2010年5月17日月曜日

*Young Old Men, be ambitious!

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【教育のダイナミズム】

●教育の自由化論byはやし浩司

++++++++++++++++++

読売新聞の調査結果が、韓国の東亜B報に
掲載された。

(日本)→(韓国)→(日本)と迂回した
ことになる。
興味深い調査結果だったので、ここに
収録させてもらう。

++++++++++++++++++

●居眠りする高校生

++++++++++++++以下、東亜N報より++++++++++++++

「韓国人生徒は居眠りし、日本人生徒はぼうっと座っていて、米国人生徒は食べたり、私
語がやまない…」
日本の文部科学省傘下の教育機関が、韓国や米国、中国、日本の4カ国の高校生を対象に、
授業に臨む態度について調査した結果、国ごとにこのような傾向を見せたと、読売新聞が
8日付で報じた。今回の調査は、4ヵ国の高校生6200人を対象に、昨年夏から秋にか
けて実施された。
この調査の結果によると、韓国人生徒らの32.3%が授業時間に居眠りするのを、「普
通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」だと答え、日本(45.1%)に次
き2位だった。一方、米国や中国人生徒らはそれぞれ20.8%と4.7%に止まった。
韓国人生徒らはまた、「授業内容をノートにこまめに書いている」と回答した比率は68.
1%と、日本(93.1%)や中国(90.1%)、米国(89.1%)より低かった。
「授業時間に積極的に発表する」という回答も、韓国人生徒らは16.3%に止まり、米
国(51.5%)や中国(46.2%)より一段と低かった。
一方、日本人生徒らは、「(授業時間に)ぼうっと座っている」という回答が45.8%
と、米国(59.4%)と同様高い割合を示した。また、米国人生徒らは、「隣の友人と
私語をする」や、「授業中におやつを食べる」という回答もそれぞれ64.2%と46.
9%と、4カ国の生徒のうちもっとも高かった。また、「メールを送ったり、授業内容と
は関係のない本を読む」という生徒も、38.9%ともっとも多かった。
一方、中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であり、韓米日
の生徒らとは対照的な姿を見せた。

++++++++++++++以上、東亜N報より++++++++++++++

●データの整理

(授業中、居眠りをしている)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

(授業内容をノートにこまめに書いている)

    日本人    93.1% 
    中国     90.1%
    アメリカ   89.1%
    韓国人    68.1%

(授業時間に積極的に発表する)

    アメリカ   51.5%
    中国     46.2%
    韓国     16.3%

(授業時間に、ぼうっと座っている)

    アメリカ   59.4%
    日本     45.8%
    
 結論として、「中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であ
り、韓米日の生徒らとは対照的な姿を見せた」とのこと。

●「必須科目」という幻想

 この数字を見ただけで、日本の子どもたちが今、学校でどのような様子なのか、よくわ
かる。
参観日に見せる様子を、(すべて)と思ってはいけない。
あれはあくまでも、「ショー」。
ショーということは、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。

 では、どうすればよいのか?

 私はいまだに「必須科目」という科目の意味がよくわからない。
たとえば私は毎年暮れに発売になる、「IMIDAS」という総合用語辞典がある。
私は毎年、その本を買っている。
で、一度、「必須科目」と言われる科目に相当する部分が、どの程度の分野なのか、こまめ
に調べたことがある。
そのとき、私は、「学校で習う分野(内容ではなく、分野)は、20分の1から、30分の
1であることを知った。

(たったの20分の1だぞ!)

 その20分の1のことのために、それを「人格形成に必要不可欠な知識、教養」と思い
こまされ、日夜学校でしごかれている子どもが、あわれ。

 ちなみにオーストラリアでは、「キャンピング」という科目が、必須科目(コンパルサリ
ィ)になっている。
理由を聞くと、「荒れ地で独りになっても、生きていかれるように」と。
また語学にしても、フランス語、ドイツ語に並んで、中国語、日本語、インドネシア語か
ら選択できる(中1レベル)。
インドネシア語が選択できるのは、「隣国だから」と。

以前書いたエッセーを、ここに紹介する。
日付は、2007年の9月になっている。

++++++以下、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●実用的なことを教える

++++++++++++++

この日本では、実用的なことを
教えるのは、邪道であるというふうに
考えている教師は多い。

統計的な数字があるわけではないが、
そういう風潮は、たしかにある。

このことは、アメリカの中学校で
使う教科書と比較してみると、
よくわかる。

アメリカの中学校では、「中古車の
買い方」(代数)というテーマから
数学の学習に入る(プレンティス版、
「代数」)。

金利計算(=小数の計算)、さらには
小切手の切り方などまで、その(流れ)
の中で教えている。

どうして教育が実用的であっては
いけないのか。アカデミックな部分も
必要かもしれないが、みながみな、
その道の学者になるわけではない。

+++++++++++++++

 「勉強は役に立たない」と考えている子どもは、多い。このほどベネッセが発表した「学
習基本調査」によると、「役に立つ」と答えた小学生の割合は、東京、ソウル、北京、ロン
ドン、ワシントンDC、ヘルシンキの中で、最低だったという。

 希望の進学段階も、北京の小学生の65・2%が、「大学院まで」と答えているが、東京
の小学生は、「高校まで」という回答が、相対的に多かったという。

 さらに学習時間数についても、東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間
半以上が、18・1%いるそうだ。

 全体の平均も、

 東京 ……101・1分
 ソウル……145・8分
 北京 ……131・6分、とか。
(以上、「学習基本調査の国際比較」、ベネッセ、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシン
トン、ヘルシンキの、小学5年生(10~11歳、公立校)で調査。06年6月~07年
1月、産経新聞より)
 
 私が住むこのあたりでも、「高校は部活動を一生懸命やって、推薦で高校へ入る」という
中学生が多い。北区にある、ある中学校の校長は、「そういう子どもが、全体の60%はい
る」と話してくれたのを覚えている。

 最近の子どもたちは、勉強をしなくなった。……というより、勉強する子どもと、しな
い子どもの二極化が、ますます進んでいる。その一方で、進学を目的とした受験競争は、
はげしくなっている。それが「東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半
以上が、18・1%」という数字になって、表れている。

 なぜ学校の勉強はおもしろくないか? それについては、今まで繰りかえし書いてきた。

+++++++++++

【日本の教育が遅れるとき】 

●英語教育はムダ?

 D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子ども
に、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、
外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るの
はムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。
しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、
4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大
学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、
教育の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。
「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営
者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達し
ていて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こう
いう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文
法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者
になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体
系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっ
とかわいそうだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分
の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばか
りにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入
学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、1年の終わりには、ほとん
どの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なも
のなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切
なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つ
というのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活
を営む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほし
い。「なぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばなら
ないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつ
けても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなけれ
ばいけないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーシ
ョン・「第三回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。
こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語
を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもが
いる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのよ
うにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」
ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべ
き姿ではないのか。それでほとんどの問題は解決する。

※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示してい
るが、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校
はそのガイダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。

※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在
日イギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。「イギリスでは、一九九
〇年代半ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国家の誇りが失われ
た認識があった。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、現代社会はI
T(情報技術)革命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値の変化に
直面しているが、これも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり子どもたちが急
激に変化する世界で生活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応できる教育制度
が必要と考えたからである」(長野県経営者協会会合の席で)と。そして「当初は教師や教
職員組合の抵抗にあったが、国民からの支持を得て、少しずつ理解を得ることができた」
とも。イギリスでの教育改革は、サッチャー首相の時代から、もう丸4年になろうとして
いる(2001年11月)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【実用的な教育】

● すべての国民は、国の教育機関で、平等な教育を受ける権利がある。……ということで、
学校教育は発達した。しかしそれが達成されたあとは、「教育」そのものに対する考え方は
変わってくる。変わって当然である。それはちょうど、食事に似ている。貧しい時代には、
腹がふくれれば、それでよかった。しかし人々の意識が、ある一定のレベルを超えると、
それは必要なことかもしれないが、それでは足りない。料理が発達し、人々が食生活に楽
しみを求めるようになったのと同じように、親や子どもたちは、教育に、「中身」を求める
ようになった。

+++++++++++++++

●何のための歴史教育

 生きた歴史教育は、「今」という時点で考えて、はじめて可能である。それはたとえて言
うなら、料理の教育に似ている。料理にしても、自分で作ってみて、はじめてそれがわか
る。

 昨夜も高校受験をひかえた中学生と話しあってみた。彼はこのあたりでも一番と呼ばれ
る進学校を受験することになっている。たまたまアヘン戦争の話をしたが、こう言った。

「道光帝が、林則徐を広州に派遣した。で、アヘンを没収し、イギリス貿易を中止したん
だ。それで一八四〇年に、イギリス議会が、清に対して宣戦を布告した……」と。

 そんな彼でも、私が「では、どうして今の北朝鮮が日本を目の仇(かたき)にしている
のか」と聞いても、「知らない」「わからない」と言う。「あんな国は、あっという間にやっ
つけてやる」とも言う。「しかし向こうは、100万人の兵隊をもっているよ。日本は20
万人だよ」と、私が言うと、「アメリカが、核兵器で始末してくれるさ」と。

●実用的でないのが教育?

 こうした例は、英語にも、国語にもある。恩師のT教授も、理科もそうだという。(私に
は理科教育はよくわからないが……。)日本の教育は、伝統的に、どこかおかしい? 本当
におかしい? 教えるべきことを教えないで、教えなくてもよいようなことばかり、教え
ている? 何かしら役にたたないようなことを教えるのが教育と、誤解しているような面
すらある。反対に、実用的なことは教えてはいけないというような風潮すら、ある。

 アメリカでは、中学校での上級数学(Advance Math)では、中古車の買い方から教え始
め、小切手の切り方まで教える。高校で車の運転のし方を教えるところも多い。もちろん
免許も学校で取れる(地方の高校など)。

●学者になるには、すぐれた体系
 
が、この日本では、その道のエラーイ先生がたが、教科書をつくる。だから日本の教科書
は、将来、数学者や歴史学者、英語の文法学者になるには、きわめてすぐれた体系をもっ
ている。しかしみながみな、数学者や歴史学者、さらには、英語の文法学者になるわけで
はない。そういう道に進むのは、全体の1%もいないのでは? 

 歴史教育にしても、なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去を学び、未来にその経験
や失敗を生かすためである。頭でっかちのモノ知りを育てるためではない。少し前だが、
こんなことを暗記している中学3年生がいた。

 「富山のチューリップ、長野の高原野菜、浜名湖のウナギ……」と。

そこで私が、「高原野菜って何?」と聞くと、「知らない……」と。さらに「浜名湖でウナ
ギの養殖なんか、もうしてないよ。みんな台湾や中国から輸入しているよ」と言うと、「い
いの、そんなことは!」と。こういう教育の現実を、いったい、どれほどの人が知ってい
るだろうか。

英語にしても、学校で習う英語は、まったく役にたたない。そんなことは、40年も前か
ら言われつづけてきた。50年かもしれない。しかしやっと重い腰をあげたのは、ほんの
数年前。その成果が出てくるのは、これから先、さらに20年後?

●教育の自由化を

 みなさん、もっと教育を自由化しよう。もっと教育を自由に考えよう。もっと教育を自
由の流れの中に置こう。ドイツやイタリアのように。カナダやオーストラリアのように。
今の日本の教育は、いまだに戦前のあの軍国主義時代の亡霊を引きずっている。学校万能
主義。第一主義。絶対主義などなど。私たちは、あの北朝鮮の教育体制を見て笑うが、ど
こがどう違うのか。私には、その「違い」がわからない。

 たとえばドイツでは、子どもたち(中学生)は、たいてい午前中で授業を終え、そのあ
と、好きなクラブに通っている。いろいろなクラブがある。月謝は1000円程度。費用
はチャイルドマネーによって、国によって補助されている。イタリアもそうだ。

大学についても、ヨーロッパは、全体として、すでに完全に共通化された。こういう時代
が、もう世界の常識だというのに、いまだに、学歴社会だのなんのと、バカみたい。いい
学校だの、いい大学だのと、バカみたい。学生たちは、その道のプロになるために大学へ
行く。大学院へ行く。しかも、だ。欧米では、奨学金を手にした学生たちは、自由に大学
間を渡りあるいている。

●人間選別の弊害

 今ごろ教育改革しても、遅い。遅過ぎる。この日本では、せっかくすぐれた才能をもっ
ていても、進学という関門を通りすぎるたびに、ふるい落されていく。つい先日も、O君
というマレにみる、優秀な子ども(小学生)がいた。小学3年生のときには、中学3年生
でもできないような難解な数学を、自分で考えた方法で解いていた。

しかしこういう子どもを伸ばす機関が、日本にはない。理解もない。そこで東京の私立中
学を受験したが、残念ながら、どこも不合格。「社会ができなかったから……」と、O君は
言った。

 こういうO君のような例は、本当に多い。が、これからは、もうそういう時代ではない。
貧しい時代の学校教育から、豊かな時代の学校教育へと変身しなければならない。その豊
かな時代とは何かといえば、それぞれの人が、自分の個性を光らせて生きる時代をいう。

これに対して、「全教科、まんべんなくできる子どものほうが、望ましい」という意見もあ
る。しかしその「全教科」にしても、本当に全教科なのか。私は以前、毎年、冬に刊行さ
れる「時事辞典」※を調べてみたが、学校で習う勉強など、その辞典の20分の1から3
0分の1にもならない。「全教科」「基礎学力」といいながら、何をもって全教科というの
か。何をもって、基礎学力というのか。

 たとえばオーストラリアのグラマースクールでは、中学1年レベルで、外国語にしても、
ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、日本語から選択できる。芸術にしても、
美術、音楽、演劇などが、それぞれ独立している。ほかに宗教もあれば、読書、キャンピ
ング、コンピュータなどもある。全体に広く浅く教えながら、子どもの多様性を認める教
育システムになっている。そして学外クラブも発達していて、それ以上に学びたい子ども
は、それぞれのクラブに通っている。

●自由度で決まる、国の力

 国家の力は、いかに民衆が自由であるかによって決まる。教育とて例外ではない。すぐ
れた教育というのは、いかに多くの、将来への選択肢を子どもに与えることができるかで
決まる。

 話がぐんぐんと脱線してしまったが、なぜ私たちが子どもを教育するかといえば、子ど
もたちが将来、多様性のある社会の中で、柔軟(フレキシブル)に、力強く生きていくこ
とができるようにするためである。

とくに歴史教育は、先にも書いたように、過去を学び、未来にその経験や失敗を生かすた
めである。しかしその歴史教育一つとっても、子どもたちの世界では、まったく役にたっ
ていない。日本よ、日本の親たちよ、本当にこんなことでよいのか?

注※「イミダス」の索引の中から、学校の授業(英数国社理)で扱うような項目と、そう
でない項目を分けてみた。その結果、ここでいう20分の1から30分の1という数字を
算出した。

++++++以上、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●教育の自由化を!

 今となっては手遅れ。
なぜ日本の教育が、こうまで硬直してしまったのか?
ダイナミズムを失ってしまったのか?
その理由の一つとして、私は「ぬるま湯」論をあげる。

 たとえば幼稚園教育。
幼稚園そのものが、学校法人の名のもと、国から手厚い保護を受けている。
そこそこの指導(教育ではなく、指導)をしていれば、経営は安定する。
そういう中で、「これが幼児教育です」という「形」を作ってしまった。
もちろん「そうであってはいけない」と、がんばっている幼稚園も多い。
が、そういう幼稚園は、少数派。
たいはんの幼稚園が、ぬるま湯につかったまま、そこに安住してしまっている。

 では、どうするか?

 英語の格言に、『空の飛び方は、崖から飛び降りてから考えろ』というのがある。
つまりそれくらいまで追いつめられないと、だめという意味。
人は自分のもつ力を、引き出すことはできない。
そのためには、教育を自由化する。
ひとつの例として、郵便局と宅配会社の関係を、私はあげる。

 当初、宅配会社が全国規模で宅配を開始すると言ったとき、時の郵政省は、それに猛烈
に反対した。
無数の理由をこじつけた。
が、結果は、どうか?
今ではネットを使って、宅配物はどこにあるか、何時ころ配達されるか、リアルタイムに
それがわかるようになった。
しかも配達時間まで、指定できる。
これが「自由化」である。
自由化の恩恵である。

 文科省は、サラミ戦術(少しずつ切り出しする方式)で、改革なるもの(?)を進めて
いる。
が、こんな方法では、日本の教育は何も変わらない。
変わらないばかりか、ますます世界の潮流から、取り残されてしまう。

●夢

 私は夢見る。
子どもたちが、毎日の授業を楽しみにし、生き生きと学ぶ姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分の目標をもち、その目標に向かって進んでいく姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分たちの力で、自分たちの未来を作っていく姿を!

 ……キング牧師の演説風に書いてみた。

 具体的には、何度も書くが、(1)単位制の導入、(2)クラブ制の導入ということにな
る。
(3)教師の雑務からの解放も重要。
それについては、10年以上も前から、繰り返し書いてきたので、ここではここまで。

 結論として、もう一度、冒頭にあげたデータをながめてみてほしい。
あなた自身の学生時代を思い出してみてほしい。
あなたは、それでよいと思っているのか?
これでよいと思っているのか?

もし「NO!」なら、私がここに書いたようなことを、あなたも一言、口にしてみてほし
い。
そういう声が集合されたとき、日本の教育は変わる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 居眠りする子ども 教育の自由化 イミダス はやし浩司 教科書論 
実用的な教育 おもしろくない教育)
2010年4月9日記

【NG先生からのコメント】

はやし浩司 様

専門学校で感じていることです。
資格をとって仕事に就くという目的をもって入学してきているはずなのに、何という体た
らく、学ぶ意欲はあるのだろうか?
送っていただいた原稿にあったように、多くの学生が寝ているのです。勿論、授業の仕方
に一因があることは認めるのですが、それにしてもと思います。

先生の原稿にあった「私は夢を見る 生き生きと学ぶ姿・・」、小生もこのことを期待し、
それなりに工夫をしているのです。最近では小学生ですら、話の聞けない子が目立つよう
になり、放課後子ども教室における課題の一つとなっています。

学ぶことは、本来、楽しいもの(苦痛は当然伴います)であると思います。学ぶ意欲はど
こから生まれ、どのように高まっていくか、解決したい課題の一つです。
学校現場は目先のことに追われ、教育の全体像を見失いがちですし、政策としての教育に
も欠けている部分があります。どのような日本人の育成を目指すのかが分かりづらいこと
です。教基法には書かれているものの、国民に浸透してはいません。ブレアのように「1
に教育、2に教育・・」と力強く政策を展開することは今の政治に期待できそうもありま
せん。

不勉強な小生ですらこの先に不安を感じます。どうしたらいいのか悩む日々です。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「20年したら灰になってる……」(老人問題)(改)

●老人よ、若者たちの世界で、もっと意見を言おう!

+++++++++++++++++

最近、……ここ10年のことだが、
若者たちの老人観が、急速に変わりつつある。
あるチャット・サイトでの議論の1つを
紹介する。
この中で、若者たちは、こう言っている。

(1)老人の医療費は無駄……どうせ20年もしたら、灰になって死ぬから。
(2)寿命を半年短くすればよい……医療費の半分は、死亡前の6か月に使われる。
(3)老人の延命は、税金の無駄遣い以外のなにものでもない、と。

 誤解があるといけないので、そのまま紹介させてもらう。
これはほんの一部で、こうした議論が、延々とつづく。
ここに紹介するのは、その議論の結論的な部分。

++++++++++以下、転載+++++++++++

……生活保護受給者は死ねとか、低年収の者は生かさず殺さずとかってならわかるけどな。
道徳的には別として。

136 名前:名無しさん@十S年

国家予算の大半が、老人の、介護、年金、医療費に費やされて破綻寸前なわけだが。
老人にいくら金使っても、20年したら灰になってるんだから、完全な無駄だ。

137 名前:名無しさん@十S年

お前も老人になるんだよ
まさか自分は年を取らないとでも思ってるの?

138 名前:名無しさん@十S年

医療費の半分は、患者の死亡前6ヶ月以内に使われている。
平均寿命をたった半年短くするだけで、医療費は半減できる。

139 名前:名無しさん@十S年

元気で長生きするのは良いが、病気なら無駄な抵抗は止めて、さっさと死なせるべき。
老人の延命など、医療資源の無駄遣い以外のなにものでもない……。

++++++++++以上、転載+++++++++++

●「20年したら灰」

 「20年したら灰」?
平均寿命(約80歳)から逆算すると、私たちの年代ということになる。
80-20=60。
つまり私たち60代の人間をさして、「20年したら灰」と。
この言葉には、少なからず、ショックを受けた。
本音と言えば、本音。
若者たちが抱いている本音。
しかしこんな本音が、今、少しずつだが、表の世界に出始めている。

●医療費の半分

 医療費の半分は、患者の死亡前6か月以内に使われているとか。
私もこの事実を、(これが事実であるとするならばの話だが)、知らなかった。
だからその若者は、「平均寿命を半年短くすれば、医療費は半減できる」と。

 人間の命を、「数字」に置き換えているところが、恐ろしい。
私たちにも青春時代があったが、そういう視点で老人や医療費を考えたことはない。
平均寿命が年を追うごとに延びていくことを、率直に喜んだ。
「世界一の長寿国」と言われることを、誇りに思ったこともある。

●無駄な抵抗

 「病気なら無駄な抵抗は止めて、さっさと死なせるべき」と。
このセリフは、私たちが使うなら、問題ない。
私自身も内々では、そう言っている。
が、あくまでもそれは、(私個人)についての話。
「家族に迷惑をかけるくらいなら、さっさと死にたい」と。
しかし一般論として、若者たちに言われると、驚くというより、ぞっとする。

●40年後の心配

 私はこの年齢になっても、40年後の心配をしている。
2050年には、日本はアジアの中でも小国になってしまう(G・S経済調査部)。
が、それにとどまらない。
資源がないから、「所得」はとどまることなく、「流出」する。
日本は世界第一の、所得流出国。
わかりやすく言えば、50万円稼いでも、そのうちの何割かは、
そのまま外国へと流出していく。
ほんのちょっとつまずいただけで、貧乏国へと、そのまま転落してしまう。
日本の経済構造は、基本的に、そうなっている。

この数日間、それについてエッセーを書いてきた。
しかしこのチャットを読んだとき、空虚感を伴った、バカらしさを覚えた。
「どうしてこの私が、40年後の日本を心配しなければならないのか!」と。

●幻の繁栄

 「今に見る経済的な繁栄は、私たちが作った」などとは、言わない。
若者たちに恩を着せる意図は、みじんもない。
が、私たちはがむしゃらに生きてきた。
私たち自身のために、がむしゃらに生きてきた。
「ひもじさ」の恐ろしさを知っている。
その「ひもじさ」から逃れるため、がむしゃらに働いてきた。
その結果として、現在の繁栄がもたらされた。

 しかし今の若者たちは、(ボットン便所)から(水洗便所)になったときの、
あの喜びを知らない。
車を運転し、アメリカのジュースを飲むときの、あの喜びを知らない。
その気になれば、毎日だって寿司を食べられる、あの喜びを知らない。
が、私たちは知っている。
私たちはそのつど、「ぼくたちはすごいことをしている」と、それを喜んだ。

 が、若者たちよ、これだけは忘れないでほしい。

 現在のこの繁栄は、薄い氷の上に、かろうじて乗っている幻のようなもの。
壊れるときには、あっという間にこわれる。

●今の若者たちへ

 もちろんこうした意見は、若者たちの中でも、一部のひとたちのものである。
みながみな、そう考えているわけではない。(……と信じたい。)
ただこのことも、どうか忘れないでほしい。

 私たちにも、今の若者たちと同じような青春時代があった。
そのときも、今と同じような青い空があり、緑の山々があった。
その色は、この年齢になっても、まったくあせていない。
つまり私が言いたいのはこのこと。
肉体という「箱」は、ボロボロになっても、中身は同じ。
若いときも、老いた今も、同じ。

 若者たちから見れば、用なしの役立たずに見えるかもしれないが、私たち自身は
そうは思っていない。
何かしたいと願っているし、だれかの役に立ちたいと思っている。

 が、ひとつだけ大きくちがう点がある。
それは私たちには、未来がないということ。
どこをさがしても、ない。
「20年たったら、灰」というのは、あまりにも明白な事実。
あまりにも明白であるがゆえに、そんな残酷なことを、わざわざ口にしないでほしい。
私たちを、さらなる悲しみへと、追い込まないでほしい。

 私たちだって、懸命に生きてきた。
今も、懸命に生きている。
老人の仲間になったからといって、心に刺さる矢の痛さが、軽くなるということはない。
今の若者たちと同じように、痛い。

●では、どうすればよいか

 ともかくも否定的なことばかりを考えてはいけない。
若者たちを批判しても、意味はない。
私たち老人にも、いろいろと問題はある。
それは認める。
では、どうすればよいのか。
それを前向きに考える。

 これには2つの方向性がある。

(1)私たち老人は、どうあるべきか。
(2)若者たちに、どう「命」を教えていくべきか。

 この2つを考える。

●老人は、どうあるべきか

 老人は人生の先輩である。
よりよく生きるための知恵やノウハウをもっている。
それをもっと生かしながら、老人は老人としての存在感を高める。
肉体で勝負できなければ、精神で勝負する。
決して老人という(隠居の世界)に、安住してはいけない。

 私たちにも、(やるべきこと)がある。
その(やるべきこと)を見つけ、それを現実化していく。
若者たちの目から見たとき、「老人がいなければ、困る」というような状況を、
老人たち自らが作っていく。

 たとえば私は以前、「60歳からの徴兵制度」について書いた。
満60歳になったら、2年間、不定期でもよいから、軍事教練を受ける。
軍事教練が無理なら、せめて銃や大砲の使い方くらいは、覚える。
いざとなったら、予備兵として、日本の防衛に立ちあがる。

 ……というようなことを、老人の立場で、もっともっと主張してもよいのでは
ないか。
さがせば、やるべきことは、いくらでもあるはず。

●命の教育

 しかし、それにしても……。
教育の立場で、一言。

こういうことを平気で書き、論ずる若者たちがいること自体、教育の敗北と
とらえてよい。
もちろん政治も悪い。
正義を示せないばかりか、政治そのものが、利権・欲得の追求の場になっている。
で、「教育だけは……」と思いたいが、その教育までもが、受験を目的とした
予備校化している。

 先のチャットサイトの少し前では、こんな議論もなされている。

++++++++++以下、転載+++++++++++

110 名前:名無しさん@十S年

少なくとも、年収200万以下の税収のたしにもならん低所得者に医療を与える必要
はないだろ。
所得比例で健康保険料取ってるんだから、使える医療費も、所得比例で上限を作れ
ばいい。
上限を超えたら、治療中断して諦めてもらう。
年収200万の低所得者を、何千万も掛けて治療するのは無駄だよ。
50万の価値しかない車を、100万使って修理するようなもの。
111 名前:名無しさん@十S年

貧乏人は早く死ぬ方が経済にはプラス。
患者を治療するかどうかは、治療してまた働かせる方が得か、死なせる方が得かで
判断するべき。
社会復帰すれば年収1000万の患者と、社会復帰してもせいぜい年収300万の患者
じゃ、治療の経済価値が違う。
年金を食いつぶすだけの高齢者なんか、治療の経済価値はマイナスでしかない。
今でも、家畜を対象としてる獣医はそうやってる。
患畜を治して太らせてから出荷する方が得か、さっさと殺す方が得かの判断で、治
療するかどうか決める。

え?人の命は地球より重いだって?
平和ボケ乙

112 名前:名無しさん@十S年

余命幾日なんて、厳密に予言できるものではないけどなー
割と適当よ

++++++++++以上、転載+++++++++++

 つまり「命の教育」といっても、学校という場でなされる教育をいうのではない。
私たちがそのつど、若者たちと接する場で、直接的になされる教育をいう。
そういう場で、それを示すことができればそれでよし。
そうでなければ、それこそ私たちは、いったい何のために生きてきたのかということに
なる。
何のためにがんばってきたのかということになる。
私が今、感じている敗北感は、それに近い。

 ちなみに、私もこれからは、こうしたチャットサイトにどんどんと参加して、
自分の意見を書いてやる。
私たちの生き様を示してやる。

●終わりに……

 こうした若者は一部と思いたいが、しかし先にも書いたように、こういう意見が
(表の世界)に出てくるようになった。
そのこと自体が、問題。
またこういう(力)が、現実に世の中を、そういう方向に動かし始めている。
そこに私は近未来的な恐怖を感ずる。

 ……というより、これはもう「覚悟」の問題かもしれない。
現在、がんを患い、闘病生活を送っている義兄(75歳)もこう言った。

「浩司君(=私のこと)、治療にも暗黙の申し合わせ事項のようなものがあってね、
満75歳以上のがん患者については、どうも手術はしないことになっているらしい」と。

 その「75歳」が、やがて「70歳」になり、さらに「65歳」になる。
そういう時代が、すぐそこまで来ている。
私たちはそれを覚悟するしかない。
覚悟して、その上で、これからの老後を考えるしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●老人よ、パソコン片手に、もっと若者たちの世界に切り込んで行こう!
●老人よ、携帯端末機を片手に、もっと若者たちの世界で、意見を言おう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●さあ、今日も始まった!(4月9日)

●畑作

+++++++++++++++++++++

1週間ほど前、畑に苗を植え足した。
キュウリやシシトウの苗など。
そのうちの数本が、枯れ始めた。
トマトも寝ころんだまま。
「風のせいだろう……」と思っていた。
しかし葉先から枯れ始めているところをみると、
肥料の与えすぎ(?)。
昔からこう言う。
『肥料のやりすぎは、根を枯らす』と。
教育の世界でも、よく使われる格言である。

で、昨日、近くのショッピングセンターで、
新たに10本あまりを、買い足してきた。
ところが、である。
店で見たときは、生き生きとしていた苗だが、
もって帰って家で見ると、みな、横に倒れて
しまっていた。

店で並んでいるときは、密集した状態。
おまけに屋根の下。
つまり「温室」。
苗がみな、ヒョロヒョロになっていた。
気がつかなかった。
で、分けたとたん、自分では体を
支えきれなくなってしまった。

『温室育ち、外の世界で、すぐ風邪をひく』
という。
これも教育の世界で、よく使われる格言である。
昨日買ってきた苗は、まさにそれ。
「大きく育っているから、安いな」と思った。
背丈は、15~20センチくらいになっていた。

しかたないので、ビニールで囲った上、細い
棒で茎を支えてやった。
ワイフは「たぶん、だめね」と言う。
私もそう思うが、しかしだからといって、
見捨てるわけにはいかない。

あとは、その苗のもつ生命力に期待するしかない。
育つものは、育つ。
育たないものは、育たない。

ところで、教訓。
あの苗というのは、「大きいから安い」と
考えてはいけない。
小さくても、茎が太くて、しっかりしたものを買う。
こんなことはこの世界では常識で、私もよく知っていた。
畑作をするようになって、もう25年以上になる。
が、今回、失敗した。
なぜだろう?
「ショッピングセンターで売っている苗だから、
だいじょうぶだろう」と思ったのが、まちがいだった。
そそくさと、あわてて買ったのもいけなかった。

これから先、こういうミスが多くなりそう。
気をつけよう。
つまり油断というより、注意力が散漫になる。
それが失敗につながる。
なにごとも慎重に!

+++++++++++++++++++++++

●作曲(リズム音)ソフト

 オーストラリアの友人が、おもしろいソフトを届けてくれた。
「aM Laboratory」というのが、それ。
称して、「作曲ソフト」。
正確には、「リズム作成ソフト」と書くべきか。
日本ではまだ紹介されていない。(……と思う。)
製品版では、YAMAHAが似たようなものを出している。
しかしこの「作曲ソフト」は、無料。

 昨夜、私も一通り遊んでみた。
結構、楽しかった。
おもしろかった。
方法は簡単。

 ブロックになったマスが現われるので、適当にあちこちを左クリック
する。
たとえば漢字の「林」となるように、クリックしてみるなど。
それで自動的に音楽(リズム)が始まる。
消去するときは、(スペース・バー)を押せばよい。

興味のある人は、(↓)から。

http://lab.andre-michelle.com/tonematrix

 リズムに合わせて、何か適当な歌を口ずさんでみるとよい。
説明書きによれば、i-phoneの着メロとして、張りつけることが
できるとか。
(残念ながら、私は、i-phoneを使っていない。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【貪欲とは】

●自分を「縛(しば)る」もの

 私たちの体は、無数の「糸」によって、縛られている。
社会の糸、家族の糸、過去の糸、生い立ちの糸、能力の糸、年齢の糸、健康の糸
……などなど。
そうした「糸」が、ときとして私たちの進むべき道を決めてしまう。
それを「運命」というなら、人間には、「運命」がある。

 ただ誤解してはいけないのは、私はスピリチュアル(霊的)な、運命というものは
認めない。
ここでいう「運命」というのは、無数の「糸(ファクター)」が集合したもの。
「結果として、そうなる」というだけ。

 もちろんそうした「糸」と、闘うことはできる。
進むべき道は決まっているとは言いながら、糸は糸。
進むべき道を、自分の力で変えることもできる。
だから運命というのは、それを通り過ぎたとき、はじめてそこにあったことを知る。
先に、「私たちの進むべき道を決めてしまう」と書いたが、それは決定的なものではない。
またそう考えてはいけない。
運命を感じたとしても、それに身を任せてはいけない。

 で、もちろんその「糸」には、強弱がある。
強い「糸」もあれば、弱い「糸」もある。

●強い「糸」

 強い「糸」は、当然のことながら、私たちの体を縛りつけてくる。
たとえば親の介護がある。
現在、私の友人のNG氏は、その介護をしている。
数日前に届いたメールには、こうあった。

 「母は目が見えないため、2時間おきに介護しなければなりません」と。

 介護がいかにたいへんなものであるかは、私にもよくわかる。
1日とて、……というより、1時間とて、気が休まるときがない。
私の母のばあいも、1年目は、私の家にいて、2年目は、特養に入居した。
特養に入居したからといって、それで気が楽になったわけではない。
電話のベルが鳴るたびに、「もしや……」と思った。
何かのことで外泊するときもそうだった。

 まず特養へ電話を入れて、様子を聞く。
外泊先からも、電話を入れて、様子を聞く。
心の壁に、何か、重い鉛が張りついたような感じになる。
私がいう「糸」というのは、それをいう。

●あきらめて、受け入れる

 こうした「糸」を考えるときには、ひとつのコツがある。
(自分の力では、どうしようもない糸)と(自分の力で、何とかなる糸)。
まず、この2つを分ける。
(自分の力では、どうしようもない糸)については、あきらめて、受け入れるしかない。
親の介護も、そのひとつということになる。
いくら「いやだ」と思っていても、あきらめて、受け入れるしかない。
へたにあがいたり、もがいたりすれば、運命はキバをむいて、私たちに襲いかかってくる。
が、ひとたびあきらめ、受け入れてしまえば、運命は、向こうからシッポを巻いて、
逃げていく。

 私のばあいがそうだった。
それまで姉から、さんざん苦情を聞かされていたから、母の介護をすることについて、
少なからず、私はおびえていた。
しかしひとたびそれが始まってみると、私は、こう思った。
「子どもの世話より、はるかに楽」と。
「少なくとも、孫の世話より、はるかに楽」と。

 私の家に来た直後……というより、車で浜松へ来る途中から、母は下痢を繰り返した。
いろいろあった。
母との間には、いろいろあった。
しかし母の汚れた体を拭いてやったその瞬間、それまでのわだかまりが、ウソのように
消えた。

 たいへんは、たいへんだったが、その直後から、母の介護を日課のひとつとして、
こなすことができるようになった。

●貪欲な人

 同じ「糸」でも、今度は(外面的な糸)と(内面的な糸)に分けることができる。
ここに書いた母の介護は、言うなれば(外面的な糸)ということになる。
これに対して、(内面的な糸)がある。
(心の糸)と言い替えてもよい。
仏教的に表現すれば、「貪欲の糸」「執着の糸」「ねたみの糸」などが、それに含まれる。

 本当に恐ろしいのは、こうした(内面的な糸)ということになる。
「私」自身が、操り人形のように、その「糸」に操られてしまう。
操られながら、操られていることにすら、気づかない。
私が私でなくなってしまう。
それこそ運命の中に、埋没してしまう。
だから、恐ろしい!

 ある男性は、まさに金(マネー)の亡者だった。
明けても暮れても、考えるのは、金のことばかり。
自分の妻ですら、家政婦、あるいは従業員くらいにしか考えていなかった。
もちろん家族への思いなど、ゼロ。
「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と考えていた。

 もちろんケチ。
法事のお返しに、100円ショップで買った商品を包んだというから、ふつうではない。
すべての価値を、金に置き換えていた。
人間関係も、損得計算をしてから決めていた。
貪欲な人というのは、そういう男性のことをいう。

 で、問題は私たち自身。
そういう男性を身近に見ると、だれしも、「私はちがう」と思う。
「私は、あいつとはちがう」と。
しかしその実、それほどちがわない。
程度の差こそあれ、みな、同じ。
というのも、貪欲かどうかは、あくまでも相対的なもの。
マザーテレサのような女性から見れば、この日本には、貪欲でない人はいない。
またどんな貪欲な人でも、どこかの国の、あの独裁者と比べたら、聖人のようなもの。

 「執着」「ねたみ」についても、また同じ。

●魂のかいほう

 「自由」とは、こうした「糸」からの解放をいう。
とくに(内面的な糸)からの解放をいう。
一言で言えば、「魂の解放」をいう。
好き勝手なことをするのを、「自由」とは言わない。

 で、キリスト教というと、「愛の宗教」と考えている人は多い。
しかしキリスト教には、もう一本の柱がある。
それが「自由」。

 つまり横軸を「愛」とするなら、縦軸が「自由」ということになる。
これは私の勝手な解釈によるものだが、この両者があいまって、私たちは「渇き」、
つまり「孤独」から解放される。
言うまでもなく、「孤独」ほど、恐ろしい「罪(sin)」はない。
仏教でも、「無間地獄」と位置づけている。

 簡単に図示してみると、こうなる。
          
          自由
          |
          | 
  愛ーーーーーーーーーーーーー愛
          |
          |
          自由

 「愛」については、何度も書いてきたように、「許して、忘れる」。
英語では「Forgive & Forget」。
「どこまで相手に愛を与えるために許し、どこまで相手から愛を得るために忘れる」か、
その度量の深さで決まる。

 「自由」については、ここに書いたように、「魂の解放」をいう。

●さあ、今日も始まった

 ともかくも、私たちの体は、無数の糸によって、がんじがらめになっている。
私たちは日々に、その糸の中で、もがき、苦しむ。
「それが人間」と言えば、相手によっては、たいへん失礼な言い方になることは
よく知っている。
しかし私たちがなぜ、ここにいて、なぜ生きているかと聞かれれば、それから生まれる
無数のドラマに価値があるからということになる。

 平凡は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。
ヘタをすれば、ただ息(いき)ているだけという状態になる。
これには老いも若きもない。

年老いても、(生きている)人は、いくらでもいる。
若くても、ただ、(息ている)人は、いくらでもいる。
前にも書いたが、「老い」は、肉体という(入れ物)では決まらない。
年齢という(数字)でも決まらない。
中身。
中身で決まる。
今、どう生きているかで、決まる。

 また人間が生きる美しさは、運命と闘う、そのドラマの中から生まれる。
またそのドラマに価値がある。
それが真の幸福につながる。
あのトルストイもこう言っている。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、
最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

 ……ということで、今朝も始まった。
4月9日。
昨日は長男の誕生日だった。
みなで温泉へ行き、レストランでパーティを開いた。
楽しかった。

+++++++++++++++

(付記)貪欲さについて

●あらゆる動物において、もっともはげしい欲望は、肉欲と飢餓である。(アディソン「ス
ペクテーター」)

●われわれをいちばん強く支配する欲望は、淫欲のそれである。
この種の欲望は、これで足りるということがない。
満足させればさせるほど、ますます増長する。(トルストイ「読書の輪」)

●貪欲は、偶像礼拝にほかならず。(新約聖書・コロサイ人への手紙)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自由論 運命論 糸論 貪欲論 生きる意味 愛と自由)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司


【寸又峡温泉、「翠紅苑(すいこうえん)」にて】

●『逢わせ屋』

 旅館も、ネットで調べ、ネットで申し込む時代になった。
またそのほうが、料金も安い。
私はいつも、そうしている。

 で、夕食後、2度目の入浴。
湯が体にあたると、ヌルッとした感じになる。
「美人作りの湯」だ、そうだ。

 で、今は、ワイフはテレビを見ている。
番組名は、『逢わせ屋』とかいうもの。
生き別れになった人を、会いたい人の側に立って、探し出すという番組。
今夜見たのは3例だったが、3例とも、生き別れになった親をさがすというものだった。
当初、「他人の不幸を、もてあそんでいる!」と、かなり強い反発を覚えたが、3例とも、
最後には、もらい泣きをしてしまった。
テレビ局の意図はどうであれ、その向こうにある人間ドラマに感動した。
親を探す子ども。
子どもを思う親。
それぞれに複雑な事情があり、それぞれがそれぞれの思いの中で、懸命に生きている。
それに感動した。

●紙一重

 で、その番組に、1人の女性が出てきた。
年齢は35歳という。
女性がいちばん美しく輝く年齢だが、その女性はどこか疲れて見えた。
それもそのはず。
父親がみなちがう、5人の子どもをかかえていた。
しかもシングルマザー。

 話を聞くと、自分を捨てていった父親に一度会って、父親の本心を聞いてみたい、と。
父親が家を出て行ったあと、その女性は、継父に育てられていた。
いろいろあったらしい。
少女のころから、非行グループに入り、荒れるに荒れた。
で、その番組を見ながら、その女性について、当初は、「ずいぶんと勝手な母親だなあ」と
思った。
ここにも書いたように、父親がみなちがう5人の子どもをかかえている。
(5人だぞ!)

 もしそういう子どもたちがおとなになり、同じように、「父親に会いたい」と言ったら、
どうなるのか、と。
その母親は、それぞれの子どもの父親探しを手伝うのだろうか、と。

 が、幸福な人も、不幸な人も、(その女性が不幸と言っているのではない。誤解のない
ように!)、紙一重。
見た目には大きく違っても、紙一重。
不幸な人は、何をやっても裏目、裏目と出て、不幸になっていく。
自分の意思とは無関係に、不幸になっていく。
どうしようもない(糸)に引きずられるうちに、そうなっていく。

 画面を通して話を聞いているうちに、目頭が熱くなってしまった。

●「刷り込み」

 人間にも鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかって
いる。
生後まもなくから、7か月くらいまでの間が、その時期。
この時期を通して、親子関係(とくに母子関係)は、本能に近い部分にまで、脳の
中に、深く刻み込まれる。
この時期を「敏感期」という。

 で、こういう書き方は、それ自体が、たいへん不謹慎なこととは思う。
思うが、もし番組に出てきた人たちが、敏感期を経験していなかったら、こうまで
涙ながらに親をさがすことはしなかっただろう、と。
たとえば先の女性には、5人の子どもがいる。
みな、父親がちがうという。
ほとんどが妻子もちの、年上の男性という。
話の雰囲気からすると、5人の子どもたちは、生まれながらにして、父親には
会っていないということになる。
ということは、「刷り込み」はなされていないということになる。
つまり将来的に、「お父さんに会いたい」と、涙ながらに訴えることはない。

 不謹慎な書き方になるが、そういう心配はない。
発達心理学的に考えると、そうなる。
言い換えると、その女性がああまで父親に会いたがっていたのは、そこに
「刷り込み」があったからと考えられる。
さらに言い換えると、「刷り込み」による「力」には、それほどまでに強力な
パワーがあるということになる。

 ともかくも、番組の中で、その女性は父親と再会する。
抱き合って再開を喜ぶ。
泣きあう。
それを見て、私も、思わずもらい泣きをしてしまった。
「よかった」と思った。

●残酷な番組

 ……しかし、一言。
 それにしても残酷な番組である。
一見、不幸な人を助けるような番組に思えるが、その実、不幸な人を、食い物に
している。

 本来なら、つまり本当に人助けが目的なら、そうした(人探し)は、人知れず、
それがだれともわからないまま、したらよい。
番組にするにしても、ショー化(=見世ものに)するのは、最小限にしたらよい。
が、見た人ならわかると思うが、最初から最後まで、ただの「ショー」。
「お父さんは……!」と言って、ボックスになった部屋の取っ手に手をかける。
そこでコマーシャル。

 説得に応じて父親が来ていれば、親はそのボックスの中にいる。
そうでなければ、一通の手紙が置いてある。
「さあ、どうかな?」と視聴者に思わせながら、コマーシャル。
これを「ショー」と言わずして、何と言う?

 だいたいテレビ局が、人探しをすること自体、基本的な部分で、おかしい!
テレビ局が、そうした人探しをしているNPO団体なり、探偵社を取材と
いう形で報道するなら、まだ話もわかる。
どうしてテレビ局が、人探しなのか?
どこでどうつながるというのか?

 ……という回りくどい言い方は、やめよう。
こうした番組は、まずプロダクションが企画を出してくる。
「こういう番組なら、視聴率を稼げますよ」とか、何とか言って、出してくる。
それに応じてテレビ局側は、企画会議を開く。
その場でOKが出れば、プロダクション側は、番組の制作に取りかかる。
私はその間のやり取りを、番組の向こうに感じた。
ある種の(薄汚さ)を感じた。
だから、ここに「不幸な人を、食いものにしている」と書いた。

 ついもらい泣きしてしまった私だが、だからといって、こういう番組を支持
しているわけではない。
すばらしい番組だったと言っているのでもない。
低劣番組であることには、ちがいない。
それも、どうか誤解しないでほしい。

●翠紅苑(すいこうえん)

 実名を書いた以上、悪口は書けない。
書く必要もない。
これからその翠紅苑を出て、岐路につく。
料金を少しケチったので、料理はまあまあといったところ。
しかし旅館のもつ雰囲気は、最高!
食堂には、昭和30年代のテレビが並べてあるところかもわかるように、
われら団塊の世代には、グッとくる。

 そう、団塊の世代、お勧め旅館。
風呂もきれいで、清潔だった。
湯質もよい。
先にも書いたが、都会の一流旅館のような洗練された旅館とはちがうが、
一級旅館であることには、ちがいない。
寸又峡という山奥にあることを勘案するなら、「超」をつけてもよい。
私はじゅうぶん満足した。
ワイフと2人で、「よかったね」と言い合って、この部屋を出る。

(交通)
JR金谷駅から大井川鉄道。
1時間30分。
千頭(せんず)で下車、寸又峡温泉行きのバスで、約40分。

では……。


Hiroshi Hayashi+++++++April 2010++++++はやし浩司

●帰りの電車

++++++++++++++++

千頭(せんず)からJR金谷まで。
電車の中で、ほとんど眠っていた。
ワイフも眠っていた。
「昨夜は、よく眠れなかった」と、
一言、つぶやいた。
「旅館のふとんって、寝にくいわ」とも。

JR金谷で、東海道線に乗り換える。
いつだったか昔、オーストラリア人と
同じ行程を旅したとき、そのオースト
ラリア人が、こう言ったのを覚えている。
「電車を乗り換えるたびに、電車が
大きくなっていく」と。

(トロッコ列車)→(大井川鉄道)→
(東海道線)→(新幹線)と。

そのときは、「おもしろいことを言うな」と、
私は思った。

++++++++++++++++

●3人の女性

 目の前の席に、3人の女性が座っている。
民主党の小沢幹事長を、そのまま女性にしたような感じ。
たいへん失礼な言い方とは思うが、顔を見たとたん、そう思った。

3人とも、欲求不満のかたまりといった感じ。
鋭い視線と、それ以上に、不満そうな顔。
「女」であることを、とっくの昔に捨てきっている。
そのオバタリアンたちが、小声だが、間断なくしゃべりつづけている。

 その向かって左隣には、4歳くらいの女の子を連れた南米人。
窓の外の景色を、楽しそうにながめている。

今、その3人の女性たちが、大きなバッグからスルメを出して食べ始めた。
少し前まで、3人そろって、ガムをかんでいた。
恐ろしいほどの迫力。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)。
年齢は65歳前後か。
顔の上半部よりも、下半部のほうが、大きい。
かみつかれたら、痛そう。

 そう言えば、うち1人は、どこか、見覚えがある。
浜松の女性かもしれない。
もしそうだとすると、この原稿は、ヤバイ!
だからこの話は、ここまで。

●女を捨てる

 「人は女に生まれない、女になるのだ」と書いたのは、ボーボワール。
その言葉をもじると、こうなる。
「女は女を捨てるのではなく、女として相手にされなくなる」と。

 ところで60歳という人生の峠(とうげ)に立つと、こんなことが
わかる。
60歳というそのときを見ると、その人は80歳を過ぎて生きるか、
70歳までに死ぬか、おおよその見当がつく。
80歳を過ぎて生きる人は、健康に留意し、それなりの努力をしている。
70歳までに死ぬ人は、酒を飲み、タバコを吸い、運動もほとんど
していない。
もちろん何かの大病をすれば話はちがってくるが、ひとつの目安としては
正しい。

 人間性も、またしかり。
60歳というそのときを見ると、その人がやがてオバタリアン(オジタリアン
でもよいが)になっていくか、それなりの人間性を保持していくか、おおよその
見当がつく。
(その3人の女性のことを書いているのではない。誤解のないように!)

 人間性を保持していく人は、それなりの努力をしている。
そうでない人は、そうでない。
日々を怠惰に過ごしながら、怠惰に過ごしているという意識すらない。
また「そうであってはいけない」と、自分にムチを打つこともない。
むしろ、「私は完成された人間」と、居直ってしまう。
そのとたん、その人がもつ人間性は、かぎりなく後退していく。

●温泉で……

 今朝は、5時ごろ起きて、温泉につかった。
出て脱衣所のところで、72歳という男性と知り合いになった。
長く造船所で、造船技師をしていたという。
退職後は、パイプに内側に、塩ビを張りつける……というような特殊な
仕事をしていたという。
健康的な肉体。
シャキシャキとした、話し方。

 私はその男性を知ってうれしくなった。
「健康の秘訣は何ですか?」と聞くと、こう話してくれた。
「朝と夕に、毎日2回、45分間ずつ、散歩をしています」
「それと食事には、たいへん気をつかっています」と。

 私はその男性を見ながら、「ぼくも、まだまだがんばれる」と実感した。
私より10歳、年上ということになる。
あとでワイフに、「ぼくはまだ、10年はだいじょうぶだよ」と告げた。
その男性の話をした。

 健康でがんばっている男性と話をするのは、楽しい。
生きる力そものを、もらうことができる。
それに生きる目標になる。
 
 電車はあと数分で、JR浜松駅に到着する。
では……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ボーボワール 人は女に生まれない。女になる 女は女に作られる 健
康 寸又峡温泉 シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴ
ォワール )


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