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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 11月 27日
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HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子どもを伸ばすために】
++++++++++++++++++
子どもを伸ばすには、どうしたらよいか。
それについて書いてみたい。
(まとまりのない文章で、すみません。)
++++++++++++++++++
●八つ当たり
脳みそというのは、器用なようであって、器用でない。
基本的には、不器用。
「自分ではこうしたい」と思っていても、脳のほうが、勝手に反応してしまうことがある。
その一つの例が、八つ当たり。
何かのことでいやなことがあったとする。
ムシャクシャする。
するとそのはけ口を、ほかのものや、人に向ける。
向けられた人こそ、えらい迷惑。
そういう心理状態を、心理学では、「置き換え」という言葉を使って説明する。
しかしそれも道理。
一度、ある種のホルモン、たとえばサイトカインなどが分泌されると、
それは脳内全体に作用する。
部分的に、ここだけに作用して……というわけには、いかない。
だから一度、サイトカインが分泌されると、いや~な気分は、脳全体に影響を与える。
それが八つ当たりの原因ということになる。
が、その八つ当たりをコントロールするのが、理性。
つまり前頭連合野の働きということになる。
が、この前頭連合野の働きは、あまりアテにならない。
個人差も大きい。
つまり本能的な脳の働きの前では、理性の力といっても、風の中で揺れる
ローソクの光のようなもの。
とくに私のばあいは、そうである。
何かにつけて、すぐ八つ当たりしてしまう。
では、どうすればよいのか。
●アクセルとブレーキ
少し話が脱線するが、許してほしい。
心理的反応の大きさは、脳に刻み込まれたトラウマ(心的外傷)の大きさによる。
トラウマが大きければ大きいほど、心理的反応は、大きくなる。
私のばあいも、ふつうの人にとっては何でもないことでも、あること(人)になると、
反応が過剰になることがある。
たとえば「酒」。
私は酒のにおいが、嫌い。
酒臭い人も、嫌い。
ふつうの人にとっては、何でもないにおいでも、私にとっては、そうでない。
理由は、わかっている。
私の父は、酒癖が悪く、酒を飲むたびに、家の中で暴れたり、大声を出して叫んだ。
それがトラウマになっている。
若いときほどではないが、いまだに、その残像が残っている。
そういう自分を観察してみて、気がついたことがある。
「置き換え」も、そのときの気分によって、左右される、と。
たとえば親しい友人が、酒を飲んだとする。
そういうときは、ほとんど気にならない。
ワイフの酒も気にならない。
しかし電車に乗り込んできたような人が、酒臭かったりすると、ムッとする。
あるいは日ごろ、不愉快に思っている人が、酒臭かったりする。
そういうときも、ムッとする。
条件反射論で考えるなら、こういうことはないはず。
どの人に対しても、反応は平等に起きるはず。
つまり条件反射も、別の何かによって、影響を受けることになる。
なぜだろう?
そこで自分を観察してみる。
同じ条件反射なのに、強弱はどうして起こるのか、と。
このことは、少し汚い話で恐縮だが、「便」で考えてみるとわかる。
あのソクラテスは、「自分の糞(おならではない)は、いいにおい」と言った。
しかし便というのは、みな、同じようなもの。
同じように、においも、人によってそれほど、違わない。
が、どうしてか、自分のおなら(便ではない)は、よいにおいがする。
他人のは、そうでない。
そういうとき、頭の中でこんな反応が起きるのが、わかる。
一度は、臭いと思うが、それを発展的に(?)、「臭い」と思うときもあれば、
「臭くない」と、否定的に(?)、思うときがある。
他人のものであれば、発展的に、「臭い」と思う。
自分のものであれば、(ワイフのも、そうだが)、「臭くない」と思う。
つまりアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかのちがいが、起きる。
その作用が、そのあとの心理作用に、影響を与える(?)。
脳のどこかに、そういうメカニズムがあるらしい。
●潜在意識
児童心理学の世界には、「好子」「嫌子」という言葉がある。
同じことなのに、それを前向きにする子どもがいる。
一方、それをいやがり、逃げ腰になる子どもも、いる。
こうした現象を、「好子」「嫌子」という言葉を使って説明する。
これもアクセルとブレーキに似ている。
可能性として考えられるのは、表の意識が、裏の意識、つまり潜在意識に
操られているということ。
そのことによいイメージをもっていると、そのイメージが、アクセルとなって働く。
悪いイメージをもっていると、ブレーキとなって働く。
たまたま今日も、年中児の男の子に、簡単な文章を読ませようとした。
そのときのこと。
その子どもは、その文章から目をそらし、悲しそうな目つきで、私の顔をじっと見つめた。
明らかに拒否反応である。
文字に対して、どこかで悪いイメージをもってしまったらしい。
それがブレーキとなって働いた。
そこで何とかその子どもに、その文章を読ませた。
少しずつ私が読み、それを復唱させた。
文字などはスラスラと書くので、その程度の文章が読めないということはない。
で、読んだあと、みなの前でほめ、そしてみなに、手を叩かせた。
とたん、表情がぱっと輝いた。
で、もう一度、レッスンの終わるころ、その男の子に同じ文章を読ませた。
今度は、大きな声で読んだ。
今度は、アクセルが働いた。
●イメージ・トレーニング
こうして考えてみると、条件反射をコントロールするのは、実は理性(=前頭
連合野)ではなく、潜在意識ということになる。
あるいは潜在意識のほうが、パワー的には、前頭連合野より強力ということになる。
こうして生まれた指導法が、イメージ・トレーニング法ということになる。
これは航空大学校に通っていたころの三男から学んだ方法である。
パイロットの卵というのは、訓練の過程で、いつもイメージ・トレーニング法を
使うという。
簡単な例では、たとえば頭の中に飛行機を思い浮かべ、その飛行機が横風を
受けて、流されていく様子など。
そういうイメージを描きながら、自分はどう飛ぶべきかを、頭の中でトレーニング
する。
私も幼児教室で、このイメージ・トレーニン法を多用している。
たとえば、私が何を言っても、「やりたい!」と子どもたちに言わせる。
大声で言わせるのが、コツ。
「お手伝いをしたいか」「やりたい!」
「ひらがなの勉強をしたいか」「やりたい!」
「お母さんを助けたいか」「やりたい!」と。
(「YES!」「NO!」と言わせるときもある。
「いやだア!」と大声で連呼させるときもある。)
反対に、「いやだ!」と言わせるときは、こうする。
「ゴキブリの天ぷらを食べたいか」「いやだア!」
「ミミズのラーメンを食べたいか」「いやだア!」
「ねずみのウンチのから揚げを食べたいか」「いやだア!」と。
こうしてはずみをつけたあと、少しずつ、内容を現実に近づけていく。
「タバコを吸ってみるか」「いやだア!」
「ちょっとおじさんと、遊びに行かないか」「いやだア!」
「いいところへ連れていってやるから、車に乗ってよ」「いやだア!」と。
(実際の指導風景は、YOUTUBEのところどころに、収録してある。
興味のある人は、そちらを見てほしい※。)
●トラウマつぶし
こうして子どもたちの脳の中に、前向きな潜在意識を作っていく。
同時に、それを自分自身に応用してみる。
何かのトラウマがあったとしても、(もちろんそれが何であるかを、先に
知らなければならないが……)、そのトラウマをつぶす。
これを私は勝手に、「トラウマつぶし」と呼んでいる。
たとえば私は、幼稚園に勤め始めたころ、できの悪い子どもが苦手だった。
そういう子どもに接すると、そばにいるだけでイライラしたこともある。
しかしそれでは仕事にならない。
数か月や半年は、ごまかすことはできても、そこまで。
そのうち子どものほうが、「林先生は嫌い」とか、「幼稚園へ行きたくない」とか
言い出す。
そこで私は、(実のところ、5~7年もたってから、それに気づいたのだが)、
初対面のとき、「この子はいい子だ」と、自分をだますようにした。
「この子はすばらしい」「この子は伸びる」と。
それ以後、見違えるほど、子どもたちの表情が明るくなったのを覚えている。
教えるのも楽になった。
で、今でも、そうだ。
……というより、今は、自然な形でそれができる。
だから私が教えている子どもは、例外なく、どの子どもも、表情が明るい。
(表情が明るい子どもにするのが目的だから、当然のことだが……。)
その様子も、YOUTUBEに収録してあるので、ぜひ、見てほしい。
反対に、その子どもの中に、何らかのトラウマを見つけたら、この方法で
つぶす。
先に、文字に対して拒否反応を示した子どもについて書いた。
レッスンが終わったとき、母親には、こう言って指導した。
「あとは、家で、おおげさにほめてあげてください。
じょうずに読めたね。
お母さんが、うれしかったと言うだけで、効果があります。
お父さんの前でそれを言うと、もっと効果的です」と。
子どもを伸ばす、本当の力は、子ども自身の内部にある。
その内部を、教育する。
「それが幼児教育」とまでは断言できないが、ここに書いたことはまちがっていない。
あとは、子ども自身が本来的にもつ力で、伸びていく。
「子どもを伸ばすには」というテーマで書いたつもりだが、何ともまとまりのない
原稿になってしまった。
切り口をまちがえた。
八つ当たりから、話を始めたのが、まずかった。
ボツにしようかと考えたが、このまま発表する。
ごめんなさい!
(注※:YOUTUBEへは、私のHPのトップページより、「BW公開教室」へ。)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●映画『沈まぬ太陽』
静岡県では、今日、参議院議員の補欠選挙がある。
その投票に行く途中で、この文章を書いている。
(もちろん車の中で……。)
が、道路が、日曜日ということもあって、大渋滞。
少しイライラしていたら、ワイフが、「このまま映画に行かない?」と。
こういうとき、夫は、妻に従うのがよいそうだ。
先日買った雑誌(「プレジデント」)に、そう書いてあった。
熟年離婚の危機はかろうじてかわしたが、安全圏に入ったわけではない。
「時間的には、『沈まぬ太陽』がいいわ」ということで、そのまま劇場へ。
投票は、劇場からの帰りにすますことにした。
●日本映画
日本映画のつまらない点は、自然ぽさがないところ。
役者の個性を利用するというよりは、無理な役作りをするところにある。
知性の感じさせないような人が、科学者の役をしたり、スケベそうな男が、
正義を説いたり……。
その(無理)が、映画を、つまらないものにする。
先日も、「火TENの城」というのを見てきたが、途中で出てきてしまった。
ああいう(できすぎた映画)を見ていると、かえって不愉快になる。
何もかも、頭の中で先に予想ができてしまう。
「このつぎは、こうなるぞ」と。
そのとおりに、役者が演じ、ストーリーが運ぶ。
だからおもしろくない。
(この間、『沈まぬ太陽』を見た。長い映画だった。)
●『沈まぬ太陽』
主演の渡辺腱(父親役)と、名前は知らないが、息子役の男優。
この2人の演技が、きわだって光った。
よかった。
あとの俳優は、率直に言って、見るに耐えないというか、「これが演技です」
というような演技。
つまらなかった。
たぶん、監督の演技指導のままに演技していたのだろう。
語り方はもちろん、視線のはずし方まで、みな、同じだった。
映画を見れば、どこの航空会社がモデルになっているかは、一目瞭然。
「よく、あの会社が、こんな映画を許可したね」と、何度も、ワイフと言いあう。
最後の結末がさわやかだったからよかったが、もし醜いまま終わっていたら、
訴訟問題になっていたかも。
時期が時期だけに、あの会社にとっては、たいへんまずい。
現在、経営再建中。
内容的には、シリアスな社会派映画を見た感じ。
私も若いとき、M物産という会社にいた。
そういう立場で言うと、「現場は、あんなものではない」というのが、私の感想。
もっと生々しく、毒々しい。
それに日本の映画は、どうしてこうまでお説教がましいのだろう?
お金を出して、劇場まで足を運ぶのだから、もう少しサービス精神を旺盛にしてほしい。
つまり私たちを、楽しませてほしい。
ときに安っぽい論理で、人生観を語られたりすると、その場でシラケてしまう。
見終わったとき、ワイフに私も、こう言った。
「早く、M物産をやめて、よかった」と。
もしあのままあの会社で働いていたら、今ごろは、死んでいるか、身も心も、
ズタズタにされ、私は廃人になっていたはず。
同時に、以前書いた原稿を思い出した。
『休息を求めて、疲れる』(イギリスの格言)という原稿である。
いくつか書いたので、そのまま掲載する。
+++++++++++++++++++++
●休息を求めて疲れる(ロマンを求めて)
いまだに悪夢と言えば、修学旅行のときのものだ。集合時刻が近づく。私は大部屋で寝
ている。皆はすでにカバンを整理して外へ出ようとしている。私は自分の靴がどこにある
かもわからない。トイレはどこだ。まだ朝食も食べていない……。記憶にはないが、多分
私は子どものころ、旅行でそういう思いをしたのだろう。いや、それ以上に私たち団塊の
世代は、どんなことでも、乗り遅れるのを何よりも恐れていた。
前年までのクラスは五クラス。しかし私たちの学年からは、一一クラス。しかも一クラ
ス、五五人平均。粗製濫造とはまさにこのことで、私はサッカーにしても、一チーム、二
五人で戦うものだとばかり思っていた。
確かに私たちの世代は、いつもうしろから何かに押されていた。立ち止まっただけで、
言いようのない不安感に襲われた。はげしい競争。そしてまた競争。こうしてあの会社人
間、仕事人間は生まれたが、そうであってはいけないと思っていても、休暇で一週間も休
みが続いたりすると、それだけで申し訳ない気持ちになる。
私が見る悪夢は、その延長線上にあるにすぎない。「日本は資源のない国だ」「貿易で国を
支えるしかない」「欧米に追いつけ、追い越せ」「立派な社会人となれ」などなど。私たち
はこういう言葉を、毎日のように、それこそ耳が痛くなるほど聞かされた。結果、今のよ
うな日本がなったが、そこでまたふと立ち止まってみると、やはり言いようのない不安感
に襲われてしまう。
そうそうイギリスの格言に、「休息を求めて疲れる」というのがある。「いつか楽になろ
う、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という
意味だが、イギリスでは、愚かな生きかたの代名詞にもなっている。オーストラリアの友
人も、何かのことで私があせっていると、「ヒロシ、気楽にせよ。休息を求めて疲れるな」
と、よく言ってくれた。しかし今になっても、その「休息」はどこにもない。なぜだろう
か。
貯金といっても、底が知れている。退職金などもちろんないが、年金にしても、本当に
もらえるかどうかわからなくなってきた。息子たちにしても、私が世話をすることはあっ
ても、その反対は、まず期待できない。期待もしていない。私はこうして死ぬまで働くし
かない。
話は変わるが私の友人の弟は、四二歳の若さで会社勤めをやめ、退職金をもってマレー
シアへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買って、航海に出たという。「今ごろね、あい
つね、マレーシアで知り合ったフランス人女性と二人で、インド洋を航海しているはずで
す」と。その友人は笑って話してくれたが、私には夢のような話だ。いや、夢ではない。
私にだってできる。いつかはできる。それをしなければ、いつまでたっても、あの悪夢か
ら解放されることはない。
今回は私たち団塊の世代の、挫折とロマンを聞いてもらいたくて筆をとった。この中に
一つの教育論を感じとっていただければ幸いである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●今を生きる子育て論
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、
結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはい
けません」と教えている。
たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。
同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。
そして大学は、よき社会人になるため、と。
こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここで
いう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自
分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になってい
るから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。
「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。
ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽ら
ずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高
校生が自殺に追いこまれるという映画である。
この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置に
ある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あな
たの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未
来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」
の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。
子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。
もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」と
いうことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、その
つどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。
たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。
それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に
追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」
と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。
ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違い
を感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないので
はないか……と、私は心配する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「休息を求めて疲れる」。
イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。
ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、
と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。
私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかっ
た。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味がある
というのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。
だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100
万円は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなけれ
ばならないのか。
未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。
幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学
は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることは
できない。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。
あえて言えば、私にもこんな経験がある。
学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に
行こう」と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれる
ものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。
先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、そ
の気力は消えうせる……?
大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 映画「沈まぬ太陽」 休息を求めて疲
れる 休息を求めて、疲れる 今を生きる子育て論)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●パソコン
パソコンの世界では、つぎつぎと新製品が発売になる。
そのたびに、機能は向上し、デザインもよくなる。
そのたびに、新しいのが欲しくなる。
こういうのをビョーキという。
ドーパミンの分泌がさかんになる。
線条体で条件反射が起きる。
自分でもそれがよくわかっている。
わかっているが、それがなくなったら、私もおしまい。
つまり「欲しい」と思ううちが、花。
たとえばこの2か月ほど、政治に関して、興味をなくしてしまった。
どうでもよくなってしまった。
とくに先の衆議院議員選挙以来、気が抜けてしまった。
が、これではいけない。
……というより、あちこちのサイトを見ていたら、私の原稿が、
いくつかの政治団体で、紹介されているのを知った。
羽田空港問題、成田空港問題について書いた原稿も、それぞれのサイトで、
紹介されているのを知った。
(ついでに旅行記も、紹介されていた。)
それがよい刺激になった。
久しぶりに、政治問題を考えたくなった。
で、最近の話題は、何と言っても、鳩山首相の「東アジア共同体構想」。
ASEANの各国を、日本のワクの中に取り込もうという構想である。
しかしこんな構想は、最初から、うまくいくはずがない。
失敗するに決まっている。
だいたい、「ASEANプラス3」って、何?
「3」というのは、「日本、中国、韓国」の3か国をいう。
3か国といっても、呉越同舟というか、水と油と砂が混ざっているようなもの。
中国を連れていったら、まとまる話もまとまらなくなる。
もともとASEANというのは、中国の脅威に対抗して始まったもの。
韓国だって、どんな下心をもっているか、わかったものではない。
……とまあ、政治問題について書くときは、かなりの(怒りのエネルギー)を
要する。
そのエネルギーがないと、書いていても、つづかない。
途中で、どうでもよくなってしまう。
しかしこのところ、気力が弱くなった。
(怒りのエネルギー)が、あまりわいてこない。
平和というか、平穏というか……。
たとえて言うなら、おいしいごちそうを、腹いっぱい食べたあとのような感じ。
そこで、あえて(怒りのエネルギー)を奮い立たせる。
カーッ!
あのね、鳩山首相。
アメリカを日本から離反させるのは、まずい。
なぜ、この時期に、脱・アメリカ追従外交なの?
一方、どうして今、日本は中国に擦り寄らなければならないの?
日本は、自由主義貿易陣営の一員ではなかったの?
いろいろと問題はあるが、だからといって今、社会主義体制を求めているわけではない。
それになぜ、鳩山首相は、こうも急ぐの?
こうした日本の命運を左右するような外交問題は、じっくりと基盤を固めてからする。
それが常識。
政権を奪ったとたん、「東アジア共同体構想」は、ない。
今、鳩山首相、あなたがすべきことは、官僚政治をつぶすこと。
やりたい放題のことをしている官僚たちに、ストップをかけること。
民主主義を、国民の手に戻すこと。
その本命を忘れて、大きなアドバルーンばかりあげて、どうするの?
こんな稚拙な外交を繰り返していると、自民党が喜ぶだけ。
ついでに中国や韓国が喜ぶだけ。
K国だって、喜ぶ。
怒る前に、何だか、日本の政治が心配になってきた。
もう少しすると、あのASO前首相が、「それ、見たことか!」と、声をあげ始めるかも。
●10月25日の終わりに……
いろいろ考える。
(どう生きるか?)vs(どう死ぬか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(まだがんばれる)vs(だいじょうぶだろうか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(年齢など気にしない)vs(あと10年かな?)。
この2つが、交互の私の心の中で闘う。
おとといの夜も、深夜劇場へ行く途中、足の不自由な人を見かけた。
年齢は私より少し若かった。
50代の半ばごろの人か。
背も高く、ほっそりとした人だった。
脳卒中?
懸命に一本杖で身を支えながら、ゆっくりと歩いていた。
私はその人をよけながら、エレベーターの中に身を隠した。
「明日はわが身?」。
明日はだいじょうぶでも、あさってはわからない。
あさってはだいじょうぶでも、そのつぎの日は、わからない。
1年の命を10年に延ばして、何になる?
10年の命を20年に延ばして、何になる?
明日は明日。
明日は、確実に、そこにやってくる。
たまたまその男の人は、そこにいる。
たまたま私は、ここにいる。
ちがいなど、どこにもない。
ゆいいつのちがいは、私は私の目を通して、その男の人を見ていること。
その男の人は、その男の人の目を通して、私を見ていること。
私がその男の人で、その男の人が私であっても、何も不思議でない。
しかし……。
私は、その苦痛に耐えられるだろうか。
その男の人の目を通して、私を見る私に、耐えられるだろうか。
その自信は、まったくない。
今日の健康など、明日は、あてにならない。
明日はよくても、あさっては、あてにならない。
そう思いながら、ウォーキング・マシーンの上で、歯をくいしばる。
「あと、10分……、あと5分……」と。
私にあるのは、「たぶん、明日もだいじょうぶだろう」という小さな希望だけ。
その希望に、自分をつなげて、今日という1日を終える。
(少し、今夜は暗いかな……?)
みなさん、今日も、楽しい1日をありがとう!
今日は、朝、8時まで寝ていました。
午後に、山荘へ行き、昼寝。
帰りに、パソコンショップで、WINDOW7を見て、
それから書斎へ。
夕食まで、1時間ほど、YOUTUBEで音楽を聴きました。
明日もがんばります!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
【寿命論】
++++++++++++++++++
●労働寿命
「平均寿命」という言葉がある。
「健康寿命」という言葉もある。
健康寿命というのは、健康でいられる年齢をいう。
ふつう(平均寿命)-10年が、健康寿命
と言われている。
だれしも、ポックリと死ぬわけではない。
晩年の10年は、病気との闘いということになる。
それに対して、「労働寿命」という言葉を
私は考えた。
仕事ができる年齢をいう。
これには個人差があるが、おおよそ(健康寿命)-
5年が、ひとつの目安になる。
これで計算すると、現在、男性の平均寿命は、
79歳、女性は86歳(厚生労働省)
だから……、
(健康寿命)…男性、69歳、女性、76歳
(労働寿命)…男性、64歳、女性、71歳
ということになる。
●記憶寿命
が、最近、私は、こんなことを考えるようになった。
人は死ねば、うまくいけば、墓石になれる。
最近は、墓石すらも作らない人が、ふえている。
が、問題は、そのあと。
先日も、車で郊外を走っていたら、小さな墓地を
見つけた。
田舎へ行けば行くほど、立派な墓地が目につく。
が、そこはちがった。
墓石も風化し、文字も読めないほどになっていた。
それを見たときのこと、ふと、こう思った。
「人は、いつまでみなの記憶に残ることができるか」と。
私たちは、死ねば、やがて忘れ去られる。
私の祖父母にしても、私たちの代の者が死ねば、
もうその名前を語られることすら、ないだろう。
父や母にしても、そうだ。
仏事の世界には、33回忌というのがある。
50回忌、100回忌というのも、ある。
しかしそこまでしてもらえる人は、例外中の例外。
ふつう、3回忌を最後に、死んだ人は、急速に
人々の記憶から消える。
そこで私が考えたのが、「記憶寿命」。
●消えていく私たち
たとえば私はこうして、文章にして日々の(思い)
を書いている。
書籍(本)にしても、寿命は、10年前後。
インターネットだったら、もっと短い(?)。
教育の世界で、昔、一世を風靡した人に、
「吉岡たすく」という人がいた。
10年ほど前に、亡くなった。
が、すでに今の若い母親たちは、その名前すら知らない。
ネットで検索してみたが、現在では、1万1000件。
今でも生きていたら、検索件数は、100万件を軽く
超えていただろう。
それくらい知名度の高い人だった。
が、やがて消えていく。
もちろん、私も、あなたも消えていく。
その寿命が、「記憶寿命」ということになる。
●寿命を延ばす
私たちは死んだあと、息子たちや孫たちも含めて、
何年ほど、彼らの記憶に残るだろうか。
残れることができるだろうか。
私自身の経験から言えば、50年を超えることは
まずない。
残ったとしても、ほんの一部の子孫にすぎない。
あとは痕跡もなく、消えていく。
ちょうど、私が見た、あの墓石のように。
で、自分がしていることを振り返る。
何か作品のようなものがあれば、記憶寿命は延びる
かもしれない。
作家や画家などは、そうして記憶寿命を延ばす
ことができる。
しかしそれにしても、あくまでも(結果)。
結果として残るだけ。
私にしても、「今を生きるために」、ものを書いている。
死んだ後のことは、ほとんど考えていない。
人々に支持されれば、記憶寿命は延びる。
支持されなければ、そのまま消える。
私のHPにしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
プロバイダーへの更新料を払わなければ、そのまま消える。
無料のHPサービス会社にしても、「~~か月、更新が
なければ、削除します」というのが、多い。
長くて、1年。
10年を超えることは、まず、ない。
今、こうして書いている文章にしても、私が死ねば、
1年足らずで消える。
(残さなければならないような文章でもないが……。)
だれかが引用してくれれば、その人のHPや、BLOG
で生き残ることはできるかもしれない。
しかしその人も、私と同じ運命をたどる。
こうして、私は、今、こう考える。
今のように仕事ができるのも、あと5年?
生きていられるのも、あと15年?
そのあと、30年もすれば、跡形もなく、消える?
それで私の「命」はおしまい。
●「形」から「心」
……とまあ、ネガティブに考えれば、お先真っ暗
ということになる。
しかしこれは私のやり方ではない。
そこでこう言って自分に言い聞かせる。
私の肉体、文章も含めて、「形」は消える。
それはもう事実。
が、私の書いた文章を読んだ人の中には、何かが残る。
その残ったものが、別の形になる。
別の形になったものが、こうして順送りに、未来に
つながっていく。
もちろんそのときは、「はやし浩司」の名前は、
どこにもない。
しかし、それでもよいのではないか、と。
大切なのは、(形)ではなく、(心)。
あの墓石の人にしても、そうだ。
先にも書いたように、今では、その名前すら読めない。
しかしその子孫の人は、その近くにも住んでいるはず。
そして何らかの形で、その人の(心)を残しているはず。
それでいい、と。
しかしそれにしても、この一抹のさみしさは、
いったい、どこから来るのか?
「生きる」ということは、そういうことであって
よいのか?
「死ぬ」ということは、そういうことであって
よいのか?
何かもっと別の考え方があるような気がする。
しかし今の私には、まだそれがわからない。
●補記
ついでに書く。
若いときには、その時計の音は聞こえない。
しかし60歳も過ぎると、その音が聞こえてくる。
「寿命時計」という時計の音である。
カチコチカチコチ……、と。
その心境は、時計を飲み込んだワニに追いかけられる、
フック船長(ピーターパン)のそれに似ている。
時計の音におびえて、逃げ回る……。
一説によると、作者のジェームズ・バリーは、
それによって、時間に追われて仕事をする現代人を
象徴したという。
しかしジェームズ・バリーがそこまで考えて
いたかどうかは別として、こうも言える。
つまりあの時計は、刻々と時間が短くなっていく
老人の心境を象徴している、と。
今の、私がそうだ。
もっともそういう心理状態を、「強迫観念」という。
心理学の世界では、そういう言葉を使って、説明する。
何かにおいまくられているような心理状態をいう。
その強迫観念ほどおおげさではないにしても、
しかしそれに近い。
「生きるということは、時間との勝負」。
そう考えることも多い。
たとえば私は、満65歳を過ぎたら、再度、
宗教論に挑戦するつもりでいる。
宗教論といっても、カルト教団との戦いをいう。
「どうして65歳?」と思う人もいるかも
しれない。
しかしそれまでは、今しばらく、静かにしていたい。
この世界でカルト教団を相手に、宗教論を書く
ということは、命がけ。
周囲が騒然としてくる。
それを覚悟で書くことができるのは、65歳と
いうことになる。
何とかそれまで脳みそが、健康であればよい。
肉体の方にも、がんばってほしい。
だから「時間との勝負」ということになる。
私が「寿命」という言葉にこだわるのは、
ここにある。
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 寿命論 健康寿命 労働寿命 記憶寿命 はやし浩司 寿命 091
026)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●A氏の再婚問題
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私の知人に、再婚問題で苦労している人がいる。
現在、年齢は、60歳。
自営業。
娘は2人いたが、嫁いで、今は独り暮らし。
妻は、15年ほど前、事故で死亡。
近所の人の話では、自殺したという説もある。
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●再婚の条件
その知人のばあい、50歳を過ぎるころから、再婚の話が、たびたび、もちあがった。
しかし条件がきびしかった。
その男性を、A氏としておく。
A氏の求める女性は、(1)40代(自分の年齢より、10~15歳、若いこと)。
つぎに(2)できれば初婚。再婚でも、子どものない人、ということだった。
しかしこんな条件で、再婚に応ずる女性は、い・な・い!
女性の立場で考えてみれば、それがわかる。
A氏は、自分の老後を心配して、再婚を考えている。
つまり妻を、老後の家政婦か介護士か、その程度にしか考えていない。
さらに具体的な記事が、『プレジデント』(09年10月号別冊)にも載っていた。
「こんな男は結婚できない」というタイトルで、5つの項目が並べられている。
(1) 会社の地位や肩書にのみ、存在価値を見だす。
(2) 己の年齢を顧みず、10歳以上若い女性に固執。
(3) 介護や家事要員としての妻を求める。
(4) 服装や見かけに無頓着で、所作にも若々しさがない。
(5) 離婚の被害者意識にとらわれ、前妻の悪口ばかり言う。
A氏のケースでは、このうちの(2)と(3)に該当する。
●家父長意識
さらにA氏について言えば、最大の問題点は、家父長意識が強すぎるという点。
「夫が上で、妻が下」という、封建時代の亡霊をそのまま引きずっている。
それが問題。
A氏の母親は、7、8年前に他界。
近所でも評判の、気の強い女性だった。
そのため嫁・姑戦争が、絶えなかった。
が、今でもA氏の愛唱歌は、森進一の『おふくろさん』。
「母の悪口を言うヤツは、許さない」も、口癖。
あなたが女性なら、こんな男性との結婚を考えるだろうか。
雑誌「プレジデント」は、こうも書いている。
「(最低でも)年収が800~1000万円。さらにいくつかのハードルがある」と。
こうなってくると、再婚は、ますますむずかしい。
が、A氏にはそれがわからない。
加齢とともに、人は腰が低くなるものだが、A氏は逆。
ますます威張りだしている。
家父長意識というのは、わかりやすく言えば、上下意識をいう。
娘たちの嫁ぎ先の両親が、自分より若いこともある。
そのため、盆暮れのつけ届けを、自分では出したこともないのに、相手からそれが
届かないと、「無礼だ」「失敬だ」と言って、怒る。
これでは娘たちでさえ、実家に寄りつかなくなる。
……ということで、再婚話が、現れては消える。
それを繰り返している。
が、これは私たちの世代の男性にとっては、切実な問題。
まさに「明日は我が身かな」。
私「ぼくは、お前が死んだら、さっさと再婚するよ」
ワ「そうね、あなたは、ひとりでは生きられない人だから……」
私「でもね、相手はいないよ」
ワ「そうね、62歳だからね」
私「だから、決めた!」
ワ「何を?」
私「どんなことがあっても、ぼくは、お前より、先に死ぬ」
ワ「そうね、それしかないわよね」と。
しかしどうすれば、自分やワイフの寿命を調整できるのか。
人間というのは、因果な動物。
生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
生きたいと思っても、それができない人もいれば、死にたいと思っても、
それができない人もいる。
50代以上の男性の再婚には、そういう問題も隠されている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 再婚問題 男性の再婚 50代の再婚)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●小さな別れ、2つ
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今日、小さな別れが、2つあった。
ひとつは、山鳩の雛(ひな)が、どこかへ行ってしまったこと。
もうひとつは、もっとも愛用していた、小型のパソコンを、
生徒の1人にあげてしまったこと。
しんみりとした、さみしさが、そのつど、スーッと心の中を駆け抜けた。
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●山鳩
私の庭に野生の山鳩が住みつくようになって、もう20年以上になる。
もっと長いかもしれない。
私は、ほとんど毎日、庭に餌をまいている。
最近では、私たちの姿を見ても、逃げない。
ときに私たちの数メートル先で、餌を食べることもある。
その山鳩。
ときどき「ドバト」と書いたが、これはまちがいだそうだ。
ドバトというのは、街の中で飛び交う、あの鳩をいう。
私の家に来るのは、山鳩。
別名、キジ鳩とも言うらしい。
たいへん警戒心の強い鳩で、人間には慣れないと言われている。
で、その山鳩が、毎年、私の庭にある木の上で、巣作りをし、雛を育てる。
が、この5、6年、リスが出没するようになった。
そのせいか、餌は食べにくるが、巣作りは別のところでするようになった。
今年も、そうだった。
雛が庭にやってくるまで、どこでどのようにして雛を育てたか、私たちは知らない。
が、ちょうど1週間ほど前、親鳥たちが雛を2羽連れて、私の家の庭にやってきた。
私たちは、大歓迎した。
いつもより餌をたくさんまいた。
犬のハナには、鳩を襲わないよう、しっかりと言いつけた。
ハナには、それがわかったらしい。
山鳩たちが庭へ来ると、自分は、犬小屋の中に身を潜めた。
ところで、ふつう山鳩は、2個の卵をかえす。
ほかの山鳩のことは知らないが、私の家ではそうである。
その中で巣立つのは、1羽だけ。
いつもそうだ。
あとの1羽は、もう1羽に巣から追い出される。
追い出された雛は、地面に落ちて、やがて死ぬ。
もっともその段階で、追い出された雛を私たちが救いあげ、育ててやることがある。
毎年、1羽くらいは、そうしている。
が、今年は、珍しく、2羽の雛を連れてきた。
見ると、栗の木の枝に止まっていた。
尾羽がまだ伸びきっていなかった。
枝から枝へと、移動するのがやっとという雰囲気だった。
近くに兄貴格の雛がいたが、そちらはほぼ自由に、枝から枝へと、飛ぶことが
できた。
が、もう1羽は、枝の上でじっとしていた。
その雛に、数日前、私の手を近づけてみた。
いつもだと、それくらいの大きさでも、山鳩は逃げる。
が、その雛は逃げなかった。
私の指先に乗った。
うれしかった。
かわいかった。
それからというもの、毎朝起きると、いちばんに庭へ出て、その雛をさがした。
そのつどキーウィの木とか、栗の木に止まっていたが、だいたいそのあたりにいた。
数日も同じことを繰り返していると、雛は、私をこわがらなくなった。
喜んで指に止まるということはなかったが、指の上でも安心して、目を閉じたり、
羽をつくろったりした。
夜も仕事から帰ってくると、私は庭で、その雛をさがした。
それまでにワイフが雛の居場所を定めていてくれる。
そこを捜せばよかった。
が、今朝、10月26日の朝。
まだ薄暗いうちに起きて、庭に出てみた。
が、雛の姿は見えなかった。
昨夜もあちこちを捜してみたが、見えなかった。
つんとしたさみしさが、心の中をかけぬけた。
で、私はそのまま書斎へ。
いつもの日課をこなした。
それから数時間後。
朝食のとき。
ワイフに呼ばれて、台所へ行くと、ワイフが私の顔を見るやいなや、こう言った。
「いなくなってしまったわ」と。
もう一度、いそうな場所を捜してみたが、やはりいなかった。
「どこかへ行ってしまったみたい」「そうだな」と。
おかしなことだ。
私の息子たちが巣立ったときも、同じようなさみしさを覚えたが、まだその先には、
希望があった。
「いつか帰ってくるだろう」という希望である。
しかし山鳩の雛は、そうでない。
言い忘れたが、山鳩には、山鳩の縄張りのようなものがある。
たとえ自分が産み育てた雛でも、やがて自分の縄張りから追い出してしまう。
そんなわけで、一度巣立った雛は、まれに戻ってくることはあっても、そのまま
どこかへ行ってしまう。
二度と、私の庭に戻ってくることはない。
山鳩の習性というか、これは自然界のきびしい掟(おきて)でもある。
で、今日は一日中、小雨が降っていた。
私とワイフは、何度も、あの雛のことを心配した。
が、である。
午後になって、ちょうど仕事に出通うとするとき、庭に3羽の鳩がいるのが
わかった。
親鳥たちと、兄貴格のもう1羽の山鳩である。
それを見て、「いないか?」と声をかけると、ワイフが、「いないみたい」と。
それがその雛との別れだった。
親鳥たちは、兄貴格の1羽の雛にさえ、もう餌を与えようともしなかった。
自分たちの分だけを食べ終えると、そのまままたどこかへ飛んでいってしまった。
「うちへ来れば、ぼくが餌を食べさせてやるのに……」と、私はつぶやいた。
それが最後だった。
私は職場へと向かった。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
●古いパソコン
もうひとつの別れは、使い古した、愛用のパソコンを、生徒にあげたこと。
使い古したといっても、買ったときは、20数万円もしたパソコンである。
TOSHIBAのSS。
当時としては珍しい、モニターが10インチの超小型パソコンである。
そのときはうれしくて、毎日それをピカピカに磨いて、枕元に置いて寝た。
そのパソコンで、3冊ほど、本を書いた。
私にとっては、思いで深いパソコンである。
ほかにも当時使っていたパソコンが、4~5台残っていた。
が、そちらのほうは、あまり迷わず処分できた。
しかしそのパソコンだけは、処分できなかった。
外観はボロボロ。
が、キーボードの感触は忘れない。
今でも指先に、しっかりとそれが残っている。
で、今は、もっぱら……というより、2008年になってから発売された、
ミニ・パソコンを使っている。
価格はSSの6分の1程度だが、性能は、最近のミニ・パソコンのほうがダントツによい。
が、それでも、愛着というのは消しがたい。
そのミニ・パソコンを使っていたら、NY君(小4)が、「いいなあ、先生は
パソコンをたくさん、もっていて……」と。
「全部でいくつくらい持っている?」と聞いたので、「7台くらいかな」と、私が
答えたときのことだった。
私はその言葉に、ググーッときた。
つい数週間前には、今年の4月に買ったミニ・パソコンを、中3のOKさんに
あげたばかり。
内心では、あげようか・どうしようかと、大きく迷った。
しかし顔にはそれを出さないで、一通り、TOSHIBAのSSから、個人情報を
消した。
そのあと、NY君にこう言った。
「このパソコン、あげようか?」と。
とたんNY君は、目を輝かせた。
「いいのオ!」と。
私「ああ、でも、これではインターネットはできないよ。
ワープロとか、ゲームはできるけど……」
N「うん……」と。
こうして私は今日、TOSHIBAのSSを手放した。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
「これでいい」と、同時に、何度も、言い聞かせた。
長くつきあった友に、別れを告げたような気分だった。
……こうして今日、私は、2つの小さな別れを経験した。
小さな別れかもしれないが、心の奥までジンと響いた。
あとどれだけの人生か、私にはわからない。
が、一生、この2つの別れは忘れないだろう。
長調の二重奏。
ゆっくりとしたテンポの、やさしい曲。
この文章を書いている今でも、その音色が、心の中で響いている。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司
●迷い
私はよく迷う。
たとえばたった今も、こう迷った。
「こんなことをして、何になるのだろう」と。
YOUTUBEに、昨日の教室の様子を、UPLOADしたときのことだった。
しかしやるしかない。
笑いたい人がいたら、笑えばよい。
アホなことをしていると思う人がいたら、そう思えばよい。
そういう人にかぎって、自分では何もしない。
平凡は美徳かもしれないが、穴の中に引っ込んでいたら、何もできない。
何かをするためには、穴の中から出る。
私は私。
あとの判断は、他人に任せればよい。
つまらないものでれば、やがて消える。
そうでなければ、生き残る。
それを決めるのは、私ではない。
ただ言えることは、「これが私の人生」ということ。
だれの人生でもない。
私の人生。
迷いながら、そう言って自分に言い聞かせる。
言い忘れたが、消えたところで、どうということはない。
どうせみな、消えるのだから……。
●日本の「円」
日本政府は、「円」を、世界中にばらまいている。
ジャブジャブどころか、まるで……。
「ジャブジャブ」以上のジャブジャブ。
「ジャブジャブ」以上の言葉は、ない。
そのこともあって、円の為替レートが、メチャメチャ。
今、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、ふつうのホテルの一泊するだけでも、
日本円で、4~5万円はかかる。
ヨーロッパでもそれくらい。
外国のホテル代が高いのではない。
日本の(円)が、安い。
安いというより、価値がない。
価値がさがった。
今はまだよい。
日本の(円)は、かろうじてという状態だが、国際通貨として通用している。
世界中の人が、(円)を、ほしがっている。
しかしこんな状態は、いつまでもつづかない。
先日も、千葉市に住む息子を訪ねてみた。
市の中心部にあるホテルに泊まった。
一泊、2人で、1万4000円(食事なし)だった。
ほどほどの料金だった。
が、あたりを散歩してみて驚いた。
近くに焼き肉店があったが、どれも4000~5000円。
そんなメニューばかり!
関東地方は、物価が高い。
物価が高いというよりは、インフレがジワジワと進んでいる。
それは知っていた。
しかし千葉市までそうだったとは、知らなかった。
こうした流れは、やがてこの浜松市にも及んでくるはず。
時間の問題。
わかりやすく言えば、手持ちの資金の価値が、どんどんと目減りしているということ。
「貯金が500万円から1000万円になった」と喜んでいたら、実際の価値は、100
万円しかない。
そういう状況になりつつある。
本来ならレートを調整するために、円高に向かわねばならない。
オーストラリアのホテルでも、一泊、1万4000円程度で泊まれるようにならなければ
ならない。
が、もうメチャメチャ。
日本政府は、こうした(メチャメチャ)を、どのように考えているのか。
このままでは、一度、急速な、今までに例がないほどの速度で、円高が進み、そのあと日
本の(円)は、大爆発する。
大爆発して、日本中を、猛烈なハイパーインフレが襲う。
それこそ焼き肉一皿、1万円。
あるいは10万円。
そうなる。
あるいは(その時)は、すでに始まっているのかもしれない。
不気味。
想像するだけでも、ぞっとする。
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2009年10月27日火曜日
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