●ビート・たけし氏の『アウトレイジ』
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劇場へは、毎週のように足を運んでいる。
「ボケ防止のため」と、心に決めて、
そうしている。
で、この数週間、毎回、『アウトレイジ』の
予告編が流される。
私はそれを見るたびに、顔をそむける。
……無表情のまま、突発的にキレて、相手を
蹴り飛ばすビート・たけし。
それにつづく暴力、また暴力。
「悪」という文字も、繰り返し使われる。
で、こんなセリフも……。
「おまえ1人くらい生きていなければ、
結果はわからんだろ」(記憶)と。
まさに汚い言葉。
罵声。
怒鳴り声。
ビート・たけし氏は、フランスでは受けが
よいらしい。
フランス政府からも、「日本を代表する文化人」(?)
として表彰されている。
しかしみなさん、もう一度、ここで冷静に
考えてみよう。
「ああした映画が、日本の文化なのか?」と。
あるいは「ああした人物が、日本を代表する
文化人なのか?」と。
フランス人の目を通して、この日本を眺めて
みるのもよい。
TBS・iは、つぎのように伝える。
++++++++++++以下、TBS-iニュースより++++++++++++++
フランスのカンヌ映画祭で、北野武監督の「アウトレイジ」が公式上映されました。最高賞パルム・ドールを競う北野監督、「進化した自分をみせられた」と自信を見せています。
カンヌ映画祭は6日目、栄えある赤じゅうたんに、はにかみながらタキシード姿の北野武監督が登場しました。コンペ部門への参加こそ「菊次郎の夏」以来、11年ぶりですが、監督としてカンヌ出品は5回目と、既に「常連」。観衆の盛んな拍手で迎えられました。
今回の新作「アウトレイジ」は、暴力団の内部抗争の末路を描いた異色作。久々に暴力シーンが目立ちますが、北野監督は「進化した自分を見せられた」と自負しています。
「見事に客をKOしたっていう感じで。本当は半分以上席を立つかと思ったが、しびれて立てなかったんじゃないか。料理の鉄人と言われた人が、カツ丼を作ってみろと言われたような感じがして、じゃあ、作ってやろうじゃないかと作ったのが今度の映画。いい味してるだろう? でもクセありますって・・・」(北野武監督)
既に賛否両論、大きな話題となっていますが、ヴェネチアに続き、賞獲りが成るかは23日の授賞式で判明します。帰ってきた大物として歓迎された北野監督。また強烈な印象をカンヌに残したことは間違いありません。(18日07:24)
++++++++++++以上、TBS-iニュースより++++++++++++++
●日本を代表する文化人?
みなが寄ってたかって、ビート・たけしをもちあげる。
フランス人にしても、そうだろう。
何しろ、日本でもっとも知名度の高い、タレントである。
東京あたりで、ビート・たけしを批判したら、それだけでマスコミの世界から、叩き出されてしまう。
しかし『アウトレイジ』の試写会で、「途中で席を立つ人が多かった」(ヤフー)という部分に、私は賛辞を送りたい。
2年前に、こんな原稿を書いた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies, where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and
money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.
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社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。
逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。
一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。
逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。
……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。
ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。
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●近代的な都市国家
日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見
れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バ
ベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも
退廃した都市として描かれているということ。
内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めて
いる。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧
しい。ビートT氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。
で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むこと
に、嫌悪感を覚える。
東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、
電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほ
か、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーン
まであった。
そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市で
あると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と
思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、
確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京
って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。
が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかとい
うと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。
子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。
どこか、おかしい。狂っている。
10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少
ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、
夕方のコンビニをのぞいてみることだ。
どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。
そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話
をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へ
と消えていく……。
しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」と
は、似ても似つかぬものである。
……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K
市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事
件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が
高校生のときから、つきあい始めたらしい。
そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかし
こういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の
幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹
部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。
この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつ
も心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にあ
る、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野
くらいで、コントロールできるような代物では、ない。
肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、
糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。
……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよい
ということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求
める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。
つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、
冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。
さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。
ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を
追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。
便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざ
ける。
そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私
やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけでは
ない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、
そうでない。
悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。
で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望
感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとた
ん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。
それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。
ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確か
である。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●無力感
たまたま(?)、私とビート・たけしとは、同年齢である。
それだけに、どういうわけか、あの人の精神構造というか、基盤のようなものが、よくわかる。
私たちは、そういう時代を生きてきた。
が、私は私だし、あの人は、あの人。
マスコミを背負っている分だけ、私には、勝ち目はない。
(ない)分だけ、いつも無力感に襲われる。
たとえて言うなら、懸命に野原に花の苗を植えていたところ、うしろから大きなブルドーザーがやってきて、それを踏みつぶされたような気分。
怒りの声など、そのままブルドーザーの騒音にかき消されてしまう。
が、その責任は、私たちにないわけではない。
批判力をもたない日本人。
大勢にのまれてしまう日本人。
そういう無責任さが、一方で、ああいう人物をのさばらせてしまう。
でないというのなら、予告編だけでもよいから、一度、『アウトレイジ』なる映画を観てみることだ。
「観たい」と思う前に、ヘドが出る。
何が「料理の鉄人」だ!
自らを、「料理の鉄人」と称し、「カツ丼を作ってみた」?
観客をこれほどバカにした言葉もない。
ないが、今の日本人には、それすらもわからない。
わからないまま、またもちあげる。
「フランスでもちあげられた。すごい人だ」と。
これからはフランス語でも、BLOGを書いてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ビートたけし ビート・たけし アウトレイジ)
+++++++++++++以下、フランス語++++++++++++++++
●Beat Takeshi's Film ,"Outrage"
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Le théâtre, qui a visité presque toutes les semaines.
"Pour éviter le flou", et a décidé dans son cœur
Le faire.
Ces dernières semaines, à chaque fois que la remorque est due à l'écoulement [Outrage].
Chaque fois que je vois, en évitant le visage.
... Reste expression, à se briser subitement, kick Takeshi battre l'adversaire.
Il a continué la violence et la violence.
«Mal» caractères qui sont utilisés de façon répétée.
Dans ce dialogue ... bien.
«Si vous vivez près d'un,
Les résultats ne sais pas, hein? "(Mémoire) et.
Très gros mot.
Boos.
Bellow.
Beat Takeshi's en France sous le Yoirashii.
Du gouvernement français, japonais de renom personnalités du monde culturel "(?)
A été honorée comme.
Mais vous le répète, soyons clairs ici.
"Le film de demain Oh, une culture japonaise?" Et.
Ou "personne demain Oh, ce qui est du Japon grandes figures culturelles?" Et.
À travers les yeux des Français, les Japonais peuvent essayer la recherche sur cette question.
SCT • Je souhaite se présente comme suit.
++++++++++++ Ci-dessous, le SCT nouvelles-i ++++++++++++++ plus
Festival de Cannes, réalisé par Takeshi Kitano "indignation" a été la projection officielle. La compétition pour la Palme d'Or le premier prix Kitano, "montrait l'évolution de sa" confiance est à l'affiche.
Jour 06 Festival de Cannes, le tapis rouge prestigieux portait un smoking semblait timide Takeshi Kitano. Bienvenue à participer à son concours, "Kikujiro" Depuis, il est de 11 ans, et exposées à Cannes que le cinquième entraîneur déjà des «habitués». Accueilli par des applaudissements enthousiastes de la foule.
Cette nouvelle "outrage" est un film unique représentant le sort d'un gang de la guerre civile. Les scènes de violence se distinguent par une longue période, Kitano, "a été son spectacle a évolué", sont fiers.
"Il semble un client à un KO amende. J'ai pensé il vraiment plus de la moitié sortir, de se relever à s'endormir, je pense. Iron Chef, qui a été dit, est dit pour essayer de construire une côtelette de porc sur le riz ou je me sentais comme, eh bien, ce qui fait de ce film, mais ne font pas. vais au bon goût? habitude, mais je l'ai "(Takeshi Kitano)
Déjà controversée, mais il est devenu un grand sujet, suivie par Venise, j'ai trouvé le prix consiste Prendre la cérémonie de remise le 23 mai. Kitano a été accueilli comme un grand retour. Cannes laissé une impression durable qui est ok aussi. (18 07h24)
++++++++++++ Plus, le SCT nouvelles-i ++++++++++++++ plus
Japon leader ● culturelle?
Et tous les gangs, a levé l'Takeshi Beat.
Même si le peuple français, non?
Après tout, le Japon est le plus haut niveau, et le talent.
Autour de Tokyo, vous critiquez Beat Takeshi, seulement que le monde des médias, ils sont expulsés.
[Mais l'indignation 』à l'avant-première de" beaucoup de gens s'en vont dans le milieu "(Yahoo) sur cette partie, je vous donne un compliment.
Il ya deux ans, a écrit ce manuscrit.
Hiroshi Hayashi Hiroshi Hayashi ++++++
Modernité et bien-être humain ● (modernisation de la société et sa quête du bonheur)
Modernisation de la société ne nous promettent d'être heureux, ou plutôt le plus souvent
modernisation de la société nous amène à se perdre. Pour l'un des exemples de la
la modernisation, Tokyo est toujours conçue comme une ville corrompue dans les films hollywoodiens, où toutes sortes de désirs ont été liquidées à remous, des désirs comme la drogue, le sexe et
de l'argent. Est-ce l'avenir que nous souhaitons la poursuite? La réponse doit être n °
++++++++++++++++++++
La modernité de la société a été heureux de ce que disent les gens,
Il est douteux.
Inversement, les personnes âgées sont tous,
Que ce sera rebondissements.
Toutefois, nous avons également des personnes de un demi-siècle,
La vie a été comme un rêve. Mais, encore,
Sentez-vous plus heureux maintenant que ce n'est pas beaucoup.
En revanche, l'avenir, le peuple d'un demi-siècle plus tard,
Garanti pour être plus heureux n'est nulle part.
Si la pointe à partir de maintenant peut-être malheureux.
Au contraire, il est plus probable que haute.
... Quand il s'agit, et que la société moderne va faire quelque chose.
Plus parlant Tsukitsume, nous présentons les
Terre, si elle vient de ce qu'ils veulent vivre. D'ailleurs, qu'est-ce que pour gagner leur vie.
La modernité de ces sociétés ont ici une défaillance structurelle ou plutôt,
Des problèmes très graves qui sont cachés.
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● ville moderne à l'état
Donner l'impression à l'étranger que le Japon n'est pas si bon. Si vous regardez Hollywood sort au Japon, le comprendre. Il ya quelque temps, "Kill Bill" était un film. Même maintenant, "Babel" est un film. Le facteur commun de ces films, Tokyo, Japon en particulier, est dépeinte comme une ville qui a toujours la décadence.
En privé, "?" Mais je pense, qui est aussi étrangère au Japon, les Japonais sont à la recherche d'images par exemple. film japonais a remporté le prix dans un pays étranger qui est juste choses décadente. Ku quelque part, quelque pauvres. T M. battre un metteur en scène, de ne pas donner un exemple.
Dans ces films, et la regardent à travers le Japon, même ce que je peux vivre dans ce Japonais ont un sentiment de dégoût.
A Tokyo, il suffit de l'homme, sont tourbillonnant tout désir. Les marchandises, d'argent, le sexe,
Les produits électroniques, de la nourriture, tout en tous. Film, "Babel" dans, ainsi que les jeunes puissent profiter de la drogue, la jeune fille ôta ma culotte, et l'école secondaire les élèves de sexe masculin ont été appelés sur les lieux de rupture à travers elle.
De telles scènes, sans aucune gêne, ... je veux dire, que Tokyo est une ville et tels, sont naturellement attirés. Nous avons même le voir, mais ils ne sont pas et un "alors que je pensais, avant que la force résultant de l'écran, rien de plus impuissant. Car il n'y a
Tokyo a certainement. Quelque part dans les studios et n'est pas définie. Et même ce que je peu, est à Tokyo, j'ai été une ville », et il se convaincre.
, Et celles de Tokyo, Tokyo que la modernité, et de dire si on nous a demandé, la réponse est NON! Nous sommes ici à Tokyo, Tokyo, et ne pas avoir vécu.
Enfants, aux enfants d'aujourd'hui, et ne pas avoir vécu.
Quelque étrange. Insane.
Il ya 10 ans est devenu un problème datant compensée. Mais maintenant, même ceux qui émettent moins eux. Assez commune, même scène est devenue banale. Si vous ne le savez pas
Il peut prendre un coup d'oeil à un dépanneur dans la soirée.
Incertain atmosphère quelque part, et les filles lycéenne qui a parlé au téléphone.
Juste à l'extérieur des hommes ont arrêté la voiture, souriant et en riant, en parlant sur les téléphones cellulaires sont les mêmes. Pendant que je faisais difficile 取 RIAI contact, les filles, et disparaissent dans la voiture ... par la suite.
Mais les «progressistes» les gens l'appellent, n'est pas. «Décadente» appel. Nous cherchons le «bonheur» et ne ressemble en rien ceux-là.
Même si ce que cela signifie ... Je suis donc ce n'est pas un saint. Pas plus tard qu'hier, K
K Ville directeur d'école secondaire, a été datant une femme (20 ans) ou menacé d'être arrêté pour cet incident. Selon les rapports, la femme a dit qu'il était l'élève du principal. Depuis leur élève du secondaire, la lecture de ce Metarashii 始.
Lorsque de tels incidents à la lumière, tous les crunch "et juste, il donne à la direction. Dans un tel monde, mais qui, le principal, ou frapper avec une pierre. S le long d'une matrice donnée des fonctionnaires du comté commission scolaire, la tête a été abaissé en même temps, signifie que ces agents, et les saints dire, il ne sera pas. Vous pourriez même, ne peut pas être.
Parce que ce dont je suis, si vous avez une chance avec quelqu'un qui a une telle relation avec une jeune femme Mochitai espère toujours dans mon cœur. Plutôt que d'espérer que le fantasme a toujours été. À l'arrière du cerveau, les signaux émanant de l'hypothalamus, il est énorme. Le long et le cortex limbique du cerveau préfrontal, la chose est que nous n'avons pas.
Surtout si le corps est sain, à mon âge, si les gens ne sont pas intéressés par une jeune femme,
Ou le diabète ou la dépression, je doute qu'il est mieux comme ça la maladie (désolé!).
Les plus folles histoire ... ce que cela signifie la poursuite de ces désirs, et qu'il convient de ne pas perdre. Poursuite du désir, la régression à la moyenne du monde primitif. Modernité et demander si on nous demande quelque chose qui est très intense en ce point.
En d'autres termes, la modernité est que ce n'était pas la poursuite du désir. , Et perdent leur point de vue,
Comme je l'ai écrit au début, nous sommes censés être ce qu'ils cherchent à tout vivant.
Pour cette question, c'est que ce qu'ils vivent pour?
Même si le téléphone mobile écrite ici en ce moment a été utilisé comme un moyen de la prostitution, il devient un outil de poursuivre un désir. Même si un DVD, même si l'Internet, oui.
Si il est encore plus utile appareil, tracer une ligne quelque part dans mon cœur. Dessiner, loin de la poursuite du désir.
Que les opérations de petite psychologique, la pile tous les jours et mois et l'année, vous et moi finalement dans un monde plus riche. Nous avons donc, il ne faut pas être plus heureux. Mais la seule chose près à un monde plus heureux, vous le pouvez. Bien sûr, sinon,
Non.
Il sera facile de méchant. Regarder un peu lâche (loose) Si la mère, pourrait en faire partie.
Au début, il peut être remarqué dans cet âge. Cette fois, il signifie «désespoir» d'un goût de ce fait pas terrible. Dès que j'ai remis à l'envie du moment, nous sommes loin, très loin, il faudra un détour. Le temps sera perdu.
J'ai écrit à ce sujet souvent omise ici.
Mais au moins l'égal de la société moderne, et que la poursuite du bonheur n'est pas. Il est certainement juste.
Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年5月19日水曜日
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