2010年8月9日月曜日

*Stealing of Children




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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   9日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの「盗み」vs.親心(Regarding: Children's Stealing)

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子どもの自立。
その三種の神器。
それが、ウソ、悪口(悪態)、それに盗み。
奨励せよというのではない。
そういうことがまったくできないほどまで、
子どもを押さえつけてはいけないということ。

子どもは、ウソをついたり、悪口を言ったり、
あるいは盗みをしたりして、おとなの優位性を
打破しようとする。
わかりやすく言えば、自立の第一歩。
その第一歩として、ウソを言ったり、悪口を
言ったり、あるいは盗みをしたりする。

たとえばウソ寝、ウソ泣きがある。
満2歳ごろから始まる。

その「盗み」について、一考。

+++++++++++++++++++++

●はげしい相続財産争い

 M氏(65歳)は、母親(93歳)がなくなったあと、兄弟姉妹との間で、相続に
からんで、はげしい遺産争奪戦を繰り返した。
毎週のように玄関先で、大声で怒鳴りあったという。
たまたま母親が残した農地が、大規模土地開発の一角に組み込まれ、数億単位の宅地に
変身した。

で、結局、その農地は転売され、4人の兄弟姉妹で均等に分けることになった。
が、それ以後、兄弟姉妹の行き来は、完全に途絶えた。

 こうした話を聞くと、ではいったい、遺産とは何か、そこまで考えてしまう。

●子どもの盗み

 先にも書いたように、子どもは、ものをよく盗む。
親のサイフからお金を盗むことにはじまって、中には金庫や、親のカードを使って、
お金を盗む子どももいる。
そういうとき親は、全人格を否定されたかのように、子どもを叱る。
たいてい、狂ったように、子どもを叱る。
少なくとも、盗みを黙認する親はいない。
が、そこでちょっと、待ったア!

 若い親と年配の親とでは、基本的な部分で考え方が大きく異なる。
私も若いころは、息子たちがそういう行為をすると、かなりはげしく叱った。
しかし歳を取ると、少しずつだが、自分の中に変化が生じてくるのを知った。

若いころは、「しつけ」という点で、はげしく叱った。
が、歳を取るにつれて、少し変わってきた。
「どうせ息子たちの財産ではないか」と考えるようになった。
さらに歳を取ってくると、「相続争いをするよりはよい」と考えるようになった。

●M氏の母親の立場

 冒頭にあげたM氏の話を、もう一度、考えてみよう。
M氏の立場で、ではなく、M氏の母親の立場で、である。
もしあなたがM氏の母親なら、自分の息子や娘たちの相続争いを、どのように考える
だろうか。
どのように見るだろうか。
あるいは、「バカな争いをしているな」と、笑ってすますことができるだろうか。
あなた自身のこととして、一度、考えてみてほしい。

が、私なら、息子たちにこう言うだろう。
「やめろ!」と。
「見苦しい喧嘩は、やめろ!」と。
そして財産を残したことを、心底、後悔するにちがいない。

 つまりそういうこともわかるようになってくるから、歳を取ると、「盗み」に
ついての考え方も、当然変わってくる。

●金銭的な損得論

 損か得か。
金銭的価値に置き換えるなら、子育てほど、損な作業はない。
学費にしても、子どもによっては、1千万円単位の金(マネー)がかかる。
で、それだけの学費をかければ、子どもはそれなりの知的財産を身につけることになる。
医師や弁護士になれば、それなりの高額の報酬を手に入れる。
が、こと親に関して言えば、それだけの見返りは、まずない。
とくにこの日本ではそうで、時代も変わった。
私たちが20代、30代のころ、「仕送り息子」は、どこにでもいた。
私自身もそうだった。
毎月、収入の何割かは、実家へ仕送った。
が、今は、いない。
さがしてもいない。
今では、息子や娘の婚姻費用、新生活の支度金まで、親が出す。
そういう時代になった。

 そういうことが現実に繰り返されるようになると、「何が盗みか」ということになる。
もう少しわかりやすく説明してみよう。

●無駄?

 金銭的な意味では、子育ては「損」。
「損」の連続。
その「損」を重ねるうちに、損が何であるか、それさえわからなくなる。
たとえば私の息子たちにしても、途中で何度か進路を変更している。
そのつど、それまでの学費が無駄になったりした。
また二男にしても、三男にしても、昔でいう養子以上の養子になり、先方の土地に
住みついてしまった。
私が住む地元に戻ってくるなどという意思は、みじんもない。
ワイフの話によれば、私たちの葬式にさえ来ないだろう、と。
そうなってくると、金銭への執着心にも変化が見られるようになる。
どこか、投げやりに近い気分になる。
「どうでもなれ!」と。

●団塊世代の悲哀

 たまたま今夜も、タクシーの運転手とそういう話になった。
年齢を聞くと、58歳と言った。
その運転手も、こう言った。
「今の若い人たちには、私たちの生きた時代がどういうものであったか、それを
理解するのは不可能でしょうね」と。

 運転手は、こう言った。
「私は深夜営業でしてね、ときに11時間、つづけて働くこともありますよ。
これは内緒ですよ。
で、午前4時ごろ家に帰り、それから犬と散歩します。
妻や息子、嫁が起きてくるのは、その後です。
だれも私に感謝の念などもっていませんよ。
むしろ給料の少ないことで、不満ばかり言っています。
それを知っているから、こうして運転しながら、「なんで私は、こんな苦労をしている
のかと思うことがしばしばあります」と。

●人生が盗まれる

 だから最近は、親たちから子どもの「盗み」についての相談を受けるたびに、
こう思う。
「何だ、そんなことか」と。
あるいは「盗みくらいが、何だ」とも。
「どうせそのうち、あなたの人生すべてが盗まれる」と。

 もっともそんなことを口にしたらおしまい。
一応の指導とアドバイスはする。
しかしへたに財産を残せば、兄弟姉妹が骨肉の争いを繰り返すことになる。
……とまあ、そう決めつけてしまうのも危険だが、その可能性は、たいへん高くなる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見てみればよい。
親の死後、兄弟姉妹が仲よく財産を分け合ったという例は、ほとんどない。

●損の美学
 
 一方、「損の美学」というのもある。
最近、ある経済誌を読んでいたら、その中にこんな言葉を見つけた。
『頭とシッポは、くれてやれ!』と。
ものの売買の極意だそうだ。
へたにケチになるから、大損をする。
だから損を覚悟で、適当なところで売り、適当なところで買う。
『頭とシッポは、くれてやれ!』と。
が、損の美学は、それだけではない。

 損を重ねれば重ねるほど、実はその分だけ、お金(マネー)は戻ってくる。
それがバネとなって、さらにその人ががんばる。
だからこの世の中で、「金持ち」と言われる人たちは、特殊な資格で保護されて
いる人は別として、みな、他方で損に損を重ねている。
同時に、その分だけ、人間的にも深みがあり、スケールも大きい。
精神的にも、たくましくなる。

●損をしない人

 子育てにも似たようなところがある。
さらに言えば、人生にも、似たようなところがある。
「盗み」だけではない。
子どもの成績がほんの少しさがっただけで、おおげさに騒ぎ、またほんの少し
あがっただけで、これまたおおげさに喜ぶ。

 中にはこんな女性(40歳くらい)もいる。
わざと近所の人たちに聞こえるような大きな声で、庭にいる夫にこう言う。
「あなたア!、学習院大学の同窓会名簿が届いているわよ!」と。

 つまりそういう形で、夫の出身大学を近所の人たちに知らせていた。
が、実際には、その夫というのは、高卒後、専門学校しか出ていなかった!
つまり見栄や虚栄も、「損の美学」のひとつとして、考えられる。
ケチな人は、どこまでもケチ。
心に余裕がない。
スケールも小さい。
ささいな利益にこだわって、自分を見失う。

●私たち……

 私の息子たちは、二男をのぞいて、私からよく金(マネー)を借りる。
「貸してくれ」というから、私は貸す。
しかしいまだかって、返してもらったことは、一度もない。
しばらくすると、返そうという意思そのものが、消えてしまうようだ。
(二男は、子どものころから、意地っ張りで、人にものをねだらない。
性格は私によく似ている。)

 で、そういうとき私たち夫婦は、あきらめて、忘れる。
「どうせ、そのうち、私たちは死ぬのだ」と。
死ねば、そのまま借金も、遺産ということになる。
ご破算になる。
が、これは世界の常識ではない。

 欧米では、家でも親子の間で売買している。
もちろん金(マネー)の貸し借りもするが、他人との貸し借りと、どこもちがわない。
国によって多少のちがいはあるが、夫婦の間でも、こと金の貸し借りとなると、
みな、シビア。
とくに中国本土の人たちは、シビア。
夫婦でも、財産は別々に形成する。

 どちらがよいとか、悪いとか、今ここで結論を出すことはできない。
日本には日本のよさがある。
欧米には欧米のよさがある。
(中国は、その点、シビアすぎるが……?)

 だから今、「盗む」という話になると、どうでもよくなってしまう。
もっともその分だけ、私たちは人生を楽しませてもらった。
それでじゅうぶん。
それ以上、何を望むか。
あとは残された人生を、できるだけ楽しく、有意義に過ごすだけ。
息子たちに関係なく……。
もちろん財産は、一円も残さない。
現金は使い切る。
財産は売り切る。
残った不動産は、地域の人たちに寄付する。

 ……ということも参考に、あなたも一度、子どもの「盗み」について考えて
みるとよい。
見方が変わってくるはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子どもの盗み 盗みについて 窃盗 子供の窃盗 親の対処法)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●いじめ(bullyings)

+++++++++++++++++++

「いじめ」、つまり子どもの「攻撃性」に
ついて調べていたら、興味深い文献に出会った。
堀井俊章著『心理学』(PHP)である。
そのP95に、「8つの攻撃タイプ」という
タイトルで、アメリカの社会心理学者の
ヴァーコビッツの『攻撃手がかり仮説』を
紹介していた。

それをそのまま引用させてもらう。
つまり人間がもつ攻撃性は、8つのタイプに
分類できるという。

+++++++++++++++++

【ヴァーコビッツの攻撃手がかり仮説】(堀井俊章著「心理学」より)

(1)身体的・能動的・直接的(突く、なぐる、発砲する。)

(2)身体的・能動的・間接的(落とし穴をしかける、暗殺者に敵を
               殺させる。)
 
(3)身体的・受動的・直接的(他者の行動を物理的に妨害する。
               座り込み、バリケードストライキなど)

(4)身体的・受動的・間接的(すべきことを拒否する。
               単なるストライキ。)

(5)言語的・能動的・直接的(侮辱、非難)

(6)言語的・能動的・間接的(悪いウワサやゴシップを流す。)

(7)言語的・受動的・直接的(話しかけられても、無視する。)

(8)言語的・受動的・間接的(他者が不当に非難されているとき、
               あえてその人を守るため、口を出さない。)
             
+++++++++以上、堀井俊章「心理学」より++++++++++

●いじめ、8つのタイプ

 ヴァーコビッツの『攻撃の手がかり仮説』を、子どもたちの世界における
(いじめ)に当てはめて考えてみる。

(1)身体的・能動的・直接的(殴る、蹴る)

(2)身体的・能動的・間接的(子分を使って、殴る、蹴る。)
 
(3)身体的・受動的・直接的(運動着や教科書を隠す。)

(4)身体的・受動的・間接(ボイコット、非協力的態度。)

(5)言語的・能動的・直接的(言葉による暴力。)

(6)言語的・能動的・間接的(悪口を言いふらす。)

(7)言語的・受動的・直接的(無視、シカト、無口、無返事)

(8)言語的・受動的・間接的(中傷、悪口を、無言で支持する。)
             
●そのほかにも・・・

 ここまで書いて、それで終われば、堀井俊章著「心理学」の受け売りに
すぎない。
が、いじめには、こんな方法もある。
俗にいう「モマシ」という方法である。

 たとえばその人が激怒するような情報を、そっと耳打ちするような行為を
いう。
「あの人が、あなたのことを、こう言っていたよ・・・」と。

 これは、上記8つのタイプのどれに当てはまるのか?
言語的である。
能動的である。
間接的である。

 これらの3点から、上記、(6)言語的・能動的・間接的(悪口を言いふらす。)
に相当することになる。
しかし悪口を言いふらしているわけではない。
「モマシ」は、どれに該当するのか。

 少し気になったので、「モマシ」について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ヴァーコビッツの攻撃手がかり仮説 堀井俊章著「心理学」)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「私」の中の私(私論)「私とは何か?」
What is "Me", myself?

++++++++++++++++++++

「私」というのは、言うなれば、タマネギの
ようなもの。
無数の皮を巻いた、タマネギのようなもの。
みなは、その「皮」を、「私」と思い込んでいる。
「これが私」と。
しかし皮は皮。
ただの「皮」。
名誉、地位、財産、世間体、さらに性格、人格、
性質、すべてが「皮」。
その皮をめくっていたら、最後には、何も残らない。
わかりやすく言えば、「私」と言えるものは、
それくらい小さく、少ない。

++++++++++++++++++++++

●操られる「私」

 最近の大脳生理学によれば、こうらしい。
つまり生命の根源と言われるものは、どうやら脳の中心部にある視床下部あたりから、
パルス信号のようにして、発せられているらしい。
そのパルス信号が、脳全体を機能させる。
が、もしその信号が弱ければ、生命力そのものが弱くなる。
強ければ、強くなる。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」も、ユングが説いた「生的エネルギー」も、
こうして一連のつながりをもって説明できる。
で、その生命力をコントロールするのが、「理性」ということになる。
が、それを司っているのが、前頭連合野ということになる。
細部はともかくも、大筋ではまちがっていない。

●前意識の世界

 さらに……。
私たちが「私の意思」と思っている部分についても、最近の研究によれば、
実は脳の別の部分で、前もって作られているということまでわかってきた。
(意識)の下に(前意識)がある。
つまり私たちが意識できない部分で、前もって「意識の意識」が作られる。
その「意識の意識」が意識できる部分にまであがってきて、そこで「意識」として
意識される。

 たとえばあなたが台所へ行って、水を飲みたいと思ったとする。
あなたは自分の意思でそう考えて、行動していると思っているかもしれない。
しかし実際には、(のどが渇いた)→(水を飲んで来い)という意識は、それよりも
先に、無意識の世界で作られる。
それ以前に、のどの渇きを視床下部のセンサーが感知する。
空腹感でもよい。
それがある一定の限度を超えたとき、無意識の世界で、「意識」が作られる。
「水が飲みたい」と。
そしてそれがその人のつぎの行動を、決定する。
 
 わかりやすく言えば、私たちが「私の意思」と思っている意識にしても、
そのほとんどが、脳の内部で、勝手に作られているだけ。
「勝手に」だ!
そう考えて、ほぼまちがいない。

●生的エネルギー

 もっともわかりやすい意識に、たとえば「性欲」がある。
わかりやすいから、あえて説明するまでもない。
つまりそれがあるから、人間は種族を後世に残すことができる。

 「性的エネルギー」イコール、「生的エネルギー」。
「生的エネルギー」イコール、「性的エネルギー」。
人間にかぎらず、あらゆる生物について、なぜここに生きているかといえば、
種族を後世に残ることに集約される。

 もろもろの人間が見せる行為は、すべてそのバリエーションに過ぎない。
女性が化粧やファッションに夢中になるのも、男性がスポーツに夢中になるのも、
すべてそのバリエーションに過ぎない。
私たちはそのバリエーションの中で、操られているだけ。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
しかしそう考えると、私たちは自分の「意思」の実態を正確にとらえることができる。

●理性の力 

 もし「私」があるとするなら、「私」の中から、私を操るエネルギーを取り除いたもの
ということになる。
そのひとつのヒントが、「人格」ということになる。
(心理学的というよりは、たぶんに文学的なとらえかただが……。)

 人格……つまりその人の人格は、人格論(EQ論)によって説明される。
いかに利他的であるか、いかに共鳴性があるか(サロベイ)、など。
それには当然、性格的な一貫性、情緒の安定性なども含まれる。
さらに道徳論の立場から、視野の広さ、公平性なども含まれる(マズロー)。

 つまりこれがタマネギの「芯」の部分ということになる。
そしてそれこそが、まさに「私」ということになる。

●真・善・美

 が、「私」の追求はむずかしい。
それ自体を追求しようとしても、第一、得体がつかめない。
もともと得体の知れないものだから、当然、そうなる。
そこで古今の哲学者たちは、こぞって、「真・善・美」の追求をあげた。
その結果として、もっと正確には、副次的に、「私」を追求する。

 偉大な科学者、偉大な宗教家、あるいは偉大な芸術家には、神々しいほどまでの
「人格」を感ずる。
その人格が、その人の「私」ということになる。
(ただしスポーツマンには、私は最近疑問を感ずるようになってきた。
日本の相撲界が、その一例ということになる。)

 つまり「私」を知るということは、それほどまでにむずかしいということ。
その前の段階として、「私」を創りあげるのは、それほどまでにむずかしいということ。
私(はやし浩司)も含めて、「これが私」と思っている部分は、タマネギの皮の、
その表面的な部分に過ぎない。

だから北海道の「私」も、沖縄の「私」も、みな、同じ。
同じようなことをしている。
日本の「私」も、アメリカの「私」も、みな、同じ。
同じようなことをしている。
スズメはスズメ、カラスはカラス。
それぞれちがった行動をしているが、全体としてみると、ある一定のワクの中で、
蠢(うごめ)いているだけ。

 それを抜け出たところに、「私」がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 私論 私とは タマネギの皮 「私」論)

(参考)

ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説くEQ論では、
主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 一般的には、(1)自己管理能力が低く、(2)他者との良好な人間関係が築けず、(3)
他者との共感性が低い人のことを、「自己中心的な人」という。

 わかりやすく言えば、より自己中心的な人を、人格の完成度の低い人という。
反対に、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
自己中心性が肥大化した人のことを、「自己愛者」という。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●擬似ボケ体験(認知症体験)

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今日、2つの擬似ボケ体験をした。

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●小学生でもボケ症状?

 A子さん(6年生)は、たいへん聡明な女児である。
機転も利くし、反応も速い。
……というより、抜群に頭がよい。
もちろん学校での成績もよい。
そのA子さんと、2週間前に、こんな会話をした。

 私が「夏休みにどこかへ合宿に行こうか?」と声をかけると、すかさずこう言った。
「先生、そんなこと言って、本当は女湯をのぞきに来るんでしょ!」と。

 今どきの子どもたちは、とんでもないことを考える。
「バカめ。お前の何を見るんだ! それにもちろん父母、同伴だ」と言い返すと、
「じゃあ、お母さんの裸をのぞくんでしょ」と。

 で、この話はそのまま終わった。
近くでワイフがこの会話を聞いていた。
いっしょに笑った。

●2週間後

 それからちょうど2週間後。
今日。
またA子さんと会話した。

私「あのね、君ね、この前合宿で、ぼくが女湯をのぞくという話をしたよね」
A「・・・しないわよ。そんな話・・・」
私「ぼくが合宿しようかと言ったときのことだよ。君は、ぼくが女湯をのぞくと
言ったよ」
A「先生、どうかしたんじゃない? 私、そんな話、してないよオ」
私「したって・・・。ぼくは聞いたよ」
A「してないよ。ねえ、B君」と。

 となりにいたB君も、私たちの会話を聞いていたはず。
それで今度はB君に、「聞いただろ?」と声をかけると、B君まで、「知らない」と。

 子どもでも、ボケることがあるんだろうかと、私は考えた。
が、A子さんもB君も、学校でも1、2を争うほど頭がよい。
何度もやりあっているうちに、私のほうが自信がなくなってきた。

A「先生、私、そんな話、してないわよ。先生、頭がボケたんじゃない?」
私「そうかなあ・・・」
A「そうよ、きっとボケたのよ」
私「……?」と。

私はそのまま押し黙ってしまった。
ボケを疑似体験した。
そんな気分になった。

●「オイスノカドッチョ」

 同じ日、幼児教室で、1人の子ども(年中児、4歳)が、こう言った。
私が、「君たちは、赤ちゃんのとき、ママのおっぱいを飲んでいたのを、覚えている?」と
聞いたときのこと。
「ぼくは、オイスノカドッチョを飲んでいた」と。

私「何、そのオイスノ・・・」
子「オイスノカドッチョだよ・・・」
私「ママのおっぱいを飲んでいたんだろ?」
子「ううん、オイスノカドッチョだよ」
私「・・・だから、そのう、オイスノカドッチョって何?」と。

 私は何かの聞き間違いかと思った。
「お牛のオカド」とも聞こえた。
新発売になった飲み物かもしれない。
あるいは乳幼児専用の飲み物かもしれない。
そこで、隣の席に座っていた女の子(年長児5歳)に聞いてみた。

私「あなた、そのオイスノカドッチョって知っている?」
女「うん、知っているよ」
私「何、それ?」
女「オイスノカドッチョだよ」
私「だから……、それって、おいしいの?」
女「おいしいよ」
 
 それを聞いて、ほかの子どもたちまでみな、「おいしいよ」「おいしいよ」と。
私はますますわけがわからなくなってしまった。
私だけが、ひとり取り残されたかのような疎外感を覚えた。
それだけではない。
自分の脳みそを、反対に疑いだしてしまった。
「私の脳みそは、どうかなってしまった」と。

●謎解き

 先の話は、たまたまワイフが横で聞いていた。
A子さんは、たしかに「のぞき」の話をした。
ワイフがあとで、「私も聞いた」と言ってくれた。
が、もしワイフがその会話を聞いていなかったら、私はむしろ自分の脳みそのほうを
疑っていただろう。

 また「オイスノカドッチョ」というのは、「椅子の角」ということがわかった。
レッスンが終わったあと、迎えに来た母親に聞いた。
「お子さんが、『ぼくは、オイスノカドッチョを飲んでいた』と言いましたが、その「オイ
スノカドッチョ」というのは何ですか?」と。

 すると母親は笑いながら、こう教えてくれた。

 「ああ、それですか。それはソファの角のことです。妹におっぱいをくれてやっている
とき、C男(=その子ども)はいつも、ソファの角をチューチューと吸っていました。
その角のことを、『お椅子の角』と言っていたのです」と。

 となると、あのとき「うん、知っているよ」と言ったあの女の子は、何だったのか。
ほかの子どもたちもみな、「おいしい」と言ったはず。
私がからかわれたのか。
いや、そんなことはない。
みな、真顔だった。

 「たぶん、子どもたちはそれぞれに別のものを想像し、勝手に、『おいしい』と
言ったのだろう」……というのが、ワイフと私の結論ということになった。

 ボケの疑似体験・・・つまりこのところ、自分の脳みそを疑うようなことがよく起こる。
若いころなら、こういう迷いはなかったはず。
が、今は、むしろ自分の脳みそのほうを疑ってしまう。
それだけ自信がなくなってきたということか。

 やがてこういう体験がつづくようになり、本当にボケてしまうのかもしれない。
ゾーッ!

(付記)
 「オイスノカドッチョ」の話をした様子は、YOUTUBEに、動画として
そのまま録画してあります。
興味のある人は、「はやし浩司のHP」→「BW公開教室」→「2010年7月9日」
へと進んでみてほしい。
子どもたちとの会話を楽しんでいただけます。


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