。
で、私が1枚、ワイフが1枚、使った。
外国のホテルに泊まったようなときは、よくマッサージをしてもらう。
が、今回のように、市中にあるマッサージ・パーラーに行ったのは、はじめて。
私たちも、いよいよ老人の仲間入り!
リラックス・コースというのを選んだが、リラックスできたかどうかは、
わからない。
体中を、いじくり回されただけ。
あとで私が、「どうせするなら、チxチxのほうもしてくれたらよかった」と
言うと、ワイフが、「そんなことしたら、風俗店になってしまうわ」と。
とにかく楽しい経験だった。
料金は、1分で100円。
30分コースで、3000円+消費税。
50分コースで、5000円+消費税。
あとは希望に応じて、料金が決まる。
生まれてはじめての経験だったので、ここに記録しておく。
62歳の誕生日に、よい経験をさせてもらった。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●2012年
2012年に、なにやら、とんでもないことが起こるらしい。
それをテーマにした映画が、ローランド・エメリッヒ監督の、『2012』。
11月21日に、劇場で公開されるという。
楽しみ。
ぜったい、見に行く。
で、つぎからつぎへとこういう映画ができる。
ハリウッドに集まる映画マンには、本当に感心する。
まとめて、「ハルマゲドン映画」という。
迫り来る、危機。
人類滅亡の危機。
みなが恐怖におびえ、逃げまどう。
「もうだめだ」と思ったところに、勇敢なヒーローが現れる。
そのヒーローが地球を救う。
基本的には、ウルトラマン映画と変わらない。
月光仮面でもよい。
筋書きとしては、そういうもの。
あとはどう、それをおもしろおかしく演出するかということ。
で、今回は、真実味をつけるために、マヤの暦を利用した。
が、私はこういう映画が好き。
「2012年に、マヤの予言通り、世界は終わる」と。
映画案内には、こうある。
「高度な天文学、数学の知識をもち、栄えていたマヤ人。
彼らが残した暦には、ある時を境に、それ以降の記述がない。
昔から「世界終末の日」と言われてきた、その暦最後の日は……
2012年12月21日。
あと3年に迫った現在、マヤの予言だけではなく、現代科学も、「2012年
終末説」を裏づけるデータをつぎつぎと、発表している。
太陽の黒点問題。
地球温暖化。
度重なる、自然大災害……。
占星術師は星の中にその兆候を発見し、
数秘術師はそれを予言するパターンを見つけ、
地質学者は、それがいつ起きても不思議でないと言い、
政府関係者や科学者さえも、それを言及している。
もはや、このことを否定できる者はいない」と。
マヤの暦は、2012年12月21日」で終わっているという。
私の家のカレンダーは、2009年12月31日で終わっている。
……というような冗談はさておき、こうした予言は、当たったためしがない。
(当たってもらっては、困るが……。)
10年前には、ノストラダムスの大予言というのが、話題になった。
あれも、完全に、ハズレ!
興味深いのは、こうした予言をもとにして、デタラメな本を書いた人が、
1人とて、責任を取ったことがないこと。
世の中を不安にするだけ不安にしておいて、かつ莫大な印税を手にしておいて、
あとは「知らない」は、ない。
儲けた分くらいは、社会に還元してほしい。
もっとも、本気でそれを信ずる人は、いなかったが……(?)。
で、2012年。
マヤ文明は宇宙人とつながっているという。
私も若いころ、デニケンの本は、何冊か、読んだ。
おもしろかった。
人間だけが、宇宙の、ゆいいつの知的生物という考え方は、おかしい。
人間以外にも、知的生物は、いる。
しかもその知的生物は、私たちの想像をはるかに超えるほど、知的と
考えるのが、正しい。
人間と、庭に遊ぶ山鳩くらいの差は、あるかも。
そういう知的生物なら、かなり正確に、地球の未来を予測することができるはず。
(予言ではなく、予測。)
その予測を、宇宙人は、マヤの人々に伝えた。
デニケンなら、そう判断するだろう。
それが2012年ということになる。
しかしおかしなことに、「2012」という数字がどこから出てきたかというと、
それがよくわからない。
「マヤの暦によれば……」ということらしい。
しかし私が知るかぎり、彼らの文字は、いまだに解読されていないはず。
で、あちこちを調べてみたが、よくわからない。
仮に2012年で暦が終わっているからといって、それが「終末」を意味すると
考えるのは、おかしい。
カレンダーにも限界があるように、マヤの暦にも限界がある。
あったところで、おかしくない。
ひょっとしたら、その程度のことではないのか。
……とは言っても、楽しみ。
私は学生時代から、SF小説が大好き。
その類の本ばかり、読んでいた。
当時は、地球人と木星人との戦争とか、そういう単純なものばかりだった。
が、それでもおもしろかった。
脳みそを刺激するには、この種の映画が、いちばんよい。
なお占星術という言葉が出てきたので、一言。
以前、それについて書いた原稿をさがしてみた。
+++++++++++++++++++++++
●占星術
+++++++++++++++++
今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。
街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。
占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。
+++++++++++++++++
占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)
占星術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それが
ある。興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。
で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、
神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやす
く言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら
万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。
そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体と
して連動している、人間の運命を知る、と。
しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。
たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て
誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、
男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例
がないわけではない。
中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とす
るのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イス
ラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。
ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書い
たように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術
では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。
年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判
断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体
占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の
動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。
が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。
しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物
という単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考え
てみればよい。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、
清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわ
けではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。
……という話を書くことすら、バカげている。
星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二
次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れてい
ない。
つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎな
い。サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、10
0光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、も
っと、変わる。星位という概念すら、消えてなくなる。
もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術イ
コール、数学と考えてよい。
その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八
丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。
こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。
しかしこれだけは言える。
「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きる
ことを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するよ
うなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、そ
れぞれの人の勝手。私の知ったことではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
占星術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)
【追記】
●占星術(2)
超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占
星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが
一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。
大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。
これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性
がある。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。
イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つま
り、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。
反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味を
なくす。たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算
盤を見つめながら、こう言ったとする。
「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、
ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。
信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性によ
る。意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたい
して、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということに
なる。笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。
その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっ
ぱに言えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的な
パワーを盲信するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということにな
る。
もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によ
っても、ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、
絶対的な存在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭で
は、信者を黙らせることはできない。
神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいる
から、宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給の
バランス関係によって、発展したり、衰退したりする。
たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。ど
こかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかっ
た。ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本で
も、中国でもあったようだ。
中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。
しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、
私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、
日本人は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それに
ついて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、
私の認識不足によるものかもしれないが……。)
占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発
展した。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、も
っともらしい(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うま
く答えたということになる。
それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のス
キマを埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見
ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。
一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」
そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星術、
全盛期を迎えるにいたった。
書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔
を出さない日は、ない。
しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、そ
れは疑わしい。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、
占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が
高い。あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的
宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その
勢力を拡大していることを忘れてはならない。
こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、
わかったものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその
信仰は、神秘主義そのものである。
何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(か
っぽ)している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。
ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。
「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、
いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●受験生国家
+++++++++++++++++++++
韓国の受験教育の激しさは、日本の比ではない。
そういうこともあって、韓国のエリートたちは、
いつも(順位)にこだわる。
日本ではニュースにならないようなニュースでも、
彼らには一大事。
ときとして韓国系の新聞に目を通していると。
気分が重くなる。
それはそれとして、朝鮮N報(09・10・27)に、
こんな記事が載っていた。
「世界の豊かさ評価」というのである。
この中で、「日本は、16位」だ、そうだ。
+++++++++++++++++++++
+++++以下、朝鮮N報より+++++
英民間研究機関のレガタム研究所が世界104カ国・地域を対象に「豊かさ」の指標とし
て発表している「レガタム繁栄指数」で、フィンランドがトップとなり、韓国は26位に入
った。韓国経済新聞が26日、英フィナンシャル・タイムズ(FT)を引用して報じた。
フィンランドは経済基盤、統治能力などの側面で最も豊かな国と評価された。レガタム
は、▲経済基盤▲安全保障と治安▲企業家精神と革新▲民主主義▲統治能力▲個人の自由
など九つの要素を考慮し、指数を算出した。
フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェーデン、デンマ
ーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた。上位20カ国のうち80%
は北米、欧州の国々で、米国は9位、英国は12位、フランスは17位、イタリアは21位だ
った。
アジアでは日本が16位でトップ。シンガポールが23位、台湾が24位で続いた。韓国は
26位で、アジアでは4番目だった。韓国は▲経済基盤▲企業家精神と革新▲教育▲統治能
力で高い評価を受けたが、個人の自由に対する評価は振るわなかった。
今回の調査では、新興のBRICs各国の間で格差が目立った。ブラジルが41位、インド
が45位に入ったのに対し、ロシアは69位、中国は75位にとどまった。レガタムのインボ
ーデン副会長は「ブラジルとインドは法治、透明性、責任性などでロシア、中国を上回っ
た」と説明した。内戦に苦しむジンバブエが最下位となり、イエメン、スーダンなども最
下位圏だった。
+++++以上、朝鮮N報より+++++
●豊かさ
「豊かさ」というのは、それを知っている人は、知っている。
知らない人は、知らない。
知らない人は、自分のレベルで、それを(豊かさ)と思い込む。
お金があるから、「豊か」ということにはならない。
モノがあふれかえっているから、「豊か」ということにもならない。
わかりきったことだが、それを知るためには、一度、自分の(豊かさ)を、
日本の外からながめてみる必要がある。
そういう点では、英民間研究機関のレガタム研究所の公表した順位には、
それなりの意味がある。
日本が16位というのを聞いて、「そうかなあ?」と思ってみたり、
「そんなものだろうな」と思ってみたりする。
記事には、「フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェー
デン、デンマーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた」とある。
この記事に異論はない。
その一方で、「中国が75位」というのも、よ~く、わかる。
ここ10年以上、中国本土からやってきた中国人とは、どうも相性が合わない。
会えば、マネーの話ばかり。
その上、自信を持ち始めたのか、威張っている。
日本人を毛嫌いしていて、それを露骨に表現する。
そういう点では、日本人は、おとなになりつつある。
(豊かさ)というのが、どういうものか、知り始めている。
30~40年前の日本人は、現在の中国人に劣らぬほど、心が貧しかった。
今にして思うと、それがよ~く、わかる。
それにしても、韓国人は、何かにつけ、順位を気にする。
つまりそれだけ、心が貧しいということ。
「韓国は26位」というが、実際には、もう少し低いのでは?
たとえば市内には、最近韓国からやってきた人が開いた飲食店が、いくつかある。
韓国料理は嫌いではないが、どうも、入りづらい。
そういう店は、どこか雰囲気がちがう。
店の中の座敷に、その飲食店の店主の子どもが、寝そべって本を読んでいたりする。
そういうのに、違和感を覚える。
その(違和感)こそが、(豊かさ)のちがいということになる。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●WINDOW7
WINDOW7が発売になって、ちょうど1週間が過ぎた。
評判は、よい。
昨日、コンビニで、『日経PC21』(12月号)を買ってきた。
表紙に、「全部見せます! Window7」とあった。
寝床へ入ってから、特集記事を読んだ。
(パート1)新機能編
(パート2)乗り換え編
(パート3)環境設定編
(パート4)互換性編
(パート5)PC購入編
ざっと読んでみたが、この世界、ついていくだけでも、たいへん。
それなりの専門家ならまだしも、私のような(ふつうの人)には、
その時間さえない。
読み終えたとき、「ますます二極化が進むだろうな」と思った。
(パソコンを使う人)と(まったく使わない人)。
それが両極端に分かれる。
とくに50代以上の人の間で、それが進む。
たとえばWINDOW7では、メールソフトなど、いわゆる定番ソフトは、
自分でインストールして使う。
しかし今の今でさえ、メールアカウントを、自分で設定できない人は多い。
それを、「自分でインストールして……」となると、さらにハードルが
高くなる。
インターネットをするといえば、メールのやり取りをいう。
どうしてWINDOW7では、それをはずしたのか。
理解に苦しむ。
なお、インターネット・エクスプローラ(IE)や、メディアプレーヤー
などは、最初から組み込まれているという。
やっとビスタを使い慣れてきたというのに、今度は、WINDOW7。
頭の刺激にはなるが、一方で、お金の問題も起きてくる。
ほんの10年前には、パソコンというと、20~30万円が相場だった。
高価なものだから大切に使ったが、今では周辺機器も含めて、すべてガラクタ。
だから今では、ことパソコンについて言えば、「大切に使っても意味がない」
という、おかしな感覚が働く。
「どうせ、4、5年もすれば、ガラクタになるから……」と。
パソコンというのは、(ビデオカメラもデジタルカメラも、そうだが)、
保証期間中は、使って使って使いまくる。
ボロボロになるまで、使いまくる。
少なくとも、磨いて、棚にしまっておくようなものではない。
もちろん骨董的価値が出てくるということは、ぜったいに、ない。
かく言う私も、今度の日曜日に、WINDOW7に、乗り換えるつもり。
その作業をするつもり。
楽しみ!
●同窓会名簿
昨日、同窓会名簿を、戸棚にしまった。
ああいうのは、あまり見ない方がよい。
一度見出すと、気になってしかたなくなる。
「あの人は、どうなった?」「この人は、どうなった?」と。
しかしその動機が問題。
のぞき趣味的な、イヤーナ好奇心。
それが自分でも、よくわかる。
私は私。
人は人。
それで、よい。
たぶん、中には、同窓会名簿を見て、私のことを調べている人もいるかも
しれない。
どうせ2度と会うこともないから、「ご勝手に!」と言いたいが、本音を
言えば、「放っておいてほしい」。
一度調べたことがあるが、アメリカやオーストラリアを含む欧米の学校には、
同窓会(Class Reunion Party)というのは、ない。
学校のシステムそのものが、ちがう。
(ただしカレッジごと、大学ごとの、同窓会はある。)
日本では、年齢別に学年が分かれ(学年制度)、かつ1つのクラスに担任の
教師がつく(担任制度)。
が、欧米には、そういった制度そのものがない。
が、日本では、同窓会を大切にする。
その中における、先輩、後輩意識も強い。
江戸時代の身分制度が、学歴制度に置き換わったという経緯(いきさつ)もある。
その人の出身校で、その人を判断するという意識も、いまだに根強く残っている。
が、同窓会には、もうひとつの意味が隠されている。
人も晩年になると、回顧性が強くなる。
未来を見る展望性より、過去をなつかしむ回顧性が強くなる。
そのために50歳をすぎると、同窓会の回数が、急速にふえてくる。
しかしそれをよしとしてはいけない。
回顧性などというものは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
私たちは常に、未来に向かって、前向きに生きていく。
そうでなくても、私たちの年代になると、くじけやすくなる。
過去を振り返りたくなる。
が、一度回顧性に毒されると、それこそ、毎日仏壇の金具を磨いて過ごすようになる。
そうなったら、片足を棺おけに入れたも、同然。
そこで時間は止まる。
回顧性に浸るのは、最後の最後でよい。
……ということで、同窓会名簿は、戸棚にしまった。
そうでなくても、他人の動向を詮索するのは、よくない。
昼のワイドショーのように、低劣で、不快。
タレントの私生活を暴いては、ワイワイと騒いでいる。
ああいう人たちのまねだけは、したくない。
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.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 11月 30日
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page015.html
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●睡眠障害(ナルコレプシー)
このところ、朝早く、目が覚める。
理由が、ある。
もともとそういうことはあったが、
昼寝の時間が長くなった。
以前は、昼寝といっても、うたた寝程度。
時間にすれば、30分前後。
それが最近では、長いときは、1時間半ほど、
眠ってしまう。
それで、その分だけ、朝早く目が覚めるようになった。
(あるいは、その逆かもしれない。)
で、今朝も、午前4時に起きた。
先週くらいまでは、それでも……と思って、
目を閉じたまま、横になっていた。
加えて、外気が冷たかった。
起き上がるのが、つらかった。
が、そうしていても、頭の中は、どんどんと、冴えていくばかり。
だからこうして思い切って、起きることにした。
だから、午前4時。
睡眠障害といえば、ナルコレプシーがある。
日中、感情が高ぶったようなときに、ふいに眠ったような状態になる。
かくんと全身から、力が抜けたような状態になる。
が、本人は、「眠っていない」と、言い張る。
意識はしっかりとしている。
幼児では珍しい。
私も過去40年間に、1例しか経験していない。
しかし中高校生になると、急にふえてくる。
何かのことで強く叱ったり、あるいは本人自身が興奮状態に
なったようなとき、そうなる。
そのとき子どもによっては、(もちろんおとなもそうだが……)、
勝手な行動をすることもある。
つまり体が、勝手に動いてしまう。
こういうのを、「自動行動」と呼ぶ。
大切なお知らせを、ふいにゴミ箱へ捨てたりする。
「A先生に渡して」と言って、渡したメモを、B先生に渡してしまったりする。
「どうしてそんなことをするの?」と、たしなめても、
本人には、その自覚がない。
意識的な行為というよりは、無意識的な行為である。
健常者でも、似たような行為をすることがある。
たとえば、そこにかなり背の低い人がいたとする。
だから内心では、「身長の話題は避けよう」と思っている。
が、何かの拍子に、ふいに、身長の話をしてしまう。
こうした現象が、ナルコレプシーでは、極端な形で現れる。
原因は、睡眠障害と考えられている。
ふつう人は、睡眠中、ノン・レム睡眠→レム睡眠を、5~6回繰り返す。
そのリズムが乱れる。
それが慢性化する。
結果として、特異な症状を表すようになる。
そういう意味でも、規則正しい生活は、重要である。
夜遅くまで、興奮性の強いゲームをする。
徹夜で、受験勉強をする。
このタイプの子どもが、ナルコレプシーになりやすい(?)。
で、私のばあい、迷っている。
このまま今のように、昼寝時間を長くして調整するか。
それとも昼寝時間を短くして、夜の睡眠時間を長くするか。
たまたまおとといは、昼寝なしで、がんばってみた。
昨日も、昼寝をしないようにと、がんばってみた。
(夕方、15分程度、椅子に座ったまま、うたた寝をしてしまったが……。)
が、こういう日が数日もつづくと、頭の中がモヤモヤとするだけで、
ものが書けなくなってしまう。
注意力が散漫になってしまう。
やはり体のことは、自然に任せるのがよい。
何ごとにつけても、自然体。
それが一番。
国によっては、昼寝を日課にしているところもある。
ただ気になっていることが、ひとつ、ある。
私とワイフは、ときどき、仕事が終わってから、深夜劇場に足を運んでいる。
時間的には、午後9時以後~ということになる。
家に帰ってくるのは、そういう日は、夜中の12時前後。
そういう生活は、あまり好ましくない。
自分でも、よくわかっている。
これからは別の方法を考えよう。
++++++++++++++++++++
以前、ナルコレプシーではないかと思われる女性がいた。
その人について、その雇い主の方から、相談があった。
その女性は子どものころ、ADHDと診断され、
薬をのんでいたという。
で、今もそれではないか、と。
女性の年齢はわからないが、20歳前後と思われる。
で、立ち話だったので、私は「おとなのADHDは
珍しい。女性のばあい、多弁性が残ることが多いが、
症状としては、落ち着いてくる。子どものころ、
ADHDではなく、活発型自閉症児ではなかったのか」
と話した。
で、翌朝、その女性に症状について詳しく書かれた
メールが、届いていた。
その返事。
++++++++++++++++++++
(補足)ナルコレプシー
SW様へ
おはようございます!
メール、ありがとうございました。
「活発型自閉症」というのは、もう20~30年前までの用語です。
今は、「自閉症スペクトラム」と言います。
当時は、(今もそうですが)、活発型自閉症児と、ADHD児の区別は、
たいへんむずかしいです。
ADHD児は、思考や行動は明晰であるという点で、区別していました。
で、いただいた女性の件ですが、私は、「ADHDではないと思う」と言いました。
おとなになると、表面的な症状はわかりにくくなります。
女性のばあい、ふつうでない多弁性だけは残りますが、ほかの症状は、落ち着いて
きます。
しかしメールによれば、主症状は、注意力散漫、居眠りということですから、
活発型自閉症のおとな型というよりは、ナルコレプシーではないかと
思いました。
ご存知のように、私たちの年齢層には、睡眠時無呼吸症候群という
恐ろしいのもありますが、これは私たちの年代で、かつ肥満型の人に多いものです。
このタイプの人も、日中、突然の睡眠に襲われたりします。
ナルコレプシーのばあいも、突然眠ったような状態になります。
が、そのとき、意識は残ったままになるので、「私は眠っていません」となるのです。
で、ナルコレプシーについては、
以下のHPをさがしてみました。
いちばん詳しく書かれていると思います。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~narukohp/3100.html#Q102
(↑)をクリックしてみてください。
その女性のばあい、(内面的な激怒)が引き金となり、ナルコレプシーを
引き起こすのではないかと思われます。
過去のADHDは、関係ないと思われます。
というのも、ADHD児(子どものばあい)でも、居眠りは、起きません。
ADHDの症状はあったかもしれませんが……。
それは現在の症状とは、関係ないと思われます。
また子どもの世界にも、勝手に別の行動をしてしまう(自動行動)子どもも
ときどき見られます。
ふつう激怒をともないますので、かんしゃく発作ということで、
片づけてしまうことも多いです。
(というのも、私には診断権はないものですから……。)
その女性のばあいも、自動行動が見られるようですね。
もしそうだとするなら、医療従事者としては、不向きかもしれません。
薬をまちがえられたら、こわいですから……。
話は変わりますが、活発型自閉症児と呼んでいた子どもは、
始終、動き回り、勝手な行動を繰り返します。
健常児のような会話ができません。
ADHD児は、そのつど、会話はできます。
強く叱れば、瞬間ですが、シュンとおとなしくなったりします。
が、今では、自閉症による症状が、きわめて多岐にわたり、
また千差万別。
境界がはっきりしないということで、「自閉症スペクトラム」という
言葉を使います。
この点については、立ち話での応答ということもあり、いいかげんな
ものでした。
どうかお許しください。
つまり「おとなのADHDは珍しい」ということで、同じような
症状としては……ということで、「活発型自閉症児」という
言葉をあげました。
しかしメールによれば、ナルコレプシーでは(?)と思うように
なりました。
もちろんこれは私のひとつの意見にすぎません。
以前、そういう子ども(年長・女児)がいました。
睡眠指導をあれこれしてみましたが、効果はありませんでした。
しかしナルコレプシーは、子どもには、たいへん珍しく、
中学、高校くらいから、多くなります。
強く叱ったとたん、かくんと眠ったような状態になる、
あるいは、気を失ったような状態になります。
以上ですが、おとなの世界のことは、本当のところ、
よくわかりません。
ごめんなさい。
では、
はやし浩司
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●満62歳の誕生日に
+++++++++++++++++++++
明日、私は満62歳になる。
62歳?
62歳ねエ~?
「62歳」と言って、
最初に思い浮かんだ言葉が、これ。
「もう2年も、たったのかア」と。
つい先日、「還暦」という言葉に踊らされたばかり。
そんな感じがする。
つまり加齢とともに、脳のクロック数が
落ちるため(はやし浩司説)、
すべての活動のテンポが遅くなる。
そのため、時間が早く進むように感ずるように
なる(これも、はやし浩司説)。
たとえば若いころの脳のクロック数を、
毎秒100ヘルツとする。
現在は、半分の毎秒50ヘルツとする。
すると見かけは同じ状態でも、実感時間は、
若いころの半分になる。
つまり2倍、早く時間が過ぎることになる。
しかし脳全体の機能が速度的に落ちるため、それを
自分で実感することはできない。
(どこか、アインシュタインの相対性理論に似ている?)
このことは、幼児を教えてみると、よくわかる。
もし幼児を、私のもつテンポで教えたら、幼児は、
あっという間に、私のレッスンに飽きてしまうだろう。
そこで私は、幼児のもつクロック数で、教える。
幼児のもつクロック数は、おとなのそれよりも、
はるかに速い。
教える側が、もたもたしていると、すぐ、「つまんナ~イ」
という言葉がはね返ってくる。
(こうした様子は、HP(BW公開教室)で、公開中!)
一方、高齢者のクロック数は、低い。
50どころか、20とか、10にまで下がる。
見た目には、ゆったりと時間が流れるが、
その分だけ、高齢者にとっては、早く時間が過ぎる。
……というわけで、もう2年も過ぎた。
あっという間だった。
この2年間で、私は何をしたか?
何ができたか?
中身を見ていくと、結構いろいろあったような気がする。
母の介護と死去。
その間に、兄の死去。
先月は実家を売却して、故郷とは縁を切った。
精神的には、激動の2年間だった。
(少しおおげさかな?)
が、それでもあっという間に過ぎた。
そんな感じがする。
が、過去は過去。
私には、つぎの1年間が待っている。
いろいろ計画がある。
したいこともある。
すべきこともある。
しかし1年といっても、日々の積み重ねで決まる。
その日々は、今という、一瞬、一瞬の積み重ねで決まる。
大切なことは、クロック数を落とさないこと。
鋭敏さを失わないこと。
それは何度も書くが、健康論と同じ。
日々の体力づくりのみが、明日の健康を約束する。
立ち止まったとたん、そのときから、
健康は、下り坂に向かって、まっしぐら!
新聞を読もう。
本を読もう。
音楽を聴こう。
映画を見よう。
旅をしよう。
人に会おう。
新しいものに興味をもとう。
仕事をしよう。
体を動かそう。
それでクロック数があがるとは思わない。
が、しかし維持することはできる。
50ヘルツなら、50ヘルツでもよい。
その50ヘルツを、できるだけ長く維持する。
つまり長生きするといっても、クロック数が
5ヘルツや10ヘルツでは、しかたない。
で、今日、小学5年生の子どもたちに会うから、
つぎのような問題を出してみよう。
【問】
脳のクロック数が、毎秒100ヘルツの人が、
10年、生きたとする。
一方、脳のクロック数が、毎秒50ヘルツの人が、
20年、生きたとする。
どちらの人が、長生きをしたことになるか。
きっと子どもたちは、「20年、生きた人」と
答えるだろう。
そこで私は、コンピュータを例にあげて説明したあと、
おもむろに、こう教える。
100x10=1000
50x20=1000で、
「実は中身は、同じだよ」と。
平たく言えば、人生の長さは、年数の長さでは
決まらない。
大切なのは、密度。
密度で決まる。
それがわからなければ、あなたも一度でよいから、
あの特別擁護老人ホームにいる老人たちを
のぞいて見てみたらよい。
ホームのテレビの前に座っている老人たちは、
ぼんやりとしたまま、その日、その日を、
過ごしているだけ。
あとは食事をしているか、眠っているだけ。
毎日、同じことしか言わない老人もいる。
1年を1日のようにして、生きている。
やがて私たちも、ああなる。
まちがいなく、ああなる。
が、その時期は、できるだけ先に延ばしたい。
先に延ばして、自分の人生を、2倍にしたい。
3倍にしたい。
どうせ、たった1回しかない人生だから。
……というのが、満62歳の私の抱負と
いうことになる。
けっして立ち止まらない。
ただひたすら前に向かって進む。
そう、あのスティーブンソン(「宝島」の著者)も
こう書いている。
『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』と。
この言葉をもじると、こうなる。
『我らが目的は、年齢に応じた生き方をすることではない。
年齢を無視して、前に進むことである』と。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
● 10月28日
平凡は美徳だが、その美徳に溺れてはいけない。
溺れたとたん、平凡のワナにはまる。
マンネリの世界に陥る。
そこは「虚」の世界。
変化がなく、退屈な世界。
そこで重要なことは、平凡を感じたら、平凡を旨(むね)としつつ、
変化と刺激を求める。
その変化と刺激が、人生を、潤い豊かなものにする。
……とまあ、自分にそう言い聞かせながら、今日も始まった。
昨夜は遅くまで、温泉へ行ってきた。
舘山寺にそういう温泉があって、1~2時間、そこで過ごすことができる。
「静岡県最大級の浴場」という。
平日の、午後7時以後に行くと、ガラガラ。
昨夜も、男湯のほうは、私と長男だけ。
途中、外人の男が2人、入ってきたが、サウナにしばらく入ったあと、すぐ、
出て行ってしまった。
雰囲気的に、同性愛者という感じがした。
その疲れというか、気(け)だるさがまだ残っている。
脳みその緊張感は緩んだまま。
いろいろ書きたいことはあるが、それが頭の中でまとまらない。
言うなれば、霧のよう。
それがモヤモヤと漂っている。
そうそう、ワイフの話では、昨日、山鳩の雛が2羽、私の家の庭に
戻ってきたという。
よかった!
おとといは雨。
冷たい雨だった。
その雨を見ながら、雛のことを心配していた。
で、今日は、私の誕生日。
どうということのない誕生日。
いつもと変わらぬ、1日。
昨夜、三男から電話があった。
「明日は、ぼくの誕生日だから、電話してよ」と言ったら、「わかった」と。
まあ、その程度。
昔から、誕生日は、家族だけで祝うようにしてきた。
それでここ10年は、さみしい誕生日になってしまった。
Happy Birthday to Me!
Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司
●絶望
++++++++++++++++++
Aさん(女性)が、こう言った。
「うちの母(87歳)は、特養(特別養護
老人ホーム)へ入れたとたん、歩かなく
なってしまった。
車椅子に座ったまま、動こうともしない」と。
それを聞いて、「しまった!」と思った。
ショックだった。
うすうす、そうではないかと感じてはいたが、
やはりそうだった!
+++++++++++++++++++++
●私の母
そのときは、そのつもりはなかった。
予約するつもりだけだった。
そのつもりで、近くの特養へ行くと、たまたま園長が応対してくれた。
そのときは、その女性が、園長ということも知らなかった。
で、園長はこう言った。
「ちょうど1人、病院へ移りました。
今なら、すぐ入れます」と。
家に帰って迷っていると、義姉がこう言った。
「すぐ、入れなさい。
順番を待っていたら、早くても1年後とか2年後になるわよ」と。
そこで母を、特養に入れることにした。
●特養の問題
最初、1週間は、毎日、母のところへ通った。
そのたびに、母は、こう言った。
「K村(=母の実家のある村)へ、帰りたい」と。
私とワイフは、そういう母を懸命になだめた。
が、それも一巡すると、母から急速に元気がなくなっていった。
それまでは、デイサービスのときも、どこかに緊張感があった。
その緊張感が、消えた。
その母も、特養では、まったくといってよいほど、運動をしなくなった。
私はそれは、特養のシステムのせいだと思っていた。
介護度が低い高齢者については、いろいろな療法がしてもらえる。
しかし介護度4以上の入所者については、しない、と。
が、いくら介護度が高くても、何かの療法は、必要ではないのか。
ただ座らせておくだけの特養に、心のどこかで不満を感じていた。
●絶望感
が、もし、あなたが、(私が)、ああいう部屋に閉じ込められたら、
あなたは、(私は)、どう思うだろうか。
まわりは、ぼんやりとした高齢者ばかり。
大きなベッドに、鼻からチューブを通されて寝ている高齢者もいる。
会話も通じない。
やることは、何もない。
昼間は、ガンガンと、見たくもないテレビを見せつけられる。
あなたなら、(私なら)、その瞬間、絶望感を覚えるにちがいない。
絶望感だ。
その絶望感を、母は覚えた。
確信はないが、入所したとき、母は、まだ冗談が通ずるほど、頭のほうは、
しっかりとしていた。
私の家でも、パイプをつたって、歩いていた。
が、特養に入ったとたん、元気がなくなった。
●死の待合室
絶望……その恐ろしさは、それを経験したものでないとわからない。
心が自分の体から、抜けてしまったかのようになる。
生きる気力そのものが、消えうせる。
「もうダメだ」という思いが、大波のように打ち寄せては消える。
しかしなす術(すべ)は、ない。
虚脱感。
空虚感。
やがて「死」が、すぐそこに見えてくるようになる。
死への恐怖は、そのときには、もう、ない。
特養へ入った母は、恐らくその絶望感を覚えたにちがいない。
もともと気が強い人だった。
プライドも高く、おまけに虚栄心も強かった。
そんな母だったから、まわりに、そういう人たちを見たとき、
自分がそういう立場であることを知った。
もしそれがあなたなら、(私なら)、そのとたん、生きる気力をなくすだろう。
まさにそこは、死の待合室。
●母の様子
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「私にも、わからなかったわ。
お母さんには、快適な場所のように見えたわ」と。
しかしいくら歳をとっても、いくら頭の働きが鈍くなっても、
死への恐怖心はある。
死の恐怖心がある以上、絶望感もある。
(生きたい)という思いと、(死にたくない)という思いが、はげしくぶつかる。
その(生きたい)という思いが消えたとき、(死んでもいい)となる。
絶望した状態というのは、それをいう。
たしかに特養での母は、おだやかで、やさしかった。
すべてを受け入れ、すべてを許しているかのように見えた。
しかしそれはあくまでも、結果。
母は、絶望感を覚えた。
同時に、生きることをあきらめた。
●ワイフの意見
私「今の特養制度にも、大きな問題があるよ」
ワ「そうね」
私「老人をただ生かしておくだけ、という感じがする」
ワ「そう、そう言えば、そうね」
私「どんな老人にも、生きがいが必要だ。その生きがいを用意し、
それを助けてやるシステムが必要だ」
ワ「でも、みんな、精一杯よ。できるかぎりのことをしてるわ」
私「そうかもしれない。でも、もっとできることは、あるはず。
今のような隔離病棟のようなシステムにするのではなく、元気になって、
退所していくような人の姿が見えるようなシステムにする」と。
母も、毎月のように、特養で亡くなっていく人を、見ていたはず。
母にとっては、それがいかにつらいものであったことか。
私には、知る由もなかった。
目先のサービス、たとえば24時間看護、個別の献立、完全冷暖房、
近代的な入浴システム……。
そういったものばかりに目を奪われて、
母の心の中までは見なかった。
しかしそれでは高齢者の心は救えない。
あなただって、(私だって)、それも運がよければの話だが、
いつか、そういうところへ入る。
早いか遅いかのちがいだけ。
そのとき、あなたは、(私は)、どうしてほしいか。
それを考えれば、特養はどうあるべきか、それがわかるはず。
Aさんの母親も、特養へ入ったとたん、元気をなくしたという。
同じような話は、あちこちでも聞く。
しかしそれは、あなたの、(私の)、近未来の姿でもある。
それとも、あなたは、(私は)、もしだれかに、「君たち老人は、だまって
静かに死ね」と言われたら、それに耐えられるだろうか。
まだ言葉も話せない幼児にも、人権はある。
同じように、寝たきりになった高齢者にも、人権はある。
その視点をふみはずして、老人問題を語ることはできない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 老人の人権 高齢者の人権 特別養護老人ホーム 特養 絶望に
ついて 絶望論)
Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司
●マッサージ
今日、生まれてはじめて、マッサージ・パーラーなるものに行ってきた。
外国で、「マッサージ・パーラー」というと、男性に、(最近では女性専用
の所もあるそうだが)、性的なサービスをするところを意味する。
私が行ったのは、もっと健康的なところ。
息子が、サービス券を贈ってくれた。
2枚、あった。
で、私が1枚、ワイフが1枚、使った。
外国のホテルに泊まったようなときは、よくマッサージをしてもらう。
が、今回のように、市中にあるマッサージ・パーラーに行ったのは、はじめて。
私たちも、いよいよ老人の仲間入り!
リラックス・コースというのを選んだが、リラックスできたかどうかは、
わからない。
体中を、いじくり回されただけ。
あとで私が、「どうせするなら、チxチxのほうもしてくれたらよかった」と
言うと、ワイフが、「そんなことしたら、風俗店になってしまうわ」と。
とにかく楽しい経験だった。
料金は、1分で100円。
30分コースで、3000円+消費税。
50分コースで、5000円+消費税。
あとは希望に応じて、料金が決まる。
生まれてはじめての経験だったので、ここに記録しておく。
62歳の誕生日に、よい経験をさせてもらった。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●2012年
2012年に、なにやら、とんでもないことが起こるらしい。
それをテーマにした映画が、ローランド・エメリッヒ監督の、『2012』。
11月21日に、劇場で公開されるという。
楽しみ。
ぜったい、見に行く。
で、つぎからつぎへとこういう映画ができる。
ハリウッドに集まる映画マンには、本当に感心する。
まとめて、「ハルマゲドン映画」という。
迫り来る、危機。
人類滅亡の危機。
みなが恐怖におびえ、逃げまどう。
「もうだめだ」と思ったところに、勇敢なヒーローが現れる。
そのヒーローが地球を救う。
基本的には、ウルトラマン映画と変わらない。
月光仮面でもよい。
筋書きとしては、そういうもの。
あとはどう、それをおもしろおかしく演出するかということ。
で、今回は、真実味をつけるために、マヤの暦を利用した。
が、私はこういう映画が好き。
「2012年に、マヤの予言通り、世界は終わる」と。
映画案内には、こうある。
「高度な天文学、数学の知識をもち、栄えていたマヤ人。
彼らが残した暦には、ある時を境に、それ以降の記述がない。
昔から「世界終末の日」と言われてきた、その暦最後の日は……
2012年12月21日。
あと3年に迫った現在、マヤの予言だけではなく、現代科学も、「2012年
終末説」を裏づけるデータをつぎつぎと、発表している。
太陽の黒点問題。
地球温暖化。
度重なる、自然大災害……。
占星術師は星の中にその兆候を発見し、
数秘術師はそれを予言するパターンを見つけ、
地質学者は、それがいつ起きても不思議でないと言い、
政府関係者や科学者さえも、それを言及している。
もはや、このことを否定できる者はいない」と。
マヤの暦は、2012年12月21日」で終わっているという。
私の家のカレンダーは、2009年12月31日で終わっている。
……というような冗談はさておき、こうした予言は、当たったためしがない。
(当たってもらっては、困るが……。)
10年前には、ノストラダムスの大予言というのが、話題になった。
あれも、完全に、ハズレ!
興味深いのは、こうした予言をもとにして、デタラメな本を書いた人が、
1人とて、責任を取ったことがないこと。
世の中を不安にするだけ不安にしておいて、かつ莫大な印税を手にしておいて、
あとは「知らない」は、ない。
儲けた分くらいは、社会に還元してほしい。
もっとも、本気でそれを信ずる人は、いなかったが……(?)。
で、2012年。
マヤ文明は宇宙人とつながっているという。
私も若いころ、デニケンの本は、何冊か、読んだ。
おもしろかった。
人間だけが、宇宙の、ゆいいつの知的生物という考え方は、おかしい。
人間以外にも、知的生物は、いる。
しかもその知的生物は、私たちの想像をはるかに超えるほど、知的と
考えるのが、正しい。
人間と、庭に遊ぶ山鳩くらいの差は、あるかも。
そういう知的生物なら、かなり正確に、地球の未来を予測することができるはず。
(予言ではなく、予測。)
その予測を、宇宙人は、マヤの人々に伝えた。
デニケンなら、そう判断するだろう。
それが2012年ということになる。
しかしおかしなことに、「2012」という数字がどこから出てきたかというと、
それがよくわからない。
「マヤの暦によれば……」ということらしい。
しかし私が知るかぎり、彼らの文字は、いまだに解読されていないはず。
で、あちこちを調べてみたが、よくわからない。
仮に2012年で暦が終わっているからといって、それが「終末」を意味すると
考えるのは、おかしい。
カレンダーにも限界があるように、マヤの暦にも限界がある。
あったところで、おかしくない。
ひょっとしたら、その程度のことではないのか。
……とは言っても、楽しみ。
私は学生時代から、SF小説が大好き。
その類の本ばかり、読んでいた。
当時は、地球人と木星人との戦争とか、そういう単純なものばかりだった。
が、それでもおもしろかった。
脳みそを刺激するには、この種の映画が、いちばんよい。
なお占星術という言葉が出てきたので、一言。
以前、それについて書いた原稿をさがしてみた。
+++++++++++++++++++++++
●占星術
+++++++++++++++++
今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。
街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。
占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。
+++++++++++++++++
占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)
占星術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それが
ある。興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。
で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、
神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやす
く言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら
万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。
そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体と
して連動している、人間の運命を知る、と。
しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。
たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て
誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、
男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例
がないわけではない。
中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とす
るのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イス
ラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。
ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書い
たように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術
では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。
年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判
断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体
占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の
動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。
が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。
しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物
という単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考え
てみればよい。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、
清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわ
けではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。
……という話を書くことすら、バカげている。
星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二
次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れてい
ない。
つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎな
い。サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、10
0光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、も
っと、変わる。星位という概念すら、消えてなくなる。
もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術イ
コール、数学と考えてよい。
その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八
丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。
こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。
しかしこれだけは言える。
「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きる
ことを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するよ
うなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、そ
れぞれの人の勝手。私の知ったことではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
占星術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)
【追記】
●占星術(2)
超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占
星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが
一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。
大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。
これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性
がある。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。
イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つま
り、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。
反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味を
なくす。たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算
盤を見つめながら、こう言ったとする。
「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、
ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。
信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性によ
る。意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたい
して、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということに
なる。笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。
その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっ
ぱに言えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的な
パワーを盲信するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということにな
る。
もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によ
っても、ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、
絶対的な存在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭で
は、信者を黙らせることはできない。
神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいる
から、宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給の
バランス関係によって、発展したり、衰退したりする。
たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。ど
こかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかっ
た。ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本で
も、中国でもあったようだ。
中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。
しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、
私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、
日本人は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それに
ついて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、
私の認識不足によるものかもしれないが……。)
占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発
展した。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、も
っともらしい(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うま
く答えたということになる。
それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のス
キマを埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見
ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。
一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」
そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星術、
全盛期を迎えるにいたった。
書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔
を出さない日は、ない。
しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、そ
れは疑わしい。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、
占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が
高い。あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的
宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その
勢力を拡大していることを忘れてはならない。
こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、
わかったものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその
信仰は、神秘主義そのものである。
何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(か
っぽ)している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。
ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。
「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、
いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●受験生国家
+++++++++++++++++++++
韓国の受験教育の激しさは、日本の比ではない。
そういうこともあって、韓国のエリートたちは、
いつも(順位)にこだわる。
日本ではニュースにならないようなニュースでも、
彼らには一大事。
ときとして韓国系の新聞に目を通していると。
気分が重くなる。
それはそれとして、朝鮮N報(09・10・27)に、
こんな記事が載っていた。
「世界の豊かさ評価」というのである。
この中で、「日本は、16位」だ、そうだ。
+++++++++++++++++++++
+++++以下、朝鮮N報より+++++
英民間研究機関のレガタム研究所が世界104カ国・地域を対象に「豊かさ」の指標とし
て発表している「レガタム繁栄指数」で、フィンランドがトップとなり、韓国は26位に入
った。韓国経済新聞が26日、英フィナンシャル・タイムズ(FT)を引用して報じた。
フィンランドは経済基盤、統治能力などの側面で最も豊かな国と評価された。レガタム
は、▲経済基盤▲安全保障と治安▲企業家精神と革新▲民主主義▲統治能力▲個人の自由
など九つの要素を考慮し、指数を算出した。
フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェーデン、デンマ
ーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた。上位20カ国のうち80%
は北米、欧州の国々で、米国は9位、英国は12位、フランスは17位、イタリアは21位だ
った。
アジアでは日本が16位でトップ。シンガポールが23位、台湾が24位で続いた。韓国は
26位で、アジアでは4番目だった。韓国は▲経済基盤▲企業家精神と革新▲教育▲統治能
力で高い評価を受けたが、個人の自由に対する評価は振るわなかった。
今回の調査では、新興のBRICs各国の間で格差が目立った。ブラジルが41位、インド
が45位に入ったのに対し、ロシアは69位、中国は75位にとどまった。レガタムのインボ
ーデン副会長は「ブラジルとインドは法治、透明性、責任性などでロシア、中国を上回っ
た」と説明した。内戦に苦しむジンバブエが最下位となり、イエメン、スーダンなども最
下位圏だった。
+++++以上、朝鮮N報より+++++
●豊かさ
「豊かさ」というのは、それを知っている人は、知っている。
知らない人は、知らない。
知らない人は、自分のレベルで、それを(豊かさ)と思い込む。
お金があるから、「豊か」ということにはならない。
モノがあふれかえっているから、「豊か」ということにもならない。
わかりきったことだが、それを知るためには、一度、自分の(豊かさ)を、
日本の外からながめてみる必要がある。
そういう点では、英民間研究機関のレガタム研究所の公表した順位には、
それなりの意味がある。
日本が16位というのを聞いて、「そうかなあ?」と思ってみたり、
「そんなものだろうな」と思ってみたりする。
記事には、「フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェー
デン、デンマーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた」とある。
この記事に異論はない。
その一方で、「中国が75位」というのも、よ~く、わかる。
ここ10年以上、中国本土からやってきた中国人とは、どうも相性が合わない。
会えば、マネーの話ばかり。
その上、自信を持ち始めたのか、威張っている。
日本人を毛嫌いしていて、それを露骨に表現する。
そういう点では、日本人は、おとなになりつつある。
(豊かさ)というのが、どういうものか、知り始めている。
30~40年前の日本人は、現在の中国人に劣らぬほど、心が貧しかった。
今にして思うと、それがよ~く、わかる。
それにしても、韓国人は、何かにつけ、順位を気にする。
つまりそれだけ、心が貧しいということ。
「韓国は26位」というが、実際には、もう少し低いのでは?
たとえば市内には、最近韓国からやってきた人が開いた飲食店が、いくつかある。
韓国料理は嫌いではないが、どうも、入りづらい。
そういう店は、どこか雰囲気がちがう。
店の中の座敷に、その飲食店の店主の子どもが、寝そべって本を読んでいたりする。
そういうのに、違和感を覚える。
その(違和感)こそが、(豊かさ)のちがいということになる。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●WINDOW7
WINDOW7が発売になって、ちょうど1週間が過ぎた。
評判は、よい。
昨日、コンビニで、『日経PC21』(12月号)を買ってきた。
表紙に、「全部見せます! Window7」とあった。
寝床へ入ってから、特集記事を読んだ。
(パート1)新機能編
(パート2)乗り換え編
(パート3)環境設定編
(パート4)互換性編
(パート5)PC購入編
ざっと読んでみたが、この世界、ついていくだけでも、たいへん。
それなりの専門家ならまだしも、私のような(ふつうの人)には、
その時間さえない。
読み終えたとき、「ますます二極化が進むだろうな」と思った。
(パソコンを使う人)と(まったく使わない人)。
それが両極端に分かれる。
とくに50代以上の人の間で、それが進む。
たとえばWINDOW7では、メールソフトなど、いわゆる定番ソフトは、
自分でインストールして使う。
しかし今の今でさえ、メールアカウントを、自分で設定できない人は多い。
それを、「自分でインストールして……」となると、さらにハードルが
高くなる。
インターネットをするといえば、メールのやり取りをいう。
どうしてWINDOW7では、それをはずしたのか。
理解に苦しむ。
なお、インターネット・エクスプローラ(IE)や、メディアプレーヤー
などは、最初から組み込まれているという。
やっとビスタを使い慣れてきたというのに、今度は、WINDOW7。
頭の刺激にはなるが、一方で、お金の問題も起きてくる。
ほんの10年前には、パソコンというと、20~30万円が相場だった。
高価なものだから大切に使ったが、今では周辺機器も含めて、すべてガラクタ。
だから今では、ことパソコンについて言えば、「大切に使っても意味がない」
という、おかしな感覚が働く。
「どうせ、4、5年もすれば、ガラクタになるから……」と。
パソコンというのは、(ビデオカメラもデジタルカメラも、そうだが)、
保証期間中は、使って使って使いまくる。
ボロボロになるまで、使いまくる。
少なくとも、磨いて、棚にしまっておくようなものではない。
もちろん骨董的価値が出てくるということは、ぜったいに、ない。
かく言う私も、今度の日曜日に、WINDOW7に、乗り換えるつもり。
その作業をするつもり。
楽しみ!
●同窓会名簿
昨日、同窓会名簿を、戸棚にしまった。
ああいうのは、あまり見ない方がよい。
一度見出すと、気になってしかたなくなる。
「あの人は、どうなった?」「この人は、どうなった?」と。
しかしその動機が問題。
のぞき趣味的な、イヤーナ好奇心。
それが自分でも、よくわかる。
私は私。
人は人。
それで、よい。
たぶん、中には、同窓会名簿を見て、私のことを調べている人もいるかも
しれない。
どうせ2度と会うこともないから、「ご勝手に!」と言いたいが、本音を
言えば、「放っておいてほしい」。
一度調べたことがあるが、アメリカやオーストラリアを含む欧米の学校には、
同窓会(Class Reunion Party)というのは、ない。
学校のシステムそのものが、ちがう。
(ただしカレッジごと、大学ごとの、同窓会はある。)
日本では、年齢別に学年が分かれ(学年制度)、かつ1つのクラスに担任の
教師がつく(担任制度)。
が、欧米には、そういった制度そのものがない。
が、日本では、同窓会を大切にする。
その中における、先輩、後輩意識も強い。
江戸時代の身分制度が、学歴制度に置き換わったという経緯(いきさつ)もある。
その人の出身校で、その人を判断するという意識も、いまだに根強く残っている。
が、同窓会には、もうひとつの意味が隠されている。
人も晩年になると、回顧性が強くなる。
未来を見る展望性より、過去をなつかしむ回顧性が強くなる。
そのために50歳をすぎると、同窓会の回数が、急速にふえてくる。
しかしそれをよしとしてはいけない。
回顧性などというものは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
私たちは常に、未来に向かって、前向きに生きていく。
そうでなくても、私たちの年代になると、くじけやすくなる。
過去を振り返りたくなる。
が、一度回顧性に毒されると、それこそ、毎日仏壇の金具を磨いて過ごすようになる。
そうなったら、片足を棺おけに入れたも、同然。
そこで時間は止まる。
回顧性に浸るのは、最後の最後でよい。
……ということで、同窓会名簿は、戸棚にしまった。
そうでなくても、他人の動向を詮索するのは、よくない。
昼のワイドショーのように、低劣で、不快。
タレントの私生活を暴いては、ワイワイと騒いでいる。
ああいう人たちのまねだけは、したくない。
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よろしくお願いします。 はやし浩司
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2009年11月29日日曜日
*Nov. 29th 2009
(11月29日‘09)
●義兄
昨夜(091128)は、義兄の家で、ちょうど真夜中の12時まで、話し込んだ。
ときどき世話になる。
行くたびに、いろいろな話を聞き、それが、私の脳みそを、バチバチと刺激する。
義兄は私の知らない世界の話を、山のように知っている。
「もう帰ります」と言って、中腰になったのが、11時ごろ。
その中腰のまま、30分ほど話す。
さらに玄関先で、30分ほど話す。
こうして夜中の12時……。
今朝は、日曜日ということもあって、朝、8時ごろまで寝ていた。
ワイフは、9時ごろまで寝ていた。
●猟師
同じく昨日(091128)、山荘の近くの店で、猟師の男と出会った。
意気投合して、1時間ほど、いろいろな話を聞いた。
おもしろかった。
とくに猿の話は、興味深かった。
このあたりでは、一匹殺すと、1万円の報奨金が出るのだそうだ。
「かわいそうだな」と思いつつ、しかし猿害も、深刻になってきている。
山荘の近くでは、農作物を作っている人は、もういない。
イノシシとハクビシン、それに猿。
何を作っても、これらの動物に食べられてしまう。
しかし猿が出没するようになったのは、ここ3、4年のこと。
奥の山では、第二東名の工事が、急ピッチで進んでいる。
その猿害。
家も、被害を受ける。
テレビのアンテナは、ボキボキ。
雨どいも、あちこちで折られる、など。
私の家も、猿の餌になるような実のできる木は、すべて切った。
栗の木、梨の木、みかんの木など。
それからは猿も来なくなったが……。
「猿はね、いちばん高い所に陣取って、威張っているやつから、撃ち殺すんだよ。
そうすると、あとは統制を失って、バラバラになって逃げるから」と。
ナルホド!
●散歩
今日は、3キロほど先にある、ビデオショップまで歩いた。
途中、佐鳴湖で、写真を撮った。
水面は、鏡のように静かだった。
「今年は、紅葉を撮り損ねた」と言うと、ワイフが、「今年はおかしな季節だったわ」と。
暖かい日と、寒い日が、交互につづき、いつの間にか、冬になってしまった。
気がついたときには、紅葉の季節は終わっていた。
ビデオショップといっても、1階が書店。
軽食も食べられる。
立ち読みどころか、椅子に座って、軽食をとりながら、新刊本を読み放題。
2階が、ビデオショップとゲームソフトコーナー。
アメリカに住む孫の誠司と芽衣に、ニンテンドーのDS用ソフトを1枚、買う。
その息子夫婦から、ワイフのところに、写真が届いていた。
10日ほど前に送った、日本のせんべいを食べている写真だった。
みんな元気でやっているようだ。
帰りはバス。
家に着いたら、厚い曇り空ということもあって、とっぷりと日が暮れていた。
●ドバイショック
ドバイが、こけた。
それがドバイショックとなって、世界を駆け巡った。
つぎは、メキシコ。
メキシコもあぶない。
ドバイで多額の損出を被った、イギリスもあぶない。
日本も無事ではすまない。
急激な円高で、輸出企業は、思考停止状態。
こんな状態が1か月もつづけば、2010年早々、株価は暴落する。
ひとり元気なのは、金相場。
世界中が、我も我もと、札の印刷機を回している。
そのマネーが、金に向かっている。
しかしバブルは、バブル。
金相場がはじけたとき、世界は、例外なく、ハイパーインフレに見舞われる。
2010年というより、明日からの経済から目が離せない。
この12月の動向を見ていれば、2010年の経済がどうなるか、その方向性が
見えてくるはず。
それにしても、あんなバカな国に投資をしつづけた、イギリス、ドイツ、フランス、
それに日本は、アホ!
金持ちの遊び場を作るために、湯水のようにマネーを使った。
人工島にしても、ヤシの形をしているそうだ。
ところで韓国の各紙を読んでいて、笑ってしまった。
「円高の津波……恐慌に陥った日本の輸出メーカー」(東亜日報・11・27)などと、
日本の困窮を、おもしろおかしく、はやしたてている。
韓国は、相対的に、ウォン安。
自動車産業を中心とする輸出企業が、ホクホクとか。
しかしそれはどうか?
今回の急激な円高で、韓国の銀行のかかえる借金は、雪だるま式にふえる。
円キャリートレードの恐ろしさは、このあとにつづく。
私のような素人にも、その程度のことはわかる。
韓国の各紙の経済記者は、私以上に、ド素人ということ。
日本あっての、韓国。
そういうことが、まるでわかっていない。
フンと笑って、この話は、おしまい。
●義兄
昨夜(091128)は、義兄の家で、ちょうど真夜中の12時まで、話し込んだ。
ときどき世話になる。
行くたびに、いろいろな話を聞き、それが、私の脳みそを、バチバチと刺激する。
義兄は私の知らない世界の話を、山のように知っている。
「もう帰ります」と言って、中腰になったのが、11時ごろ。
その中腰のまま、30分ほど話す。
さらに玄関先で、30分ほど話す。
こうして夜中の12時……。
今朝は、日曜日ということもあって、朝、8時ごろまで寝ていた。
ワイフは、9時ごろまで寝ていた。
●猟師
同じく昨日(091128)、山荘の近くの店で、猟師の男と出会った。
意気投合して、1時間ほど、いろいろな話を聞いた。
おもしろかった。
とくに猿の話は、興味深かった。
このあたりでは、一匹殺すと、1万円の報奨金が出るのだそうだ。
「かわいそうだな」と思いつつ、しかし猿害も、深刻になってきている。
山荘の近くでは、農作物を作っている人は、もういない。
イノシシとハクビシン、それに猿。
何を作っても、これらの動物に食べられてしまう。
しかし猿が出没するようになったのは、ここ3、4年のこと。
奥の山では、第二東名の工事が、急ピッチで進んでいる。
その猿害。
家も、被害を受ける。
テレビのアンテナは、ボキボキ。
雨どいも、あちこちで折られる、など。
私の家も、猿の餌になるような実のできる木は、すべて切った。
栗の木、梨の木、みかんの木など。
それからは猿も来なくなったが……。
「猿はね、いちばん高い所に陣取って、威張っているやつから、撃ち殺すんだよ。
そうすると、あとは統制を失って、バラバラになって逃げるから」と。
ナルホド!
●散歩
今日は、3キロほど先にある、ビデオショップまで歩いた。
途中、佐鳴湖で、写真を撮った。
水面は、鏡のように静かだった。
「今年は、紅葉を撮り損ねた」と言うと、ワイフが、「今年はおかしな季節だったわ」と。
暖かい日と、寒い日が、交互につづき、いつの間にか、冬になってしまった。
気がついたときには、紅葉の季節は終わっていた。
ビデオショップといっても、1階が書店。
軽食も食べられる。
立ち読みどころか、椅子に座って、軽食をとりながら、新刊本を読み放題。
2階が、ビデオショップとゲームソフトコーナー。
アメリカに住む孫の誠司と芽衣に、ニンテンドーのDS用ソフトを1枚、買う。
その息子夫婦から、ワイフのところに、写真が届いていた。
10日ほど前に送った、日本のせんべいを食べている写真だった。
みんな元気でやっているようだ。
帰りはバス。
家に着いたら、厚い曇り空ということもあって、とっぷりと日が暮れていた。
●ドバイショック
ドバイが、こけた。
それがドバイショックとなって、世界を駆け巡った。
つぎは、メキシコ。
メキシコもあぶない。
ドバイで多額の損出を被った、イギリスもあぶない。
日本も無事ではすまない。
急激な円高で、輸出企業は、思考停止状態。
こんな状態が1か月もつづけば、2010年早々、株価は暴落する。
ひとり元気なのは、金相場。
世界中が、我も我もと、札の印刷機を回している。
そのマネーが、金に向かっている。
しかしバブルは、バブル。
金相場がはじけたとき、世界は、例外なく、ハイパーインフレに見舞われる。
2010年というより、明日からの経済から目が離せない。
この12月の動向を見ていれば、2010年の経済がどうなるか、その方向性が
見えてくるはず。
それにしても、あんなバカな国に投資をしつづけた、イギリス、ドイツ、フランス、
それに日本は、アホ!
金持ちの遊び場を作るために、湯水のようにマネーを使った。
人工島にしても、ヤシの形をしているそうだ。
ところで韓国の各紙を読んでいて、笑ってしまった。
「円高の津波……恐慌に陥った日本の輸出メーカー」(東亜日報・11・27)などと、
日本の困窮を、おもしろおかしく、はやしたてている。
韓国は、相対的に、ウォン安。
自動車産業を中心とする輸出企業が、ホクホクとか。
しかしそれはどうか?
今回の急激な円高で、韓国の銀行のかかえる借金は、雪だるま式にふえる。
円キャリートレードの恐ろしさは、このあとにつづく。
私のような素人にも、その程度のことはわかる。
韓国の各紙の経済記者は、私以上に、ド素人ということ。
日本あっての、韓国。
そういうことが、まるでわかっていない。
フンと笑って、この話は、おしまい。
*The Real Stingy People
●あとから理由(無意識下の思考)
+++++++++++++++
何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。
たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。
が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。
子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。
+++++++++++++++
●こじつけ論
人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。
たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。
画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。
●「うしろから車が……」
その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。
が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。
「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。
先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。
●反対の現象
たまたま昨日、こんなことがあった。
自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。
居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。
が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。
私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。
このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。
このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。
●頭の中のモヤモヤ
私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。
もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。
そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。
そこでこうも考えられる。
実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。
●無意識の世界
今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。
わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。
それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。
反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。
●付記
私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。
それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。
「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20~30分程度。
この文章が、それである。
つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。
またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。
で、今は、どうか?
実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。
モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。
……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。
Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司
●本物のケチ
++++++++++++++++
金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。
++++++++++++++++
●ケチな人
自分の時間を、自分のためだけに使う人。
自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。
自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。
自分の人生を、自分だけのために生きる人。
すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。
自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。
視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。
自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。
相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。
愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。
自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。
失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。
相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。
小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。
来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。
他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。
臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。
わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。
無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。
無私、無欲の世界を、知らない人。
自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。
心よりも、金、モノを大切にする人。
自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。
自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。
他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。
心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。
●心のケチ
いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。
この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。
自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。
すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。
相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。
わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。
その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。
が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ~カ、いいじゃ、ねエ~カ」と言った。
●寛大さ
ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。
で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。
“It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving.”
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。
“I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only more love”.
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。
これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。
つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。
卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。
2009年11月29日早朝
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
+++++++++++++++
何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。
たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。
が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。
子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。
+++++++++++++++
●こじつけ論
人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。
たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。
画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。
●「うしろから車が……」
その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。
が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。
「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。
先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。
●反対の現象
たまたま昨日、こんなことがあった。
自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。
居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。
が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。
私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。
このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。
このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。
●頭の中のモヤモヤ
私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。
もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。
そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。
そこでこうも考えられる。
実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。
●無意識の世界
今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。
わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。
それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。
反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。
●付記
私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。
それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。
「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20~30分程度。
この文章が、それである。
つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。
またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。
で、今は、どうか?
実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。
モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。
……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。
Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司
●本物のケチ
++++++++++++++++
金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。
++++++++++++++++
●ケチな人
自分の時間を、自分のためだけに使う人。
自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。
自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。
自分の人生を、自分だけのために生きる人。
すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。
自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。
視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。
自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。
相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。
愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。
自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。
失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。
相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。
小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。
来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。
他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。
臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。
わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。
無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。
無私、無欲の世界を、知らない人。
自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。
心よりも、金、モノを大切にする人。
自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。
自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。
他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。
心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。
●心のケチ
いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。
この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。
自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。
すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。
相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。
わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。
その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。
が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ~カ、いいじゃ、ねエ~カ」と言った。
●寛大さ
ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。
で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。
“It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving.”
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。
“I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only more love”.
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。
これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。
つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。
卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。
2009年11月29日早朝
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
2009年11月28日土曜日
*What is the Career for Men?
【高学歴の条件(逆流的教育論)】
+++++++++++++++++
「高学歴」のもつ意味が、大きく変化
しつつある。
「高学歴者」イコール、「成功者」あるいは
「人格者」と考えるのは、今では幻想以外の
何物でもない。
が、高学歴への志向性がなくなったわけではない。
ここでは、どうすれば高学歴をめざせるのか
について考えると同時に、高学歴者のもつ
責務について、考えてみたい。
+++++++++++++++++
(1) 環境
親の学歴(親の思考パターンが、世代連鎖する)
親の収入(高品質の教育を受けられる)(※1)
教育環境(地方よりも、都会のほうが有利)
育児環境(親の育児姿勢、育児観、教育観が影響する)
(2) 能力
遺伝的要素(否定する人も多いが、実際には遺伝的要素は否定できない)
●高学歴者の問題点
(1) 合理主義的なものの考え方(情感的なものの考え方ができない)
(2) 自己中心的なニヒリズム(自分勝手で、他者の犠牲を過小評価する)
(3) 点数主義(順位、成果、数字、成績に大きくこだわる)
(4) 優越・劣等感覚(低学歴者に対して、優越感をもつ)
(5) 社会性の欠落(家庭人としての常識の欠落)
●権威主義の崩壊
(1) 高学歴の意義の変化(EUに見る、大学の権威の崩壊)
(2) 学歴から実力主義への転換。(「何ができるか」が評価される)
(3) 教育制度の自由化(大学間の単位の共通化、入学後の学部学科の変更の自由など)
(4) その一方で、受験競争の低年齢化(小学受験、中学受験が、関門になっている)
(5) 子どもたちの二極化(学力試験の形骸化とともに、学力の低下が指摘されている)
(6) 新家族主義の台頭(2000年を境に、親たちの意識が大きく変化した)
(7) 大卒から大学院卒への高学歴化(「大卒」程度では役にたたない)
●高学歴者を見る社会の変化
(1) 学歴から専門評価へ(「何ができるか」が問題)
(2) 人格評価の変化(AO入試の採用など)(※2)
(3) 大卒後の各組織体による再教育制度の充実(とくに文系出身者)
(4) 高学歴をありがたがる官僚制度(学歴制度温床の場としての官僚制度)
+++++++++++++++++++++++++
以下、順に、考察を加えてみたい。
+++++++++++++++++++++++++
(※1)【年収と学力】(Parent’ s Income and their Children’s Ability of Studying)
+++++++++++++++++++++
予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。
文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。
+++++++++++++++++++++
●年収200万円層
時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。
『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。
委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果と照合した。
学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だった。
正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。
●数字の整理
数字を整理してみる。
(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円~1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイント、高かった。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。
つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。
が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。
しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならないこと。
しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。
●学歴と親の年収
それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなると言えなくもない。
(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。
子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)
つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということではないのか。
もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。
●親の知的レベル
「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。
親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。
(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)
「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。
●知的レベルの怖ろしく低い親
3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。
別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。
子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。
●ともあれ……
ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。
しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。
年収が1200~1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの学力調査 はやし浩司 全国学力調査)
(付記)
都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのものが、少し極端すぎるのでは?
仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※2)●AO入試
+++++++++++++++++++++++++
アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。
簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。
従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。
当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。
+++++++++++++++++++++++++
●AO入試とは
AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。
「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。
AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。
自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。
入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。
選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなものもあります。
出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。
ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。
AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。
一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行っているというのが実情です。
しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトより)。
●推薦制度とのちがい
従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。
「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。
(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。
(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。
(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている
(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。
●AO入試、3つのタイプ
大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようである。
「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課したり、出願時に2000~3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。
(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1~2回の予備面接やインタビューを行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されます。
(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。
詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm
また文部科学省の統計によると、
2003年度……337大学685学部
2004年度……375大学802学部
2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。
++++++++++++++++
年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。
知識よりも、思考力のある学生。
ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
目的意識をもった個性ある学生。
AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※3)【カナダの幼稚園】
++++++++++++++++
少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。
そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【GSさんより、はやし浩司へ】
カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。
カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させ
ていただきます。
私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグルー
プ』(確か州で運営)というものでした。
会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間にな
っていて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講
習、お稽古などが催されています。
プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、
人気がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来てい
て、午前中の間開放されます。
その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置い
ていっても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子ど
もは、数人いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、
誰かが抜けるまで、入れず、外で待ちます。
お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されてい
て、どれでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあ
って、最後までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。
そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペ
とかでカワイイ(笑)です。
本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月
齢)、PreSchoolの年齢の子までいます。
そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経
験できたように思います。
1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、
親、先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。
もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子
どもの世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子ど
ものところへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞い
たりといった感じです。
息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前に
は涙してサヨナラして来た程でした。
公園の違いについて。
小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2~3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って
行けるほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。
また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にあり
ます。
大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 な
ので端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4~5歳の子が大はしゃ
ぎで走り回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生で
ランチしている家族が多く見られます。
高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具
をぶら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると
笛をふき、全員プールから出し水の消毒にかかります。
毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、
まだかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。
以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。
私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと
心配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気
がしますし、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。
もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変
な思いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、
大変は大変でしたけど(笑)。
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。
小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いよう
です。夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿が
よく見られます。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。
女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっと
の週末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、そ
の家族の時間も嬉しいと楽しんでいました。
どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切に
しているというのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均
的にそれに対する比重はとても違うように感じます。
なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。
【はやし浩司より、GSさんへ】
カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。
私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていっ
たようです。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。
どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。
またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育
カナダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグルー play group は
やし浩司 カナダ 幼児教育 幼稚園)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※4)●教育の自由化
アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚くのは、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百聞は一見にしかず。この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。アメリカでは、ごく一般的な、ふつうの学校とみてよい。
●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。ブルー・リボン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒三七五名。公立学校だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインターンの学生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たっていた。写真右端にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあり、日本でいう職員室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制でやってきた、母親。奥のほうでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの学生は、私と並んでいたので、この写真には収まっていない。
(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学校教育の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書指導にあたっている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。
(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学校では、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、すでに一五年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、幼稚園レベルから教育を行っている(南オーストラリア州)。
●アメリカの学校制度
こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら教師を雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布した学校券で、学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で学習する)などの学校がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制度と誤解している人が多いが、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホームスクーラーは、一〇〇万人になり、毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な教育は家庭でできる」(「LEARN IN FREEDOM」)という理念のもと、この運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希望に応じて、公的な機関が、専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確立している。また地域のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で教育活動も行っている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子どもの受け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。
●教育の自由化
アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラインに従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でいう全国一律の学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で所定の単位学習をすませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、という拘束性はない。)また当然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教科書」のようなものはない。検定制度そのものがない。子どもたちが使っているのは、あくまでも「テキスト」である。よくテキストを「教科書」と訳す人がいるが、欧米でいう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく異質なものと考えてよい。
ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委員会はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特に「歴史的分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリア州)。
欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」(オーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題になっている部分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナミック
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 アメリカ 教育制度 実情 教育の自由化)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※5)教育の自由化
【教育再生会議・中間報告原案】
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06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。
「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?
いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。
案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。
かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。
++++++++++++++++++
06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のようなもの。
(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学
このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。
どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、検討してみたい。
●ダメ教員の問題
どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教師の10倍以上はいるとみてよい。
しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。
だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。
もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。
アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。
だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。
ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であるかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あちこちで光っている。
しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。
●美しい国づくり
提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教育と関係があるのか。
あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。
外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。
雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。
その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。
が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生かすことさえできないでいる。
教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。
●いじめを許さない
提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。
方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。
好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることができる。
たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。
以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。
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【学校神話を打ち破る法】
常識が偏見になるとき
●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。
●日本の常識は世界の非常識
★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。
それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。
地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。
★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。
ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。
日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。
そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。
「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。
★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。
たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。
●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。
その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。
●解放感は最高!
ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。
※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。
●「自由に学ぶ」
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。
いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。
学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
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世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。
「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこぞって選択している。
カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化している。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思えば、それもできる。
(これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。またそういう学校しか認可されていない。)
ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。
教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●逆流的教育論
昔は町内で東大生が生まれたとすると、その
町内の人が、ちょうちん行列までして、その
学生と家族を祝った。
しかしそれから100年。
尾崎豊が「卒業」を歌ったころから、こうした
日本独特の権威主義、それを支える学歴制度は、
大きな転機を迎えるところとなった。
「学歴」よりも、「中身」「実力」をみる時代へと
変化した。
そのため大学の選抜方法も、AO入試に見られる
ように、時代の流れの中で変化しつつある。
たとえばEUでは、大学の単位そのものが、
共通化されている。
学生たちは、自由に各大学間を渡りあるいている。
最終的にどこの大学で、学位、博士号を認定される
かということは、重要なことだが、少なくとも
「出身大学」という概念は、もうない。
日本でも同レベル(?)の大学間で実験的に
単位の交換がなされているが、あまりパッとしない。
ブランド志向は、過去の亡霊として、まだ残っている。
もちろん小中高校生の教育制度も、大きく変化
しつつある。
ドイツにおけるクラブ制度を例にあげるまでもない。
EUでは、子どもたち(中学生)は、学校での
カリキュラム(ほとんどが単位制)を終えると、
午後は、それぞれが自分の好きなクラブに通って
いる。
それを支えるための、「チャイルド・マネー」も
支給されている。
(高学歴者)イコール、(成功者)という発想そのもの
が、陳腐化している。
もちろん(高学歴者)イコール、(人格者)という
わけでもない。
もし(高学歴)に求められるものがあるとするなら、
真・善・美の追求者としての、社会的責務である。
その責務を果たしてこそ、高学歴者は高学歴者としての
意味をもつ。
そうでなければ、高学歴といえども、卒業証書は、
ただの紙切れ。
自己利益の追求のための道具でしかない。
ちょうど2000年を境にして、日本人の学歴意識は
大きく変化した。
(出世主義)から(新・家族主義)への変化である。
このころ、「仕事より家族のほうが大切」と考える
人が、50~80%へと変化した。
こうした変化を、「サイレント革命」と名づけた人もいる。
今後この(流れ)は加速することはあっても、逆行する
ことはありえない。
理由は簡単。
世界はすでにその先を走っている。
日本は今、それを追いかけなければならない立場にある。
単位の共通化にしても、今では、世界の常識。
インドネシアのジャカルタ大学で1年、中国の北京大学で
1年、3年目と4年目は、EUのソルボンヌ大学と、
ハイデベルグ大学で。
合計して必要単位を履修していれば、あとはどこかの大学で
単位を認定してもらう……。
日本だけが、そのカヤの外。
日本の医師免許は、日本以外の国では通用しない。
アメリカの医師は、日本で開業することができない。
これはほんの一例だが、こうした閉鎖性を打破しない
かぎり、日本の未来に明日はない。
大切なのは、学歴の追求ではなく、実力の追求。
それができる社会システムを、早急に立ち上げる。
(学歴)というキャリアは、あくまでもあとから
ついてくるもの。
(学歴)を目的とする時代は、すでに終わっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 逆流的教育論 教育の自由化 日本の教育)
+++++++++++++++++
「高学歴」のもつ意味が、大きく変化
しつつある。
「高学歴者」イコール、「成功者」あるいは
「人格者」と考えるのは、今では幻想以外の
何物でもない。
が、高学歴への志向性がなくなったわけではない。
ここでは、どうすれば高学歴をめざせるのか
について考えると同時に、高学歴者のもつ
責務について、考えてみたい。
+++++++++++++++++
(1) 環境
親の学歴(親の思考パターンが、世代連鎖する)
親の収入(高品質の教育を受けられる)(※1)
教育環境(地方よりも、都会のほうが有利)
育児環境(親の育児姿勢、育児観、教育観が影響する)
(2) 能力
遺伝的要素(否定する人も多いが、実際には遺伝的要素は否定できない)
●高学歴者の問題点
(1) 合理主義的なものの考え方(情感的なものの考え方ができない)
(2) 自己中心的なニヒリズム(自分勝手で、他者の犠牲を過小評価する)
(3) 点数主義(順位、成果、数字、成績に大きくこだわる)
(4) 優越・劣等感覚(低学歴者に対して、優越感をもつ)
(5) 社会性の欠落(家庭人としての常識の欠落)
●権威主義の崩壊
(1) 高学歴の意義の変化(EUに見る、大学の権威の崩壊)
(2) 学歴から実力主義への転換。(「何ができるか」が評価される)
(3) 教育制度の自由化(大学間の単位の共通化、入学後の学部学科の変更の自由など)
(4) その一方で、受験競争の低年齢化(小学受験、中学受験が、関門になっている)
(5) 子どもたちの二極化(学力試験の形骸化とともに、学力の低下が指摘されている)
(6) 新家族主義の台頭(2000年を境に、親たちの意識が大きく変化した)
(7) 大卒から大学院卒への高学歴化(「大卒」程度では役にたたない)
●高学歴者を見る社会の変化
(1) 学歴から専門評価へ(「何ができるか」が問題)
(2) 人格評価の変化(AO入試の採用など)(※2)
(3) 大卒後の各組織体による再教育制度の充実(とくに文系出身者)
(4) 高学歴をありがたがる官僚制度(学歴制度温床の場としての官僚制度)
+++++++++++++++++++++++++
以下、順に、考察を加えてみたい。
+++++++++++++++++++++++++
(※1)【年収と学力】(Parent’ s Income and their Children’s Ability of Studying)
+++++++++++++++++++++
予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。
文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。
+++++++++++++++++++++
●年収200万円層
時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。
『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。
委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果と照合した。
学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だった。
正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。
●数字の整理
数字を整理してみる。
(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円~1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイント、高かった。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。
つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。
が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。
しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならないこと。
しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。
●学歴と親の年収
それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなると言えなくもない。
(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。
子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)
つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということではないのか。
もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。
●親の知的レベル
「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。
親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。
(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)
「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。
●知的レベルの怖ろしく低い親
3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。
別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。
子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。
●ともあれ……
ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。
しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。
年収が1200~1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの学力調査 はやし浩司 全国学力調査)
(付記)
都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのものが、少し極端すぎるのでは?
仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※2)●AO入試
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アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。
簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。
従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。
当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。
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●AO入試とは
AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。
「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。
AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。
自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。
入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。
選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなものもあります。
出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。
ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。
AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。
一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行っているというのが実情です。
しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトより)。
●推薦制度とのちがい
従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。
「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。
(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。
(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。
(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている
(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。
●AO入試、3つのタイプ
大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようである。
「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課したり、出願時に2000~3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。
(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1~2回の予備面接やインタビューを行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されます。
(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。
詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm
また文部科学省の統計によると、
2003年度……337大学685学部
2004年度……375大学802学部
2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。
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年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。
知識よりも、思考力のある学生。
ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
目的意識をもった個性ある学生。
AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※3)【カナダの幼稚園】
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少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。
そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【GSさんより、はやし浩司へ】
カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。
カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させ
ていただきます。
私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグルー
プ』(確か州で運営)というものでした。
会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間にな
っていて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講
習、お稽古などが催されています。
プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、
人気がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来てい
て、午前中の間開放されます。
その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置い
ていっても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子ど
もは、数人いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、
誰かが抜けるまで、入れず、外で待ちます。
お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されてい
て、どれでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあ
って、最後までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。
そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペ
とかでカワイイ(笑)です。
本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月
齢)、PreSchoolの年齢の子までいます。
そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経
験できたように思います。
1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、
親、先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。
もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子
どもの世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子ど
ものところへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞い
たりといった感じです。
息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前に
は涙してサヨナラして来た程でした。
公園の違いについて。
小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2~3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って
行けるほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。
また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にあり
ます。
大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 な
ので端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4~5歳の子が大はしゃ
ぎで走り回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生で
ランチしている家族が多く見られます。
高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具
をぶら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると
笛をふき、全員プールから出し水の消毒にかかります。
毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、
まだかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。
以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。
私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと
心配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気
がしますし、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。
もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変
な思いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、
大変は大変でしたけど(笑)。
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。
小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いよう
です。夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿が
よく見られます。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。
女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっと
の週末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、そ
の家族の時間も嬉しいと楽しんでいました。
どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切に
しているというのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均
的にそれに対する比重はとても違うように感じます。
なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。
【はやし浩司より、GSさんへ】
カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。
私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていっ
たようです。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。
どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。
またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育
カナダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグルー play group は
やし浩司 カナダ 幼児教育 幼稚園)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※4)●教育の自由化
アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚くのは、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百聞は一見にしかず。この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。アメリカでは、ごく一般的な、ふつうの学校とみてよい。
●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。ブルー・リボン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒三七五名。公立学校だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインターンの学生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たっていた。写真右端にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあり、日本でいう職員室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制でやってきた、母親。奥のほうでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの学生は、私と並んでいたので、この写真には収まっていない。
(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学校教育の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書指導にあたっている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。
(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学校では、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、すでに一五年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、幼稚園レベルから教育を行っている(南オーストラリア州)。
●アメリカの学校制度
こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら教師を雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布した学校券で、学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で学習する)などの学校がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制度と誤解している人が多いが、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホームスクーラーは、一〇〇万人になり、毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な教育は家庭でできる」(「LEARN IN FREEDOM」)という理念のもと、この運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希望に応じて、公的な機関が、専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確立している。また地域のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で教育活動も行っている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子どもの受け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。
●教育の自由化
アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラインに従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でいう全国一律の学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で所定の単位学習をすませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、という拘束性はない。)また当然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教科書」のようなものはない。検定制度そのものがない。子どもたちが使っているのは、あくまでも「テキスト」である。よくテキストを「教科書」と訳す人がいるが、欧米でいう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく異質なものと考えてよい。
ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委員会はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特に「歴史的分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリア州)。
欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」(オーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題になっている部分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナミック
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 アメリカ 教育制度 実情 教育の自由化)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(※5)教育の自由化
【教育再生会議・中間報告原案】
++++++++++++++++++
06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。
「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?
いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。
案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。
かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。
++++++++++++++++++
06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のようなもの。
(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学
このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。
どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、検討してみたい。
●ダメ教員の問題
どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教師の10倍以上はいるとみてよい。
しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。
だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。
もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。
アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。
だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。
ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であるかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あちこちで光っている。
しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。
●美しい国づくり
提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教育と関係があるのか。
あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。
外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。
雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。
その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。
が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生かすことさえできないでいる。
教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。
●いじめを許さない
提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。
方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。
好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることができる。
たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。
以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。
+++++++++++++++++
【学校神話を打ち破る法】
常識が偏見になるとき
●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。
●日本の常識は世界の非常識
★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。
それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。
地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。
★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。
ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。
日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。
そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。
「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。
★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。
たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。
●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。
その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。
●解放感は最高!
ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。
※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。
●「自由に学ぶ」
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。
いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。
学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
++++++++++++++++++
世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。
「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこぞって選択している。
カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化している。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思えば、それもできる。
(これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。またそういう学校しか認可されていない。)
ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。
教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●逆流的教育論
昔は町内で東大生が生まれたとすると、その
町内の人が、ちょうちん行列までして、その
学生と家族を祝った。
しかしそれから100年。
尾崎豊が「卒業」を歌ったころから、こうした
日本独特の権威主義、それを支える学歴制度は、
大きな転機を迎えるところとなった。
「学歴」よりも、「中身」「実力」をみる時代へと
変化した。
そのため大学の選抜方法も、AO入試に見られる
ように、時代の流れの中で変化しつつある。
たとえばEUでは、大学の単位そのものが、
共通化されている。
学生たちは、自由に各大学間を渡りあるいている。
最終的にどこの大学で、学位、博士号を認定される
かということは、重要なことだが、少なくとも
「出身大学」という概念は、もうない。
日本でも同レベル(?)の大学間で実験的に
単位の交換がなされているが、あまりパッとしない。
ブランド志向は、過去の亡霊として、まだ残っている。
もちろん小中高校生の教育制度も、大きく変化
しつつある。
ドイツにおけるクラブ制度を例にあげるまでもない。
EUでは、子どもたち(中学生)は、学校での
カリキュラム(ほとんどが単位制)を終えると、
午後は、それぞれが自分の好きなクラブに通って
いる。
それを支えるための、「チャイルド・マネー」も
支給されている。
(高学歴者)イコール、(成功者)という発想そのもの
が、陳腐化している。
もちろん(高学歴者)イコール、(人格者)という
わけでもない。
もし(高学歴)に求められるものがあるとするなら、
真・善・美の追求者としての、社会的責務である。
その責務を果たしてこそ、高学歴者は高学歴者としての
意味をもつ。
そうでなければ、高学歴といえども、卒業証書は、
ただの紙切れ。
自己利益の追求のための道具でしかない。
ちょうど2000年を境にして、日本人の学歴意識は
大きく変化した。
(出世主義)から(新・家族主義)への変化である。
このころ、「仕事より家族のほうが大切」と考える
人が、50~80%へと変化した。
こうした変化を、「サイレント革命」と名づけた人もいる。
今後この(流れ)は加速することはあっても、逆行する
ことはありえない。
理由は簡単。
世界はすでにその先を走っている。
日本は今、それを追いかけなければならない立場にある。
単位の共通化にしても、今では、世界の常識。
インドネシアのジャカルタ大学で1年、中国の北京大学で
1年、3年目と4年目は、EUのソルボンヌ大学と、
ハイデベルグ大学で。
合計して必要単位を履修していれば、あとはどこかの大学で
単位を認定してもらう……。
日本だけが、そのカヤの外。
日本の医師免許は、日本以外の国では通用しない。
アメリカの医師は、日本で開業することができない。
これはほんの一例だが、こうした閉鎖性を打破しない
かぎり、日本の未来に明日はない。
大切なのは、学歴の追求ではなく、実力の追求。
それができる社会システムを、早急に立ち上げる。
(学歴)というキャリアは、あくまでもあとから
ついてくるもの。
(学歴)を目的とする時代は、すでに終わっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 逆流的教育論 教育の自由化 日本の教育)
2009年11月27日金曜日
*A Stingy Person
●ケチ論
ケチと倹約については、たびたび書いてきた。
+++++++++++++++++++++
子どもの自慰とからめて、人間の心は
乳幼児期に作られることを、再確認してほしい。
+++++++++++++++++++++
【子どもの自慰】
●自慰
子どものばあい、慢性的な欲求不満状態がつづいたり、慢性的な緊張感がつづいたりすると、何らかの快感を得ることによって、それを代償的にまぎらわそうとする。代表的なものとして、指しゃぶり、髪いじり、鼻くそほりなどがある。
毛布やボタンなどが手放せない子どももいる。指先で感ずる快感を得るためである。が、自慰にまさる、快感はない。男児というより、女児に多い。このタイプの女児は、人目を気にすることなく、陰部を、ソファの角に押し当てたり、直接手でいじったりする。
そこでこういう代償的行為が見られたら、その行為そのものを禁止するのではなく、その奥底に潜む原因、つまり何が、慢性的な欲求不満状態なのか、あるいはなぜ子どもの心が緊張状態にあるかをさぐる。そのほとんどは、愛情不足もしくは、愛情に対する飢餓感とみてよい。
で、フロイトによれば、人間の行動の原点にある、性欲動という精神的エネルギー(リビドー)は、年齢に応じて、体のある特定の部分に、局在するという。そしてその局在する部分に応じて、(1)口唇期(生後~18か月)、(2)肛門期(1~3歳)、(3)男根期(3~6歳)、(4)潜伏期(6~12歳)、(5)性器期(12歳~思春期)というように、段階的に発達するという。
が、それぞれの段階に応じて、その精神的エネルギーがじょうずに解消されていかないと、その子ども(おとな)は、それぞれ特有の問題を引きおこすとされる。こうした状態を「固着」という。
たとえば口唇期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、口唇愛的性格、たとえば依存的、服従的、受動的な性格になるとされる。肛門期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、肛門愛的性格、たとえば、まじめ、頑固、けち、倹約的といった性格になるとされる(参考、「心理学用語」渋谷昌三ほか)。
●代償行為
男根期の固着と、代償行為としての自慰行為は、どこか似ている。つまり男根期における性的欲望の不完全燃焼が、自慰行為の引き金を引く。そういうふうに、考えられなくもない。少なくとも、その間を分けるのは、むずかしい。
たとえばたいへん強圧的な過程環境で育った子どもというのは、見た目には、おとなしくなる。まわりの人たちからは、従順で、いい子(?)という評価を受けやすい。(反対に、きわめて反抗的になり、見た感じでも粗雑化する子どもも、いる。よくある例は、上の兄(姉)が、ここでいう、いい子(?)になり、下の弟(妹)が、粗雑化するケース。同じ環境であるにもかかわらず、一見、正反対の子どもになるのは、子ども自身がもつ生命力のちがいによる。強圧的な威圧感にやりこめられてしまった子どもと、それをたくましくはね返した子どものちがいと考えると、わかりやすい。)
しかしその分だけ、どちらにせよ、コア・アイデンテティの発達が遅れ、個人化が遅れる。わかりやすく言えば、人格の(核)形成が遅れる。教える側からみると、何を考えているかわかりにくい子どもということになる。が、それではすまない。
子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。このタイプの子どもは、反抗期にしても、反抗らしい反抗をしないまま、つぎのステップに進んでしまう。
親によっては、そういう子どもほど、いい子(?)というレッテルを張ってしまう。そしてその返す刀で、反抗的な子どもを、できの悪い子として、排斥してしまう。近所にそういう子どもがいたりすると、「あの子とは遊んではダメ」と、遠ざけてしまう。
こうした親のもつ子ども観が、その子どもを、ますますひ弱で、軟弱にしてしまう。中には、自分の子どもをそういう子どもにしながら、「うちの息子ほど、できのいい息子はいない」と公言している親さえいた。
しかし問題は、そのあとにやってくる。何割のかの子どもは、そのまま、生涯にわたって、ひ弱で、軟弱なまま、陰に隠れた人生を送ることになる。しかし大半の子どもは、たまったツケをどっと払うかのように、さまざまな問題を起こすようになる。はげしい反抗となって現れるケースも多い。ふつうの反抗ではない。それこそ、親に対して、包丁を投げつけるような反抗を、繰りかえす。
親は、「どうしてエ~?」「小さいころは、あんないい子だったのにイ~!」と悲鳴をあげる。しかし子どもの成長としては、むしろそのほうが望ましい。脱ぎ方に問題があるとしても、そういう形で、子どもはカラを脱ごうとする。その時期は、早ければ早いほどよい。
反抗をしないならしないで、子どもの心は、大きく歪(ひず)む。世間を騒がすような凶悪事件を起こした子どもについて、よく、近所に住む人たちが、「どちらかというと目立たない、静かな、いい子でしたが……」と言うことがある。見た目にはそうかもしれないが、心の奥は、そうではなかったということになる。
●神経症
話が大きく脱線したが、子ども自慰を考えるときは、こうした大きな視点からものを考える必要がある。多くの親たちは、そうした理解もないまま、娘が自慰らしきことをすると父親が、息子が自慰らしきことをすると母親が、あわてる。心配する。「今から、こんなことに興味があるようでは、この先、どうなる!」「この先が、思いやられる」と。
しかしその原因は、ここに書いてきたように、もっと別のところにある。幼児のばあい、性的好奇心がその背景にあると考えるのは、まちがい。快感によって、脳内ホルモン(エンケファリン系、エンドルフィン系)の分泌をうながし、脳内に蓄積された緊張感を緩和しようとすると考えるのが正しい。
おとなでも、緊張感をほぐすため、自慰(オナニーやマスターベーション)をすることがある。
だからもし子どもにそういう行為が見られたら、その行為そのものを問題にするのではなく、なぜ、その子どもがそういう行為をするのか、その背景をさぐるのがよい。もっとはっきり言えば、子どもの自慰は、神経症、もしくは心身症のひとつとして対処する。
自慰を禁止したり、抑えこんだりすれば、その歪みは、また別のところに現れる。たとえば指しゃぶりを、きびしく禁止したりすると、チックが始まったり、夜尿症になったりする。そういうケースは、たいへん多い。
そういう意味でも、『子どもの心は風船玉』と覚えておくとよい、どこかで圧力を加えると、その圧力は、別のところで、べつの歪みとなって現れる。
子どもの自慰、もしくは自慰的行為については、暖かく無視する。それを強く叱ったりすると、今度は、「性」に対して、歪んだ意識をもつようになることもある。罪悪感や陰湿感をもつこともある。この時期に、一度、そういう歪んだ意識をもつようになると、それを是正すのも、これまたたいへんな作業となる。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 オナニー 神経症 心身症 子どもの自慰
はやし浩司 固着 口唇期 肛門期 男根期 子供の心理 心の歪み)
【補足】
歪んだ性意識がどういうものであるか。恐らく、……というより、日本人のほとんどは、気づいていないのではないか。私自身も、歪んだ性意識をもっている。あなたも、みんな、だ。
こうした性意識というのは、日本の外から日本人を見てはじめて、それだとわかる。たとえば最近でも、こんなことがあった。
私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦が、日本のどこかへ旅行をしてきた。その旅先でのこと。どこかの旅館に泊まったらしい。その旅館について、友人の妻たち(2人)は、こう言った。「混浴の風呂に入ってきた」と。
さりげなく、堂々と、そう言う。で、私のほうが驚いて、「へえ、そんなこと、よくできましたね。恥ずかしくありませんでしたか」と聞くと、反対に質問をされてしまった。「ヒロシ、どうして恥ずかしがらねばならないの」と。
フィンランドでは、男も女も、老いも若きも、サウナ風呂に入るのは、みな、混浴だという。たまたまそのオーストラリア夫婦の娘の1人が、建築学の勉強で、そのフィンランドに留学していた。「娘も、毎日、サウナ風呂を楽しんでいる」と。
こうした意識というのは、日本に生まれ育った日本人には、想像もつかないものといってもよい。が、反対に、イスラムの国から来た人にとっては、日本の女性たちの服装は、想像もつかないものらしい。とくに、タバコを吸う女性は、想像もつかないらしい。(タバコと性意識とは関係ないが……。)
タバコを吸っている若い女性を見ると、パキスタン人にせよ、トルコ人にせよ、みな、目を白黒させて驚く。いわんや、肌を露出して歩く女性をや!
性意識というのは、そういうもの。私たちがもっている性意識というのは、この国の中で、この国の常識として作られたものである。で、その常識が、本当に常識であるかということになると、そのほとんどは、疑ってかかってみてよい。
だいたいにおいて、男と女が、こうまで区別され、差別される国は、そうはない。今度の女性天皇の問題にしても、そうだ。そうした区別や差別が、世界の常識ではないということ。「伝統」という言葉で、ごまかすことは許されない。まず、日本人の私たちが、それを知るべきではないだろうか。
こう考えていくと、自慰の問題など、何でもない。指しゃぶりや髪いじりと、どこもちがわない。たまたまいじる場所が、性器という部分であるために、問題となるだけ。……なりやすいだけ。そういうふうに考えて、対処する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 はやし浩司 自慰 子供の自慰 自慰行為 オナニー)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司
【私を知る】
●ためこみ屋(ケチ)
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数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。
一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。
フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。
もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。
とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。
そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。
が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。
++++++++++++++++++++
●私の知人
私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。
が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。
私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5~6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)
もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。
が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。
そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。
これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。
●人は人
もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。
ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか?
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。
その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。
しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。
その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。
言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。
●そこで(私)
もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。
あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。
そして……。
こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。
ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。
●スズメはスズメ
だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。
同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。
スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。
●ある生徒
たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。
ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。
私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。
さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。
つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。
●私を知る
ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。
まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。
だからますます「私」がわからなくなってしまう。
言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。
しかしそれは本当の(私)なのか?
ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。
●作られる(私)
で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。
私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。
専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。
そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。
●(私)を知るメリット
もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。
スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。
(私)を知るということは、そういうことをいう。
●再び、「ためこみ屋」
「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)
しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。
大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。
しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)
(09年1月19日記)
Hiroshi Hayashi++++はやし浩司
●富めるときは貧しく……
++++++++++++++++++++
今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。
今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。
しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。
+++++++++++++++++++++
私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。
が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。
そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。
私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。
私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。
つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。
幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。
さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。
が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?
私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。
が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。
悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。
これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。
……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。
実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。
スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。
が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。
この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。
『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。
「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。
偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 豊かな時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
●貧しさの中の豊かさ
++++++++++++++++++
貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。
このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。
++++++++++++++++++
フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。
一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。
そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。
たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。
ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。
ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。
そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。
が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。
ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。
が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。
では、どうするか?
いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。
押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、Tという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。
いつかTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。
言い忘れたが、Tというのは、「xxx」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、日本を代表する大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。
……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。
こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。
50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期)
(09年2月記)
ケチと倹約については、たびたび書いてきた。
+++++++++++++++++++++
子どもの自慰とからめて、人間の心は
乳幼児期に作られることを、再確認してほしい。
+++++++++++++++++++++
【子どもの自慰】
●自慰
子どものばあい、慢性的な欲求不満状態がつづいたり、慢性的な緊張感がつづいたりすると、何らかの快感を得ることによって、それを代償的にまぎらわそうとする。代表的なものとして、指しゃぶり、髪いじり、鼻くそほりなどがある。
毛布やボタンなどが手放せない子どももいる。指先で感ずる快感を得るためである。が、自慰にまさる、快感はない。男児というより、女児に多い。このタイプの女児は、人目を気にすることなく、陰部を、ソファの角に押し当てたり、直接手でいじったりする。
そこでこういう代償的行為が見られたら、その行為そのものを禁止するのではなく、その奥底に潜む原因、つまり何が、慢性的な欲求不満状態なのか、あるいはなぜ子どもの心が緊張状態にあるかをさぐる。そのほとんどは、愛情不足もしくは、愛情に対する飢餓感とみてよい。
で、フロイトによれば、人間の行動の原点にある、性欲動という精神的エネルギー(リビドー)は、年齢に応じて、体のある特定の部分に、局在するという。そしてその局在する部分に応じて、(1)口唇期(生後~18か月)、(2)肛門期(1~3歳)、(3)男根期(3~6歳)、(4)潜伏期(6~12歳)、(5)性器期(12歳~思春期)というように、段階的に発達するという。
が、それぞれの段階に応じて、その精神的エネルギーがじょうずに解消されていかないと、その子ども(おとな)は、それぞれ特有の問題を引きおこすとされる。こうした状態を「固着」という。
たとえば口唇期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、口唇愛的性格、たとえば依存的、服従的、受動的な性格になるとされる。肛門期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、肛門愛的性格、たとえば、まじめ、頑固、けち、倹約的といった性格になるとされる(参考、「心理学用語」渋谷昌三ほか)。
●代償行為
男根期の固着と、代償行為としての自慰行為は、どこか似ている。つまり男根期における性的欲望の不完全燃焼が、自慰行為の引き金を引く。そういうふうに、考えられなくもない。少なくとも、その間を分けるのは、むずかしい。
たとえばたいへん強圧的な過程環境で育った子どもというのは、見た目には、おとなしくなる。まわりの人たちからは、従順で、いい子(?)という評価を受けやすい。(反対に、きわめて反抗的になり、見た感じでも粗雑化する子どもも、いる。よくある例は、上の兄(姉)が、ここでいう、いい子(?)になり、下の弟(妹)が、粗雑化するケース。同じ環境であるにもかかわらず、一見、正反対の子どもになるのは、子ども自身がもつ生命力のちがいによる。強圧的な威圧感にやりこめられてしまった子どもと、それをたくましくはね返した子どものちがいと考えると、わかりやすい。)
しかしその分だけ、どちらにせよ、コア・アイデンテティの発達が遅れ、個人化が遅れる。わかりやすく言えば、人格の(核)形成が遅れる。教える側からみると、何を考えているかわかりにくい子どもということになる。が、それではすまない。
子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。このタイプの子どもは、反抗期にしても、反抗らしい反抗をしないまま、つぎのステップに進んでしまう。
親によっては、そういう子どもほど、いい子(?)というレッテルを張ってしまう。そしてその返す刀で、反抗的な子どもを、できの悪い子として、排斥してしまう。近所にそういう子どもがいたりすると、「あの子とは遊んではダメ」と、遠ざけてしまう。
こうした親のもつ子ども観が、その子どもを、ますますひ弱で、軟弱にしてしまう。中には、自分の子どもをそういう子どもにしながら、「うちの息子ほど、できのいい息子はいない」と公言している親さえいた。
しかし問題は、そのあとにやってくる。何割のかの子どもは、そのまま、生涯にわたって、ひ弱で、軟弱なまま、陰に隠れた人生を送ることになる。しかし大半の子どもは、たまったツケをどっと払うかのように、さまざまな問題を起こすようになる。はげしい反抗となって現れるケースも多い。ふつうの反抗ではない。それこそ、親に対して、包丁を投げつけるような反抗を、繰りかえす。
親は、「どうしてエ~?」「小さいころは、あんないい子だったのにイ~!」と悲鳴をあげる。しかし子どもの成長としては、むしろそのほうが望ましい。脱ぎ方に問題があるとしても、そういう形で、子どもはカラを脱ごうとする。その時期は、早ければ早いほどよい。
反抗をしないならしないで、子どもの心は、大きく歪(ひず)む。世間を騒がすような凶悪事件を起こした子どもについて、よく、近所に住む人たちが、「どちらかというと目立たない、静かな、いい子でしたが……」と言うことがある。見た目にはそうかもしれないが、心の奥は、そうではなかったということになる。
●神経症
話が大きく脱線したが、子ども自慰を考えるときは、こうした大きな視点からものを考える必要がある。多くの親たちは、そうした理解もないまま、娘が自慰らしきことをすると父親が、息子が自慰らしきことをすると母親が、あわてる。心配する。「今から、こんなことに興味があるようでは、この先、どうなる!」「この先が、思いやられる」と。
しかしその原因は、ここに書いてきたように、もっと別のところにある。幼児のばあい、性的好奇心がその背景にあると考えるのは、まちがい。快感によって、脳内ホルモン(エンケファリン系、エンドルフィン系)の分泌をうながし、脳内に蓄積された緊張感を緩和しようとすると考えるのが正しい。
おとなでも、緊張感をほぐすため、自慰(オナニーやマスターベーション)をすることがある。
だからもし子どもにそういう行為が見られたら、その行為そのものを問題にするのではなく、なぜ、その子どもがそういう行為をするのか、その背景をさぐるのがよい。もっとはっきり言えば、子どもの自慰は、神経症、もしくは心身症のひとつとして対処する。
自慰を禁止したり、抑えこんだりすれば、その歪みは、また別のところに現れる。たとえば指しゃぶりを、きびしく禁止したりすると、チックが始まったり、夜尿症になったりする。そういうケースは、たいへん多い。
そういう意味でも、『子どもの心は風船玉』と覚えておくとよい、どこかで圧力を加えると、その圧力は、別のところで、べつの歪みとなって現れる。
子どもの自慰、もしくは自慰的行為については、暖かく無視する。それを強く叱ったりすると、今度は、「性」に対して、歪んだ意識をもつようになることもある。罪悪感や陰湿感をもつこともある。この時期に、一度、そういう歪んだ意識をもつようになると、それを是正すのも、これまたたいへんな作業となる。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 オナニー 神経症 心身症 子どもの自慰
はやし浩司 固着 口唇期 肛門期 男根期 子供の心理 心の歪み)
【補足】
歪んだ性意識がどういうものであるか。恐らく、……というより、日本人のほとんどは、気づいていないのではないか。私自身も、歪んだ性意識をもっている。あなたも、みんな、だ。
こうした性意識というのは、日本の外から日本人を見てはじめて、それだとわかる。たとえば最近でも、こんなことがあった。
私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦が、日本のどこかへ旅行をしてきた。その旅先でのこと。どこかの旅館に泊まったらしい。その旅館について、友人の妻たち(2人)は、こう言った。「混浴の風呂に入ってきた」と。
さりげなく、堂々と、そう言う。で、私のほうが驚いて、「へえ、そんなこと、よくできましたね。恥ずかしくありませんでしたか」と聞くと、反対に質問をされてしまった。「ヒロシ、どうして恥ずかしがらねばならないの」と。
フィンランドでは、男も女も、老いも若きも、サウナ風呂に入るのは、みな、混浴だという。たまたまそのオーストラリア夫婦の娘の1人が、建築学の勉強で、そのフィンランドに留学していた。「娘も、毎日、サウナ風呂を楽しんでいる」と。
こうした意識というのは、日本に生まれ育った日本人には、想像もつかないものといってもよい。が、反対に、イスラムの国から来た人にとっては、日本の女性たちの服装は、想像もつかないものらしい。とくに、タバコを吸う女性は、想像もつかないらしい。(タバコと性意識とは関係ないが……。)
タバコを吸っている若い女性を見ると、パキスタン人にせよ、トルコ人にせよ、みな、目を白黒させて驚く。いわんや、肌を露出して歩く女性をや!
性意識というのは、そういうもの。私たちがもっている性意識というのは、この国の中で、この国の常識として作られたものである。で、その常識が、本当に常識であるかということになると、そのほとんどは、疑ってかかってみてよい。
だいたいにおいて、男と女が、こうまで区別され、差別される国は、そうはない。今度の女性天皇の問題にしても、そうだ。そうした区別や差別が、世界の常識ではないということ。「伝統」という言葉で、ごまかすことは許されない。まず、日本人の私たちが、それを知るべきではないだろうか。
こう考えていくと、自慰の問題など、何でもない。指しゃぶりや髪いじりと、どこもちがわない。たまたまいじる場所が、性器という部分であるために、問題となるだけ。……なりやすいだけ。そういうふうに考えて、対処する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 はやし浩司 自慰 子供の自慰 自慰行為 オナニー)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司
【私を知る】
●ためこみ屋(ケチ)
+++++++++++++++++++++
数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。
一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。
フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。
もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。
とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。
そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。
が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。
++++++++++++++++++++
●私の知人
私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。
が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。
私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5~6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)
もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。
が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。
そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。
これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。
●人は人
もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。
ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか?
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。
その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。
しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。
その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。
言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。
●そこで(私)
もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。
あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。
そして……。
こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。
ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。
●スズメはスズメ
だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。
同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。
スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。
●ある生徒
たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。
ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。
私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。
さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。
つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。
●私を知る
ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。
まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。
だからますます「私」がわからなくなってしまう。
言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。
しかしそれは本当の(私)なのか?
ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。
●作られる(私)
で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。
私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。
専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。
そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。
●(私)を知るメリット
もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。
スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。
(私)を知るということは、そういうことをいう。
●再び、「ためこみ屋」
「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)
しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。
大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。
しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)
(09年1月19日記)
Hiroshi Hayashi++++はやし浩司
●富めるときは貧しく……
++++++++++++++++++++
今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。
今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。
しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。
+++++++++++++++++++++
私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。
が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。
そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。
私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。
私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。
つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。
幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。
さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。
が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?
私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。
が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。
悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。
これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。
……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。
実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。
スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。
が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。
この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。
『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。
「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。
偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 豊かな時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
●貧しさの中の豊かさ
++++++++++++++++++
貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。
このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。
++++++++++++++++++
フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。
一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。
そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。
たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。
ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。
ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。
そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。
が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。
ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。
が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。
では、どうするか?
いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。
押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、Tという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。
いつかTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。
言い忘れたが、Tというのは、「xxx」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、日本を代表する大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。
……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。
こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。
50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期)
(09年2月記)
*Devils in our Minds
●人がもつ悪魔性について
++++++++++++++++++
イギリスでは、『抑圧は悪魔を作る』という。
慢性的な抑圧状態がつづくと、ものの考え方が
悪魔的になることをいう。
ここでいう「抑圧状態」というのは、いわゆる
心が押し殺された状態をいう。
言いたいことも言えない。
したいこともできない。
不平や不満が押しつぶされ、心が石のようになる。
そういう状態をいう。
また「悪魔的」というのは、ズバリ、人間らしい心の崩壊をいう。
道徳の崩壊、倫理の崩壊につづいて、善悪感覚の
麻痺、心の温もりの消失、やさしさの欠落……とつづく。
で、ここが重要だが、一度、心の崩壊、つまり
心が壊れると、修復は、たいへんむずかしいということ。
私が知るかぎり、心が一度壊れた人が、そのあと、
再び人間らしい心を取り戻したという例はない。
何とかごまかして、それらしく取り繕う人はいるが、
基本的には、変わらない。
1920年代にあいついで見つかった、野生児を
例にあげるまでもない。
+++++++++++++++++++
●悪魔性
「悪魔」とまではいかないにしても、「悪人」と呼ばれる人は多い。
しかし悪人といっても、心の問題だから、外からはわかりにくい。
「私は悪人です」というラベルを、張っているわけでもない。
さらにタチの悪いことに、このタイプの人ほど、仮面をかぶる。
(よい人)ぶる。
だから私は、「悪魔」というよりは、「悪魔性」という言葉を使う。
「悪魔的」でもよい。
内に潜んで、外に顔を出さないから、「悪魔性」という。
その悪魔性は、ときとばあいに応じて、その人の心を裏から操る。
●反動形成
この悪魔性は、0歳から4、5歳の幼児期前期までに作られると考えてよい。
それ以後も、『抑圧は悪魔を作る』という格言は正しいが、修復が不可能という
状態にはならない。
しかし0歳から4、5歳までに、一度この悪魔性が作られると、先にも書いたように、
以後、修復するのが、たいへんむずかしくなる。
ひとつの例として、「嫉妬」をあげる。
たとえば下の子どもが生まれたとき、上の子どもが、赤ちゃん返りという症状を
示すことがある。
ネチネチと赤ちゃんぽくなるのを、マイナス型とするなら、下の子どもに対して
暴力的になるのは、プラス型ということになる。
マイナス型とプラス型の両方を、あわせもつケースも少なくない。
そのとき、上の子どもが、(よくできた、いい兄(姉))を演ずることがある。
これを心理学の世界では、「反動形成」という。
本当は下の子が憎くてしかたないのだが、その心を見抜かれると、自分の立場が
なくなる。
そこで上の子どもは、(いい兄(姉))という仮面をかぶることで、人の目をごまかす。
こうした一連の反応は、本能的な部分で起こるため、本人にも仮面をかぶっている
という意識はない。
が、その裏で、上の子どもは、大きく心をゆがめる。
それがおとなになってからも、いろいろな形に姿を変えて、残る。
●欲求不満
一般的に、長男、長女は、生活態度が防衛的になる。
「防衛的」というのは、ケチで、ため込み屋になりやすいということ。
嫉妬深く、用心深く、かつ疑り深い。
親にすれば、「兄(姉)も弟(妹)も同じようにかわいがっています」ということ
になるが、兄(姉)にすれば、「同じように」という部分が、そもそも不満という
ことになる。
下の子どもが生まれるまでは、100%の愛情を受けていた。
それが下の子どもが生まれて、半分、あるいはそれ以下に減ってしまった。
それが不満ということになる。
このばあいは、慢性的な愛情飢餓状態になる。
言い忘れたが、「抑圧」といっても、2種類、ある。
外発的な抑圧(たとえば過干渉、過負担など)と、内発的な抑圧(愛情飢餓、
欲求不満)である。
どちらも子どもの心に対して、同じように作用する。
●ケチ
この文章を読んでいる人で、長男、長女の人は多いと思う。
その中でも、ケチの人は、多いと思う。
ためこみ屋の人も、いる。
あのフロイトも、肛門期に、たとえば愛情飢餓の状態になると、ケチになりやすいと
説いている(※)。
しかしそういう人でも、その原因が、自分の乳幼児期にあると気がついている
人は少ない。
だいたい、自分がケチであるということにすら、気がついていない。
たいてい長い時間をかけて、自分のケチを正当化してしまっている。
「私は倹約家だ」「質素こそ、生活の旨(むね)とすべき」「私は無駄づかいは
しない」と。
だからむしろ、「私はすばらしい人間」と思い込んでいる。
そしてそうでない人を、「浪費家」とか、「愚かな人」と、さげすんでいる。
ため込み屋にしても、そうだ。
モノを捨てることができない。
そのため部屋中、家中、モノであふれかえることになる。
ひどくなると、ゴミまで、ため込むようになる。
もっともこの段階になると、心の病気がからんでくるため、単純に考えることは
できない。
ともかくも、ケチな人は、自分がケチだとは思っていない。
その人がケチであるかないかは、そうでない人から見て、わかること。
自分では、わからない。
つまりそれくらい、自分を知ることは、むずかしい。
いわんや、悪魔性をや、ということになる。
●心の壊れた人
以前、私にこんなことを話した人がいた。
その人(男性、60歳くらい)は、車を運転しているとき、車をどこかの塀に
ぶつけたらしい。
そのため塀の一部というか、1メートル前後にわたって、大きく傷をつけてしまった。
それについて、その人は、得意げに、(「得意げに」だ)、こう言った。
「林さん、あんなのいちいち謝りに行っていたら、かえって補修費を請求されるよ。
だからぼくはね、帰り道、わざと自分の車を、山の崖に当ててね、車に傷をつけた。
そうすれば、自分の車は、保険で直してもらえるからね」と。
私が「それって、当て逃げになるのでは?」と言うと、その人は、こう言って
笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あの家は、バーさんのひとり暮らしだから」と。
一見すると、あっけらかんとして、朗らかな人に見えるが、心が壊れた人というのは、
そういう人をいう。
●私のばあい
その人を非難しているのではない。
私も、あの戦後のどさくさの最中に生まれ育っている。
道徳観も倫理観も、希薄な時代だった。
みなが、心のより所を見失い、「マネー」「マネー」と言い始めた時代だった。
家庭教育の「カ」の字もない時代だったと言っても、過言ではない。
少なくとも、今という時代と比較すると、そうだった。
だから道路でお金やモノを拾っても、それはすべて拾った子どものものになった。
「交番へ届ける」という発想そのものが、なかった。
ある時期などは、大きな磁石にヒモをつけ、それで川の中をさらって歩いたこともある。
それで鉄くずを集めて、鉄くず商へもっていくと、結構なお金になった。
父が一日かかって稼ぐ金額より多く、稼いだこともある。
もっとも、それは悪いことではなかったが……。
実は、先に書いた、塀に当て逃げした男というのは、私の子ども時代からの
知人である。
同じ価値観を共有している。
つまり相手の男は、私もまた同じような人間だろうということで、その話をした。
事実そのとおりだから、反論のしようがない。
反論のしようがないから、今、私はそういう自分の中に潜む悪魔性と、懸命に
闘っている。
私も油断すれば、ふとあのころの自分に戻ってしまう。
小ずるくて、インチキ臭い。
ウソは平気でつく。
人をごまかしても、罪の意識が薄い。
それを「たくましさ」と誤解する人もいるかもしれないが、ほんとうのたくましさは、
生き様の中で試される。
逆境の中で、どう生きていくか。
その生き様の中で試される。
ずる賢い人のことを、「たくましい人」とは、言わない。
●『抑圧は悪魔を作る』
ここに書いたことだけでも、乳幼児期の子どもの育て方が、いかに重要なもので
あるかが、わかってもらえたと思う。
内的抑圧にせよ、外的抑圧にせよ、『抑圧は、悪魔を作る』。
そしてその悪魔性は、生涯にわたってその人の心の奥深くに住み、その人の心を
裏から操る。
こうした悪魔性の恐ろしいところは、その悪魔性そのものよりも、悪魔性に毒される
あまり、大切でないものを大切なものと思い込んだり、大切なものを大切なものでない
と思い込んだりするところにある。
つまり時間を無駄にする。
積もり積もって、わずかな利益と交換に、人生を棒に振る。
●終わりに・・・
先ほどケチについて書いた。
ひょっとしたら、あなた自身のことかもしれない。
あるいはあなたの周囲にも、そういう人がいるかもしれない。
が、私が知っている人の中には、家族よりも金儲けのほうが大切と考えている人もいる。
妻や子どもですら、自分の金儲けの道具くらいにしか考えていない。
私たちから見ると、実に心のさみしい人ということになるが、しかしそういう人を
だれが笑うことができるだろうか。
この世界で、抑圧を受けていない人はいない。
いつも心のどこかで、じっと、それに耐えている。
毎日が、抑圧との闘いであると言っても過言ではない。
そのため、多かれ少なかれ、悪魔性は、だれももっている。
悪魔性のない人は、いない。
大切なことは、その悪魔性に気がつくこと。
つぎに大切なことは、その悪魔性に毒されないこと。
これは人生を有意義に生きるための、大鉄則と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 抑圧 抑圧は悪魔を作る 悪魔性 悪魔的思考法 抑圧論 ケチ ケチ論 はやし浩司 けち けち論)
++++++++++++++++++
イギリスでは、『抑圧は悪魔を作る』という。
慢性的な抑圧状態がつづくと、ものの考え方が
悪魔的になることをいう。
ここでいう「抑圧状態」というのは、いわゆる
心が押し殺された状態をいう。
言いたいことも言えない。
したいこともできない。
不平や不満が押しつぶされ、心が石のようになる。
そういう状態をいう。
また「悪魔的」というのは、ズバリ、人間らしい心の崩壊をいう。
道徳の崩壊、倫理の崩壊につづいて、善悪感覚の
麻痺、心の温もりの消失、やさしさの欠落……とつづく。
で、ここが重要だが、一度、心の崩壊、つまり
心が壊れると、修復は、たいへんむずかしいということ。
私が知るかぎり、心が一度壊れた人が、そのあと、
再び人間らしい心を取り戻したという例はない。
何とかごまかして、それらしく取り繕う人はいるが、
基本的には、変わらない。
1920年代にあいついで見つかった、野生児を
例にあげるまでもない。
+++++++++++++++++++
●悪魔性
「悪魔」とまではいかないにしても、「悪人」と呼ばれる人は多い。
しかし悪人といっても、心の問題だから、外からはわかりにくい。
「私は悪人です」というラベルを、張っているわけでもない。
さらにタチの悪いことに、このタイプの人ほど、仮面をかぶる。
(よい人)ぶる。
だから私は、「悪魔」というよりは、「悪魔性」という言葉を使う。
「悪魔的」でもよい。
内に潜んで、外に顔を出さないから、「悪魔性」という。
その悪魔性は、ときとばあいに応じて、その人の心を裏から操る。
●反動形成
この悪魔性は、0歳から4、5歳の幼児期前期までに作られると考えてよい。
それ以後も、『抑圧は悪魔を作る』という格言は正しいが、修復が不可能という
状態にはならない。
しかし0歳から4、5歳までに、一度この悪魔性が作られると、先にも書いたように、
以後、修復するのが、たいへんむずかしくなる。
ひとつの例として、「嫉妬」をあげる。
たとえば下の子どもが生まれたとき、上の子どもが、赤ちゃん返りという症状を
示すことがある。
ネチネチと赤ちゃんぽくなるのを、マイナス型とするなら、下の子どもに対して
暴力的になるのは、プラス型ということになる。
マイナス型とプラス型の両方を、あわせもつケースも少なくない。
そのとき、上の子どもが、(よくできた、いい兄(姉))を演ずることがある。
これを心理学の世界では、「反動形成」という。
本当は下の子が憎くてしかたないのだが、その心を見抜かれると、自分の立場が
なくなる。
そこで上の子どもは、(いい兄(姉))という仮面をかぶることで、人の目をごまかす。
こうした一連の反応は、本能的な部分で起こるため、本人にも仮面をかぶっている
という意識はない。
が、その裏で、上の子どもは、大きく心をゆがめる。
それがおとなになってからも、いろいろな形に姿を変えて、残る。
●欲求不満
一般的に、長男、長女は、生活態度が防衛的になる。
「防衛的」というのは、ケチで、ため込み屋になりやすいということ。
嫉妬深く、用心深く、かつ疑り深い。
親にすれば、「兄(姉)も弟(妹)も同じようにかわいがっています」ということ
になるが、兄(姉)にすれば、「同じように」という部分が、そもそも不満という
ことになる。
下の子どもが生まれるまでは、100%の愛情を受けていた。
それが下の子どもが生まれて、半分、あるいはそれ以下に減ってしまった。
それが不満ということになる。
このばあいは、慢性的な愛情飢餓状態になる。
言い忘れたが、「抑圧」といっても、2種類、ある。
外発的な抑圧(たとえば過干渉、過負担など)と、内発的な抑圧(愛情飢餓、
欲求不満)である。
どちらも子どもの心に対して、同じように作用する。
●ケチ
この文章を読んでいる人で、長男、長女の人は多いと思う。
その中でも、ケチの人は、多いと思う。
ためこみ屋の人も、いる。
あのフロイトも、肛門期に、たとえば愛情飢餓の状態になると、ケチになりやすいと
説いている(※)。
しかしそういう人でも、その原因が、自分の乳幼児期にあると気がついている
人は少ない。
だいたい、自分がケチであるということにすら、気がついていない。
たいてい長い時間をかけて、自分のケチを正当化してしまっている。
「私は倹約家だ」「質素こそ、生活の旨(むね)とすべき」「私は無駄づかいは
しない」と。
だからむしろ、「私はすばらしい人間」と思い込んでいる。
そしてそうでない人を、「浪費家」とか、「愚かな人」と、さげすんでいる。
ため込み屋にしても、そうだ。
モノを捨てることができない。
そのため部屋中、家中、モノであふれかえることになる。
ひどくなると、ゴミまで、ため込むようになる。
もっともこの段階になると、心の病気がからんでくるため、単純に考えることは
できない。
ともかくも、ケチな人は、自分がケチだとは思っていない。
その人がケチであるかないかは、そうでない人から見て、わかること。
自分では、わからない。
つまりそれくらい、自分を知ることは、むずかしい。
いわんや、悪魔性をや、ということになる。
●心の壊れた人
以前、私にこんなことを話した人がいた。
その人(男性、60歳くらい)は、車を運転しているとき、車をどこかの塀に
ぶつけたらしい。
そのため塀の一部というか、1メートル前後にわたって、大きく傷をつけてしまった。
それについて、その人は、得意げに、(「得意げに」だ)、こう言った。
「林さん、あんなのいちいち謝りに行っていたら、かえって補修費を請求されるよ。
だからぼくはね、帰り道、わざと自分の車を、山の崖に当ててね、車に傷をつけた。
そうすれば、自分の車は、保険で直してもらえるからね」と。
私が「それって、当て逃げになるのでは?」と言うと、その人は、こう言って
笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あの家は、バーさんのひとり暮らしだから」と。
一見すると、あっけらかんとして、朗らかな人に見えるが、心が壊れた人というのは、
そういう人をいう。
●私のばあい
その人を非難しているのではない。
私も、あの戦後のどさくさの最中に生まれ育っている。
道徳観も倫理観も、希薄な時代だった。
みなが、心のより所を見失い、「マネー」「マネー」と言い始めた時代だった。
家庭教育の「カ」の字もない時代だったと言っても、過言ではない。
少なくとも、今という時代と比較すると、そうだった。
だから道路でお金やモノを拾っても、それはすべて拾った子どものものになった。
「交番へ届ける」という発想そのものが、なかった。
ある時期などは、大きな磁石にヒモをつけ、それで川の中をさらって歩いたこともある。
それで鉄くずを集めて、鉄くず商へもっていくと、結構なお金になった。
父が一日かかって稼ぐ金額より多く、稼いだこともある。
もっとも、それは悪いことではなかったが……。
実は、先に書いた、塀に当て逃げした男というのは、私の子ども時代からの
知人である。
同じ価値観を共有している。
つまり相手の男は、私もまた同じような人間だろうということで、その話をした。
事実そのとおりだから、反論のしようがない。
反論のしようがないから、今、私はそういう自分の中に潜む悪魔性と、懸命に
闘っている。
私も油断すれば、ふとあのころの自分に戻ってしまう。
小ずるくて、インチキ臭い。
ウソは平気でつく。
人をごまかしても、罪の意識が薄い。
それを「たくましさ」と誤解する人もいるかもしれないが、ほんとうのたくましさは、
生き様の中で試される。
逆境の中で、どう生きていくか。
その生き様の中で試される。
ずる賢い人のことを、「たくましい人」とは、言わない。
●『抑圧は悪魔を作る』
ここに書いたことだけでも、乳幼児期の子どもの育て方が、いかに重要なもので
あるかが、わかってもらえたと思う。
内的抑圧にせよ、外的抑圧にせよ、『抑圧は、悪魔を作る』。
そしてその悪魔性は、生涯にわたってその人の心の奥深くに住み、その人の心を
裏から操る。
こうした悪魔性の恐ろしいところは、その悪魔性そのものよりも、悪魔性に毒される
あまり、大切でないものを大切なものと思い込んだり、大切なものを大切なものでない
と思い込んだりするところにある。
つまり時間を無駄にする。
積もり積もって、わずかな利益と交換に、人生を棒に振る。
●終わりに・・・
先ほどケチについて書いた。
ひょっとしたら、あなた自身のことかもしれない。
あるいはあなたの周囲にも、そういう人がいるかもしれない。
が、私が知っている人の中には、家族よりも金儲けのほうが大切と考えている人もいる。
妻や子どもですら、自分の金儲けの道具くらいにしか考えていない。
私たちから見ると、実に心のさみしい人ということになるが、しかしそういう人を
だれが笑うことができるだろうか。
この世界で、抑圧を受けていない人はいない。
いつも心のどこかで、じっと、それに耐えている。
毎日が、抑圧との闘いであると言っても過言ではない。
そのため、多かれ少なかれ、悪魔性は、だれももっている。
悪魔性のない人は、いない。
大切なことは、その悪魔性に気がつくこと。
つぎに大切なことは、その悪魔性に毒されないこと。
これは人生を有意義に生きるための、大鉄則と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 抑圧 抑圧は悪魔を作る 悪魔性 悪魔的思考法 抑圧論 ケチ ケチ論 はやし浩司 けち けち論)
*Education in Front-Line (Nov.27th)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 11月 27日
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★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子どもを伸ばすために】
++++++++++++++++++
子どもを伸ばすには、どうしたらよいか。
それについて書いてみたい。
(まとまりのない文章で、すみません。)
++++++++++++++++++
●八つ当たり
脳みそというのは、器用なようであって、器用でない。
基本的には、不器用。
「自分ではこうしたい」と思っていても、脳のほうが、勝手に反応してしまうことがある。
その一つの例が、八つ当たり。
何かのことでいやなことがあったとする。
ムシャクシャする。
するとそのはけ口を、ほかのものや、人に向ける。
向けられた人こそ、えらい迷惑。
そういう心理状態を、心理学では、「置き換え」という言葉を使って説明する。
しかしそれも道理。
一度、ある種のホルモン、たとえばサイトカインなどが分泌されると、
それは脳内全体に作用する。
部分的に、ここだけに作用して……というわけには、いかない。
だから一度、サイトカインが分泌されると、いや~な気分は、脳全体に影響を与える。
それが八つ当たりの原因ということになる。
が、その八つ当たりをコントロールするのが、理性。
つまり前頭連合野の働きということになる。
が、この前頭連合野の働きは、あまりアテにならない。
個人差も大きい。
つまり本能的な脳の働きの前では、理性の力といっても、風の中で揺れる
ローソクの光のようなもの。
とくに私のばあいは、そうである。
何かにつけて、すぐ八つ当たりしてしまう。
では、どうすればよいのか。
●アクセルとブレーキ
少し話が脱線するが、許してほしい。
心理的反応の大きさは、脳に刻み込まれたトラウマ(心的外傷)の大きさによる。
トラウマが大きければ大きいほど、心理的反応は、大きくなる。
私のばあいも、ふつうの人にとっては何でもないことでも、あること(人)になると、
反応が過剰になることがある。
たとえば「酒」。
私は酒のにおいが、嫌い。
酒臭い人も、嫌い。
ふつうの人にとっては、何でもないにおいでも、私にとっては、そうでない。
理由は、わかっている。
私の父は、酒癖が悪く、酒を飲むたびに、家の中で暴れたり、大声を出して叫んだ。
それがトラウマになっている。
若いときほどではないが、いまだに、その残像が残っている。
そういう自分を観察してみて、気がついたことがある。
「置き換え」も、そのときの気分によって、左右される、と。
たとえば親しい友人が、酒を飲んだとする。
そういうときは、ほとんど気にならない。
ワイフの酒も気にならない。
しかし電車に乗り込んできたような人が、酒臭かったりすると、ムッとする。
あるいは日ごろ、不愉快に思っている人が、酒臭かったりする。
そういうときも、ムッとする。
条件反射論で考えるなら、こういうことはないはず。
どの人に対しても、反応は平等に起きるはず。
つまり条件反射も、別の何かによって、影響を受けることになる。
なぜだろう?
そこで自分を観察してみる。
同じ条件反射なのに、強弱はどうして起こるのか、と。
このことは、少し汚い話で恐縮だが、「便」で考えてみるとわかる。
あのソクラテスは、「自分の糞(おならではない)は、いいにおい」と言った。
しかし便というのは、みな、同じようなもの。
同じように、においも、人によってそれほど、違わない。
が、どうしてか、自分のおなら(便ではない)は、よいにおいがする。
他人のは、そうでない。
そういうとき、頭の中でこんな反応が起きるのが、わかる。
一度は、臭いと思うが、それを発展的に(?)、「臭い」と思うときもあれば、
「臭くない」と、否定的に(?)、思うときがある。
他人のものであれば、発展的に、「臭い」と思う。
自分のものであれば、(ワイフのも、そうだが)、「臭くない」と思う。
つまりアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかのちがいが、起きる。
その作用が、そのあとの心理作用に、影響を与える(?)。
脳のどこかに、そういうメカニズムがあるらしい。
●潜在意識
児童心理学の世界には、「好子」「嫌子」という言葉がある。
同じことなのに、それを前向きにする子どもがいる。
一方、それをいやがり、逃げ腰になる子どもも、いる。
こうした現象を、「好子」「嫌子」という言葉を使って説明する。
これもアクセルとブレーキに似ている。
可能性として考えられるのは、表の意識が、裏の意識、つまり潜在意識に
操られているということ。
そのことによいイメージをもっていると、そのイメージが、アクセルとなって働く。
悪いイメージをもっていると、ブレーキとなって働く。
たまたま今日も、年中児の男の子に、簡単な文章を読ませようとした。
そのときのこと。
その子どもは、その文章から目をそらし、悲しそうな目つきで、私の顔をじっと見つめた。
明らかに拒否反応である。
文字に対して、どこかで悪いイメージをもってしまったらしい。
それがブレーキとなって働いた。
そこで何とかその子どもに、その文章を読ませた。
少しずつ私が読み、それを復唱させた。
文字などはスラスラと書くので、その程度の文章が読めないということはない。
で、読んだあと、みなの前でほめ、そしてみなに、手を叩かせた。
とたん、表情がぱっと輝いた。
で、もう一度、レッスンの終わるころ、その男の子に同じ文章を読ませた。
今度は、大きな声で読んだ。
今度は、アクセルが働いた。
●イメージ・トレーニング
こうして考えてみると、条件反射をコントロールするのは、実は理性(=前頭
連合野)ではなく、潜在意識ということになる。
あるいは潜在意識のほうが、パワー的には、前頭連合野より強力ということになる。
こうして生まれた指導法が、イメージ・トレーニング法ということになる。
これは航空大学校に通っていたころの三男から学んだ方法である。
パイロットの卵というのは、訓練の過程で、いつもイメージ・トレーニング法を
使うという。
簡単な例では、たとえば頭の中に飛行機を思い浮かべ、その飛行機が横風を
受けて、流されていく様子など。
そういうイメージを描きながら、自分はどう飛ぶべきかを、頭の中でトレーニング
する。
私も幼児教室で、このイメージ・トレーニン法を多用している。
たとえば、私が何を言っても、「やりたい!」と子どもたちに言わせる。
大声で言わせるのが、コツ。
「お手伝いをしたいか」「やりたい!」
「ひらがなの勉強をしたいか」「やりたい!」
「お母さんを助けたいか」「やりたい!」と。
(「YES!」「NO!」と言わせるときもある。
「いやだア!」と大声で連呼させるときもある。)
反対に、「いやだ!」と言わせるときは、こうする。
「ゴキブリの天ぷらを食べたいか」「いやだア!」
「ミミズのラーメンを食べたいか」「いやだア!」
「ねずみのウンチのから揚げを食べたいか」「いやだア!」と。
こうしてはずみをつけたあと、少しずつ、内容を現実に近づけていく。
「タバコを吸ってみるか」「いやだア!」
「ちょっとおじさんと、遊びに行かないか」「いやだア!」
「いいところへ連れていってやるから、車に乗ってよ」「いやだア!」と。
(実際の指導風景は、YOUTUBEのところどころに、収録してある。
興味のある人は、そちらを見てほしい※。)
●トラウマつぶし
こうして子どもたちの脳の中に、前向きな潜在意識を作っていく。
同時に、それを自分自身に応用してみる。
何かのトラウマがあったとしても、(もちろんそれが何であるかを、先に
知らなければならないが……)、そのトラウマをつぶす。
これを私は勝手に、「トラウマつぶし」と呼んでいる。
たとえば私は、幼稚園に勤め始めたころ、できの悪い子どもが苦手だった。
そういう子どもに接すると、そばにいるだけでイライラしたこともある。
しかしそれでは仕事にならない。
数か月や半年は、ごまかすことはできても、そこまで。
そのうち子どものほうが、「林先生は嫌い」とか、「幼稚園へ行きたくない」とか
言い出す。
そこで私は、(実のところ、5~7年もたってから、それに気づいたのだが)、
初対面のとき、「この子はいい子だ」と、自分をだますようにした。
「この子はすばらしい」「この子は伸びる」と。
それ以後、見違えるほど、子どもたちの表情が明るくなったのを覚えている。
教えるのも楽になった。
で、今でも、そうだ。
……というより、今は、自然な形でそれができる。
だから私が教えている子どもは、例外なく、どの子どもも、表情が明るい。
(表情が明るい子どもにするのが目的だから、当然のことだが……。)
その様子も、YOUTUBEに収録してあるので、ぜひ、見てほしい。
反対に、その子どもの中に、何らかのトラウマを見つけたら、この方法で
つぶす。
先に、文字に対して拒否反応を示した子どもについて書いた。
レッスンが終わったとき、母親には、こう言って指導した。
「あとは、家で、おおげさにほめてあげてください。
じょうずに読めたね。
お母さんが、うれしかったと言うだけで、効果があります。
お父さんの前でそれを言うと、もっと効果的です」と。
子どもを伸ばす、本当の力は、子ども自身の内部にある。
その内部を、教育する。
「それが幼児教育」とまでは断言できないが、ここに書いたことはまちがっていない。
あとは、子ども自身が本来的にもつ力で、伸びていく。
「子どもを伸ばすには」というテーマで書いたつもりだが、何ともまとまりのない
原稿になってしまった。
切り口をまちがえた。
八つ当たりから、話を始めたのが、まずかった。
ボツにしようかと考えたが、このまま発表する。
ごめんなさい!
(注※:YOUTUBEへは、私のHPのトップページより、「BW公開教室」へ。)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●映画『沈まぬ太陽』
静岡県では、今日、参議院議員の補欠選挙がある。
その投票に行く途中で、この文章を書いている。
(もちろん車の中で……。)
が、道路が、日曜日ということもあって、大渋滞。
少しイライラしていたら、ワイフが、「このまま映画に行かない?」と。
こういうとき、夫は、妻に従うのがよいそうだ。
先日買った雑誌(「プレジデント」)に、そう書いてあった。
熟年離婚の危機はかろうじてかわしたが、安全圏に入ったわけではない。
「時間的には、『沈まぬ太陽』がいいわ」ということで、そのまま劇場へ。
投票は、劇場からの帰りにすますことにした。
●日本映画
日本映画のつまらない点は、自然ぽさがないところ。
役者の個性を利用するというよりは、無理な役作りをするところにある。
知性の感じさせないような人が、科学者の役をしたり、スケベそうな男が、
正義を説いたり……。
その(無理)が、映画を、つまらないものにする。
先日も、「火TENの城」というのを見てきたが、途中で出てきてしまった。
ああいう(できすぎた映画)を見ていると、かえって不愉快になる。
何もかも、頭の中で先に予想ができてしまう。
「このつぎは、こうなるぞ」と。
そのとおりに、役者が演じ、ストーリーが運ぶ。
だからおもしろくない。
(この間、『沈まぬ太陽』を見た。長い映画だった。)
●『沈まぬ太陽』
主演の渡辺腱(父親役)と、名前は知らないが、息子役の男優。
この2人の演技が、きわだって光った。
よかった。
あとの俳優は、率直に言って、見るに耐えないというか、「これが演技です」
というような演技。
つまらなかった。
たぶん、監督の演技指導のままに演技していたのだろう。
語り方はもちろん、視線のはずし方まで、みな、同じだった。
映画を見れば、どこの航空会社がモデルになっているかは、一目瞭然。
「よく、あの会社が、こんな映画を許可したね」と、何度も、ワイフと言いあう。
最後の結末がさわやかだったからよかったが、もし醜いまま終わっていたら、
訴訟問題になっていたかも。
時期が時期だけに、あの会社にとっては、たいへんまずい。
現在、経営再建中。
内容的には、シリアスな社会派映画を見た感じ。
私も若いとき、M物産という会社にいた。
そういう立場で言うと、「現場は、あんなものではない」というのが、私の感想。
もっと生々しく、毒々しい。
それに日本の映画は、どうしてこうまでお説教がましいのだろう?
お金を出して、劇場まで足を運ぶのだから、もう少しサービス精神を旺盛にしてほしい。
つまり私たちを、楽しませてほしい。
ときに安っぽい論理で、人生観を語られたりすると、その場でシラケてしまう。
見終わったとき、ワイフに私も、こう言った。
「早く、M物産をやめて、よかった」と。
もしあのままあの会社で働いていたら、今ごろは、死んでいるか、身も心も、
ズタズタにされ、私は廃人になっていたはず。
同時に、以前書いた原稿を思い出した。
『休息を求めて、疲れる』(イギリスの格言)という原稿である。
いくつか書いたので、そのまま掲載する。
+++++++++++++++++++++
●休息を求めて疲れる(ロマンを求めて)
いまだに悪夢と言えば、修学旅行のときのものだ。集合時刻が近づく。私は大部屋で寝
ている。皆はすでにカバンを整理して外へ出ようとしている。私は自分の靴がどこにある
かもわからない。トイレはどこだ。まだ朝食も食べていない……。記憶にはないが、多分
私は子どものころ、旅行でそういう思いをしたのだろう。いや、それ以上に私たち団塊の
世代は、どんなことでも、乗り遅れるのを何よりも恐れていた。
前年までのクラスは五クラス。しかし私たちの学年からは、一一クラス。しかも一クラ
ス、五五人平均。粗製濫造とはまさにこのことで、私はサッカーにしても、一チーム、二
五人で戦うものだとばかり思っていた。
確かに私たちの世代は、いつもうしろから何かに押されていた。立ち止まっただけで、
言いようのない不安感に襲われた。はげしい競争。そしてまた競争。こうしてあの会社人
間、仕事人間は生まれたが、そうであってはいけないと思っていても、休暇で一週間も休
みが続いたりすると、それだけで申し訳ない気持ちになる。
私が見る悪夢は、その延長線上にあるにすぎない。「日本は資源のない国だ」「貿易で国を
支えるしかない」「欧米に追いつけ、追い越せ」「立派な社会人となれ」などなど。私たち
はこういう言葉を、毎日のように、それこそ耳が痛くなるほど聞かされた。結果、今のよ
うな日本がなったが、そこでまたふと立ち止まってみると、やはり言いようのない不安感
に襲われてしまう。
そうそうイギリスの格言に、「休息を求めて疲れる」というのがある。「いつか楽になろ
う、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という
意味だが、イギリスでは、愚かな生きかたの代名詞にもなっている。オーストラリアの友
人も、何かのことで私があせっていると、「ヒロシ、気楽にせよ。休息を求めて疲れるな」
と、よく言ってくれた。しかし今になっても、その「休息」はどこにもない。なぜだろう
か。
貯金といっても、底が知れている。退職金などもちろんないが、年金にしても、本当に
もらえるかどうかわからなくなってきた。息子たちにしても、私が世話をすることはあっ
ても、その反対は、まず期待できない。期待もしていない。私はこうして死ぬまで働くし
かない。
話は変わるが私の友人の弟は、四二歳の若さで会社勤めをやめ、退職金をもってマレー
シアへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買って、航海に出たという。「今ごろね、あい
つね、マレーシアで知り合ったフランス人女性と二人で、インド洋を航海しているはずで
す」と。その友人は笑って話してくれたが、私には夢のような話だ。いや、夢ではない。
私にだってできる。いつかはできる。それをしなければ、いつまでたっても、あの悪夢か
ら解放されることはない。
今回は私たち団塊の世代の、挫折とロマンを聞いてもらいたくて筆をとった。この中に
一つの教育論を感じとっていただければ幸いである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●今を生きる子育て論
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、
結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはい
けません」と教えている。
たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。
同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。
そして大学は、よき社会人になるため、と。
こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここで
いう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自
分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になってい
るから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。
「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。
ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽ら
ずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高
校生が自殺に追いこまれるという映画である。
この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置に
ある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あな
たの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未
来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」
の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。
子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。
もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」と
いうことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、その
つどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。
たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。
それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に
追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」
と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。
ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違い
を感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないので
はないか……と、私は心配する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「休息を求めて疲れる」。
イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。
ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、
と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。
私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかっ
た。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味がある
というのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。
だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100
万円は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなけれ
ばならないのか。
未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。
幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学
は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることは
できない。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。
あえて言えば、私にもこんな経験がある。
学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に
行こう」と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれる
ものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。
先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、そ
の気力は消えうせる……?
大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 映画「沈まぬ太陽」 休息を求めて疲
れる 休息を求めて、疲れる 今を生きる子育て論)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●パソコン
パソコンの世界では、つぎつぎと新製品が発売になる。
そのたびに、機能は向上し、デザインもよくなる。
そのたびに、新しいのが欲しくなる。
こういうのをビョーキという。
ドーパミンの分泌がさかんになる。
線条体で条件反射が起きる。
自分でもそれがよくわかっている。
わかっているが、それがなくなったら、私もおしまい。
つまり「欲しい」と思ううちが、花。
たとえばこの2か月ほど、政治に関して、興味をなくしてしまった。
どうでもよくなってしまった。
とくに先の衆議院議員選挙以来、気が抜けてしまった。
が、これではいけない。
……というより、あちこちのサイトを見ていたら、私の原稿が、
いくつかの政治団体で、紹介されているのを知った。
羽田空港問題、成田空港問題について書いた原稿も、それぞれのサイトで、
紹介されているのを知った。
(ついでに旅行記も、紹介されていた。)
それがよい刺激になった。
久しぶりに、政治問題を考えたくなった。
で、最近の話題は、何と言っても、鳩山首相の「東アジア共同体構想」。
ASEANの各国を、日本のワクの中に取り込もうという構想である。
しかしこんな構想は、最初から、うまくいくはずがない。
失敗するに決まっている。
だいたい、「ASEANプラス3」って、何?
「3」というのは、「日本、中国、韓国」の3か国をいう。
3か国といっても、呉越同舟というか、水と油と砂が混ざっているようなもの。
中国を連れていったら、まとまる話もまとまらなくなる。
もともとASEANというのは、中国の脅威に対抗して始まったもの。
韓国だって、どんな下心をもっているか、わかったものではない。
……とまあ、政治問題について書くときは、かなりの(怒りのエネルギー)を
要する。
そのエネルギーがないと、書いていても、つづかない。
途中で、どうでもよくなってしまう。
しかしこのところ、気力が弱くなった。
(怒りのエネルギー)が、あまりわいてこない。
平和というか、平穏というか……。
たとえて言うなら、おいしいごちそうを、腹いっぱい食べたあとのような感じ。
そこで、あえて(怒りのエネルギー)を奮い立たせる。
カーッ!
あのね、鳩山首相。
アメリカを日本から離反させるのは、まずい。
なぜ、この時期に、脱・アメリカ追従外交なの?
一方、どうして今、日本は中国に擦り寄らなければならないの?
日本は、自由主義貿易陣営の一員ではなかったの?
いろいろと問題はあるが、だからといって今、社会主義体制を求めているわけではない。
それになぜ、鳩山首相は、こうも急ぐの?
こうした日本の命運を左右するような外交問題は、じっくりと基盤を固めてからする。
それが常識。
政権を奪ったとたん、「東アジア共同体構想」は、ない。
今、鳩山首相、あなたがすべきことは、官僚政治をつぶすこと。
やりたい放題のことをしている官僚たちに、ストップをかけること。
民主主義を、国民の手に戻すこと。
その本命を忘れて、大きなアドバルーンばかりあげて、どうするの?
こんな稚拙な外交を繰り返していると、自民党が喜ぶだけ。
ついでに中国や韓国が喜ぶだけ。
K国だって、喜ぶ。
怒る前に、何だか、日本の政治が心配になってきた。
もう少しすると、あのASO前首相が、「それ、見たことか!」と、声をあげ始めるかも。
●10月25日の終わりに……
いろいろ考える。
(どう生きるか?)vs(どう死ぬか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(まだがんばれる)vs(だいじょうぶだろうか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(年齢など気にしない)vs(あと10年かな?)。
この2つが、交互の私の心の中で闘う。
おとといの夜も、深夜劇場へ行く途中、足の不自由な人を見かけた。
年齢は私より少し若かった。
50代の半ばごろの人か。
背も高く、ほっそりとした人だった。
脳卒中?
懸命に一本杖で身を支えながら、ゆっくりと歩いていた。
私はその人をよけながら、エレベーターの中に身を隠した。
「明日はわが身?」。
明日はだいじょうぶでも、あさってはわからない。
あさってはだいじょうぶでも、そのつぎの日は、わからない。
1年の命を10年に延ばして、何になる?
10年の命を20年に延ばして、何になる?
明日は明日。
明日は、確実に、そこにやってくる。
たまたまその男の人は、そこにいる。
たまたま私は、ここにいる。
ちがいなど、どこにもない。
ゆいいつのちがいは、私は私の目を通して、その男の人を見ていること。
その男の人は、その男の人の目を通して、私を見ていること。
私がその男の人で、その男の人が私であっても、何も不思議でない。
しかし……。
私は、その苦痛に耐えられるだろうか。
その男の人の目を通して、私を見る私に、耐えられるだろうか。
その自信は、まったくない。
今日の健康など、明日は、あてにならない。
明日はよくても、あさっては、あてにならない。
そう思いながら、ウォーキング・マシーンの上で、歯をくいしばる。
「あと、10分……、あと5分……」と。
私にあるのは、「たぶん、明日もだいじょうぶだろう」という小さな希望だけ。
その希望に、自分をつなげて、今日という1日を終える。
(少し、今夜は暗いかな……?)
みなさん、今日も、楽しい1日をありがとう!
今日は、朝、8時まで寝ていました。
午後に、山荘へ行き、昼寝。
帰りに、パソコンショップで、WINDOW7を見て、
それから書斎へ。
夕食まで、1時間ほど、YOUTUBEで音楽を聴きました。
明日もがんばります!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
【寿命論】
++++++++++++++++++
●労働寿命
「平均寿命」という言葉がある。
「健康寿命」という言葉もある。
健康寿命というのは、健康でいられる年齢をいう。
ふつう(平均寿命)-10年が、健康寿命
と言われている。
だれしも、ポックリと死ぬわけではない。
晩年の10年は、病気との闘いということになる。
それに対して、「労働寿命」という言葉を
私は考えた。
仕事ができる年齢をいう。
これには個人差があるが、おおよそ(健康寿命)-
5年が、ひとつの目安になる。
これで計算すると、現在、男性の平均寿命は、
79歳、女性は86歳(厚生労働省)
だから……、
(健康寿命)…男性、69歳、女性、76歳
(労働寿命)…男性、64歳、女性、71歳
ということになる。
●記憶寿命
が、最近、私は、こんなことを考えるようになった。
人は死ねば、うまくいけば、墓石になれる。
最近は、墓石すらも作らない人が、ふえている。
が、問題は、そのあと。
先日も、車で郊外を走っていたら、小さな墓地を
見つけた。
田舎へ行けば行くほど、立派な墓地が目につく。
が、そこはちがった。
墓石も風化し、文字も読めないほどになっていた。
それを見たときのこと、ふと、こう思った。
「人は、いつまでみなの記憶に残ることができるか」と。
私たちは、死ねば、やがて忘れ去られる。
私の祖父母にしても、私たちの代の者が死ねば、
もうその名前を語られることすら、ないだろう。
父や母にしても、そうだ。
仏事の世界には、33回忌というのがある。
50回忌、100回忌というのも、ある。
しかしそこまでしてもらえる人は、例外中の例外。
ふつう、3回忌を最後に、死んだ人は、急速に
人々の記憶から消える。
そこで私が考えたのが、「記憶寿命」。
●消えていく私たち
たとえば私はこうして、文章にして日々の(思い)
を書いている。
書籍(本)にしても、寿命は、10年前後。
インターネットだったら、もっと短い(?)。
教育の世界で、昔、一世を風靡した人に、
「吉岡たすく」という人がいた。
10年ほど前に、亡くなった。
が、すでに今の若い母親たちは、その名前すら知らない。
ネットで検索してみたが、現在では、1万1000件。
今でも生きていたら、検索件数は、100万件を軽く
超えていただろう。
それくらい知名度の高い人だった。
が、やがて消えていく。
もちろん、私も、あなたも消えていく。
その寿命が、「記憶寿命」ということになる。
●寿命を延ばす
私たちは死んだあと、息子たちや孫たちも含めて、
何年ほど、彼らの記憶に残るだろうか。
残れることができるだろうか。
私自身の経験から言えば、50年を超えることは
まずない。
残ったとしても、ほんの一部の子孫にすぎない。
あとは痕跡もなく、消えていく。
ちょうど、私が見た、あの墓石のように。
で、自分がしていることを振り返る。
何か作品のようなものがあれば、記憶寿命は延びる
かもしれない。
作家や画家などは、そうして記憶寿命を延ばす
ことができる。
しかしそれにしても、あくまでも(結果)。
結果として残るだけ。
私にしても、「今を生きるために」、ものを書いている。
死んだ後のことは、ほとんど考えていない。
人々に支持されれば、記憶寿命は延びる。
支持されなければ、そのまま消える。
私のHPにしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
プロバイダーへの更新料を払わなければ、そのまま消える。
無料のHPサービス会社にしても、「~~か月、更新が
なければ、削除します」というのが、多い。
長くて、1年。
10年を超えることは、まず、ない。
今、こうして書いている文章にしても、私が死ねば、
1年足らずで消える。
(残さなければならないような文章でもないが……。)
だれかが引用してくれれば、その人のHPや、BLOG
で生き残ることはできるかもしれない。
しかしその人も、私と同じ運命をたどる。
こうして、私は、今、こう考える。
今のように仕事ができるのも、あと5年?
生きていられるのも、あと15年?
そのあと、30年もすれば、跡形もなく、消える?
それで私の「命」はおしまい。
●「形」から「心」
……とまあ、ネガティブに考えれば、お先真っ暗
ということになる。
しかしこれは私のやり方ではない。
そこでこう言って自分に言い聞かせる。
私の肉体、文章も含めて、「形」は消える。
それはもう事実。
が、私の書いた文章を読んだ人の中には、何かが残る。
その残ったものが、別の形になる。
別の形になったものが、こうして順送りに、未来に
つながっていく。
もちろんそのときは、「はやし浩司」の名前は、
どこにもない。
しかし、それでもよいのではないか、と。
大切なのは、(形)ではなく、(心)。
あの墓石の人にしても、そうだ。
先にも書いたように、今では、その名前すら読めない。
しかしその子孫の人は、その近くにも住んでいるはず。
そして何らかの形で、その人の(心)を残しているはず。
それでいい、と。
しかしそれにしても、この一抹のさみしさは、
いったい、どこから来るのか?
「生きる」ということは、そういうことであって
よいのか?
「死ぬ」ということは、そういうことであって
よいのか?
何かもっと別の考え方があるような気がする。
しかし今の私には、まだそれがわからない。
●補記
ついでに書く。
若いときには、その時計の音は聞こえない。
しかし60歳も過ぎると、その音が聞こえてくる。
「寿命時計」という時計の音である。
カチコチカチコチ……、と。
その心境は、時計を飲み込んだワニに追いかけられる、
フック船長(ピーターパン)のそれに似ている。
時計の音におびえて、逃げ回る……。
一説によると、作者のジェームズ・バリーは、
それによって、時間に追われて仕事をする現代人を
象徴したという。
しかしジェームズ・バリーがそこまで考えて
いたかどうかは別として、こうも言える。
つまりあの時計は、刻々と時間が短くなっていく
老人の心境を象徴している、と。
今の、私がそうだ。
もっともそういう心理状態を、「強迫観念」という。
心理学の世界では、そういう言葉を使って、説明する。
何かにおいまくられているような心理状態をいう。
その強迫観念ほどおおげさではないにしても、
しかしそれに近い。
「生きるということは、時間との勝負」。
そう考えることも多い。
たとえば私は、満65歳を過ぎたら、再度、
宗教論に挑戦するつもりでいる。
宗教論といっても、カルト教団との戦いをいう。
「どうして65歳?」と思う人もいるかも
しれない。
しかしそれまでは、今しばらく、静かにしていたい。
この世界でカルト教団を相手に、宗教論を書く
ということは、命がけ。
周囲が騒然としてくる。
それを覚悟で書くことができるのは、65歳と
いうことになる。
何とかそれまで脳みそが、健康であればよい。
肉体の方にも、がんばってほしい。
だから「時間との勝負」ということになる。
私が「寿命」という言葉にこだわるのは、
ここにある。
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 寿命論 健康寿命 労働寿命 記憶寿命 はやし浩司 寿命 091
026)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●A氏の再婚問題
++++++++++++++++++++
私の知人に、再婚問題で苦労している人がいる。
現在、年齢は、60歳。
自営業。
娘は2人いたが、嫁いで、今は独り暮らし。
妻は、15年ほど前、事故で死亡。
近所の人の話では、自殺したという説もある。
++++++++++++++++++++
●再婚の条件
その知人のばあい、50歳を過ぎるころから、再婚の話が、たびたび、もちあがった。
しかし条件がきびしかった。
その男性を、A氏としておく。
A氏の求める女性は、(1)40代(自分の年齢より、10~15歳、若いこと)。
つぎに(2)できれば初婚。再婚でも、子どものない人、ということだった。
しかしこんな条件で、再婚に応ずる女性は、い・な・い!
女性の立場で考えてみれば、それがわかる。
A氏は、自分の老後を心配して、再婚を考えている。
つまり妻を、老後の家政婦か介護士か、その程度にしか考えていない。
さらに具体的な記事が、『プレジデント』(09年10月号別冊)にも載っていた。
「こんな男は結婚できない」というタイトルで、5つの項目が並べられている。
(1)会社の地位や肩書にのみ、存在価値を見だす。
(2)己の年齢を顧みず、10歳以上若い女性に固執。
(3)介護や家事要員としての妻を求める。
(4)服装や見かけに無頓着で、所作にも若々しさがない。
(5)離婚の被害者意識にとらわれ、前妻の悪口ばかり言う。
A氏のケースでは、このうちの(2)と(3)に該当する。
●家父長意識
さらにA氏について言えば、最大の問題点は、家父長意識が強すぎるという点。
「夫が上で、妻が下」という、封建時代の亡霊をそのまま引きずっている。
それが問題。
A氏の母親は、7、8年前に他界。
近所でも評判の、気の強い女性だった。
そのため嫁・姑戦争が、絶えなかった。
が、今でもA氏の愛唱歌は、森進一の『おふくろさん』。
「母の悪口を言うヤツは、許さない」も、口癖。
あなたが女性なら、こんな男性との結婚を考えるだろうか。
雑誌「プレジデント」は、こうも書いている。
「(最低でも)年収が800~1000万円。さらにいくつかのハードルがある」と。
こうなってくると、再婚は、ますますむずかしい。
が、A氏にはそれがわからない。
加齢とともに、人は腰が低くなるものだが、A氏は逆。
ますます威張りだしている。
家父長意識というのは、わかりやすく言えば、上下意識をいう。
娘たちの嫁ぎ先の両親が、自分より若いこともある。
そのため、盆暮れのつけ届けを、自分では出したこともないのに、相手からそれが
届かないと、「無礼だ」「失敬だ」と言って、怒る。
これでは娘たちでさえ、実家に寄りつかなくなる。
……ということで、再婚話が、現れては消える。
それを繰り返している。
が、これは私たちの世代の男性にとっては、切実な問題。
まさに「明日は我が身かな」。
私「ぼくは、お前が死んだら、さっさと再婚するよ」
ワ「そうね、あなたは、ひとりでは生きられない人だから……」
私「でもね、相手はいないよ」
ワ「そうね、62歳だからね」
私「だから、決めた!」
ワ「何を?」
私「どんなことがあっても、ぼくは、お前より、先に死ぬ」
ワ「そうね、それしかないわよね」と。
しかしどうすれば、自分やワイフの寿命を調整できるのか。
人間というのは、因果な動物。
生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
生きたいと思っても、それができない人もいれば、死にたいと思っても、
それができない人もいる。
50代以上の男性の再婚には、そういう問題も隠されている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 再婚問題 男性の再婚 50代の再婚)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●小さな別れ、2つ
+++++++++++++++++++++++++++++++++
今日、小さな別れが、2つあった。
ひとつは、山鳩の雛(ひな)が、どこかへ行ってしまったこと。
もうひとつは、もっとも愛用していた、小型のパソコンを、
生徒の1人にあげてしまったこと。
しんみりとした、さみしさが、そのつど、スーッと心の中を駆け抜けた。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
●山鳩
私の庭に野生の山鳩が住みつくようになって、もう20年以上になる。
もっと長いかもしれない。
私は、ほとんど毎日、庭に餌をまいている。
最近では、私たちの姿を見ても、逃げない。
ときに私たちの数メートル先で、餌を食べることもある。
その山鳩。
ときどき「ドバト」と書いたが、これはまちがいだそうだ。
ドバトというのは、街の中で飛び交う、あの鳩をいう。
私の家に来るのは、山鳩。
別名、キジ鳩とも言うらしい。
たいへん警戒心の強い鳩で、人間には慣れないと言われている。
で、その山鳩が、毎年、私の庭にある木の上で、巣作りをし、雛を育てる。
が、この5、6年、リスが出没するようになった。
そのせいか、餌は食べにくるが、巣作りは別のところでするようになった。
今年も、そうだった。
雛が庭にやってくるまで、どこでどのようにして雛を育てたか、私たちは知らない。
が、ちょうど1週間ほど前、親鳥たちが雛を2羽連れて、私の家の庭にやってきた。
私たちは、大歓迎した。
いつもより餌をたくさんまいた。
犬のハナには、鳩を襲わないよう、しっかりと言いつけた。
ハナには、それがわかったらしい。
山鳩たちが庭へ来ると、自分は、犬小屋の中に身を潜めた。
ところで、ふつう山鳩は、2個の卵をかえす。
ほかの山鳩のことは知らないが、私の家ではそうである。
その中で巣立つのは、1羽だけ。
いつもそうだ。
あとの1羽は、もう1羽に巣から追い出される。
追い出された雛は、地面に落ちて、やがて死ぬ。
もっともその段階で、追い出された雛を私たちが救いあげ、育ててやることがある。
毎年、1羽くらいは、そうしている。
が、今年は、珍しく、2羽の雛を連れてきた。
見ると、栗の木の枝に止まっていた。
尾羽がまだ伸びきっていなかった。
枝から枝へと、移動するのがやっとという雰囲気だった。
近くに兄貴格の雛がいたが、そちらはほぼ自由に、枝から枝へと、飛ぶことが
できた。
が、もう1羽は、枝の上でじっとしていた。
その雛に、数日前、私の手を近づけてみた。
いつもだと、それくらいの大きさでも、山鳩は逃げる。
が、その雛は逃げなかった。
私の指先に乗った。
うれしかった。
かわいかった。
それからというもの、毎朝起きると、いちばんに庭へ出て、その雛をさがした。
そのつどキーウィの木とか、栗の木に止まっていたが、だいたいそのあたりにいた。
数日も同じことを繰り返していると、雛は、私をこわがらなくなった。
喜んで指に止まるということはなかったが、指の上でも安心して、目を閉じたり、
羽をつくろったりした。
夜も仕事から帰ってくると、私は庭で、その雛をさがした。
それまでにワイフが雛の居場所を定めていてくれる。
そこを捜せばよかった。
が、今朝、10月26日の朝。
まだ薄暗いうちに起きて、庭に出てみた。
が、雛の姿は見えなかった。
昨夜もあちこちを捜してみたが、見えなかった。
つんとしたさみしさが、心の中をかけぬけた。
で、私はそのまま書斎へ。
いつもの日課をこなした。
それから数時間後。
朝食のとき。
ワイフに呼ばれて、台所へ行くと、ワイフが私の顔を見るやいなや、こう言った。
「いなくなってしまったわ」と。
もう一度、いそうな場所を捜してみたが、やはりいなかった。
「どこかへ行ってしまったみたい」「そうだな」と。
おかしなことだ。
私の息子たちが巣立ったときも、同じようなさみしさを覚えたが、まだその先には、
希望があった。
「いつか帰ってくるだろう」という希望である。
しかし山鳩の雛は、そうでない。
言い忘れたが、山鳩には、山鳩の縄張りのようなものがある。
たとえ自分が産み育てた雛でも、やがて自分の縄張りから追い出してしまう。
そんなわけで、一度巣立った雛は、まれに戻ってくることはあっても、そのまま
どこかへ行ってしまう。
二度と、私の庭に戻ってくることはない。
山鳩の習性というか、これは自然界のきびしい掟(おきて)でもある。
で、今日は一日中、小雨が降っていた。
私とワイフは、何度も、あの雛のことを心配した。
が、である。
午後になって、ちょうど仕事に出通うとするとき、庭に3羽の鳩がいるのが
わかった。
親鳥たちと、兄貴格のもう1羽の山鳩である。
それを見て、「いないか?」と声をかけると、ワイフが、「いないみたい」と。
それがその雛との別れだった。
親鳥たちは、兄貴格の1羽の雛にさえ、もう餌を与えようともしなかった。
自分たちの分だけを食べ終えると、そのまままたどこかへ飛んでいってしまった。
「うちへ来れば、ぼくが餌を食べさせてやるのに……」と、私はつぶやいた。
それが最後だった。
私は職場へと向かった。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
●古いパソコン
もうひとつの別れは、使い古した、愛用のパソコンを、生徒にあげたこと。
使い古したといっても、買ったときは、20数万円もしたパソコンである。
TOSHIBAのSS。
当時としては珍しい、モニターが10インチの超小型パソコンである。
そのときはうれしくて、毎日それをピカピカに磨いて、枕元に置いて寝た。
そのパソコンで、3冊ほど、本を書いた。
私にとっては、思いで深いパソコンである。
ほかにも当時使っていたパソコンが、4~5台残っていた。
が、そちらのほうは、あまり迷わず処分できた。
しかしそのパソコンだけは、処分できなかった。
外観はボロボロ。
が、キーボードの感触は忘れない。
今でも指先に、しっかりとそれが残っている。
で、今は、もっぱら……というより、2008年になってから発売された、
ミニ・パソコンを使っている。
価格はSSの6分の1程度だが、性能は、最近のミニ・パソコンのほうがダントツによい。
が、それでも、愛着というのは消しがたい。
そのミニ・パソコンを使っていたら、NY君(小4)が、「いいなあ、先生は
パソコンをたくさん、もっていて……」と。
「全部でいくつくらい持っている?」と聞いたので、「7台くらいかな」と、私が
答えたときのことだった。
私はその言葉に、ググーッときた。
つい数週間前には、今年の4月に買ったミニ・パソコンを、中3のOKさんに
あげたばかり。
内心では、あげようか・どうしようかと、大きく迷った。
しかし顔にはそれを出さないで、一通り、TOSHIBAのSSから、個人情報を
消した。
そのあと、NY君にこう言った。
「このパソコン、あげようか?」と。
とたんNY君は、目を輝かせた。
「いいのオ!」と。
私「ああ、でも、これではインターネットはできないよ。
ワープロとか、ゲームはできるけど……」
N「うん……」と。
こうして私は今日、TOSHIBAのSSを手放した。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
「これでいい」と、同時に、何度も、言い聞かせた。
長くつきあった友に、別れを告げたような気分だった。
……こうして今日、私は、2つの小さな別れを経験した。
小さな別れかもしれないが、心の奥までジンと響いた。
あとどれだけの人生か、私にはわからない。
が、一生、この2つの別れは忘れないだろう。
長調の二重奏。
ゆっくりとしたテンポの、やさしい曲。
この文章を書いている今でも、その音色が、心の中で響いている。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●迷い
私はよく迷う。
たとえばたった今も、こう迷った。
「こんなことをして、何になるのだろう」と。
YOUTUBEに、昨日の教室の様子を、UPLOADしたときのことだった。
しかしやるしかない。
笑いたい人がいたら、笑えばよい。
アホなことをしていると思う人がいたら、そう思えばよい。
そういう人にかぎって、自分では何もしない。
平凡は美徳かもしれないが、穴の中に引っ込んでいたら、何もできない。
何かをするためには、穴の中から出る。
私は私。
あとの判断は、他人に任せればよい。
つまらないものでれば、やがて消える。
そうでなければ、生き残る。
それを決めるのは、私ではない。
ただ言えることは、「これが私の人生」ということ。
だれの人生でもない。
私の人生。
迷いながら、そう言って自分に言い聞かせる。
言い忘れたが、消えたところで、どうということはない。
どうせみな、消えるのだから……。
●日本の「円」
日本政府は、「円」を、世界中にばらまいている。
ジャブジャブどころか、まるで……。
「ジャブジャブ」以上のジャブジャブ。
「ジャブジャブ」以上の言葉は、ない。
そのこともあって、円の為替レートが、メチャメチャ。
今、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、ふつうのホテルの一泊するだけでも、
日本円で、4~5万円はかかる。
ヨーロッパでもそれくらい。
外国のホテル代が高いのではない。
日本の(円)が、安い。
安いというより、価値がない。
価値がさがった。
今はまだよい。
日本の(円)は、かろうじてという状態だが、国際通貨として通用している。
世界中の人が、(円)を、ほしがっている。
しかしこんな状態は、いつまでもつづかない。
先日も、千葉市に住む息子を訪ねてみた。
市の中心部にあるホテルに泊まった。
一泊、2人で、1万4000円(食事なし)だった。
ほどほどの料金だった。
が、あたりを散歩してみて驚いた。
近くに焼き肉店があったが、どれも4000~5000円。
そんなメニューばかり!
関東地方は、物価が高い。
物価が高いというよりは、インフレがジワジワと進んでいる。
それは知っていた。
しかし千葉市までそうだったとは、知らなかった。
こうした流れは、やがてこの浜松市にも及んでくるはず。
時間の問題。
わかりやすく言えば、手持ちの資金の価値が、どんどんと目減りしているということ。
「貯金が500万円から1000万円になった」と喜んでいたら、実際の価値は、100
万円しかない。
そういう状況になりつつある。
本来ならレートを調整するために、円高に向かわねばならない。
オーストラリアのホテルでも、一泊、1万4000円程度で泊まれるようにならなければ
ならない。
が、もうメチャメチャ。
日本政府は、こうした(メチャメチャ)を、どのように考えているのか。
このままでは、一度、急速な、今までに例がないほどの速度で、円高が進み、そのあと日
本の(円)は、大爆発する。
大爆発して、日本中を、猛烈なハイパーインフレが襲う。
それこそ焼き肉一皿、1万円。
あるいは10万円。
そうなる。
あるいは(その時)は、すでに始まっているのかもしれない。
不気味。
想像するだけでも、ぞっとする。
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 11月 27日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子どもを伸ばすために】
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子どもを伸ばすには、どうしたらよいか。
それについて書いてみたい。
(まとまりのない文章で、すみません。)
++++++++++++++++++
●八つ当たり
脳みそというのは、器用なようであって、器用でない。
基本的には、不器用。
「自分ではこうしたい」と思っていても、脳のほうが、勝手に反応してしまうことがある。
その一つの例が、八つ当たり。
何かのことでいやなことがあったとする。
ムシャクシャする。
するとそのはけ口を、ほかのものや、人に向ける。
向けられた人こそ、えらい迷惑。
そういう心理状態を、心理学では、「置き換え」という言葉を使って説明する。
しかしそれも道理。
一度、ある種のホルモン、たとえばサイトカインなどが分泌されると、
それは脳内全体に作用する。
部分的に、ここだけに作用して……というわけには、いかない。
だから一度、サイトカインが分泌されると、いや~な気分は、脳全体に影響を与える。
それが八つ当たりの原因ということになる。
が、その八つ当たりをコントロールするのが、理性。
つまり前頭連合野の働きということになる。
が、この前頭連合野の働きは、あまりアテにならない。
個人差も大きい。
つまり本能的な脳の働きの前では、理性の力といっても、風の中で揺れる
ローソクの光のようなもの。
とくに私のばあいは、そうである。
何かにつけて、すぐ八つ当たりしてしまう。
では、どうすればよいのか。
●アクセルとブレーキ
少し話が脱線するが、許してほしい。
心理的反応の大きさは、脳に刻み込まれたトラウマ(心的外傷)の大きさによる。
トラウマが大きければ大きいほど、心理的反応は、大きくなる。
私のばあいも、ふつうの人にとっては何でもないことでも、あること(人)になると、
反応が過剰になることがある。
たとえば「酒」。
私は酒のにおいが、嫌い。
酒臭い人も、嫌い。
ふつうの人にとっては、何でもないにおいでも、私にとっては、そうでない。
理由は、わかっている。
私の父は、酒癖が悪く、酒を飲むたびに、家の中で暴れたり、大声を出して叫んだ。
それがトラウマになっている。
若いときほどではないが、いまだに、その残像が残っている。
そういう自分を観察してみて、気がついたことがある。
「置き換え」も、そのときの気分によって、左右される、と。
たとえば親しい友人が、酒を飲んだとする。
そういうときは、ほとんど気にならない。
ワイフの酒も気にならない。
しかし電車に乗り込んできたような人が、酒臭かったりすると、ムッとする。
あるいは日ごろ、不愉快に思っている人が、酒臭かったりする。
そういうときも、ムッとする。
条件反射論で考えるなら、こういうことはないはず。
どの人に対しても、反応は平等に起きるはず。
つまり条件反射も、別の何かによって、影響を受けることになる。
なぜだろう?
そこで自分を観察してみる。
同じ条件反射なのに、強弱はどうして起こるのか、と。
このことは、少し汚い話で恐縮だが、「便」で考えてみるとわかる。
あのソクラテスは、「自分の糞(おならではない)は、いいにおい」と言った。
しかし便というのは、みな、同じようなもの。
同じように、においも、人によってそれほど、違わない。
が、どうしてか、自分のおなら(便ではない)は、よいにおいがする。
他人のは、そうでない。
そういうとき、頭の中でこんな反応が起きるのが、わかる。
一度は、臭いと思うが、それを発展的に(?)、「臭い」と思うときもあれば、
「臭くない」と、否定的に(?)、思うときがある。
他人のものであれば、発展的に、「臭い」と思う。
自分のものであれば、(ワイフのも、そうだが)、「臭くない」と思う。
つまりアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかのちがいが、起きる。
その作用が、そのあとの心理作用に、影響を与える(?)。
脳のどこかに、そういうメカニズムがあるらしい。
●潜在意識
児童心理学の世界には、「好子」「嫌子」という言葉がある。
同じことなのに、それを前向きにする子どもがいる。
一方、それをいやがり、逃げ腰になる子どもも、いる。
こうした現象を、「好子」「嫌子」という言葉を使って説明する。
これもアクセルとブレーキに似ている。
可能性として考えられるのは、表の意識が、裏の意識、つまり潜在意識に
操られているということ。
そのことによいイメージをもっていると、そのイメージが、アクセルとなって働く。
悪いイメージをもっていると、ブレーキとなって働く。
たまたま今日も、年中児の男の子に、簡単な文章を読ませようとした。
そのときのこと。
その子どもは、その文章から目をそらし、悲しそうな目つきで、私の顔をじっと見つめた。
明らかに拒否反応である。
文字に対して、どこかで悪いイメージをもってしまったらしい。
それがブレーキとなって働いた。
そこで何とかその子どもに、その文章を読ませた。
少しずつ私が読み、それを復唱させた。
文字などはスラスラと書くので、その程度の文章が読めないということはない。
で、読んだあと、みなの前でほめ、そしてみなに、手を叩かせた。
とたん、表情がぱっと輝いた。
で、もう一度、レッスンの終わるころ、その男の子に同じ文章を読ませた。
今度は、大きな声で読んだ。
今度は、アクセルが働いた。
●イメージ・トレーニング
こうして考えてみると、条件反射をコントロールするのは、実は理性(=前頭
連合野)ではなく、潜在意識ということになる。
あるいは潜在意識のほうが、パワー的には、前頭連合野より強力ということになる。
こうして生まれた指導法が、イメージ・トレーニング法ということになる。
これは航空大学校に通っていたころの三男から学んだ方法である。
パイロットの卵というのは、訓練の過程で、いつもイメージ・トレーニング法を
使うという。
簡単な例では、たとえば頭の中に飛行機を思い浮かべ、その飛行機が横風を
受けて、流されていく様子など。
そういうイメージを描きながら、自分はどう飛ぶべきかを、頭の中でトレーニング
する。
私も幼児教室で、このイメージ・トレーニン法を多用している。
たとえば、私が何を言っても、「やりたい!」と子どもたちに言わせる。
大声で言わせるのが、コツ。
「お手伝いをしたいか」「やりたい!」
「ひらがなの勉強をしたいか」「やりたい!」
「お母さんを助けたいか」「やりたい!」と。
(「YES!」「NO!」と言わせるときもある。
「いやだア!」と大声で連呼させるときもある。)
反対に、「いやだ!」と言わせるときは、こうする。
「ゴキブリの天ぷらを食べたいか」「いやだア!」
「ミミズのラーメンを食べたいか」「いやだア!」
「ねずみのウンチのから揚げを食べたいか」「いやだア!」と。
こうしてはずみをつけたあと、少しずつ、内容を現実に近づけていく。
「タバコを吸ってみるか」「いやだア!」
「ちょっとおじさんと、遊びに行かないか」「いやだア!」
「いいところへ連れていってやるから、車に乗ってよ」「いやだア!」と。
(実際の指導風景は、YOUTUBEのところどころに、収録してある。
興味のある人は、そちらを見てほしい※。)
●トラウマつぶし
こうして子どもたちの脳の中に、前向きな潜在意識を作っていく。
同時に、それを自分自身に応用してみる。
何かのトラウマがあったとしても、(もちろんそれが何であるかを、先に
知らなければならないが……)、そのトラウマをつぶす。
これを私は勝手に、「トラウマつぶし」と呼んでいる。
たとえば私は、幼稚園に勤め始めたころ、できの悪い子どもが苦手だった。
そういう子どもに接すると、そばにいるだけでイライラしたこともある。
しかしそれでは仕事にならない。
数か月や半年は、ごまかすことはできても、そこまで。
そのうち子どものほうが、「林先生は嫌い」とか、「幼稚園へ行きたくない」とか
言い出す。
そこで私は、(実のところ、5~7年もたってから、それに気づいたのだが)、
初対面のとき、「この子はいい子だ」と、自分をだますようにした。
「この子はすばらしい」「この子は伸びる」と。
それ以後、見違えるほど、子どもたちの表情が明るくなったのを覚えている。
教えるのも楽になった。
で、今でも、そうだ。
……というより、今は、自然な形でそれができる。
だから私が教えている子どもは、例外なく、どの子どもも、表情が明るい。
(表情が明るい子どもにするのが目的だから、当然のことだが……。)
その様子も、YOUTUBEに収録してあるので、ぜひ、見てほしい。
反対に、その子どもの中に、何らかのトラウマを見つけたら、この方法で
つぶす。
先に、文字に対して拒否反応を示した子どもについて書いた。
レッスンが終わったとき、母親には、こう言って指導した。
「あとは、家で、おおげさにほめてあげてください。
じょうずに読めたね。
お母さんが、うれしかったと言うだけで、効果があります。
お父さんの前でそれを言うと、もっと効果的です」と。
子どもを伸ばす、本当の力は、子ども自身の内部にある。
その内部を、教育する。
「それが幼児教育」とまでは断言できないが、ここに書いたことはまちがっていない。
あとは、子ども自身が本来的にもつ力で、伸びていく。
「子どもを伸ばすには」というテーマで書いたつもりだが、何ともまとまりのない
原稿になってしまった。
切り口をまちがえた。
八つ当たりから、話を始めたのが、まずかった。
ボツにしようかと考えたが、このまま発表する。
ごめんなさい!
(注※:YOUTUBEへは、私のHPのトップページより、「BW公開教室」へ。)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●映画『沈まぬ太陽』
静岡県では、今日、参議院議員の補欠選挙がある。
その投票に行く途中で、この文章を書いている。
(もちろん車の中で……。)
が、道路が、日曜日ということもあって、大渋滞。
少しイライラしていたら、ワイフが、「このまま映画に行かない?」と。
こういうとき、夫は、妻に従うのがよいそうだ。
先日買った雑誌(「プレジデント」)に、そう書いてあった。
熟年離婚の危機はかろうじてかわしたが、安全圏に入ったわけではない。
「時間的には、『沈まぬ太陽』がいいわ」ということで、そのまま劇場へ。
投票は、劇場からの帰りにすますことにした。
●日本映画
日本映画のつまらない点は、自然ぽさがないところ。
役者の個性を利用するというよりは、無理な役作りをするところにある。
知性の感じさせないような人が、科学者の役をしたり、スケベそうな男が、
正義を説いたり……。
その(無理)が、映画を、つまらないものにする。
先日も、「火TENの城」というのを見てきたが、途中で出てきてしまった。
ああいう(できすぎた映画)を見ていると、かえって不愉快になる。
何もかも、頭の中で先に予想ができてしまう。
「このつぎは、こうなるぞ」と。
そのとおりに、役者が演じ、ストーリーが運ぶ。
だからおもしろくない。
(この間、『沈まぬ太陽』を見た。長い映画だった。)
●『沈まぬ太陽』
主演の渡辺腱(父親役)と、名前は知らないが、息子役の男優。
この2人の演技が、きわだって光った。
よかった。
あとの俳優は、率直に言って、見るに耐えないというか、「これが演技です」
というような演技。
つまらなかった。
たぶん、監督の演技指導のままに演技していたのだろう。
語り方はもちろん、視線のはずし方まで、みな、同じだった。
映画を見れば、どこの航空会社がモデルになっているかは、一目瞭然。
「よく、あの会社が、こんな映画を許可したね」と、何度も、ワイフと言いあう。
最後の結末がさわやかだったからよかったが、もし醜いまま終わっていたら、
訴訟問題になっていたかも。
時期が時期だけに、あの会社にとっては、たいへんまずい。
現在、経営再建中。
内容的には、シリアスな社会派映画を見た感じ。
私も若いとき、M物産という会社にいた。
そういう立場で言うと、「現場は、あんなものではない」というのが、私の感想。
もっと生々しく、毒々しい。
それに日本の映画は、どうしてこうまでお説教がましいのだろう?
お金を出して、劇場まで足を運ぶのだから、もう少しサービス精神を旺盛にしてほしい。
つまり私たちを、楽しませてほしい。
ときに安っぽい論理で、人生観を語られたりすると、その場でシラケてしまう。
見終わったとき、ワイフに私も、こう言った。
「早く、M物産をやめて、よかった」と。
もしあのままあの会社で働いていたら、今ごろは、死んでいるか、身も心も、
ズタズタにされ、私は廃人になっていたはず。
同時に、以前書いた原稿を思い出した。
『休息を求めて、疲れる』(イギリスの格言)という原稿である。
いくつか書いたので、そのまま掲載する。
+++++++++++++++++++++
●休息を求めて疲れる(ロマンを求めて)
いまだに悪夢と言えば、修学旅行のときのものだ。集合時刻が近づく。私は大部屋で寝
ている。皆はすでにカバンを整理して外へ出ようとしている。私は自分の靴がどこにある
かもわからない。トイレはどこだ。まだ朝食も食べていない……。記憶にはないが、多分
私は子どものころ、旅行でそういう思いをしたのだろう。いや、それ以上に私たち団塊の
世代は、どんなことでも、乗り遅れるのを何よりも恐れていた。
前年までのクラスは五クラス。しかし私たちの学年からは、一一クラス。しかも一クラ
ス、五五人平均。粗製濫造とはまさにこのことで、私はサッカーにしても、一チーム、二
五人で戦うものだとばかり思っていた。
確かに私たちの世代は、いつもうしろから何かに押されていた。立ち止まっただけで、
言いようのない不安感に襲われた。はげしい競争。そしてまた競争。こうしてあの会社人
間、仕事人間は生まれたが、そうであってはいけないと思っていても、休暇で一週間も休
みが続いたりすると、それだけで申し訳ない気持ちになる。
私が見る悪夢は、その延長線上にあるにすぎない。「日本は資源のない国だ」「貿易で国を
支えるしかない」「欧米に追いつけ、追い越せ」「立派な社会人となれ」などなど。私たち
はこういう言葉を、毎日のように、それこそ耳が痛くなるほど聞かされた。結果、今のよ
うな日本がなったが、そこでまたふと立ち止まってみると、やはり言いようのない不安感
に襲われてしまう。
そうそうイギリスの格言に、「休息を求めて疲れる」というのがある。「いつか楽になろ
う、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という
意味だが、イギリスでは、愚かな生きかたの代名詞にもなっている。オーストラリアの友
人も、何かのことで私があせっていると、「ヒロシ、気楽にせよ。休息を求めて疲れるな」
と、よく言ってくれた。しかし今になっても、その「休息」はどこにもない。なぜだろう
か。
貯金といっても、底が知れている。退職金などもちろんないが、年金にしても、本当に
もらえるかどうかわからなくなってきた。息子たちにしても、私が世話をすることはあっ
ても、その反対は、まず期待できない。期待もしていない。私はこうして死ぬまで働くし
かない。
話は変わるが私の友人の弟は、四二歳の若さで会社勤めをやめ、退職金をもってマレー
シアへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買って、航海に出たという。「今ごろね、あい
つね、マレーシアで知り合ったフランス人女性と二人で、インド洋を航海しているはずで
す」と。その友人は笑って話してくれたが、私には夢のような話だ。いや、夢ではない。
私にだってできる。いつかはできる。それをしなければ、いつまでたっても、あの悪夢か
ら解放されることはない。
今回は私たち団塊の世代の、挫折とロマンを聞いてもらいたくて筆をとった。この中に
一つの教育論を感じとっていただければ幸いである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●今を生きる子育て論
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、
結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはい
けません」と教えている。
たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。
同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。
そして大学は、よき社会人になるため、と。
こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここで
いう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自
分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になってい
るから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。
「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。
ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽ら
ずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高
校生が自殺に追いこまれるという映画である。
この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置に
ある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あな
たの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未
来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」
の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。
子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。
もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」と
いうことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、その
つどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。
たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。
それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に
追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」
と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。
ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違い
を感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないので
はないか……と、私は心配する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「休息を求めて疲れる」。
イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。
ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、
と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。
私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかっ
た。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味がある
というのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。
だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100
万円は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなけれ
ばならないのか。
未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。
幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学
は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることは
できない。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。
あえて言えば、私にもこんな経験がある。
学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に
行こう」と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれる
ものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。
先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、そ
の気力は消えうせる……?
大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 映画「沈まぬ太陽」 休息を求めて疲
れる 休息を求めて、疲れる 今を生きる子育て論)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●パソコン
パソコンの世界では、つぎつぎと新製品が発売になる。
そのたびに、機能は向上し、デザインもよくなる。
そのたびに、新しいのが欲しくなる。
こういうのをビョーキという。
ドーパミンの分泌がさかんになる。
線条体で条件反射が起きる。
自分でもそれがよくわかっている。
わかっているが、それがなくなったら、私もおしまい。
つまり「欲しい」と思ううちが、花。
たとえばこの2か月ほど、政治に関して、興味をなくしてしまった。
どうでもよくなってしまった。
とくに先の衆議院議員選挙以来、気が抜けてしまった。
が、これではいけない。
……というより、あちこちのサイトを見ていたら、私の原稿が、
いくつかの政治団体で、紹介されているのを知った。
羽田空港問題、成田空港問題について書いた原稿も、それぞれのサイトで、
紹介されているのを知った。
(ついでに旅行記も、紹介されていた。)
それがよい刺激になった。
久しぶりに、政治問題を考えたくなった。
で、最近の話題は、何と言っても、鳩山首相の「東アジア共同体構想」。
ASEANの各国を、日本のワクの中に取り込もうという構想である。
しかしこんな構想は、最初から、うまくいくはずがない。
失敗するに決まっている。
だいたい、「ASEANプラス3」って、何?
「3」というのは、「日本、中国、韓国」の3か国をいう。
3か国といっても、呉越同舟というか、水と油と砂が混ざっているようなもの。
中国を連れていったら、まとまる話もまとまらなくなる。
もともとASEANというのは、中国の脅威に対抗して始まったもの。
韓国だって、どんな下心をもっているか、わかったものではない。
……とまあ、政治問題について書くときは、かなりの(怒りのエネルギー)を
要する。
そのエネルギーがないと、書いていても、つづかない。
途中で、どうでもよくなってしまう。
しかしこのところ、気力が弱くなった。
(怒りのエネルギー)が、あまりわいてこない。
平和というか、平穏というか……。
たとえて言うなら、おいしいごちそうを、腹いっぱい食べたあとのような感じ。
そこで、あえて(怒りのエネルギー)を奮い立たせる。
カーッ!
あのね、鳩山首相。
アメリカを日本から離反させるのは、まずい。
なぜ、この時期に、脱・アメリカ追従外交なの?
一方、どうして今、日本は中国に擦り寄らなければならないの?
日本は、自由主義貿易陣営の一員ではなかったの?
いろいろと問題はあるが、だからといって今、社会主義体制を求めているわけではない。
それになぜ、鳩山首相は、こうも急ぐの?
こうした日本の命運を左右するような外交問題は、じっくりと基盤を固めてからする。
それが常識。
政権を奪ったとたん、「東アジア共同体構想」は、ない。
今、鳩山首相、あなたがすべきことは、官僚政治をつぶすこと。
やりたい放題のことをしている官僚たちに、ストップをかけること。
民主主義を、国民の手に戻すこと。
その本命を忘れて、大きなアドバルーンばかりあげて、どうするの?
こんな稚拙な外交を繰り返していると、自民党が喜ぶだけ。
ついでに中国や韓国が喜ぶだけ。
K国だって、喜ぶ。
怒る前に、何だか、日本の政治が心配になってきた。
もう少しすると、あのASO前首相が、「それ、見たことか!」と、声をあげ始めるかも。
●10月25日の終わりに……
いろいろ考える。
(どう生きるか?)vs(どう死ぬか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(まだがんばれる)vs(だいじょうぶだろうか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(年齢など気にしない)vs(あと10年かな?)。
この2つが、交互の私の心の中で闘う。
おとといの夜も、深夜劇場へ行く途中、足の不自由な人を見かけた。
年齢は私より少し若かった。
50代の半ばごろの人か。
背も高く、ほっそりとした人だった。
脳卒中?
懸命に一本杖で身を支えながら、ゆっくりと歩いていた。
私はその人をよけながら、エレベーターの中に身を隠した。
「明日はわが身?」。
明日はだいじょうぶでも、あさってはわからない。
あさってはだいじょうぶでも、そのつぎの日は、わからない。
1年の命を10年に延ばして、何になる?
10年の命を20年に延ばして、何になる?
明日は明日。
明日は、確実に、そこにやってくる。
たまたまその男の人は、そこにいる。
たまたま私は、ここにいる。
ちがいなど、どこにもない。
ゆいいつのちがいは、私は私の目を通して、その男の人を見ていること。
その男の人は、その男の人の目を通して、私を見ていること。
私がその男の人で、その男の人が私であっても、何も不思議でない。
しかし……。
私は、その苦痛に耐えられるだろうか。
その男の人の目を通して、私を見る私に、耐えられるだろうか。
その自信は、まったくない。
今日の健康など、明日は、あてにならない。
明日はよくても、あさっては、あてにならない。
そう思いながら、ウォーキング・マシーンの上で、歯をくいしばる。
「あと、10分……、あと5分……」と。
私にあるのは、「たぶん、明日もだいじょうぶだろう」という小さな希望だけ。
その希望に、自分をつなげて、今日という1日を終える。
(少し、今夜は暗いかな……?)
みなさん、今日も、楽しい1日をありがとう!
今日は、朝、8時まで寝ていました。
午後に、山荘へ行き、昼寝。
帰りに、パソコンショップで、WINDOW7を見て、
それから書斎へ。
夕食まで、1時間ほど、YOUTUBEで音楽を聴きました。
明日もがんばります!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
【寿命論】
++++++++++++++++++
●労働寿命
「平均寿命」という言葉がある。
「健康寿命」という言葉もある。
健康寿命というのは、健康でいられる年齢をいう。
ふつう(平均寿命)-10年が、健康寿命
と言われている。
だれしも、ポックリと死ぬわけではない。
晩年の10年は、病気との闘いということになる。
それに対して、「労働寿命」という言葉を
私は考えた。
仕事ができる年齢をいう。
これには個人差があるが、おおよそ(健康寿命)-
5年が、ひとつの目安になる。
これで計算すると、現在、男性の平均寿命は、
79歳、女性は86歳(厚生労働省)
だから……、
(健康寿命)…男性、69歳、女性、76歳
(労働寿命)…男性、64歳、女性、71歳
ということになる。
●記憶寿命
が、最近、私は、こんなことを考えるようになった。
人は死ねば、うまくいけば、墓石になれる。
最近は、墓石すらも作らない人が、ふえている。
が、問題は、そのあと。
先日も、車で郊外を走っていたら、小さな墓地を
見つけた。
田舎へ行けば行くほど、立派な墓地が目につく。
が、そこはちがった。
墓石も風化し、文字も読めないほどになっていた。
それを見たときのこと、ふと、こう思った。
「人は、いつまでみなの記憶に残ることができるか」と。
私たちは、死ねば、やがて忘れ去られる。
私の祖父母にしても、私たちの代の者が死ねば、
もうその名前を語られることすら、ないだろう。
父や母にしても、そうだ。
仏事の世界には、33回忌というのがある。
50回忌、100回忌というのも、ある。
しかしそこまでしてもらえる人は、例外中の例外。
ふつう、3回忌を最後に、死んだ人は、急速に
人々の記憶から消える。
そこで私が考えたのが、「記憶寿命」。
●消えていく私たち
たとえば私はこうして、文章にして日々の(思い)
を書いている。
書籍(本)にしても、寿命は、10年前後。
インターネットだったら、もっと短い(?)。
教育の世界で、昔、一世を風靡した人に、
「吉岡たすく」という人がいた。
10年ほど前に、亡くなった。
が、すでに今の若い母親たちは、その名前すら知らない。
ネットで検索してみたが、現在では、1万1000件。
今でも生きていたら、検索件数は、100万件を軽く
超えていただろう。
それくらい知名度の高い人だった。
が、やがて消えていく。
もちろん、私も、あなたも消えていく。
その寿命が、「記憶寿命」ということになる。
●寿命を延ばす
私たちは死んだあと、息子たちや孫たちも含めて、
何年ほど、彼らの記憶に残るだろうか。
残れることができるだろうか。
私自身の経験から言えば、50年を超えることは
まずない。
残ったとしても、ほんの一部の子孫にすぎない。
あとは痕跡もなく、消えていく。
ちょうど、私が見た、あの墓石のように。
で、自分がしていることを振り返る。
何か作品のようなものがあれば、記憶寿命は延びる
かもしれない。
作家や画家などは、そうして記憶寿命を延ばす
ことができる。
しかしそれにしても、あくまでも(結果)。
結果として残るだけ。
私にしても、「今を生きるために」、ものを書いている。
死んだ後のことは、ほとんど考えていない。
人々に支持されれば、記憶寿命は延びる。
支持されなければ、そのまま消える。
私のHPにしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
プロバイダーへの更新料を払わなければ、そのまま消える。
無料のHPサービス会社にしても、「~~か月、更新が
なければ、削除します」というのが、多い。
長くて、1年。
10年を超えることは、まず、ない。
今、こうして書いている文章にしても、私が死ねば、
1年足らずで消える。
(残さなければならないような文章でもないが……。)
だれかが引用してくれれば、その人のHPや、BLOG
で生き残ることはできるかもしれない。
しかしその人も、私と同じ運命をたどる。
こうして、私は、今、こう考える。
今のように仕事ができるのも、あと5年?
生きていられるのも、あと15年?
そのあと、30年もすれば、跡形もなく、消える?
それで私の「命」はおしまい。
●「形」から「心」
……とまあ、ネガティブに考えれば、お先真っ暗
ということになる。
しかしこれは私のやり方ではない。
そこでこう言って自分に言い聞かせる。
私の肉体、文章も含めて、「形」は消える。
それはもう事実。
が、私の書いた文章を読んだ人の中には、何かが残る。
その残ったものが、別の形になる。
別の形になったものが、こうして順送りに、未来に
つながっていく。
もちろんそのときは、「はやし浩司」の名前は、
どこにもない。
しかし、それでもよいのではないか、と。
大切なのは、(形)ではなく、(心)。
あの墓石の人にしても、そうだ。
先にも書いたように、今では、その名前すら読めない。
しかしその子孫の人は、その近くにも住んでいるはず。
そして何らかの形で、その人の(心)を残しているはず。
それでいい、と。
しかしそれにしても、この一抹のさみしさは、
いったい、どこから来るのか?
「生きる」ということは、そういうことであって
よいのか?
「死ぬ」ということは、そういうことであって
よいのか?
何かもっと別の考え方があるような気がする。
しかし今の私には、まだそれがわからない。
●補記
ついでに書く。
若いときには、その時計の音は聞こえない。
しかし60歳も過ぎると、その音が聞こえてくる。
「寿命時計」という時計の音である。
カチコチカチコチ……、と。
その心境は、時計を飲み込んだワニに追いかけられる、
フック船長(ピーターパン)のそれに似ている。
時計の音におびえて、逃げ回る……。
一説によると、作者のジェームズ・バリーは、
それによって、時間に追われて仕事をする現代人を
象徴したという。
しかしジェームズ・バリーがそこまで考えて
いたかどうかは別として、こうも言える。
つまりあの時計は、刻々と時間が短くなっていく
老人の心境を象徴している、と。
今の、私がそうだ。
もっともそういう心理状態を、「強迫観念」という。
心理学の世界では、そういう言葉を使って、説明する。
何かにおいまくられているような心理状態をいう。
その強迫観念ほどおおげさではないにしても、
しかしそれに近い。
「生きるということは、時間との勝負」。
そう考えることも多い。
たとえば私は、満65歳を過ぎたら、再度、
宗教論に挑戦するつもりでいる。
宗教論といっても、カルト教団との戦いをいう。
「どうして65歳?」と思う人もいるかも
しれない。
しかしそれまでは、今しばらく、静かにしていたい。
この世界でカルト教団を相手に、宗教論を書く
ということは、命がけ。
周囲が騒然としてくる。
それを覚悟で書くことができるのは、65歳と
いうことになる。
何とかそれまで脳みそが、健康であればよい。
肉体の方にも、がんばってほしい。
だから「時間との勝負」ということになる。
私が「寿命」という言葉にこだわるのは、
ここにある。
+++++++++++++++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 寿命論 健康寿命 労働寿命 記憶寿命 はやし浩司 寿命 091
026)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●A氏の再婚問題
++++++++++++++++++++
私の知人に、再婚問題で苦労している人がいる。
現在、年齢は、60歳。
自営業。
娘は2人いたが、嫁いで、今は独り暮らし。
妻は、15年ほど前、事故で死亡。
近所の人の話では、自殺したという説もある。
++++++++++++++++++++
●再婚の条件
その知人のばあい、50歳を過ぎるころから、再婚の話が、たびたび、もちあがった。
しかし条件がきびしかった。
その男性を、A氏としておく。
A氏の求める女性は、(1)40代(自分の年齢より、10~15歳、若いこと)。
つぎに(2)できれば初婚。再婚でも、子どものない人、ということだった。
しかしこんな条件で、再婚に応ずる女性は、い・な・い!
女性の立場で考えてみれば、それがわかる。
A氏は、自分の老後を心配して、再婚を考えている。
つまり妻を、老後の家政婦か介護士か、その程度にしか考えていない。
さらに具体的な記事が、『プレジデント』(09年10月号別冊)にも載っていた。
「こんな男は結婚できない」というタイトルで、5つの項目が並べられている。
(1)会社の地位や肩書にのみ、存在価値を見だす。
(2)己の年齢を顧みず、10歳以上若い女性に固執。
(3)介護や家事要員としての妻を求める。
(4)服装や見かけに無頓着で、所作にも若々しさがない。
(5)離婚の被害者意識にとらわれ、前妻の悪口ばかり言う。
A氏のケースでは、このうちの(2)と(3)に該当する。
●家父長意識
さらにA氏について言えば、最大の問題点は、家父長意識が強すぎるという点。
「夫が上で、妻が下」という、封建時代の亡霊をそのまま引きずっている。
それが問題。
A氏の母親は、7、8年前に他界。
近所でも評判の、気の強い女性だった。
そのため嫁・姑戦争が、絶えなかった。
が、今でもA氏の愛唱歌は、森進一の『おふくろさん』。
「母の悪口を言うヤツは、許さない」も、口癖。
あなたが女性なら、こんな男性との結婚を考えるだろうか。
雑誌「プレジデント」は、こうも書いている。
「(最低でも)年収が800~1000万円。さらにいくつかのハードルがある」と。
こうなってくると、再婚は、ますますむずかしい。
が、A氏にはそれがわからない。
加齢とともに、人は腰が低くなるものだが、A氏は逆。
ますます威張りだしている。
家父長意識というのは、わかりやすく言えば、上下意識をいう。
娘たちの嫁ぎ先の両親が、自分より若いこともある。
そのため、盆暮れのつけ届けを、自分では出したこともないのに、相手からそれが
届かないと、「無礼だ」「失敬だ」と言って、怒る。
これでは娘たちでさえ、実家に寄りつかなくなる。
……ということで、再婚話が、現れては消える。
それを繰り返している。
が、これは私たちの世代の男性にとっては、切実な問題。
まさに「明日は我が身かな」。
私「ぼくは、お前が死んだら、さっさと再婚するよ」
ワ「そうね、あなたは、ひとりでは生きられない人だから……」
私「でもね、相手はいないよ」
ワ「そうね、62歳だからね」
私「だから、決めた!」
ワ「何を?」
私「どんなことがあっても、ぼくは、お前より、先に死ぬ」
ワ「そうね、それしかないわよね」と。
しかしどうすれば、自分やワイフの寿命を調整できるのか。
人間というのは、因果な動物。
生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
生きたいと思っても、それができない人もいれば、死にたいと思っても、
それができない人もいる。
50代以上の男性の再婚には、そういう問題も隠されている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 再婚問題 男性の再婚 50代の再婚)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●小さな別れ、2つ
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今日、小さな別れが、2つあった。
ひとつは、山鳩の雛(ひな)が、どこかへ行ってしまったこと。
もうひとつは、もっとも愛用していた、小型のパソコンを、
生徒の1人にあげてしまったこと。
しんみりとした、さみしさが、そのつど、スーッと心の中を駆け抜けた。
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●山鳩
私の庭に野生の山鳩が住みつくようになって、もう20年以上になる。
もっと長いかもしれない。
私は、ほとんど毎日、庭に餌をまいている。
最近では、私たちの姿を見ても、逃げない。
ときに私たちの数メートル先で、餌を食べることもある。
その山鳩。
ときどき「ドバト」と書いたが、これはまちがいだそうだ。
ドバトというのは、街の中で飛び交う、あの鳩をいう。
私の家に来るのは、山鳩。
別名、キジ鳩とも言うらしい。
たいへん警戒心の強い鳩で、人間には慣れないと言われている。
で、その山鳩が、毎年、私の庭にある木の上で、巣作りをし、雛を育てる。
が、この5、6年、リスが出没するようになった。
そのせいか、餌は食べにくるが、巣作りは別のところでするようになった。
今年も、そうだった。
雛が庭にやってくるまで、どこでどのようにして雛を育てたか、私たちは知らない。
が、ちょうど1週間ほど前、親鳥たちが雛を2羽連れて、私の家の庭にやってきた。
私たちは、大歓迎した。
いつもより餌をたくさんまいた。
犬のハナには、鳩を襲わないよう、しっかりと言いつけた。
ハナには、それがわかったらしい。
山鳩たちが庭へ来ると、自分は、犬小屋の中に身を潜めた。
ところで、ふつう山鳩は、2個の卵をかえす。
ほかの山鳩のことは知らないが、私の家ではそうである。
その中で巣立つのは、1羽だけ。
いつもそうだ。
あとの1羽は、もう1羽に巣から追い出される。
追い出された雛は、地面に落ちて、やがて死ぬ。
もっともその段階で、追い出された雛を私たちが救いあげ、育ててやることがある。
毎年、1羽くらいは、そうしている。
が、今年は、珍しく、2羽の雛を連れてきた。
見ると、栗の木の枝に止まっていた。
尾羽がまだ伸びきっていなかった。
枝から枝へと、移動するのがやっとという雰囲気だった。
近くに兄貴格の雛がいたが、そちらはほぼ自由に、枝から枝へと、飛ぶことが
できた。
が、もう1羽は、枝の上でじっとしていた。
その雛に、数日前、私の手を近づけてみた。
いつもだと、それくらいの大きさでも、山鳩は逃げる。
が、その雛は逃げなかった。
私の指先に乗った。
うれしかった。
かわいかった。
それからというもの、毎朝起きると、いちばんに庭へ出て、その雛をさがした。
そのつどキーウィの木とか、栗の木に止まっていたが、だいたいそのあたりにいた。
数日も同じことを繰り返していると、雛は、私をこわがらなくなった。
喜んで指に止まるということはなかったが、指の上でも安心して、目を閉じたり、
羽をつくろったりした。
夜も仕事から帰ってくると、私は庭で、その雛をさがした。
それまでにワイフが雛の居場所を定めていてくれる。
そこを捜せばよかった。
が、今朝、10月26日の朝。
まだ薄暗いうちに起きて、庭に出てみた。
が、雛の姿は見えなかった。
昨夜もあちこちを捜してみたが、見えなかった。
つんとしたさみしさが、心の中をかけぬけた。
で、私はそのまま書斎へ。
いつもの日課をこなした。
それから数時間後。
朝食のとき。
ワイフに呼ばれて、台所へ行くと、ワイフが私の顔を見るやいなや、こう言った。
「いなくなってしまったわ」と。
もう一度、いそうな場所を捜してみたが、やはりいなかった。
「どこかへ行ってしまったみたい」「そうだな」と。
おかしなことだ。
私の息子たちが巣立ったときも、同じようなさみしさを覚えたが、まだその先には、
希望があった。
「いつか帰ってくるだろう」という希望である。
しかし山鳩の雛は、そうでない。
言い忘れたが、山鳩には、山鳩の縄張りのようなものがある。
たとえ自分が産み育てた雛でも、やがて自分の縄張りから追い出してしまう。
そんなわけで、一度巣立った雛は、まれに戻ってくることはあっても、そのまま
どこかへ行ってしまう。
二度と、私の庭に戻ってくることはない。
山鳩の習性というか、これは自然界のきびしい掟(おきて)でもある。
で、今日は一日中、小雨が降っていた。
私とワイフは、何度も、あの雛のことを心配した。
が、である。
午後になって、ちょうど仕事に出通うとするとき、庭に3羽の鳩がいるのが
わかった。
親鳥たちと、兄貴格のもう1羽の山鳩である。
それを見て、「いないか?」と声をかけると、ワイフが、「いないみたい」と。
それがその雛との別れだった。
親鳥たちは、兄貴格の1羽の雛にさえ、もう餌を与えようともしなかった。
自分たちの分だけを食べ終えると、そのまままたどこかへ飛んでいってしまった。
「うちへ来れば、ぼくが餌を食べさせてやるのに……」と、私はつぶやいた。
それが最後だった。
私は職場へと向かった。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
●古いパソコン
もうひとつの別れは、使い古した、愛用のパソコンを、生徒にあげたこと。
使い古したといっても、買ったときは、20数万円もしたパソコンである。
TOSHIBAのSS。
当時としては珍しい、モニターが10インチの超小型パソコンである。
そのときはうれしくて、毎日それをピカピカに磨いて、枕元に置いて寝た。
そのパソコンで、3冊ほど、本を書いた。
私にとっては、思いで深いパソコンである。
ほかにも当時使っていたパソコンが、4~5台残っていた。
が、そちらのほうは、あまり迷わず処分できた。
しかしそのパソコンだけは、処分できなかった。
外観はボロボロ。
が、キーボードの感触は忘れない。
今でも指先に、しっかりとそれが残っている。
で、今は、もっぱら……というより、2008年になってから発売された、
ミニ・パソコンを使っている。
価格はSSの6分の1程度だが、性能は、最近のミニ・パソコンのほうがダントツによい。
が、それでも、愛着というのは消しがたい。
そのミニ・パソコンを使っていたら、NY君(小4)が、「いいなあ、先生は
パソコンをたくさん、もっていて……」と。
「全部でいくつくらい持っている?」と聞いたので、「7台くらいかな」と、私が
答えたときのことだった。
私はその言葉に、ググーッときた。
つい数週間前には、今年の4月に買ったミニ・パソコンを、中3のOKさんに
あげたばかり。
内心では、あげようか・どうしようかと、大きく迷った。
しかし顔にはそれを出さないで、一通り、TOSHIBAのSSから、個人情報を
消した。
そのあと、NY君にこう言った。
「このパソコン、あげようか?」と。
とたんNY君は、目を輝かせた。
「いいのオ!」と。
私「ああ、でも、これではインターネットはできないよ。
ワープロとか、ゲームはできるけど……」
N「うん……」と。
こうして私は今日、TOSHIBAのSSを手放した。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
「これでいい」と、同時に、何度も、言い聞かせた。
長くつきあった友に、別れを告げたような気分だった。
……こうして今日、私は、2つの小さな別れを経験した。
小さな別れかもしれないが、心の奥までジンと響いた。
あとどれだけの人生か、私にはわからない。
が、一生、この2つの別れは忘れないだろう。
長調の二重奏。
ゆっくりとしたテンポの、やさしい曲。
この文章を書いている今でも、その音色が、心の中で響いている。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●迷い
私はよく迷う。
たとえばたった今も、こう迷った。
「こんなことをして、何になるのだろう」と。
YOUTUBEに、昨日の教室の様子を、UPLOADしたときのことだった。
しかしやるしかない。
笑いたい人がいたら、笑えばよい。
アホなことをしていると思う人がいたら、そう思えばよい。
そういう人にかぎって、自分では何もしない。
平凡は美徳かもしれないが、穴の中に引っ込んでいたら、何もできない。
何かをするためには、穴の中から出る。
私は私。
あとの判断は、他人に任せればよい。
つまらないものでれば、やがて消える。
そうでなければ、生き残る。
それを決めるのは、私ではない。
ただ言えることは、「これが私の人生」ということ。
だれの人生でもない。
私の人生。
迷いながら、そう言って自分に言い聞かせる。
言い忘れたが、消えたところで、どうということはない。
どうせみな、消えるのだから……。
●日本の「円」
日本政府は、「円」を、世界中にばらまいている。
ジャブジャブどころか、まるで……。
「ジャブジャブ」以上のジャブジャブ。
「ジャブジャブ」以上の言葉は、ない。
そのこともあって、円の為替レートが、メチャメチャ。
今、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、ふつうのホテルの一泊するだけでも、
日本円で、4~5万円はかかる。
ヨーロッパでもそれくらい。
外国のホテル代が高いのではない。
日本の(円)が、安い。
安いというより、価値がない。
価値がさがった。
今はまだよい。
日本の(円)は、かろうじてという状態だが、国際通貨として通用している。
世界中の人が、(円)を、ほしがっている。
しかしこんな状態は、いつまでもつづかない。
先日も、千葉市に住む息子を訪ねてみた。
市の中心部にあるホテルに泊まった。
一泊、2人で、1万4000円(食事なし)だった。
ほどほどの料金だった。
が、あたりを散歩してみて驚いた。
近くに焼き肉店があったが、どれも4000~5000円。
そんなメニューばかり!
関東地方は、物価が高い。
物価が高いというよりは、インフレがジワジワと進んでいる。
それは知っていた。
しかし千葉市までそうだったとは、知らなかった。
こうした流れは、やがてこの浜松市にも及んでくるはず。
時間の問題。
わかりやすく言えば、手持ちの資金の価値が、どんどんと目減りしているということ。
「貯金が500万円から1000万円になった」と喜んでいたら、実際の価値は、100
万円しかない。
そういう状況になりつつある。
本来ならレートを調整するために、円高に向かわねばならない。
オーストラリアのホテルでも、一泊、1万4000円程度で泊まれるようにならなければ
ならない。
が、もうメチャメチャ。
日本政府は、こうした(メチャメチャ)を、どのように考えているのか。
このままでは、一度、急速な、今までに例がないほどの速度で、円高が進み、そのあと日
本の(円)は、大爆発する。
大爆発して、日本中を、猛烈なハイパーインフレが襲う。
それこそ焼き肉一皿、1万円。
あるいは10万円。
そうなる。
あるいは(その時)は、すでに始まっているのかもしれない。
不気味。
想像するだけでも、ぞっとする。
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