2009年10月21日水曜日

*Three Essays






☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 20日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
* ***********************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page011.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


● 子どもの識字能力テスト

+++++++++++++++++++++++

文字を読めない子どもがいる。
読んでも、文の内容を理解することができない。
文を文法的に分解できない。
そのため文が構造としてもつ意味を、論理的に
頭の中で組み立てることができない。

程度の差もあるが、全体の5%(20人に1人)は
いると言われている。

このタイプの子どもで悲劇的なのは、その子ども自身
がもつ問題もさることながら、まわりの人たちが
それに気づかず、その子どもに、無理をすること。
それがあるかぎり、その子どもはその苦痛と、ひとりで
闘わなければならない。

具体的には、小学2、3年になってから、算数の
文章題が読めないなどといった症状をともなって、
それとわかるようになる。

現在、識字能力障害をもつ子どもは、LD児(学習障害児)
として扱われることが多い。
しかし文章を読解できないということで、その影響は
ほかのすべての教科に影響を与える。

さらに、無理な学習、強制的な学習が日常化して
いるため、(文字嫌い)→(読み書きが苦手)→
(本嫌い)→(無理な学習、強制的な学習)→
(ますます文字嫌いになる)という悪循環がつづく。

そのため識字能力障害については、そういう子どもで
あると、できるだけ早い段階で発見し、適切な対処
が必要となる。

ただ残念なことに、現在、こと識字能力害者に
ついては、先にも書いたように、LD児として
取り上げられることが多く、またその範囲での
指導しかなされていない。

識字能力障害者対する適切な指導法は、まだ確立
されていない、

そこでまず診断法の確立ということになる。
筆者は、小学2年生(満8・0歳児)
を対象にした、テスト法を考案してみた。

+++++++++++++++++++++++

【識字能力障害・判別テスト法】(小学2年生(満8・0歳児)用)

【テスト方法】

● (重要)「口をしっかりと閉じて読んで、答えてください」と強く指示する。
無音であっても、口をモゴモゴさせる、口を開くなどの動作が見られたら、
強くそれを制止する。
「声を出さなければ、読解できない」と子どもが言っても、無視するか、
改めて、「口をしっかりと閉じて読んで、答えてください」とだけを繰り返す。
  
★読解判断力

【問】

 おとといのよる、ぼくの お父さんが、「あした、みなで 海へ 行こう」と言いました。
お母さんも いっしょに行くと言いました。 それで みなで したくをして、つぎの日、
海へ行きました。 今日は 8月10日です。 海へ 行ったのは、なん月なん日ですか。

【答え】 (  月  日)

★論理判断力

【問】

 Aのスイッチを、おすと、Xのライトが、つきます。 Bのスイッチを おすと、Y
のライトがつきます。 しかしCのライトを おすと、Xのライトが ついているときは、
Xのライトは、きえます。はんたいに、Yのライトが きえているときは Yのライトが
つきます。 いま、わたしは、(A)→(B)→(C)の じゅんに スイッチを おしま
した。 いま、ついている ライトは、どれですか。

【答え】 (  )のライト

★文章理解力

【問】わたしは おかあさんと おかあさんの ともだちと 3人で ちかくの みせで
くだものと やさいを かいましたが、 かえりに おかあさんの ともだちの こども
に あったので、 おかあさんが そのこどもに かったばかりの バナナを 1ぽん
あげました。 こどもに バナナを あげたのは だれですか。

【答え】(          )

★計数問題

【問】お父さんは、りんごを3こ、みかんを2こもっています。お母さんは、みかんを1
こと、ももを3こもっています。わたしはももを2こ、りんごを3こもっています。みん
ながもっている くだものを あわせると、いちばん おおいのは、なにですか。

【答え】(          )


(注)調査結果は、後日、公表する予定。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 子どもの識字能力 識字障害 読解力 文を読めない子供 識字
能力テスト 子供の障害)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【書くことの意義】

●文章論 

文字が発明された。
文字がつながり、文章となり、意思の伝達方法となった。
そのとき、人は、石器時代に終わりを告げた。
当時ですら、ある程度の言葉があり、声の届く範囲内では、それなりの意思の伝達はなさ
れたであろう。
しかし文字の発明により、その範囲は恐ろしく広がった。
空間的な広がりだけではない。
過去から未来へと、時間的にも広がった。
が、それだけではない。

 論理的な思考は、文章を書くことによってのみ、可能である。
文と文をつなげるもの。
それが「論理」ということになる。
これについても、文章でなくても、論理的な思考は、ある程度は可能かもしれない。
しかしあくまでも、「ある程度」。

 このことは、自分で文章を書いてみると、よくわかる。
文章を書くということは、思考の連続。
(考えながら書く)→(書きながら考える)。
この操作を絶え間なく、繰り返す。

 が、そのとき、ひとつ大きな条件がある。
「人に読んでもらう」という条件である。
もちろん日記風に、プライベートな文章を書くということもある。
このばあいは、「人に読んでもらう」という目的はない。
が、それでも、文章にしたとたん、いつかはだれかに読まれることもあるだろうという思
いをぬぐい去ることはできない。
いつもどこかで、他人の目を意識する。

●読者の目

 が、ほとんどの文章は、「人に読んでもらう」ために書く。
たとえば今、私がここに書いている文章にしても、人に読んでもらうために書く。
そうである以上、一応、文章を書くについては、いくつかの作法がある。
その作法の部分で、これまた(考えながら書く)→(書きながら考える)。
この操作を絶え間なく、繰り返す。

●読んでもらう

 若いころ、ある雑誌社の編集長が、こう教えてくれた。
「文章というのは、まず、読んでもらわなければならない。
自分が書きたいことは、ぐいとがまんして、相手が読みたいことを書く。
『あなたは、すばらしい。あなたは、いい人だ』とね。
そしてその一部で、『こういう意見もありますよ』といって、自分の意見を入れる。
一部でも、入れられれば、御の字」と。

 これは雑誌社の編集長の言葉である。
雑誌という本のもつ性質上、そうかもしれない。
雑誌というのは、読者に買ってもらわねばならない。
だからそこに書く文章も、それに応じて、読者が読みたい文章でなければならない。
読んだ人が、気持ちよくならなければならない。
楽しまねばならない。
が、こうした場で、私が書く文章について言えば、そこまで読者に媚(こび)る必要はな
い。
私は私。
しかし、あのときあの編集長が教えてくれた言葉は、今でも、私が文章を書くときの柱に
なっている。
まず読んでもらわなければならない。

 そのためには、当然、読みやすい文章でなければならない。
読んで、読んだ人が、役に立つ文章でなければならない。
書くほうにしても、意味のない、ただの駄文など、時間つぶしにもならない。
つまり、時間の無駄。
そこでやはり、先の言葉に戻る。
(考えながら書く)→(書きながら考える)と。

●書くことの意味

 考えることの重要性については、今さら、改めて書くまでもない。
人は文字の発明によって、石器時代から抜け出ることができた。
が、つぎに考えることによって、それぞれの個人が、ひとり立ちすることができるように
なった。
『考えるから、私は私』ということになる。

 もし考えなければ、人は人の範囲の中で、とどまってしまう。
その範囲で、生まれ、死ぬことになる。
ちょうど北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメであるように、人は人。
一見すると、みな個性的に見える。
それぞれがそれぞれに、好き勝手なことをしているように見える。
しかしその範囲を超えることはできない。
つまりその範囲を超えるために、私たちは考える。

 その道具として、文字があり、文章がある。

●相対的次元

 このことは、反対に、考えない人を見ればわかる。
あるいは文章を書かない人を見ればわかる。
……といっても、その(ちがい)は相対的なもので、上には上がいるし、反対に、下には
下がいる。

 人はより深く考えることができるようになって、はじめて、それまでの自分が、つまら
ない人間であったことを知る。
しかしそこでその人の立場が、固定するわけではない。
さらに深く考えることができるようになると、さらにそれまでの自分が、つまらない人間
であったことを知る。
この繰り返し。

 文章についても、そうである。
つまりこうして人は、そのつどものを書き、ものを考えながら、より高い次元へと到達し
ていく。

●思考の敵

 ところで、考えることには、いくつかの(敵)がある。

その第一が、思考のループ。
その第二が、思考の欠落。

 思考のループというのは、10年、あるいは20年一律のごとく、同じことを考え、同
じ言葉を繰り返すことをいう。

先日も、ある男性(66歳)と話していたら、何を勘違いしたのか、私にこう言った。
「あんたも男だろがア!」と。
久々に、聞いた言葉である。
「……だからそれがどうしたの?」と言いそうになったが、やめた。
私が相手にしなければならないような人ではない。
 
 で、そのあと、こう思った。
「この人は、この40年以上、思考が停止している」と。
今どき、こんな論理をふりかざす人は、少ない。

 また「思考の欠落」というのは、思考力はもちろんのこと、せっかく考えることで得た
知識にしても、日がたつと、脳みその中から欠落してしまうことをいう。
ちょうどモノが欠けるように、ポロッと欠落してしまう。
さらに恐ろしいことに、それが加齢とともに、はげしくなる。
加速する。
たった1か月前のことですら、忘れてしまうということも珍しくない。

●気がつかないまま……

 思考のループにせよ、思考の欠落にせよ、なお悪いことに、そういう状態にありながら
も、それに気づかないということがある。
たとえば何も書かず、何も考えず、ついでに何も読まず、ボーッと、1か月を過ごしたと
する。
 
 その1か月の間、思考はループ状態のまま、同じところをクルクルと回っている。
回っているだけならまだしも、思考の欠落によって、その半径が、どんどんと小さくなっ
ていく。
 が、当の本人が、それに気づくことはない。
「私は私」と思っている。
あるいは、「今の私は、1か月前の私と同じ」と思っている。
しかし実際には、思考は欠落している。

●マイナスの一次曲線

 私はこのことを、ある特別擁護老人ホームに出入りしたときに知った。
要介護度4とか5になってくると、(当時は5段階だった)、大半の老人は認知症を併発し、
家族とですら、満足な会話ができなくなる。
一日中、大声で、「飯(めし)は、まだかア!」と叫んでいる女性もいた。

 が、そうした老人たちにしても、ある日、突然、そうなるのではない。
ある時期から、徐々に、少しずつ、時間をかけてそうなる。
もしその変化を、マイナスの一時曲線で表示できるとするなら、それはひょっとしたら、
満50歳くらいから始まるのではないか。

 このころから、知力、気力、思考力などが、下り坂に向かい始める。
その間に、思考はループ状態になり、思考の欠落が、つぎつぎと始まる。
話し方がぶっきらぼうになったり、かったるくなったりする人もいる。
気がついたときには、脳みそは半減し、さらに4分の1になる(?)。

●恐怖

 考えることの重要性は、何度も書いてきた。
が、(考える)ための方法は、ひとつではない。
ほかにもある。
しかし論理的にものを考えていくとなると、(書くこと)以外に、方法はない。
……と断言するのは、危険なことかもしれないが、私は、そのほかの方法を知らない。

 たとえば先週、私は4~5日の間だったが、スランプ状態に陥ってしまった。
頭の中がモヤモヤとするだけで、何も書けなくなってしまった。
その前に何も考えることができなくなってしまった。
そのときのこと。
私は本当に、自分が、バカになってしまったように感じた。
「いよいよ認知症が始まったか」とさえ思った。
何かこまかい問題が起きても、それを頭の中で整理することすらできなくなってしまった。
同じことをクルクルと、何度も考えているだけで、前に進まない。

 とたん、あの特別擁護老人ホームで見た老人たちの姿が、頭の中に思い浮かんできた。
私にとっては、それは恐怖以外の何ものでもなかった。

●終わりに……
 
 こんな文章を書きながらも、その一方で、論理的な矛盾はないか。
文章に一貫性はあるか。
さらに読者の人に読んでもらって、それに耐えうる文章であるか。
そんなことに、気を配る。
つっこみは甘くないか。
文章に無理はないか。
他人を不愉快にするようなことはないか。
さらに私の書きたいこと、つまり読者のみなさんに伝えたいことが、的確に書けているか。
そんなことを、心配する。

 ……つまりこうした一連の操作が、(考える)ということになる。
(考えながら書く)→(書きながら考える)を繰り返す。
それがタイトルにあげたように、【書くことの意義】ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 書くことの意義 思考のループ 思考の欠落 文章と思考)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司 

●兄弟論

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

『兄弟は他人の始まり』という。
兄弟といっても、他人以上に他人になってしまう人は多い。
たがいに会うことはない。
連絡を取りあうこともない。

兄弟というのは、友人関係のように、一線を引けない。
引けないから、こじれるときには、こじれる。
とことん、こじれる。

親の介護問題がからんで、こじれるケースも目立つ。
相続問題など、金銭問題がからむと、さらにこじれる。
中には、……というより、そういう兄弟のほうが多いが、たがいに憎しみあう人もいる。
「兄貴を見ると、殺意を覚える」と言った男性(40歳くらい)もいた。
「だから兄貴とは、会わない」と。

が、世間一般では、「血のつながり」という言葉を使って、兄弟のあり方を定義づけようとする。
兄弟どうしの反目を許さない人もいる。
「ありえないこと」と言って、吐き捨ててしまう人もいる。
しかし実際には、そうでないケースのほうが、多い。
みな、隠しているだけ。
表に出さないだけ。
世間的に、仲のよいフリをしている兄弟となると、ゴマンといる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

●私のケース

 私には、1人の兄と、1人の姉がいた。
兄は9歳年上。
姉は5歳年上。
年齢差が大きかったということもあって、いっしょに遊んだ経験は、ほとんどない。
子どものころから、相談しあったり、困ったときに、助けあったこともない。
とくに兄とは、ない。
その記憶もない。
姉とも、ない。
もとから希薄な兄弟関係だった。

 で、私は高校を卒業すると、故郷を離れた。
実家へ帰るとしても、年に数回。
会えばいっしょに食事をしたりしたが、その程度。
やさしい兄であり、やさしい姉であったとは思うが、心を通わせるということは、最後ま
でなかった。

 「最後まで……」というのは、最近、いろいろあって、私は姉とは縁を切った。
(兄は、昨年(08年)の夏、他界している。)
「縁を切る」というのは、今後のつきあいは、いっさい、しないということ。
会うこともないし、電話をかけあうこともない。
年賀状を出すこともない。

 理由はともかくも、そういう関係になってしまった。
で、その話を、Aさん(=いとこの1人)に話すと、Aさんは、こう言った。
「浩司君から、そういう話を聞いて、うれしい」と。

 いとこのAさんも、兄弟たちと縁を切って、もう10年以上になるという。
しかしだれにもそれを話せず、体裁をとりつくろってきた。
親戚づきあいをしているようなフリをしてきた。
Aさんには、それが苦痛だった。

一方、私たち兄弟は、仲がよく見えたという。
「浩司君たちは、兄弟、みな、仲がいいと思っていた」と。
私のほうが、それを聞いて、驚いた。

●トラブル

 『家庭内部のトラブルは、外に漏らすな』と説く人は多い。
私も最近まで、ずっと、そう考えてきた。
しかし実際には、どの家も、何らかのトラブルをかかえている。
トラブルのない家庭はないと断言してよいほど、何らかのトラブルをかかえている。
が、みな、話したがらない。
他人に話したところで、どうにもならない。

 だから表面的なつきあいだけを繰り返し、それですます。
体裁をとりつくろう。
しかしそれでは問題は解決しない。
兄弟は、仲がよいほうがよいに決まっている。
だったらみなが、もっと心をオープンにして、この問題と正面から話しあう必要がある。

 ……といっても、私は偉そうなことは言えない。
私たち兄弟については、冒頭に書いたとおり。
それにあえて言うなら、修復しなければならない理由もない。
また修復したところで、何も変わらない。

それをするにも、ものすごいエネルギーを必要とする。
今の私には、そんなエネルギーは、どこをさがしても、残っていない。
平たく言えば、ヘトヘト。
兄弟なんて、うんざり。
たくさん。
こりごり。

●確執

 結論としては、「兄弟は仲よく」という言葉そのものが、幻想ではないかということ。
仲が悪くなって当たり前。
仲がよければ、もうけもの。

 とくに長男(長女)と、その下の兄弟は、仲が悪い。
子どもの世界では広く見られる現象であって、これには親の愛情がからんでいる。
長男(長女)は、下の弟(妹)が生まれることによって、愛情の半分を奪い取られる。
そのときから、兄弟の間に、深い亀裂が入る。
「仲よくしなさい」と言う方が、無理。
中に、仲のよい兄(姉)を演ずるケースもあるが、たいていは反動形成※によるもの。
仲がよいフリをすることによって、兄(姉)は自分の立場をとりつくろう。

(※反動形成…表面的な体裁をとりつくろうため、本当の自分とは正反対の自分を、外面
的に形成すること。弟や妹が憎いにもかかわらず、やさしい兄(姉)のフリをするのが、
それ。)

●保護と依存

 兄弟姉妹にかぎらず、仲がよくなるためには、それなりのプロセスが必要である。
簡単に言えば、苦楽を共にする。
そうした共通の経験の積み重ねがあってはじめて、たがいの間に「血」が流れ始める。
その「血」もないまま、ただ戸籍上の人間関係だけで、深い人間関係を求めても意味はな
い。
ないばかりか、ときとばあいによっては、その人をかえって苦しめることになる。

 私の兄にしてもそうだ。
めんどうをみるのは、私。
みてもらうのが当然と考えるのは、兄。
こうした保護、依存の関係が、かなり早い時期にできあがってしまった。

 最初は、それなりに感謝される。
しかしそれは長くはつづかない。
やがてそれが当たり前になり、さらにしばらくすると、今度は、反対に、それを要求され
る。

 こうなると、保護する側の精神的負担は、ますばかり。
しばらく放置しておくと、今度は、泣き落としにかかってくる。
「援助がなければ、生きていかれない」というようなことを言い出す。
1年や2年ならともかくも、そういった状況が、10年単位でつづく。
20年単位でつづく。

 これは私の経験だが、経済的負担感というより、それによる社会的負担感には、相当な
ものがある。
良好な人間関係が基礎にあれば、まだ救われる。
それがないと、故郷に足を向けるだけで、息がつまる。
私は、それに苦しんだ。

●本能vs理性

 もちろん仲のよい兄弟、姉妹もいる。
しかし先にも書いたように、そこに介護問題、相続問題などがからんでくると、その関係
は、一気に崩壊へと向かう。
裏で金銭問題がからむ。
それが兄弟、姉妹関係をぎくしゃくさせる。

 そういう意味でも、人間の欲望には、恐ろしい魔力がある。
それこそ(血のつながり)ですら、粉々に砕いてしまう。
その魔力と闘うのは、容易なことではない。
ふと油断すると、その泥沼に足を取られてしまう。
日ごろ、高邁な理想論を説いている人でも、この問題は、別。
夏目漱石の「心」を例にあげるまでもいない。
つまりあの夏目漱石も、同じ問題で苦しんだ。

 なぜか?

 管轄する脳みそがちがう。
欲望は、脳の中心部にある、視床下部あたりから発せられる。
一方、人間の理想は、前頭連合野が管轄する。
言うなれば、欲望は、本能と深く関連している。
一方、人間の理性の力には、限界がある。
どこかの大学の教授ですら、手鏡を使って、若い女性のスカートの下をのぞく。

●私のばあい

 ここで姉のことを書くつもりはない。
しかし私が選んだ方法は、「遠ざかる」。
イギリスの格言にも、『2人の人に、いい顔はできない』というのがある。
争うのもいや。
話しあったところで、何も生まれない。
姉も変わらない。
私も変わらない。

 だったら、遠ざかる。
……ということで、「縁」を切った。

 ……といっても、何もあえて敵対しているわけではない。
姉には姉の人生がある。
同時に私には私の人生がある。
40年以上も離れて暮らしていると、価値観も違ってくる。
「水と油」というほどではないが、それに近い関係になってくる。

 姉には、生涯、私の考え方は、理解できないだろう。
反対に、私の考え方を理解してもらうためには、何十年もかかるだろう。
あるいは、不可能。

 私は高校を卒業すると同時に、金沢に住み、韓国、オーストラリアに渡り、大阪で商社
マンになった。
そののち、浜松に住むようになり、今のワイフと結婚した。

 一方、姉はそのまま郷里に残り、さらに山の中に住む農家の男性と結婚した。
そんな私と姉が、理解しあえるはずがない。
姉にすれば、私は、とんでもないほど非常識な男ということになる。
それが私にも、よくわかっている。

●遠ざかる

 親子の確執、兄弟、姉妹との確執に苦しんでいる人は多い。
本当に多い。
ウソだと思うなら、インターネットで検索してみるとよい。
そういう書き込みが、ズラズラと出てくる。
今では、親子どうし、兄弟どうしが、裁判で争っているケースも少なくない。
 
 が、私のばあい、それ以上に、「時間」が貴重。
今までの10年間が、あっという間に過ぎたように、これからの10年も、あっという間
に過ぎるだろう。
それを思うと、今は、もう無駄にできる時間はない。
平たく言えば、わずらわしいことは、避けたい。
だから「遠ざかる」。

 悲しいことだが、(本当は、悲しいなどとは、全然、思っていないが……)、それもひと
つの人間関係。
親子でも、兄弟でも、最後は人間と人間の関係。
それで決まる。

「親だから……」「兄弟だから……」と、『ダカラ論』にしばられることはない。
『ダカラ論』というのは、もともと意味のないエセ論理。
一見、論理風に見えるが、合理性は、何もない。
だったら、ありのままを、ありのままに生きればよい。
無理をすれば、疲れるだけ。
神経を、すり減らすだけ。
兄弟、姉妹関係も、その中のひとつにすぎない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 兄弟関係 兄弟との確執 家族論 はやし浩司 だから論 家族
の確執 親子の確執 兄弟論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●武士道(1)

+++++++++++++++++++++++

けっして、死を美化してはいけない。
生を美化することはあっても、死を美化してはいけない。
私たちは、まず、生きることを考える。
生きて生きて、生き抜く。
死はその結果としてやってくるかもしれないが、
そのときは、そのとき。
死の向こうには、何もない。
そこは太虚の世界。
だから、死を美化してはいけない。

武士道を一言で言えば、その底流にあるのは、
死の美学ということになる。
武士の象徴が、「刀」にあるとするなら、その
刀は、人を殺すためのもの。
この原点を踏み外して、武士を論じてはならない。
武士道を論じてはならない。

新渡戸稲造は、「武士道」の中で、あの赤穂浪士を、
最大限の言葉を使って、称賛している(「武士道の世界」
イースト・プレス)。

「義士と呼ばれるこの正直な率直な男子たちの徳は、
宝石のように光り輝き、人々のもっとも高く、褒め
讃えたものだったのである」と。

+++++++++++++++++++++

● 真の勇者(?)

新渡戸稲造は、真の勇者について、こうも書いている。
「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」(同
書、P18)と。

 私は一度は、新渡戸稲造の「武士道」を一度は読破しなければならないと、思ってきた。
しかしその機会はなかった。
(20年ほど前、一度、目を通した記憶はあるが……。)
断片的な知識はたくさんもっている。
しかしそれらは、断片的なものでしかない。

 で、今度、コンビニで、イースト・プレス発刊の「武士道の世界」という本を買ってみ
た。
サブタイトルに、「誇るべき日本の原点」とあることからもわかるように、この本は、武士
道を礼賛する内容の本である。
そういう本を使って、私なりに武士道のもつ矛盾を指摘するのは気が引ける。
しかし礼賛する本であるがゆえに、私の脳みそに与える刺激も大きい。
1ページ読むごとに、脳の中で、バチバチと神経細胞が火花を飛ばすのを感じた。
が、この本ほど、「死」「自害」「討ち死に」「戦」という言葉が並ぶのも、そうは多くない。

 「武士道の真髄」(P181)というところを紹介する。
「真髄」とあることからもわかるように、武士道の根幹を説明したものである。

+++++++++++++++++++

『武士道といふは、死ぬ事と見付けたり(葉隠)。

 このあまりにも衝撃的で有名な言葉は、山本常朝が口述し、田代陣基が筆記、編纂した
『葉隠』の冒頭に記された、武士道の真髄を表すものだ。
 主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の武士であるという
心得を説いている。
 「武士は生と死、どちらかを選ぶ場合、必ず死を選ばなければならない」のである。
 「生き恥をさらす」と言われるように、この時代の武士道精神においては、戦に勝てな
いときは、死ぬことで忠義を果たさなければならないと考えられていた。
 しかしこの言葉には、さらに深い意味がこめられている。
生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、その武士は本分を全
うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教えだと言えるだろう』
と。

++++++++++++++++

●命を捧げる

 この部分を読んだとき、まっさきに頭に浮かんだのが、K国の金xx。
あの独裁者。
金xxが読んだら、涙を流して喜ぶにちがいない。
あの国では、幼稚園の子どもですら、「金xx将軍様を、命をかけて守ります」と連呼して
いる。
おとなたちは、「死守」という言葉を使っている。

 それはさておき、「主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の
武士である」という部分だけでも、バカげている。
もしあなたがまともな思考力をもっている人なら、あなたもそう感ずるだろう。

 主義や理想、正義や真理のためなら、命をかけることはある。
しかし「命をかける」イコール、「命を捧げる」ではない。
いわんや、相手が、人間である、「主君」?
こういう思想を、私の世界では、「隷属思想」という。

●主君の主君は?

 学生のころ、友人と、こんな議論をしたことがある。

 「主君に主君がいたら、そのばあいは、どちらに命を捧げるのか」と。

 つまりあなたの仕える主君が、あなたの住む領地を治める領主だったとする。
当然、その領主には、彼が主君とあがめる、藩主がいる。
藩主の上には、将軍がいる。

 こういうばあい、あなたという家来は、藩主や将軍に命を捧げる必要はない。
何かを命じられても、それに従う必要もない。
あなたの主君は、あくまでも領主。
領主の命令だけを聞き、その領主のために、命を捧げる。

 もう少し話をわかりやすくするために、会社組織で考えてみよう。

 あなたが営業課の係長だったとする。
あなたの直接の上司は、営業課の課長。
そんなある日、営業課が入っている制作部の部長から、直接、あなたに命令が届いた。
つまり課長の頭を通り越して、あなたに命令が届いた。

 こういうケースのばあい、あなたはその部長の命令に従う義務があるのか。
それともないのか。

 会社によって組織の運営方法が異なるので、「従わなければならない」という会社もあれ
ば、「従わなくてもいい」という会社もある。
しかしこと武士の世界では、主君というのは、先のケースでは、あくまでも領主というこ
とになる。
藩主や、将軍の命令に従う必要はない。
命を捧げる必要もない。

 これが学生時代に、私たちが知った結論である。
そのヒントを与えてくれたのが、ヤクザの世界である。
当時、(今でもそうだが……)、ヤクザの世界には、武士道の精神が、そのまま残っていた。
ヤクザの世界では、直接上にいる兄貴分が、武士の世界でいう主君ということになる。

●主従関係

 もっとも、封建時代の昔ならいざ知らず、「主君に命を捧げる」という発想は、今は、な
い。
主従関係も、西洋の契約説によって決まる。
わかりやすく言えば、「金の切れ目が縁の切れ目」。
給料がもらえなくなったら、そこで主従関係は、消滅する。

 人それぞれだが、私なら、断る。
どう考えても、主君のために命を捧げるという発想そのものが、バカげている。
つまりこんなところにも、武士道が説く、(死の美学)が見え隠れする。

 繰り返すが、死を美化してはいけない。
その延長線上に、戦争がある。
その一歩手前に、特攻隊があり、自爆テロがある。
私たちは死ぬために生きているのではない。
生きるために生きている。

 この本の著者は、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、
その武士は本分を全うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教え
だと言えるだろう」と書いている。

 それにしても、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間……悟りの境地に達する」と
は?
いつの間にか、仏教の教えが、そのまま武士道の精神にすり替えられてしまっている?

●武士の作法

 戦国時代はともかくも、以後、日本は300年という長い年月の間、太平天国の時代を
迎える。
その間に、武士道も、当初の戦闘を目的としたものから、権威づけのための作法の「道」
として変質する。
作法に始まって、作法に終わる。
それが武士道の柱と考えてよい。
いくつかを拾ってみる。

(1) 鞘(さや)当て……武士の世界で、刀と刀の鞘が当たることは、何にもまして「無
礼極まりないこと」だったそうだ。
だから武士どうしは、廊下を歩くときも、左側通行が作法と決められていた。

(2) 手はぶら下げて歩く……いつでも刀を抜けるように、手荷物も持たないし、傘もさ
さない。

(3)妻は後ろを歩かせる……妻と並んで歩くなど、軟弱者の証。
   襲撃から守るという意味もある。(以上、同書)。 

 こうした作法が、ズラズラと、それこそ無数にある。
武士の刀をまたいだだけで、切捨て御免になった人も多いという。
また女性は、武士の刀に、直接手を触れることさえできなかったという。
しかしなぜ、「刀」なのか?

●武士と刀

 武士の人口は、江戸時代においては、5%前後と言われている※。
しかしこの数字には、武士の家族も含まれているため、実際には、刀を差していた武士は、
全人口の1~2%以下だったと推計される。
残りの95%のほとんどが、農民であった。
その1~2%が、為政者として、好き勝手なことをした。
その好き勝手なことをする象徴として、「刀」があった。
武士が刀に執着する理由は、ここにある。

 私はこんな話を、直接、その女性から聞いている。

 私が住んでいる山荘のある村は、400年以上もの歴史のある、由緒ある村である。
その山荘の隣人に、10年ほど前、88歳で亡くなった女性がいる。
いわく、「明治時代に入ってからも、士族の人たちは、このあたりでは刀を差して歩いてい
た」と。

 「刀の鞘どうしがカチャカチャと当たる音が、遠くから聞こえてくると、みな、道路の
脇に寄って、正座し、頭をさげた」と。

 言うなれば、95%の日本人が、5%の武士を支えるために、犠牲になっていた。
そういう世界が、いかにおかしな世界であるかは、あなた自身を、その農民の立場に置い
てみればわかる※。
あなた自身の先祖も、その農民であったはず。
(私の先祖も、農民だった。)

 一生、土地にしばられ、職業選択の自由もなかった。
当時生きていた人たちもまた、私やあなたと同じ人間であった。
犬や猿とは、ちがう。
そういう人たちを原点に考えるなら、「何が武士道か?」ということになる。
さらに言えば、この武士道が、やがてあの戦陣訓へとつながっていく。
それについては、前にも書いた。

 もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価は必要である。
しかしそれがもつ(ネガティブな側面)に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼
賛することは、危険なことでもある。
どうして武士道が、「誇るべき日本人の原点」(本のタイトル)なのか?

 今、武士道を、教育の柱にしようとする動きが活発になっている。
またその種の本が、100万部単位で売れている。
これを民主主義の後退と言わずして、何と言う?
忘れてならないのは、新渡戸稲造が活躍した時代と、同じ時期に、福沢諭吉がいたという
こと。
福沢諭吉らは、やがて明六社に合流し、日本の封建主義を清算しようとした。

 私は、福沢諭吉らのしたことのほうが、正道だと思のだが……。
それに「原点」とは何か?
何も原点にこだわる必要もない。
原点が正しいわけでもない。
大切なことは、おかしな復古主義にとらわれないこと。
私たちはいつも新しい原点を求めて、前に進む。

 ……と、少し頭が熱くなったので、この話は、ここまで。
なお本書(「武士道の世界」)は、つぎのように結んでいる。

 『おわりに……そんな現代であるからこそ、日本人としての精神的意識が必要なのであ
る。
不道徳な世相を嘆いていても何も始まらない。
世界に通じる精神体系・武士道を心に携え、今こそ日本人としてのアイデンティティを世
界に発信してほしい』と。

(※注1)明治6年1月調べ・・・旧武士数は平民の16分の1にして総数408,823戸、
1,852,445人であった。幕末においてもこの数字と大差なかったものと考えられる。人口構
成は概数的に6.25%である。(土屋喬雄「幕末武士の階級的本質」)

 どの藩も武士の数は軍事機密になっていた。したがって、今となってはその人口は、推
計する以外にない(筆者注)。

(※注2) 徒士といえども、家老に対しては下駄を脱がざるをえなかったのが実情で、
城下において百姓町人は、足軽以上に出会えばまず平伏・土下座など屈辱的敬礼を強いら
れた。どの階層に属するか、着衣や服装で判断できる社会の仕組みになっていた。(「社会
構造と現代社会HP」より)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 武士道 武士の作法 武士道精神)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【進歩論】

●2001年のカタログ

 どういうわけか(?)、テーブルの上に、2001年当時の、パソコンのカタログがある。
SONYのVAIOのカタログである。
当時、「買おう」と思って、どこかの店で手に入れたものだろう。

 型番は、「バイオノートFX」(PCG-FX77)。

 仕様を見ると、これが恐ろしく貧弱。
もちろんデザインも古い。

 メモリーは、たったの32KB。(現在は、ノートでも、2~4GBが標準。)
 ハードディスクは、たったの20GB。(200~400GB)
 OSのプロセッサーにしても、たったの750MHz!(1・6~3・0GHz)

 しかし当時としては、最新の、かつ最先端を走るパソコンだった(?)。
つまりこの8年間で、パソコンの世界は、格段に進歩した。

 で、そのカタログを見ながら、では「10年後はどうなっているのだろう?」と考える。
恐らくというより、確実に、現在のカタログを見ながら、同じように思うにちがいない。
進歩というのは、そういうもの。

 そこで進歩論。

●進歩論

 進歩は、つねに麻痺(まひ)を連れだって、やってくる。
進歩を感じても、それは一時的なものでしかない。
内容にもよるが、感動も一巡すると、やがてそれが当たり前になる。
進歩がわからなくなる。
こうして私たちは、(進歩)→(麻痺)を繰り返して、つぎなる進歩を求めて、さまよい歩
く。

 つまり私たちにとって大切なのは、(進歩)そのものではなく、(進歩したという快感を
得ること)ということになる。
もちろんその背景には、企業どうしのはげしい闘いがある。
少しでも手を抜いたら、そのまま相手企業に、追い抜かれてしまう。
SONYにしても、もし2001年で進歩を止めてしまっていたら、今ごろは、完全に倒
産している。

しかしそれを外からながめている私たちは、少しちがった見方をする。
そうしたはげしい競争から生まれる新製品を、(進歩)ととらえ、それを楽しんでいる。
事実、ちょうど10年ほど前、10Gのハードディスクが生まれたとき、私たちは目を白
黒させて、驚いた。

●進歩依存症

 こうした(進歩したという快感)は、依存症に似ている。
たとえば買い物依存症というのがある。
買い物依存症になると、同じものでも、どんどんと買ってしまう。
そのものがほしいから、買うのではない。
(買うこと)から得る快感を、味わうために、買う。
快感を満足させるために、買う。

 が、しばらくすると、つまりその満足感が落ち着いてくると、またその快感を満足させ
たくなる。
脳の線条体に、そのための受容体ができあがると、依存症はさらに加速する。
そのメカニズムは、アルコール依存症、ニコチン依存症と同じと考えてよい。
陳列されているバッグを見ただけで、ググーッと、それがほしくなる。
家に同じものをもっていても、ほしくなる。

 私たちが(進歩)を楽しむ心も、それと同じ。
進歩した新製品を見ると、何とも言えない快感に襲われる。
もちろん、そのものをほしくなる。
しかしある程度時期が過ぎると、その熱も冷めてくる。
そしてそれが当たり前になる。
で、先にも書いたように、私たちは、(進歩)→(麻痺)を繰り返して、つぎなる進歩を求
めて、さまよい歩く。

●限りない欲望

 1000万円の金融資産をもっている人は、つぎに2000万円、ほしくなる。
1億円の金融資産をもっている人は、つぎに2億円、ほしくなる。
いくらあっても、満足するということはない。
(もちろんいくらほしくても、そこには限界はあるが……。)

 同じように、(進歩)にも、際限がない。
今度は、その進歩を楽しむ側(=私たちの側)で考えてみよう。

 10年前には、HPの更新をするだけでも、たいへんだった。
(あくまでも今から思い起こすと、たいへんだったということだが……。)
HPの容量にも限界があったし、FTP送信するだけでも、時間がかかった。
が、今は、その10倍以上の容量を、わずかな時間で送信できる。
新しいサービスも、つぎつぎと登場してきている。

 で、ときどきこう思う。
「進歩したからといって、それがどうなのか?」と。

 たとえば電子マガジンがある。
私は少し遅れてスタートしたが、そのサービスが始まったころには、もの珍しさも手伝っ
て、どんなマガジンを出しても、あっという間に、読者が1000人単位でついたという。
が、今では、毎月、数人ふえる程度。
それでもよいほうだそうだ。
つまり減らないだけ、よいほうだそうだ。

 つまりあまりにも進歩が速すぎて、電子マガジンが、ひとつのジャンルとして定着する
前に、つぎのが始まってしまう。
そのあとに始まった、ブログにしても、ブロフにしても、そうだ。
今、流行しているのは、ツィッターとか、フェイスブック。

 もう少し進歩をゆるめてくれないと、私たちは、ただそれに振り回されるだけで、終わ
ってしまう。
(私自身は、時代が終わったと言われても、かたくなに、電子マガジンの発行をつづけて
いるが……。)

 しかし全体としてみると、(進歩を恨む気持ち)よりも、(進歩を楽しみにする気持ち)
のほうが強い。
かくして、進歩は、これからもつづく。
繰り返しになるが、それは買い物依存症のようなもの。
世界中の人たちが、そうなっている。
私やあなたの力くらいでは、この(流れ)を止めることはできない。
それが、「進歩」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW 進歩論 買い物依存症)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【バッテリーの正しい使い方】

++++++++++++++++++

ロワ社から今度、パソコン用の
予備のバッテリーを購入した。
そのとき正しいバッテリーの使い方を、
メールで送ってきてくれた。

やっとわかったぞ!

……ということで、ここに掲載させて
もらう。

++++++++++++++++++

★★ロワ太郎のバッテリ使用習慣★★★
        
×)バッテリーが届いてから、そのまま放置
◎)バッテリーが到着後、すぐに満充電をし、普通の使用で残量
  が空になるまで使用、その後、再度満充電。
  この充放電の繰り返しを3回~5回する。

×)旅行や運動会などの使用機会がないので引き出しに長期間保管
◎)二週間に一度は取り出し、ご使用なさるのがベストです。
  1ヶ月以上使用しない場合はバッテリーの性能維持の為に、
  30~40%程度の充電残量状態で本体から取り外し、
  冷暗所に保管してください

×)オリジナル(純正品)を使い切ってから
  ロワのバッテリーを予備で使用
◎)オリジナルとロワのバッテリーをお持ちの場合は、交互で
  使用すること。バッテリーは長期間使用しないと、
  バッテリー内の化学反応がなくなる可能性があります。

×)バッテリーをカメラに入れたままで保管
◎)バッテリーを本体に取り付けておきますと、
  本体の電源が切れた状態でも少しずつ放電されます。
  この状態が長期間(数ヶ月以上)続くとバッテリーが
  過放電状態になり、性能が劣化する可能性があります。

×)車の中にそのまま置くこと
◎)炎天下の閉め切った車内など湿度の高い場所で
  バッテリーを保管しますと、劣化が進み、膨張などの
  危険があります。
  バッテリーは10~30℃の場所で保管して下さい。

×)旅行前夜、寝る前にベットのそばのコンセントに充電器を差し、
  不安定な場所で、寝ている間に充電
◎)周りに何もないところで、状況を確認しながら充電してください
万が一、ご使用方法の誤りによってバッテリの落下、温度の高い
場所での保存等で発熱、発火が起きた場合、火災になる恐れがあり
ます

×)商品の調子がおかしい?自分で修理加工してみる
◎)商品を分解、加工した場合、保証対象外となり、また危険が
  起きる可能性もございますので、まず弊社にご連絡ください

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 バッテリーの使い方 予備バッテリー)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。