●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)
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バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。
Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。
It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very exceptional man.
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っているという点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。
Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life.
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわかる。
It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that position...
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、その人をリーダーと受け入れてしまうようになる。
It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほとんどいない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、よいと言われる。
I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。
The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and women.
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験している。
Among children it is very common, and grows naturally out of the period of make-believe and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。
It is rare in later life because everything is done to kill it during education...
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうことが稀になる。
The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教育する教師の心を、より強く支配する。
Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create.
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そうではなくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすることを目的としなければならない。
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●死んだ教育vs生きた教育
教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。
しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生まで、教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。
つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」ということになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。
だから子どもたちは、よくこう言う。
「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまっている!
●では、どうするか?
教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。
フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。
もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。
親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、感じ取っている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「クラブ」になってしまう。
それでは元の木阿弥。
が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているのが、官僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。
その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。
日本の教育を真正面から批判してみた。
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Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司
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