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彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10月 9日号
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●つながり
++++++++++++++++++++
朝、パソコンを立ち上げる。
メールを読む。
つぎにHPやBLOGへの、アクセス数を
確認する。
ここまでで、5~10分前後。
そのあと世界のニュースに目を通す……。
このころになると、頭の中が少しずつ、動き
始める。
私は血圧が低いこともあって、朝が苦手。
濃いお茶を飲んで、眠気を取り去る。
……こうして私の1日は始まる。
思いついたことを、書き始める。
しかしそれは同時に、不安との闘いでもある。
いつも文を書きながら、「こんなもの、だれが
読んでくれるだろう?」と迷う。
この文にしても、そうだ。
読んでも意味のない、ただの駄文。
自分でも、それがよくわかる。
目の前に見えるのは、パソコンの画面だけ。
その画面に向かって、孤独な闘いがつづく。
++++++++++++++++++
●T県のNさん(母親)より
そんな中、T県のNさんより、メールが届いていた。
少し前、子どもの相談にのってあげた人である。
うれしかった。
それをそのまま紹介させてもらう。
『……先生に相談にのっていただいてから、三ヶ月近くが経ちました。今、長男はとても
落ち着いています。暴力もほとんどなくなりました。本当に感謝しています。あの時、勇
気を出して相談にのっていただいてよかった、としみじみ思います。
今、私はとても子育てが楽しくなりました。そして長男をとてもいとおしく思います。も
ちろん、まだまだ問題がすべて解決したわけではありません。学校も嫌いだし、勉強も嫌
い、そしてゲームで負ければ怒ります。他のお母さんから見たら、問題ばかりで自慢でき
るような息子ではないかもしれません。でも、私はそれでいいと思えるようになりました。
勉強については、あきらめました。宿題を必要最小限なんとか怒らずにやるようになった
ので、それでよしとすることにしました。ゲームで負けると相変わらず怒り出すのですが、
そっとしておくとすぐに気持ちを切り替えて遊べるようになりました。
そして、私が重い荷物を持っているときには、すかさず手助けしてくれるようになりまし
た!こうしたほんの少しの変化が、とてもうれしいのです。
昨日は次男のトイレトレーニングにかかりきりで、遠くから「早く宿題やってね」と
時々言っていたのですが、あとで長男に「なんでママは今日怒ってばかりいるの?」
と聞かれました。怒ってはいなかったのですが、言い方がきつかったのかもしれませ
ん。でもそれを冷静に聞き流し、あとで私にそうやって言えるなんて、私よりずっと
大人だと思いました。
でも、一番変わったのは私なんだと思います。いつも「許して忘れる」を心にとめて
過ごしていたら、自然と怒ったりしなくなりました。私が長男を追い詰めていたのか
もしれませんね。今でも、もちろん心配事はたくさんありますが、心の中で「頑張っ
て」とつぶやきながら、私は私で頑張っていこうと思っています。次男も保育園に入
り、私も仕事を探すつもりです。これからは、自分の時間を大切にしていきたいで
す。
ほんとうにありがとうございました。先生、これからもお身体に気をつけて、たくさ
んの人の力になってください。すばらしいお仕事をされていて、尊敬しています。また
いつか、相談をするかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします……』
●それでじゅうぶん
私はNさんを知らないし、仮にどこかですれちがっても、そのまま通り過ぎてしまう
だろう。
何かのことでまたメールをもらえば、そのときはそのときで、返事は書く。
しかしそこまで。
生涯、会うこともないだろうし、もちろん関係を深めるということもない。
が、私はそこに、何というか、人生の切なさを感じる。
またそれが人生なのかなと思ってしまう。
数日前も、伊豆を旅して、いろいろな人に出会った。
話もした。
たがいに笑ったりもした。
しかし、やはりそこまで。
私はその場を去り、ここへ戻ってきた。
が、だからといって、そういう出会いが無意味と言っているのではない。
その切なさがあるからこそ、私はまたつぎの切なさを求めて、人と出会い、
メールを交換し、旅に出る。
言い換えると、人生は、その切なさの集まり。
その切なさが、無数のドラマを作る。
そのドラマに意味がある。
今回も、Nさんは、私をさして、「尊敬しています」と書いてくれた。
が、私は、そんな人間ではない。
まったく、ちがう。
Nさんが実物の私を見たら、がっかりして、ひっくり返ってしまうだろう。
が、それでも、うれしい。
どうしてだろう?
いったいこの(うれしさ)は、どこから来るのか?
ちょうど窓の外には、T県の方角が見える。
澄んだ水色の秋の空。
「あの空の遠くに、Nさんは住んでいるのだろうな」と、ふと思う。
この光と分子の織りなす世界で、ほんの少しだけだが、私とNさんと、心がつながった。
人との(つながり)を感じた。
私にとっては、それでじゅうぶん。
私のしていることで、喜んでくれた人がいた。
私のしたことが、役にたった人がいた。
それ以上、私は何を望むことができるのか。
何を望んでいるのか。
さあ、今日もがんばろう。
そこでだれかが待っていてくれる。
書き忘れたが、「切ない」ということは、「さみしい」ということではない。
「虚しい」という意味でもない。
人間も、そこに命の限界を感ずるようになると、その(切なさ)を楽しむことが
できるようになる。
私がここにいて、生きていること自体に、切なさを感ずることもある。
Nさん、ありがとうございました。
今日は、よい1日になりそうです。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【生命から生命へ】(From Life to Life)
We live and die and repeat it again and again, conveying out Life to other all living
creatures and things together with our consciousness.(後日、要推敲)
++++++++++++++
あなたの生命は、ほかのありと
あらゆる生命とつながっている。
過去から未来へと、つながっている。
すべての植物から動物へと、つながっている。
それがわかれば、あなたは
もう孤独ではない。
もしあなたに「死」というものが
あるとするなら、それはあなたの
「意識」の死に、過ぎない。
もっと言えば、意識の連続性が、
途切れるに過ぎない。
だから、もしあなたが意識の連続性を、
あなたの肉体を超えて感ずることが
できたら、あなたには、「死」は
ないことになる。
++++++++++++++
●生物の連続性
人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルにまでばらばらになり、また
別の生物や無生物の中へと取りこまれていく。
と、同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、新しい肉体を作り、生きている。
こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている。
これを「生物の連続性」という。
●命
では、死んだらどうなるか。
が、基本的には、「死」は存在しない。
その人個人の意識は途絶えるが、生命は、
姿や形を変え、別の生物の中に取りこまれて
生きていく。
虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。
この連続性を総称して、「生命」という。
●意識
個人は、その人の意識によって特定される。
「私は・・・」というときの「私」である。
しかしその私にしても、肉体のほんの一部
でしかない。
もっと言えば、脳の中を走り回る、電気的
信号の一部でしかない。
だからといって、「私」に意味がないというのでは
ない。
私が書きたいのは、その逆。
この「私」があるから、そこから無数の
ドラマが生まれ、人間の生活を、潤い豊かなものに
する。
もし「私」がなかったら、私たち人間は、そこらに
生える雑草のような存在になってしまう。
●死
では、「死」とは何か?
言うまでもなく、意識の途切れをいう。
その人の意識が途切れたとき、「私」は消える。
言うなれば、パソコンの電源を切るようなもの。
そのときから、見ることも、聞くことも、
感ずることもできなくなる。
しかし先にも書いたように、それで生命が
途切れるわけではない。
生物の連続性の中で、つぎつぎと新しい生物の
中に、生命は取りこまれていく。
あなたが過去から現在に至るまで、取りこんで
きたように・・・。
●再生
そんなわけで、「生命」を、あなたという個人の
中だけに閉じこめておくのは、正しくない。
またそういう視点で、あなたという「私」を見ては
いけない。
もっと具体的に話してみよう。
脳も含めて、上は髪の毛から、下は、足の爪まで、
私たちは長くて1年足らずで、すべてが作り替えられる。
古い肉体は、つねに便となったりして、外に排出される。
が、それは自然界でつねにリサイクルされ、無数の
生物の、一部となって再生される。
もちろんあなた自身の一部として戻ってくることもある。
●破壊と再生
こうした破壊と再生の中で、連続性をもつものが
あるとすれば、それが意識ということになる。
脳の中で、意識は、古い細胞から新しい細胞へと、
つねに伝えられていく。
あなたが子どものころの記憶があるとしても、
子どものころの脳細胞が、残っているからではない。
そのころの脳細胞は、とっくの昔に破壊されている。
今、「子どものころの記憶がある」と思いこんでいるのは、
ごく最近再生された、脳細胞の中に伝えられた電気的
信号にすぎない。
●瞬間移動(転送)
映画『スタートレック』の中に、よく「転送」という
言葉が出てくる。
これはある一定の場所から、別の場所に、瞬時に
移動することをいう。
SF映画の世界でのことだから、まともに考えるのも
どうかと思うが、その転送について、こんな議論がある。
「転送されてきた人間は、もとの人間と言えるか」
という問題である。
原理は、こうだ。
まずあなたという人間を、分子レベルにまで、バラバラに
する。
そのバラバラになったあなたを、電磁波か何かの(波)に
乗せて、別の場所に転送する。
そしてその別の場所で、もとどおりに、組み立てなおす。
そこであなたはこう考える。
見た目には、もとの人間と同じだが、しかしもとの人間は
一度死んだはず、と。
新しく再生された人間は、あくまでもまったく別の人間。
つまり転送を10回繰りかえせば、あなたは10回
死に、10回再生されたことになる。
●破壊と再生
人間の肉体は、転送という劇的な変化ではないにしても、
1年単位という時間の流れの中で、映画『スタートレック』の
中の転送と同じことを、繰りかえしている。
「劇的」というのは、映画『スタートレック』の中では、
すべてを瞬時にすることをいう。
一方、肉体のほうは、それぞれがバラバラに、長い時間をかけて、
徐々にする。
そこでもし、映画『スタートレック』の中の転送について、
あれは、「破壊」と「再生」を繰り返したもの、つまり
「一度死んで、再び、生きかえったもの」と考えるなら、
私たち自身も、同じことを繰りかえしていることになる。
「瞬時」にそれをするか、「1年」をかけてそれをするかの、
ちがいだけである。
●伝えられる意識
さらに……。
科学が進めば、(あなた)のコピー人間を作ることも、
可能になるだろう。
すでにクローン牛なども誕生している。
しかし意識は、どうか。
あなたのコピーは、あなたと同じ意識をもつだろうか。
今のところ、その答は、NO。
あなたのコピー人間は、ただのコピー人間。
たとえば私のコピーを作ったとしても、そのコピー人間が、
今の私と同じ感情をもつとはかぎらない。
というより、ありえない。
私のワイフを見て、私は逃げ回るかもしれない。
●コピー人間の意識
私が「私」と言えるのは、「意識の連続性」があるからにほかならない。
もし意識の連続性がなかったら、「私」はそのつど分断されてしまう。
たとえばクローン技術を使って、あなたのコピー人間を作ったとしよう。
見た目はもちろん、何から何まであなたと同じ人間である。
しかしそのクローン人間は、ここにも書いたように、「あなた」ではない。
意識の連続性がないからである。
同じように、先にも書いたが、あなたは日々に生まれ変わっている。
古い細胞は死に、新しい細胞が生まれる。
1年前のあなたは、どこにも残っていない。
言い換えると、今のあなたは、1年前のクローン人間といっても、さしつかえ
ない。
が、あなたはあなた。
そういうあなたは、「私は私」と言うだろう。
それが意識の連続性ということになる。
●親子
さらに言えば、親子の関係も、それに似ている。
親子のばあいは、1世代、つまり約30年をかけて、
親は自分のクローン人間を作る。
自分の子どもは、約30年をかけて作る、自分
自身のクローン人間とも考えられる。
顔や姿は、配偶者のそれと半々するということになるが、
それは大きな問題ではない。
それに意識、……このばあい、ものの考え方も、
あなたのそれに似てくる。
ただ親子のばあいは、クローン人間とはちがい、
個人差はあるだろうが、親子の間には、たしかに
意識の連続性がある。
●意識があるから私
こうして考えると、「意識」の重要性が、ますます
理解してもらえると思う。
もっと正確には、「意識の連続性」ということになる。
言うなれば、「意識の連続性があるから、私」ということになる。
「私」イコール、「意識」。
「意識の連続性」。
「意識の連続性」イコール、「私」と考えてよい。
●あやふやな意識
が、その一方で、その「意識」ほど、あてにならない
ものもない。
「私は私」と思っている意識にしても、そのほとんどが、
意識できない「私」、つまり無意識の世界で作られた
私でしかない。
意識している私は、無意識の世界で作られている私に、
操られているにすぎない。
その反対の例が、催眠術ということになる。
「あなたはキツネだ」という強力な暗示をかけられた
被験者は、目が覚めたあとも、キツネのように、
そのあたりをピョンピョンと、とび跳ねたりする。
つまり脳の中には、無数の暗示が詰めこまれていて、
それが私たちを裏から操る。
それを私たちは、「私の意識」と思いこんでいる。
・・・だけ。
意識には、そういう問題も隠されている。
●私の死
そこで再び、「死」について考える。
脳の中の意識は、脳細胞の中を走り回る電気的信号の
集合でしかない。
人間が霊的(スピリチュアル)な存在でないことは、認知症
か何かになった老人を見れば、わかる。
脳の機能が低下すれば、思考力も低下し、ついで、
意識の力も弱体化する。
「私」すら、わからなくなる老人も多い。
人間が霊的な存在であるなら、脳の機能に左右
されるということは、ありえないはず。
で、その電気的信号が止まったら、どうなるか。
それが「肉体の死」ということになる。
●すべてが消える
「死」についての説明は、これでじゅうぶんかも
しれない。
結論的を先に言えば、私たちは死によって、意識を
失う。
意識の連続性を失う。
だからこの大宇宙を意識している「私」すら、消滅する。
つまりこの大宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが深い眠りの、そのまた数万倍、深い眠りに
陥った状態を想像してみればよい。
夢を見ることもない、深い眠りである。
(それでも、微量の意識は残るが・・・。)
それが「死」に近い状態ということになる。
では、「私」とは何か。
つまりそれが「意識」ということになる。
「意識の連続性」ということになる。
●意識
結論は、もう出ている。
「意識」イコール、「私」。
「私」イコール、「意識」ということになる。
が、「意識」だけでは足りない。
「私」を意識するためには、繰り返すが、そこに
「連続性」がなければならない。
意識だけなら、空を舞う蚊にすら、ある。
あの蚊に、「私」という意識があるとは、とても
思えない。
しかしその「私」は、努力によっていくらでも
大きくすることができる一方、ばあいによっては、
犬やネコどころか、虫のそれのように小さく
してしまうこともありえる。
人間は平等とはいうが、こと意識に関しては、
平等ということはありえない。
深い、浅い、の差はある。
またその(差)は大きい。
その(差)は努力によって決まる。
そうした努力を、釈迦は、「精進(しょうじん)」
という言葉を使って説明した。
●生命の伝達
そこで生きている人間の最後の使命はといえば、
「生命の伝達」ということになる。
「意識の伝達」と言い換えてもよい。
再び映画『スタートレック』の話に戻る。
もし肉体の転送だけだったら、別の肉体をもう一個、
作っただけということになる。
あなたのコピー人間を作っただけということになる。
そこで当然、意識の伝達が、重要な要素となる。
そうでないと、転送先で、それぞれが、何をしてよいか
わからず、混乱することになる。
本人も、どうして転送されたのかも、わからなくなって
しまうだろう。
与えられた使命すら、忘れてしまうかもしれない。
あなたに接する、相手も困るだろう。
(映画『スタートレック』の中では、この問題は
解決されているように見える。
しかしどういう方法で意識の連続性を保っているのか?
たいへん興味がある。)
そこで私たちは、生きると同時に、つねに意識の
伝達に心がけなければならない。
その意識の伝達があってはじめて、私たちは、
生命を、つぎの世代に伝えることができることになる。
●意識の消滅
個人の意識が途切れることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたのほんの一部でしかない。
あなたの数10万分の1、あるいはそれ以下かも
しれない。
そんな意識が途切れることを恐れる必要はない。
●意識の伝達
それよりもすばらしいことは、あなたの生命が、
日々に、ほかの生物へと伝わっていること。
あなたの子どもに、でもよい。
ほかの生物が、日々にあなたを作りあげていくこと。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいること。
つまりあなた自身も、無数の意識の連続性の中で
今を生き、そして無数の連続性を、かぎりなく
他人に与えながら、今を生きている。
●肉体の死
死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
また別の命を構成していく。
●意識の死
肉体は、1年程度で、すべて入れ替わる。
ただ同じように、意識も、そのつど入れ替わる。
このことは、1年とか、2年前、さらには10年前に書いた自分の文章を
読んでみればわかる。
ときに「1年前には、こんなことを書いていたのか?」と驚くことがある。
あるいは自分の書いた文章であることはわかるが、まるで他人が書いた文章の
ように感ずることもある。
さらに最近に至っては、まるでザルで水をすくうように、知識や知恵が、
脳みその中から、ざらざらとこぼれ落ちていくのがわかる。
それを知るたびに、ぞっとすることもある。
若い人たちには理解できないことかもしれないが、現在、あなたがもっている
知識や知恵にしても、しばらく使わないでいると、どんどんと消えてなくなって
いく。
ついでに、意識も、それに並行して、どんどんと変化していく。
何も、肉体の死だけが死ではない。
意識、つまり精神ですら、つねに生まれ、そしてつねに死んでいる。
●死とは
もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の連続性の(途切れ)をいう。
しかし心配無用。
あなたの意識は、(思想)として、残すことができる。
たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたと、同じ意識を共有する。
たとえそのとき、私という肉体はなくても、意識は
残り、あなたに伝えられる。
●重要なのは、意識の連続性
反対に、こうも考えられる。
仮に肉体は別々でも、そこに意識の連続性があれば、「私」ということに
なる。
では、その意識の連続性は、どうすれば可能なのか?
ひとつの方法としては、SF的な方法だが、他人の意識を、自分の脳の
中に注入するという方法がある。
もっと簡単な方法としては、どこかのカルト教団がしているように、たがいに洗脳
しあうという方法もある。
が、自分の肉体にさえこだわらなければ、今、こうして私が自分の意識を
文章にする方法だって、有効である。
この文章を読んだ人は、肉体的には別であっても、またほんの一部の意識かも
しれないが、そこで意識を共有することができる。
それが意識の連続性につながる。
つまりこうして「私」は、無数の人と、意識の連続性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
もちろんそうした人たちも、また別の人たちと連続性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
人間は、こうして有機的につながりながら、たがいの生命を共有する形で、
永遠に生きる。
つまり「死」などは、存在しない。
繰りかえすが、個体として肉体の「死」は、死ではない。
●時空を超えて
さらに言えば、私という肉体はそのとき、ないかもしれない。
しかし時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。
寿命があと1年と宣告されても、あわてる
必要はない。
生き方によっては、その1年を100年にする
こともできる。
(年数)という(数字)には、まったく意味がない。
●大切なこと
大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、その事実。
あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに
途切れる。
しかしその意識は、かならず、別のだれかに
伝えられる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、
生き返る。
それを繰り返す。
そこで大切なことは、本当に大切なことは、
よい意識を残すこと。
伝えること。
それが私たちが今、ここ生きている、最大の目的
ということになる。
●もう恐れない
さあ、もう死を恐れるのをやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。
人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく
暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見ては
いけない。
そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが生命。
●日々に死に、日々に生まれる
私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、その一部にすぎない。
何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
眠るだけ。
それだけで、すべてがすむ。
あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で
生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、この地球上に生命が
あるかぎり、永遠に生きる。
しかしそれとて何でもないこと。
なぜならあなたはすでに、毎日、日々の生活の
中で、それをしている。
繰りかえしている。
あとはその日まで、思う存分、生きること。
あなたという意識を、深めること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすく
するために……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 生命論 意識論 生命の連続性 090907)
(補記)
一気に書き上げた文章なので、随所に稚拙な部分、わかりにくい部分があるかもしれない。
今はこのままにし、しばらく時間をおいてから、推敲してみたい。
(文章の一部からでも、何かを感じとってもらえれば、うれしい。)
要するに私は、この原稿の中で、「死」を(肉体の死)と(意識の途切れ)に
分けて考えてみた。
肉体の死については、何も「死」だけが死ではない。
私たちは、毎日、死に、そして生まれ変わっている。
意識にしても、そうだ。
そこで重要なのは、(意識の途切れ)ということになる。
たしかに死によって、私たちの意識はそこで途切れるが、
だからといって、それで(意識)が死ぬわけではない。
現に今、あなたはこの文章を読んでいる。
読んだとたん、私の意識は、あなたの中に伝達されることになる。
あなたの中で生きることになる。
そして今度は、あなたは私の意識を土台に、さらに自分の意識を
発展させる。
こうして意識もまた、永遠に、生き残っていく。
そこで「死など、恐れる必要はない」と書いたが、それにはひとつの
重要な条件がある。
それは「今を、懸命に生きること」。
とことん懸命に生きること。
過去にしばられるのも、よくない。
明日に、今日すべきことを回すのも、よくない。
要するに、「死」に未練を残さないこと。
とことん燃やしつくして、悔いを明日に残さないこと。
あなたが今、健康であっても、またそうでなくても、だ。
それをしないでいると、死は、恐ろしく孤独なものになる。
人間は、基本的には、その孤独に単独で耐える力はない。
……と書きつつ、これは私の努力目標である。
いろいろ迷いや不安はあるが、とにかくその目標に
向かって進んでいくしかない。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●M町を去る(別記)
古い家だった。
家全体が、骨董品の倉庫のよう。
昔の人は、冠婚葬祭を自宅で、した。
そのときの道具が、一そろい、残っている。
奥の戸棚を開けると、古い木箱に入った道具類が、
山のように出てきた。
浜松へ持ち帰るとしても、たいへんな作業になる。
「どうしようか?」と考えているうち、GOOD IDEA!
道路脇並べて、近所の人たちに無料で、分けてやることにした。
++++++++++++++++++++
●モノを分ける
現在の貨幣価値になおして、時の祖父は、そうした道具類を
現在の価値で、何百万円も出して買ったのだろう。
茶碗といっても、本ウルシを塗った高価なもの。
金沢市の駅前のみやげもの店なら、1個、1万円前後で
売っているはず。
そういうものをビニールシートに並べる。
ほかに焼き物、花瓶、置物などなど。
「どうぞ自由にお持ち帰りください」という張り紙を張ったとたん、
4、5人の人たちが、そこに集まった。
最初は遠慮がちだったが、やがて大きな袋をもってくる人もいた。
うれしかった。
私からのプレゼントというよりは、私の祖父母、両親からのプレゼント。
祖父母や両親が、「気前のいい話やなあ」と、どこかで笑っているような
気がした。
●モノ
モノとは、所詮、そんなもの。
価値があるようで、ない。
あるとしても、思い出。
私の過去は、そうしたモンと、深くからんでいる。
それぞれのものを手に取ってみては、「ああ、これはあのときの
もの」と。
しかし時間的にも感傷に浸っている時間はない。
11時半から、実家の売買契約。
2時から、法事。
3時から、古物商との商談。
そして5時には、運送会社がやってくる。
●価値
古物の価値が、さがってきている。
たとえば切手にしても、古銭にしても、売り先を見つけるのさえ難しい。
ネットでオークションに出すという方法もあるが、そのための
時間がない。
ということで、そのまま宝の持ち腐れ?
そこで改めて、ふと考える。
私は先日、古いパソコンを、6~7台、処分した。
「古い」といっても、10年ほど前のもの。
当時でもパソコンは、1台20万円前後はした。
ことパソコンに関して言えば、骨董的価値はない。
そのままゴミ。
となると、祖父が買った茶器類と、私の買ったパソコン類と、
どちらが(価値)があるか、と。
あるいは(価値)を考えること自体、まちがっているのか。
たとえば茶器にしても、プラスチック製のものよりは、ウルシ塗りの
もののほうが、作るのに手間がかかる分だけ、値段が高い。
値段が高いから、価値があるということになる。
しかしそこでハタと考えてしまう。
「だから、それがどうしたの?」と。
●見るモノと、使うモノ
一方、パソコンのほうは、それなりの(仕事)をした。
言うなれば骨董品のほうは、(見る)もの。
パソコンのほうは、(使う)もの。
(使う)という視点で価値を判断するなら、数年の1度しか
使わない茶器より、毎日使うパソコンのほうが価値がある。
(価値といっても、金銭的価値だが……。)
だから10年を経て、それが20万円で買ったものであったと
としても、棄てても悔いはない。
が、ウルシの茶器は、そうでない。
棄てることはできない。
が、骨董屋に売るとなると、二束三文。
だったら、近所の人たちに、無料で分ける。
そのほうが、ずっと気持ちがよい。
Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司
●9月X日、運命の日
+++++++++++++++++
現在の心境。
たいへん軽い。
刻一刻と、時が流れていく。
その音が、やさしいせせらぎのように、
心地よく心に響く。
うれしい。
9月X日。
私は、古里と決別する。
待ちに待った、その瞬間。
それがやってくる。
もちろん不安がないわけではない。
どんな別れにせよ、(別れ)というのは
そういうもの。
いつも不安がともなう。
あえて言うなら、『モヤのかかった
山の頂上に、朝日を見るような』
(シェークスピア)のような心境。
++++++++++++++++
●実家を売る
結局、間に立ってくれた人が、「自分でほしい」と言ってくれた。
譲渡価格は、問題ではない。
いくらでもよい。
とにかく買ってくれる人がいたら、それでよい。
そう思って、その人に、売買を一任した。
で、その人自身が、買ってくれることになった。
その人の言い値で売ることにした。
母に直接渡した現金の10分の1にもならない。
しかしそれで(過去)から解放されるなら、文句はない。
いうなれば、人生の(おまけ)。
バンザーイ!
●貧乏
私が実家を(重荷)に感じ始めたのは、小学5、6年生くらいの
ことではなかったか。
記憶は確かではないが、中学生になるころには、はっきりとそれを
自覚するようになった。
今にして思えば、そういう重圧感を作ったのは、母自身ということになる。
母は私に生まれながらにして、「産んでやった」「育ててやった」「親のめんどう
みるのはお前」と、言いつづけた。
それが母の教育の基本法だった。
加えてそのころから、稼業の自転車店は、ほとんど開店休業状態。
パンク張りの日銭で、何とかその日をしのいでいるという状態だった。
今になって実家は、町の「伝統的建造物」に指定されている。
大正時代の商家そのままという。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物を守ったわけではない。
改築するお金もないまま、ズルズルと今に至っただけ。
言うなれば、慢性的貧乏。
その象徴が、私の実家。
わかりやすく言えば、そういうことになる。
●保護と依存
(この間、半日が過ぎた。
私は今、実家へ向かう電車の中にいる。
時は9月2日、午前7時40分。)
要するに保護と依存の関係。
それができてしまった。
保護する側はいつも保護の側に回る。
依存する側は、いつも依存する側に回る。
最初は感謝されることはあっても、それは一時的。
やがてそれが当たり前になり、さらに時間がたつと、相手、つまり
依存する側が、保護する側に請求するようになる。
「何とかしろ」と。
さらに時間がたつと、保護する側は、今度は、それを義務に感ずる
ようになる。
こうしてつながりそのものが、保護と依存の関係が結ばれたまま、
固定化する。
●解放
今の私の立場を一言で表現すれば、「何もかも私」という状況。
だれというわけではないが、みな、そう思っている。
私自身もそう思っている。
そういう中で、みなは、ジワジワと私に迫ってくる。
私はそれにジワジワと苦しめられる。
が、それが今日という日を境に、終わる。
私は何もかもから解放されたい。
何もかもから、解放される。
法事の問題、墓の問題も、あるにはある。
あるが、いくらでも先延ばしにできる。
●ドラマ
ところで昨日、郷里住むいとこと、2回、電話で話した。
どちらも1時間以上の長電話になった。
「明日、M町とは縁を切ってきます」と告げると、「それはよかったね」と。
で、私は自分の心にけじめをつけるつもりで、今までの心境を語った。
弁解とか、言い訳とか、悪口とか、そういうのではない。
今さら私が苦しんだ話など、だれも聞きたがらない。
話しても意味はない。
いとこはいとこで、自分の経験を、あれこれとしてくれた。
それが参考になった。
心に染み入った。
懸命に生きてきた人には、懸命に生きてきた人のドラマがある。
私にもある。
そのドラマが、今、光り輝く。
●社会的重圧感
金銭的負担感というよりは、社会的負担感。
負担感というよりは、重圧感。
40歳を過ぎるころから、私はそれに苦しんだ。
貪欲なまでに、私のお金(マネー)を求める母。
といっても、そのころになると、そのつど母は、私を泣き落とした。
一方、私は私で、いつしか、そういう母のやり方に疑念をもつようになった。
疑念をもちながら、それでも仕送りを止めるわけにはいかない。
それが社会的負担感を増大させた。
実家へ向かうたび、私はどこかで覚えた経文を唱えずして、帰る
ことができなかった。
●不安
が、不安がないわけではない。
親類がもつ濃密な人間関係は、ほかのものには換えがたい。
それを断ち切るには、それ自体、たいへんな勇気が必要。
断ち切ったとたん、そこに待っているのは、孤立感。
「私にはその孤立感と闘う力はあるのか」と、何度も自問する。
……というより、この10年をかけて、少しずつ、親類との縁を
切ってきた。
幸い、その分だけ、ワイフの兄弟たちとは、親しくさせてもらっている。
心の穏やかな、やさしい人たちである。
息子たちの結婚式など、そのつど、みな協力してくれた。
その温もりが、こういうときこそ、私を横から支えてくれる。
●真理
そう言えば、今朝、目を覚ましたときのこと。
私の心がいつもになく、穏やかなことを知った。
たいてい……というより、ほとんど毎朝、私は旅行の夢で目が覚める。
が、今朝はちがった。
夢の内容は忘れたが、あのハラハラした気持ちはなかった。
そのかわりに、郷里の人たちが、みな、小さな、どこまでも
小さな人間に思われた。
つい昨夜まで、心を包んでいたあの緊張感が、消えた。
「どういうことだろう?」と、自分に問いかけた。
いや、ときどき、そういうことはある。
あるひとつのことで、緊張感が頂点に達したとき、突然、
目の前に、別の世界が広がる。
ひとつの(山)を乗り越えたような気分である。
たとえば人を恨むことは、よくない。
しかし恨みも頂点に達すると、やがて心の水が枯れる。
枯れたとたん、その人を、別の心で包み込むことができる。
あマザーテレサも、同じようなことを言っている。
『愛して、愛して、愛し疲れるまで、相手を愛せよ』と。
私はそこまで高邁な心境になることはできないが、マザーテレサの
言葉には、いつも真理が隠されている。
●運命
そんなわけで、今、苦しみのどん底にいる人たちに、こんなことは
伝えられる。
どんな問題でも、相手が人間なら、時間がかならず解決してくれる、と。
解決してくれるだけではない。
『時間は心の癒し人』。
心も癒してくれる。
だからそこに運命を感じたら、あとは静かに身を負かす。
(運命)というのは、それに逆らえば、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしひとたび受け入れてしまえば、尻尾を巻いて逃げていく。
もともと気が小さい。
臆病。
私もある時期、母を恨んだ。
心底、恨んだ。
しかし私の家に住むようになった直後のこと。
下痢で汚れた母の尻を拭いたとたん、その恨みが消えた。
「こんなバーさんを、本気で相手にしていたのか」と。
と、そのとき母は私にこう言った。
「お前にこんなことをしてもらうようになるとは思わないんだ」と。
それに答えて、私も、「ぼくも、あんたにこんなことをしてやるように
なるとは、思っていなかった」と。
まだ正月気分も抜けやらない、1月のはじめの日のことだった。
●こうして人生は過ぎていく
こうして人はやってきて、またどこかへと去っていく。
M町にしてみれば、私はただの通行人。
店先をのぞいて、そのまま通り過ぎる、通行人。
あの実家にしても、明日からは別の人が住み、別の生活が始まる。
みやげもの屋、もしくは町の案内所としては、最適。
実家は実家で、また別の人生を生きる。
あたかも何ごともなかったかのように……。
私「M町へ、再び行くようなことはあるだろうか」
ワ「……何か、あればね。今のあなたの気持ちとしては、もう
ないでしょうね」
私「何もなければいいけどね。行くとしても、素通りするよ」
ワ「そうね」と。
電車は、豊橋を過ぎると、少しずつ混み始めた。
ちょうどラッシュアワーに重なった。
「名古屋を過ぎれば、またすいてくるよ」と私。
不思議なほど、心は静かなまま。
フ~~~ッと。
Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司
●夢判断
++++++++++++++++++++
夢判断というのは、たしかにある。
私にとっては、2009年9月2日は、心の大きな転機になった。
そのせいだろうと思うが、その日を境に、夢の内容が、がらりと変わった。
それまでは夢といえば、旅行先の夢ばかりだった。
どこかの旅館やホテルにいて、帰りのバスや飛行機の時刻を心配する
そんな夢ばかりだった。
おかしなことに、夢の、こまかい部分については、そのつど、ちがった。
同じ内容の夢を見ることは、ほとんどない。
が、9月3日は、忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月4日は、兄の夢。
9月5日も忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月6日、つまり今朝は、浜松の自宅に、生徒たちが遊びに来た夢。
夢の内容を判断するかぎり、私の心境は、大きく変化した。
++++++++++++++++++++
●深層心理
心の奥底にあって、人間の意思や意識をコントロールする。
それが深層心理ということになる。
人間のばあい、(人間だけにかぎらないのだろうが)、深層心理のほうが分量的にも、
はるかに大きい。
一説によれば、脳の中で意識として活動している部分は、脳全体の20万分の1
程度という。
何かの本でそう読んだ。
つまり私たちの意識は、その20万倍もの無意識や潜在意識によって支配
されている。
私が毎晩、ちがった夢を20年間見たとしても、365x20=7300。
20万倍には、遠く及ばない。
わかりやすく言えば、私たちの意識は、常に、無意識や潜在意識によって
支配され、コントロールされている。
私が旅行先の夢を見るのは、焦燥感、不安感、心配、不信感などが、ベース
になっているからと考えてよい。
が、それが消えた。
●墓参り
そのうち心境が変化するかもしれない。
しかし今の私には、墓参りをするという意識そのものがない。
祖父も、父も、墓参りだけは、したことがない。
墓参りした姿さえ、私の記憶にない。
理由はわからない。
が、墓参りを大切にしている人もいる。
人は、人それぞれだし、それぞれの思いの中で、墓参りをする。
私がしないからといって、それでもって他人のことをとやかく言っては
いけない。
が、同時に、自分が墓参りするからといって、私のことをとやかく言って
ほしくはない。
私は、私。
それでバチ(?)なるものが当たるとしたら、それは私のバチ。
あなたには関係のないこと。
ただ言えることは、合理的に考えれば、遺骨に霊(スピリチュアル)が
宿るということは、ありえない。
人間の肉体は、骨も含めて、常に新しく生まれ、そして死ぬ。
もし魂が宿るとしたら、むしろ脳みそということになる。
心臓でもよい。
しかし脳みそや心臓は、保存には適さない。
だから「骨」あるいは「髪の毛」ということになった。
言うなれば、人間のご都合主義が、「骨」にした。
●それぞれの思い
話はそれたが、墓参りを熱心にする人というのは、何かしらの
(わだかまり)が、心の奥にあるためではないか。
罪滅ぼし?
懺悔?
後悔?
うしろめたさ?
何でもよい。
こう決めてかかると、墓参りを熱心にしている人に対して失礼な
言い方になるかもしれない。
多くの人は、故人をしのび、故人を供養するために、墓参りをする。
「先祖を祭り、大切にするため」と主張する人もいる。
それはそれでわかる。
しかし私は墓参りも、自然体でよいのではないかと考える。
参りたいと思うときに、参ればよい。
もちろんそれぞれの思いに従えばよい。
罪滅ぼしであっても、また故人の供養でもよい。
ただ遺骨に、必要以上の意味をもたせることは、好ましいことではない。
もっと言えば、墓参りをすることによって、「今」そのものを見失って
しまう。
こんな女性(60歳くらい、当時)がいた。
その女性の母親が生きている間は、虐待に近い虐待を繰り返していた。
で、その母親は、ある寒い冬の夜、「ふとんの中で眠ったまま」(その
女性の言葉)、死んでしまった。
その女性の墓参りがつづくようになったのは、しばらくしてからのこと
だった。
一説によると、夜な夜な、母の亡霊が枕元に立ったからという。
あるいはその女性は、罪の意識に苛(さいな)まれたのかもしれない。
それで墓参りをするようになった(?)。
よくある話である。
●今が大切
死者を弔うことも大切だが、それ以上に、はるかに大切なことは、
「今」を大切にすること。
これは私の人生観とも深くからんでいるが、母を介護しているときにも、
それを強く感じた。
介護といっても、そのつど、多額の介護費用などがかかる。
救急車で病院へ一度運んでもらえば、救急車代は別としても、1回につき、
10万円前後の検査費、入院費、治療費がかかった。
しかしそういう費用が、惜しいとか、そういうふうに考えたことは一度も
ない。
「高額だな」と反感を覚えたことはあるが、それは医療体制に対しての
ものであって、母に対してではない。
しかし今、法事に、読経をしてもらうだけで、1回5万円ということに
ついては、矛盾というより、バカらしさを覚える。
信仰心のあるなしとは、関係ない。
まただからといって、母の死を軽んじているわけでもない。
この落差というか、(心の変化)を、どう私は理解したらよいのか。
同じように、私は、「今」を生きている。
懸命に生きている。
もし息子たちに、私やワイフを大切にしてくれる気持ちが少しでもあるなら、
今の私たちを大切にしてほしい。
死んでから、墓参りに来てくれても、うれしくはないし、またそんな
ことをしてくれても、私には意味はない。
またそれで私が地獄へ落ちるとしたら、仏教のほうがまちがっている。
カルト以下のカルト。
供養するかしないかは、あくまでも(心)の問題。
心があれば、毎日だって墓参りをすればよい。
また心があるなら、墓参りなどしなくても、どこにいても、供養はできる。
この3日間、いろいろと考えた。
私には、収穫の多い、3日間だった。
Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司
●決別、5日目
++++++++++++++++
古里と決別して、今日で5日目。
この4日間、いろいろあった。
そのせいか、今日になって疲れが
どっと出てきた。
ショックだったのは、むしろ
仲がよかった、K氏(59歳)が、
悪性リンパ腫になっていたこと。
血液のがんである。
今年で闘病生活も3年になるという。
知らなかった。
昨日、はじめて知った。
驚いたというより、3年間も
知らなかった私に、驚いた。
「最近はすぐれた抗がん剤も開発
され、数値をみながらのんでいれば、
何でもありません」と、K氏は笑っていた。
いっしょに笑いたかったが、私は
笑えなかった。
+++++++++++++++
●「私は健康だ」
「私は健康だ」と言うときには、そこにある種の優越感がともなう。
自分にはその気がなくても、相手によっては、それがイヤミに聞こえる。
とくに重病で苦しんでいる人には、そうだろう。
だから「私は健康だ」などとは、あまり人に言わないほうがよい。
それはちょうど、「私は金持ちだ」と言うのに似ている(?)。
その日の生活費に困っている人が聞いたら、どれほど不愉快に思うことか。
……といっても、つまり健康といっても、今、そうであるというだけで、
明日のことはわからない。
加齢とともに、不可逆的に健康は衰えていく。
仮に優越感をもったとしても、それは一時的。
大切なことは、今ある健康を、かみしめながら生きていくこと。
あとはその状態を、できるだけ、長く保つこと。
●苦痛
古里の話を書こうと思っていたが、健康論になってしまった。
話をもどす。
古里と決別して、先にも書いたように今日で5日目になる。
何かが大きく変わったように感ずる。
が、それが何であるか、今のところ、まだよくわからない。
平和になったというか、気が抜けたというか……。
心の緊張感は解けた。
正直に告白するが、実兄が死んだときも、実母が死んだときも、
私はホッとした。
実兄や実母の死を喜んだわけではない。
そんな気持ちは、みじんもなかった。
ただそれまでの重圧感には、ものすごいものがあった。
臨終が近づくにつれて、その重圧感が、さらに倍加した。
その重圧感が、スーッと消えた。
実のところ、実兄も実母も、それぞれ施設に入居していたから、
私への負担は、ほとんどなかった。
精神的負担も、ほとんどなかった。
ときに、「介護が、こんなに楽でいいのか」と思ったことさえある。
私が感じた重圧感というのは、実姉からのものだった。
実姉は、そのつど、狂ったように、私のところに電話をかけてきた。
それが苦痛だった。
受話器を取るたびに、手が震えた。
今にして思えば、姉は姉で、張りつめた緊張感の中で、もがき苦しんで
いたのだろう。
それはよくわかる。
わかるが、私には、どうしようもなかった。
実姉は、不満や不安をそのまま、私にぶつけた。
私は私で、包容力を失っていた。
が、それも今となっては、昔話。
1日ごとに、どんどんとそれが過去へ過去へと、遠ざかっていく。
●疲れ
講演の疲れ。
旅の疲れ。
それが今日になって出てきた。
睡眠薬の世話になっているわけでもないが、このところ毎日、9~10時間
近く眠っている。
昼間も眠い。
そのつど、軽い昼寝をする。
寝心地は、よい。
どこにいても、気持ちよくうたた寝できる。
何よりも大きな変化は、悪夢から解放されたこと。
●今後のこと
今後のことは考えていない。
考えても、あま意味はない。
なるようにしか、ならない。
なり行きに任せる。
それしかない。
実家にまつわる問題は、すべて解決した。
「すべて」だ。
親戚づきあいも、今のところ、するつもりはない。
冠婚葬祭も、遠慮させてもらう。
その前に、だれも知らせてこないだろう。
そのかわりというわけでもないが、私の方のことも、だれにも伝えない。
「私が死んでも、親戚にはだれにも話すな」と、ワイフや息子たちには、
しっかりと伝えてある。
親戚など、今の私には、「クソ食らえ」(尾崎豊)、だ。
さみしい関係だが、仮面をかぶってつきあうのも、疲れた。
もうたくさん。
いや、それ以上に、私の人生も、刻一刻と短くなっていく。
そうそう、K氏の病名を聞いたとき、驚いたのには、
もうひとつの理由がある。
「そんな病気もあったのか!」と。
ひょっとしたら、病名の数のほうが、浜松市の人口(約80万)より
多いのではないか?
がんにしても、体の部位の数だけ、種類がある。
「病気から身を守る」といっても、どうやって守ればよいのか。
たとえて言うなら、浜松中の人たちが、みな悪党になったようなもの。
しかもみな、中身がちがう。
先日は、ほんの半時間ほどだが、視覚野の画像が乱れた。
半円形のチカチカした模様が、視野をじゃました。
あれはいったい、どういう病気によるものなのか?
言い換えると、私たちの健康は、細い糸でぶらさがっているようなもの。
その下では、無数の病気が、「おいで、おいで」と、手招きしている。
で、私はK氏にこう聞いた。
「どうして、その病気とわかったのですか?」と。
それについてK氏は、こう言った。
首の下のリンパ腺が腫れたこと。
胃の上に腫れ物ができたこと。
それで病院へ行ったら、悪性リンパ腫とわかった、と。
そして最後にこう話してくれた。
「おかしいと思ったら、検査だけは、どんどんと受けたほうがいいですよ」と。
しかし……。
おかしいと言っても、おかしなところだらけ。
一応、今のところ自分では健康とは思うが、中身はボロボロ。
何とかごまかしながら生きている。
だからやはり、検査は受けたくない。
受けても、しかたない。
20も30も、ゾロゾロと病名が出てきたら、どうするのか!
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