【怒りのメカニズム】
「こうでありたい」という欲望。
「こうであってほしくない」という欲望。
「これがほしい」という欲望。
「私」であるがゆえに生まれる、もろもろの欲望。
これらを総称して、「エゴ」という。
そのエゴが何らかの形で抑圧されると、そのエゴを解放させようと、一気に
情緒は不安定になる。
知性や理性の、止め具がはずれる。
それが(怒り)という感情となって、爆発する。
つまり人がなぜ怒るかといえば、抑圧されたエゴを解放するため。
このメカニズムがわかれば、自分で自分の(怒り)をコントロールすることができる。
順に考えてみよう。
●自己のエゴ
エゴは、それが満たされないとき、さまざまな姿に形を変える。
心配、不安、不平、不満……。
それが臨界点を超えたとき、つまり、コントロールできなくなったとき、
ときとして、それは(怒り)となって爆発する。
が、もしこの段階で、エゴを自分でコントロールできれば、(怒り)は、
起きない。
エゴは、抑圧された状態のまま、見た目には静かになる。
●他者に向かう怒り
(怒り)には、つねに2つ方向性がある。
自分に向かう(怒り)と、他者に向かう(怒り)である。
しかし基本的には、(怒り)は、最初は自分に向かう。
まず(自分に向かう怒り)が始まり、それが(他者に向かう怒り)に変化する。
原因や理由が他者にあれば、(怒り)は、直接、他者に向かう。
が、そのばあいでも、他者を代償的に利用しているにすぎない。
●交通事故
簡単な例で考えてみよう。
たとえばあなたが運転をしていて、うしろから別の車に追突されたとする。
幸い怪我はなかったが、買ったばかりの新車に、大きな傷がついた。
こういうケースでは、あなたは追突した相手に、大きな(怒り)を覚える。
「君が、へたくそな運転をしていたからだ!」と。
しかしもしそのとき、あなたが運転していた車が、ボロボロのポンコツ車
だったとしたら、どうだろうか。
あるいは、あなたがたいへんな金持ちで、同じような車を、何百台も
もっていたとしたら、どうだろうか。
あるいは「車の傷など何でもない」と考えるタイプの人だったとしたら、
どうだろうか。
あなたの(怒り)は、あなたのエゴの状態に応じて、変化するにちがいない。
つまりまず(自分への怒り)が起こり、それが(他者への怒り)へと変化する。
「どうして大切な車に傷をつけてしまったのだ」と、まず自分への怒りが
始まる。
その怒りが限界を超えたとき、その怒りは、今度は、外に向かう。
「お前のせいで、私の車に傷がついた」と。
●エゴと怒り
ここが重要だから、もう一度、別の例で考えてみよう。
つまりエゴが強大であればあるほど、(怒り)もまた、強大なものとなる。
たとえば何か、インチキな商品を売りつけられたとしよう。
私も最近、そういう商品を売りつけられた。
「謎のUFO」というような商品だった。
販売店にビデオが用意されていて、それを見ると、UFOの模型が自由自在に、
空中を不思議な飛び方をしていた。
値段は、3000円。
で、家で箱を開けてみると、空を飛ぶといっても、細い糸でつりさげるだけの
インチキ商品だった。
言うなれば、手品のようなもの。
「ナーンダ」と思って、そのままで終わってしまった。
が、もしそれが3000万円だったとしたら、どうだろう。
「ナーンダ」で、すますことはできない。
3000円だったから、「ナーンダ」ですんだ。
3000万円だったら、「コノヤロー」となる。
このばあいも、まずだまされた自分に怒りを覚える。
額が小さいときは、「ナーンダ」ですますことができる。
しかし額が大きいときは、だまされた自分に腹が立つ。
「どうして私は、あんなバカなものを買ってしまったのだ」と。
そしてその怒りが臨界点を超えたとき、「どうしてあんなものを
私に売りつけたのだ」という怒りに変わる。
売りつけた相手に、怒りが向かう。
●死への怒り
ところで人が感ずる(怒り)のうち、最大のものは、(死)に対する
怒りということになる。
人は、死によって、すべてを失う。
すべてを奪われる。
財産や名誉や地位のみならず、肉体をも、だ。
最初、死を宣告されると、ほとんどの人は、混乱し、その混乱が一巡すると、
今度はげしい(怒り)を覚えるという。(「死の受容段階論」(キューブラー・ロス))。
このばあいの(怒り)も、「失いたくない」というエゴが、原点になっている。
●エゴとの闘い
(怒り)との闘いというのは、そんなわけで、自分の中に潜む(エゴ)との
闘いということになる。
さらに言えば、「私」との闘いということになる。
私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
もちろん私の生命というのも、ある。
そういったものが、さまざまな立場で、さまざまに形を変えて、エゴとなる。
そのエゴが、危険にさらされたとき、心配、不安、不平、不満となって姿を
現す。
●エゴの爆発
が、もしエゴを消すことができたら……。
消すのは無理としても、最小限にまで減らすことができたとしたら……。
(怒り)の内容も、変わってくるにちがいない。
最近、私はこんな経験をした。
書店で、ある育児本を読んでいたときのこと。
しばらく読んでいたら、頭の中が、カーッと熱くなるのを覚えた。
明らかに、私のパクリ本である。
あるいは私がHPなど書いたことを、ネタに使っていた。
巧みに内容を変えてはあるが、私にはそれがわかる。
たとえば「……チョークで、背中を落書きされた……」が、「……チョーク
で、かばんを落書きされた……」となっていた。
その上で、「いじめられっ子は、その分だけ、他人の心の痛みが理解できる
ようになる」と。
随所で、私の持論そのものを展開していた。
そのときの(怒り)が、まさに私の(エゴ)から発したものということになる。
(私の考え)(私の文書)(私のHP)と。
が、それも一巡すると、つまり「この世界は、こういうもの」と割り切ると、
怒りが、スーッと収まっていく。
実際には、そのとき、私はこう考えた。
「10回盗作されたら、新しい原稿を100回書けばいい」と。
そう自分に言って聞かせて、その怒りを乗り越えることができた。
●防衛機制
こうして心は自分の心の動揺を、自ら守ろうとする。
これを心理学の世界では、「防衛機制」という。
もともと人間の心は、不安定な状態に弱い。
長くそういう状態をつづけることができない。
心配、不安、不平、不満がつづくと、それを解消しようと、さまざまに心が働く。
というのも、そういう状態は、ものすごいエネルギーを消耗する。
その消耗に、人はそれほど長くは耐えられない。
そのため、心は自分で自分の心を防衛しようとする。
それが防衛機制と言われるもので、それらには、合理化、反動形成、同一視、
代償行動、逃避、退行、補償、投影、抑圧、置き換え、否認、知性化などがある。
この中のどれとは特定できないが、私は私なりのやり方で、エゴの爆発を、最小限に
抑えたことになる。
●無私
再び、死について考えてみたい。
死を宣告されると、最初、人は、はげしい怒りを覚えるという。
このことは先にも書いた。
中には、医師や家族に、その怒りをぶつける人もいるという。
このばあいも、「エゴ」があるから、(怒り)が起こる。
そこで話を一歩前に進めると、こういうことになる。
そのエゴが集合されたものが「私」であるとするなら、私から
「私」を取り除いていく。
かぎりなく、取り除いていく。
その結果、(怒り)の原因となる、エゴが消える。
たとえば(死)についても、「私」があるから、それを恐れる。
不安や心配を呼び起こす。
が、もし「私」がなければ、(死)についての考え方も、大きく変わってくる。
「無私」という考え方である。
「死は不条理なり」と説いた、あのサルトルも、最後は、「無の概念」という
言葉を口にする。
「死という最終的な限界状況を乗り越えるためには、無に帰するしかない」と。
この哲学は、釈迦の説いた「無」の思想に通ずる。
●現実世界では
私たちは生きている。
生きている以上、現実の世界の中で、他人とかかわっていかねばならない。
仕事もしなければならない。
納得できなくても、上司の意見には従わねばならない。
家族もいる。
子どももいる。
その過程で、他人との摩擦をつねに経験する。
実際問題として、生きている以上、「私」を消すことはできない。
そこで「妥協」という言葉が生まれる。
それについてはまた別の機会に考えてみたい。
ただ大切なことは、(怒り)は、常にその人の人間性の範囲で起こるということ。
人間性の低い人は、ささいなことで激怒し、心をわずらわす。
一方、人間性を高めれば高めるほど、私たちは(怒り)を、自分の心の
中で処理できるようになる。
かく言う私などは、今、死の宣告をされたら、取り乱し、ワーワーとわめき
散らすほうかもしれない。
情けないほど、私の人間性は低い。
それがわかっているから、今から努力するしかない。
少しでも無私の状態に近づき、そのときが来たら、静かにそれを受容したい。
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