2010年8月26日木曜日

*Father & Son

【父と子(親子断絶の問題)】

●葛藤する父子

+++++++++++++++++++++

20年ぶりか、何年かぶりに、父と子が再会する。
連絡を受けて子が病院へかけつけると、父は
臨終状態。
枕元には、思い出の品々が並んでいる……。
その中に古ぼけた一冊の本。
その本を開くと、子が子どものころに描いた絵。
それを見て子は涙を流す。
父は目で子を許す。

映画によく出てくるシーンである。
映画『送り人』の中にも、そんなようなシーンがあった。
最近見たDVDの『カイル』の中にも、そんなようなシーンがあった。

父と子、とくに父と息子は、そういう形で断絶しやすい。
私の知り合いにも、30年以上、たがいに会っていない
という父子(父親、84歳、息子50歳前後)がいる。

何かがあったのだろう……というより、その(何か)が、
引き金となってそこでそれまでの(わだかまり)が
一気に爆発する。
そしてそれが「永遠の別れ」になる。

が、たがいに悶々とした気分で、日々を過ごす。
一日とて気が晴れることはない。
それが臨終の場で、同じように爆発的に解消される。

……というのは、映画の中の話。
映画『マジソン郡の橋』の最後も、そのようなシーンで
終わっていた。
が、現実は、もう少し生々しい。

++++++++++++++++++++++

●ある補導で

 ずいぶんと前のことだが、テレビでこんなシーンを見た。
東京のK町といえば、世界に名だたる歓楽街。
その歓楽街で、深夜遅くたむろする少女たち。
ものほしそうな目つきで、通行人をながめている。
 
 そこへレポーターが、突撃取材を試みる。
「年齢は?」「住んでいることは?」「お母さんは?」と。

 それに答えて、まだあどけなさを残している少女たちが、
「中学だヨ」「ウッセーナー」「親なんて関係ネーダロ」と。

 が、レポーターは、何とか1人の少女を説得して、
名前と住所を聞き出す。
ついでに電話番号も聞きだす。

 そこでレポーターはその電話番号に、電話をする。
が、ここで意外な展開となる。
レポーターが家に電話をすると、母親が電話口に出る。
その母親が、こう言う。

「そんな子は、どうなってもいいです。知りません。
私には関係ありません」と。
(詳しい内容は、後述。)

 ここで私がもっていた「親だから……」「子だから……」
という常識が、ひっくり返る。

 そこでレポーターを携帯電話を少女に回す。
少女は、母親と直接話す。
が、話し合い始めたとたん、喧嘩。
最後に母親は、その少女(娘)にこう言う。

「うちへなんか、戻ってくるんじゃ、ないわよ」と。
つまり「あんたとはもう関係ない」と。

●親子であるが故に

 こうした事例を、極端なケースとみるか?
それとも例外的な事例とみるか?
あるいはごくありふれた事例とみるか?
程度の差もあって、統計的な数字で表すことはむずかしい。
しかし親子といっても、基本的には1対1の人間関係。
壊れるときには、壊れる。
が、それだけではない。
親子であるが故に、確執も深く、溝も大きい。

 が、ここで誤解してはいけないことがある。
こうした断絶は、ある日突然、一回の事件で起こるものではない。
そこに至るには、それまでの長い過去がある。
葛藤がある。
根が深い。
それが積もりに積もり、ある臨界点に達したとき、爆発する。
爆発して、断絶する。
だから先の番組の中で、レポーターが電話で説得したくらいで、
氷解するような問題ではない。
それで「万事、めでたし」と終わるというような問題ではない。

●面会

 映画を例にとるなら、ああした映画は、多くは若い制作者によって、
作られたものではないかということ。
つまり「子」の立場で作られたもの。
「親」の立場ではない。
そう考えてよい。

 つまり「子」というのは、「親」というより、「親」という言葉に、
かぎりない幻想とあこがれをもちやすい。
つまりそこに自分の理想像を入れ混ぜてしまう。
そして勝手に、「親は、こうあるべき」という「像」を作ってしまう。

 その結果、20年ぶりに病院で再会したとき、「親は子を許し……、
子は親を許し……」となる。
感動的なシーンだが、先にも書いたように、現実はもう少し生々しい。

 私が親なら、こう思うかもしれない。
「20年も、私を放っておいて、何を今さら……」と。
実際、そういう映画もあった。

 やはり20年ぶりくらいで子(息子)が病院へかけつけてみると、
親(父親)の方が面会を拒絶する。
「会いたくない」と。
子は病室のドアの外で、父の死を見送る。
つまり親といっても、1人の人間。
神様でも仏様でもない。
会いたくないものは、会いたくない。
親だから子どもの過ちを、すべて許すというわけではない。
またそれをしないからといって、親の愛の深さを疑ってはいけない。

●ふつうの人間

 否定的なことを書いた。
理想としては、また映画としては、親子が許し合いながら、
ハッピーエンドで終わるのがよい。
またそのほうが、感動的。

 しかしこの私も60歳を過ぎるころから、考え方が少しずつ変わってきた。
先に書いた私の知り合いの話を知ったときのこと。
父親の年齢は84歳。
息子は50歳くらいと聞いているが、詳しいことは知らない。
ひとり息子。
息子は大学を卒業すると家を飛び出し、以後、一度も家には帰っていない。
母親とはどうかということになるが、よくわからない。
父親の話によれば、母親とも連絡を取っていないようである。
言い忘れたが、母親も今年84歳になり、今は有料の老人ホームにいる。

 その父親は、当然のことながら(?)、息子の話になると
顔をそむける。
ただときどき、「あいつも早く嫁さんを見つけるといい」と言う。
またそれが口癖になっている。
が、その程度。

●幻想と現実

 で、そういう話を知ったとき、私は、こう思った。
「いつかは父子で、許し合うときがくるだろう」と。
しかし今は、ちがう。
「父のほうが、許さないだろうな」と。
最期の最期であればなおさら、もしそこで許してしまえば、
父親は自己否定をすることになってしまう。
「愛」とか「愛の深さ」とか、そんなロマンチックな話ではない。
つまりそれが現実ということ。
もし私がその知り合いなら、私は許さないまま、死ぬ。
面会に来ても、会わない。
それで地獄へ堕ちようとも、息子が作りあげた幻想とあこがれを
容認するよりはよい。

 つまり親だって、ふつうの人間。
だからこそ、許せることと許せないことがある。
息子が、(娘でもよいが)、その一線を越えたとき、「たとえ子でも
許せない」と、なる。
それはまさに自分の人生観をかけた闘いということになる。
もう一言、念を押すなら、こういうことになる。

 先に「親子の確執」という言葉を使った。
が、その確執というのは、何も、子どものほうだけの問題ではないということ。
親の方にも、ある。
親の方の確執が爆発することもある。

●ある姉・弟

 これは親子の話ではない。
姉・弟の話である。

 弟氏は生涯、定職にはつかなかった。
そのため弟氏は歯科医師の妻をしていた姉氏のところへ来ては、生活費を
受け取っていた。
弟氏には、3人の息子と娘がいたが、その学費もすべて姉が負担した。

 それに加えて弟氏は女性にだらしなく、浮気はし放題。
偽物だったがロレックスの腕時計を身につけて、夜の繁華街を遊び歩いた。
で、50歳を過ぎるころから、姉氏は、弟氏と距離を置くようになった。
それまでは言うなりにお金を出していたが、姉氏は躊躇するようになった。
とたん弟氏は、泣き落とし戦術に出るようになった。
しかも回数が減った分だけ、額がふえた。
それまでは20~50万円という少額だったが、200~500万円の
高額になった。
ときに1000万円を超えることもあった。

 そのつど弟氏は借用書を用意し、勝手に姉氏のところに置いていった。
まったく意味のない借用書だった。
姉氏もそれをよく知っていた。

 で、その姉氏が、85歳で倒れた。
再発した乳がんが、体中に転移していた。
そのときのこと。
弟氏は、何度か見舞いにきたというが、姉氏は、最期の最期まで、
弟氏には会わなかったという。
そばにいる人たちに、「X男(=弟)だけは、部屋に入れるな」と、
いつも言っていた。
「葬儀にも出てほしくない」とも。

 が、ノー天気な弟氏にはそれがわからない。
葬儀の席にやってきて、みなの前で大泣きをしてみせたという。
私はその話を聞いたとき、こう思った。
「私がYさん(=姉氏)なら、化けて出てやる!」と。

●確執

 「確執」というのは、そういうものかもしれない。
つまりたがいに平等というのではない。
多くのばあい、一方的なもの。
子が親にいだく確執。
しかし親はそれに気づかない。
反対に親が子にいだく確執。
しかし子はそれに気づかない。
気づかないまま、どちらか一方が、ある日突然爆発する。

 何も親子、兄弟にかぎらない。
夫婦の間でも、それはよく起こる。
20~30年前から「定年離婚」という言葉が、よく聞かれるようになった。
夫が定年で退職したとたん、妻のほうから離婚を申し出る。
このばあいも、夫にとっては寝耳に水……というケースがほとんどという。
妻の方はその何年も前から、離婚の準備に入る。
が、夫のほうは、それに気づかない。
気づかないまま、「私たちはいい夫婦」という幻想にしがみつく。
だから夫は、あわてる。
狼狽する。
「どうして離婚?」と。

 こうしたケースのばあい、たとえば夫(元夫)が臨終を迎えたとしても、
妻(元妻)は、その場にはかけつけないだろう。
いわんやたがいに許し合うなどということは、ありえない。
(アメリカ映画などでは、そういうシーンもよくあるが、日本では
考えられない。)

 「夫婦と親子はちがう」と言う人もいる。
たしかに母子関係、つまり母と子の関係には、特別なものがある。
しかし父子関係は、母子関係とくらべると、ずっと希薄。
「精液、ひとしずくの関係」と言ってもよい。
私がここで問題にしているのは、父子関係。
母子関係ではない。

●なぜか?

 臨終の場で息子との面会を拒絶する父親。
娘との面会でもよい。
しかしそれは息子を許せないからではない。
こういうケースのばあい、父親は自分を許せない。
つまり自分という、「親バカ」を許せない。
たとえば『許して、忘れる』という言葉がある。
しかしそれは自分以外の人に向かって使う言葉。
自分自身については、『許して、忘れる』は、使えない。
だから親はもがく。
苦しむ。
それは心を引き裂くような苦しみといってもよい。
その過程で、親は息子を消し、娘を消す。
とことん、消す。
たとえ息子にせよ、娘にせよ、どこかでのたれ死にしたところで、
何も感じない。
そこまで自分を消さないと、その苦しみから逃れることはできない。

 で、その息子にせよ、娘にせよ、それが臨終の場にやってきて、「お父さん!」と
声をかける。
そのとき父親は、「おお、お前か!」と言うことができるだろうか。

 ここから先は私の想像になる。
なるが、私なら、言えない。
息子にせよ、娘にせよ、「何を今さら……」となる。

 東京のK町でたむろしていた少女と母親の関係を、思い浮かべてみればよい。
その少女の母親は、娘の不幸を、とことん願っていた。
「そんな親がいるのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし現実には、いる。
こんな話を、以前、ワイフから聞いたことがある。

 実の娘に対して、「あんたが不幸になるのを、墓場の中から
見届けてやる!」と。
それを口癖にしている、実の母親がいるという。
親子関係でも、こじれると、親子であるがゆえに、そこまでこじれる。

+++++++++++++++++

原稿をさがしていたら、先のK町で
たむろしていた少女について書いた
原稿が見つかりました。

日付は、2006年の4月になって
いました。
そのまま再掲載します。

+++++++++++++++++

●幻惑からの脱出

++++++++++++++++

親子であるがゆえに生まれる、
強烈な関係。そしてそれが生まれる
束縛感。

これを心理学の世界では、「幻惑」という。
しかし実際には、そうでない親子も多い。

そうでないというのは、親子関係と
いっても、心理学の教科書どおりには
いかないケースも、あるということ。

++++++++++++++++
 
テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。

レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」

レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ~」

 東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いてい
る。その少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所
も転々と、かえているらしい。

レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア~」と。

 「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛
をともなう。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる
束縛感には、相当なものがある。

 たとえば親子という関係で考えてみよう。

 いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれし
も考えるところが、「家族自我群」というところになる。

 しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こん
な例がある。

 ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が
必要になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、
大企業のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを
待っていた。

 息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費
を渡していた。

 多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」
というような会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。

 ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、
遊びまわっていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。

 そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車
まで買い与えていた。

 これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが
苦しむことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れな
い。もちろん親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子
であるため、絆(きずな)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、
人格否定、自己否定にまで進んでしまう。

 ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこ
と、近所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。

 反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に
出ることができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分
は人間として、失格者だ」と、苦しんでいる。

 家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。

 が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところ
まで行くと、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、
この幻惑から、のがれることはできない。

 冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。こ
れからは、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないよう
な会話かもしれないが、実際には、こういう親子もいる。

少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」

 その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもある
ような、ごくふつうのサラリーマン家庭だという。

 そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。

レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たち
のことは、ほうっておいてください」と。

 こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるに
せよ、「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、
無数のというか、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、
行きつくところまで、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。

 「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。
どこかで殺人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻
惑から逃れることはできない。

 が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いとい
うこと。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。
母親は、今年、80歳を超えた。

 その女性が、こう言った。

 「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、
何も、親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。
本当は、あんな母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だ
なんてほめられると、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。

 あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、
かなり深い理解力のある人と考えてよい。

 もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦し
んでいるなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは
割り切って、つきあう。それしかない。

 この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。

 で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。

 「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同
じような幻惑に苦しむことがあるのではないか、と。

 いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そ
そのとき、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。

ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれ
ができないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」
と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」
と。

 幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。し
かしそれは、どこか東洋的。どこか日本的。

 あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻
惑から解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親
自身が、子どもに親離れができるように、仕向けてあげる。

 こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、
ベタベタの親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それ
を強要してはいけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれ
ば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面
に作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かと
いうと、そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自
我群というものがどういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように
思う。

 先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるの
ね。何があったのかしら?」と。

【付記】

 心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、
重圧感をいう。

 この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものであ
る。

 ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、
父親が、息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰っ
たのですが……」と。

 そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前
は、人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。

 以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたこと
で、心に大きなキズを負った。

しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そうい
うことをするな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばり
つける人が、よく用いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その
女性にこう言った。

 「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言います
よ。『また、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。

 この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、
扱い方がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。
だから、適当に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう
人たちに抵抗しても、意味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるよ
うな問題ではない。

 ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子ど
もが、いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。

 いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。
親孝行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。
家の心配? バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きてい
きなさい」と。

 こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことに
なる。

 親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の
愛というものではないだろうか。

【付記2】

 家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。こ
のタイプの親は、独特の言い方をする。

 わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、
それ。「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」と
か。

 さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、
出してやった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労し
ている姿を、「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。

 が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。

 一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫
(その母親の長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。

 その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当た
らなければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。

息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか…
…というようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私
という)親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。

 中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!

 「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になる
のを楽しみに見ていてやる!」と。

 もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、
例外とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、
他山の石となる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。

 それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!

【付記3】

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというよ
り、家族の問題についてのも、多い。

 そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともあ
る。「家族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。

 東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。

 「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。
息子がいますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。

 H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」と
いうことか。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。

 私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけな
い。親は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるという
ことは、それくらい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 家庭内問題 親子の葛藤 確執 親子の確執 断絶 断絶問題 父と子 父子問題 はやし浩司 自我群 幻惑)

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。