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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10年 5月 21日
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★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
src="http://farm5.static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500"
height="250" alt="●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" />
●今日から、レッスン(年少児+年中児クラス)BW教室byはやし浩司(浜松市)
テーマ「声を出そう!」
「あ」の音
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【URL版】
http://www.youtube.com/watch?v=grQpUYfQ200
http://www.youtube.com/watch?v=CNsWrzyPPr4
http://www.youtube.com/watch?v=-HsOWJpRCfY
http://www.youtube.com/watch?v=XCyijmXxdKU
http://www.youtube.com/watch?v=DS1W8zGuXt4
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●老後の資金
++++++++++++++++
年金機構のHPに
こんな記事が載っていた。
そのまま紹介させてもらう。
(HOKEN MALLのHPより)
++++++++++++++++
●老後資金の確保
【ポイント】
保険以外の資産状況や公的年金を検討し、月に10,000円から20,000円程度積み立てのつ
もりで老後資金を準備しましょう。
【必要な保険】
年金保険
養老保険
【ゆとりある老後を送るための生活費はいくら?】
平均的な老後生活費= 21万円
※世帯主60歳以上の日常生活の生活費 <総務省統計局 「平成20年家計調査年報」より
最低の日常生活費平均= 23.2万円
ゆとりある老後生活費= 38.3万円
※夫婦二人の場合
<生命保険文化センター 「生活保障に関する調査」/平成19年 アンケートより>
公的年金の上乗せとして、月に10,000円から20,000円程度を年金保険や養老保険で準備
しましょう。
また、下記の条件を満たす個人年金保険は「個人年金保険料控除」として、所得税と住民
税の負担が軽減されます。退職まで10年以上ある方は、まだ現役で資金的に余裕のあるう
ちに老後資金を準備できますね。
年金受取人が契約者またはその配偶者のいずれかであること。
年金受取人は被保険者と同一人であること。
保険料払込期間が10年以上であること(一時払は対象外)。
年金の種類が確定年金や有期年金の場合、年金受取開始が60歳以降で、かつ年金受取期間
が10年以上であること。
+++++++++++以上、(HOKEN MALLのHPより)+++++++++++
●私のばあい
私は現在、62歳と6か月。
60歳は、とっくの昔に過ぎている。
が、これによれば、最低の日常生活費として、平均、 23・2万円、必要とか。
23・2万円!
が、まだ年金らしいものは、1円も手にしていない。
あと3、4年で、国民年金がもらえるそうだが、夫婦2人で、合わせて13万円前後。
今はまだ仕事をつづけているからなんとかなるが、仕事をやめたら、あとは財産を切り売
りして
生きていくしかない。
もっともその一方で、先日経営破綻したJALのOBのように、月額40~50万円の
年金を手にしている人もいる。
企業や最終の役職によっては、もっと多い人もいる。
しかしそれにしても、「最低」という言葉が恐ろしい。
最低以下だったら、どうなるのか。
どうすればよいのか。
まさか餓死?
もうすぐこの日本に、ハイパーインフレの大波が押し寄せてくる。
そのうち13万円では、月々のガソリン代にもならない(?)。
38・3万円(ゆとりある老後生活費)でも、きびしい。
この問題は、データだけを記録し、また別の機会に考えてみたい。
(考えたところで、どうにもならないが……。)
(付記)
仮に30万円(月)必要として、13万円を引くと、私のばあい、17万円の不足。
その分を貯蓄で補うとすると、平均寿命までの20年間で、4080万円!
(17x12x20=4080万円。)
4080万円の貯蓄が必要ということになる。
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
●『たちあがれ日本』
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
自民党に離党届を提出した与謝野馨元財務相や無所属の平沼赳夫元経済産業相らが10日
に結成する新党の党名は 「たちあがれ日本」 となる事が7日、決まった。与謝野氏らは
5日から党名や基本政策の協議を進めてきた。新党関係者は 「党名はほぼ合意が出来た」
と語った。(読売新聞・4月7日・2010)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
●Ambitious Japan(立て、日本!)
『たちあがれ日本』という言葉を聞いて、10年ほど前に書いた原稿を、思い出した。
「Ambitious Japan」という言葉について書いた原稿である。
それをそのままここに紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
今、東海道新幹線(JR)の車両の横に、「Ambitious Japan」と書いて
ある。
「Ambitious」と言えば、W・クラーク博士。明治10年、札幌農学校(現在
の北海道大学)を退任するときに、クラーク博士は、「Boys, be ambitio
us!」と言ったという。
日本では、「少年よ、大志を抱け」と翻訳されている。
その後、この翻訳は、正しくないという議論が、あちこちから起きた。実は、私も、そ
う思う。つまり、正しくないと思う。「ambitious」というと、「野心的な」とい
う意味。反対に、小さな世界で、こじんまりと生きている人のことを、「ambitiou
s」とは、言わない。
そういう意味での、「ambitious」である。「大志」というと、どこか出世主義
のにおいが、プンプンとする。明治という時代は、そういう時代だったかもしれないが、
しかしアメリカ人のクラーク博士に、そういう意識があったかどうかは、疑問である。
あえて訳すなら、「生徒たちよ、こじんまり生きないで、もっと元気を出せ」という意味
ではないのか。英語で、「ambitious」というと、どこか「他人を蹴落としてでも、
前に進め」というニュアンスを感ずる。どこか荒々しく、乱暴。
たとえば会話でも、「He is an ambitious man.」と言ったとき
は、その彼をほめるというよりは、「彼はやり手」という意味で使う。
私のpoorな英語力で、こういう解釈を加えるのは、危険なことかもしれないが、少
なくとも、「大志を抱け」という意味ではない。
で、その新幹線。私は、「Ambitious Japan」という言葉が好きである。
この不況下。みんな、どこか元気をなくしている。自信をなくしている。
しかしあの新幹線が、轟音とともに走りすぎるのを見るたびに、「日本も、まだまだがん
ばっているな」と思う。「捨てたものではないな」と思う。
先日も、オーストラリアの友人が、日本へ来て、新幹線が走っていることよりも、すでに
その新幹線が、35年以上も前から走っていることに、驚いていた。
韓国の新幹線は、やっと今年になってから走った。中国は、これからである。が、日本
では、35年以上!
「さあ、日本よ、元気だそう。まだ俺たちには、パワーがある」という意味での、「Am
bitious Japan」である。
多分、JRのことだから、その道の英語の達人を、アドバイザーにしながら、この言葉
を考えたのだろう。けだし、正解である!
で、一つだけ心配するのは、あの「Ambitious Japan」という英語を見
て、中には、「日本よ、大志を抱け」と翻訳する人も、いるのではないかということ。それ
については、ここで、「その訳は、まちがっている」ということを、改めて、確認しておき
たい。
さあ、みんな、元気を出して、前に進もう! Let's be ambitious!
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ひらがな?
この原稿を書くとき、本当に「たちあがれ日本」でよいのか、不安に思った。
「立ち上がれ」あるいは、「立ちあがれ」ではないのか、と。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
「2010年4月7日に新党の名称を「たちあがれ日本」にすることが固まった。命名したの
は新党を後押しする石原慎太郎東京都知事。「すすめ日本」「がんばろう日本」「まもれ日本」
「新党ちから」「よあけ」「れいめい」または「れいめいの会」なども候補にあがったが、
平沼は「今の時代に合っているのは、ひらがながいいんじゃないか」と述べている。翌8
日には平沼が「代表」、与謝野が「共同代表」に就任することが合意された」(ウィキペデ
ィア百科事典より)と。
やはり「たちあがれ日本」が正しいということになる。
しかし私なら、「立て日本」とする。
そのほうが短くて、わかりやすい。
「たちあがれ日本」とすると、党名を覚えるとき、まちがえやすい。
私もすぐには、思い出せなかった。
「たちあがろう日本」?
「たとう日本」?
いろいろ迷った。
●虚しさ
が、「たちあがれ日本」という新党が生まれたとき、私はそこにある種の虚しさを覚えた。
「またか?」という思い。
それには2つの意味がある。
ひとつは、そのつどこうした調子のよい言葉(失礼!)が生まれる。
しかしいつも空振り。
先に載せた「Ambitious Japan」にしても、そうだ。
もう10年近くも前に書いた原稿である。
もうひとつは、民主党。
民主党が私たち(浮動票層)に与えた失望感には、相当なものがある。
国民の80%以上が、「やめろ・コール」を出しているのに、小沢幹事長は、いまだにその
立場にしがみついている。
その見苦しさ。
その醜悪さ。
浮動票層は、民主党や小沢幹事長を選んだのではない。
反麻生勢力が、たまたま民主党に向かっただけ。
たしかに浮動票層は、今、行き場をなくし、右往左往している。
が、小沢幹事長はそれをそれ見越してか、「民主党しかない」と、勝手なことを言っている。
まるで国民の気持ちがわかっていない。
またそういう人物が、国政の頂点にいることを、とても残念に思う。
●立て、日本!
党名はともかくも、今の日本には、この言葉しかない。
ただし私なら、先にも書いたように、こう言う。
「立て、日本!」。
「たちあがろう日本」では、どこか弱々しい。
「Let's be ambitous」よりは、「Be ambitious」のほうが、よい。
だから、「立て、日本!」。
英語に訳すなら、「Ambitious Japan」となる。
自民党もだめ。
民主党もだめ。
だったら、私たち浮動票層はどこへ向かえばよいのか……という意味で、「たちあがろう日
本」に、おおいに期待したい。
期待したいが、どうも道筋がはっきりと見えてこない。
悪く見れば、自民党残党の「生き残り政党」ということになる。
となると、おいそれと支持できない。
民主党に一度、裏切られているから、そこはどうしても慎重になってしまう。
「はい、では、たちあがろう日本にします」というわけいには、いかない。
もう少し様子をみよう。
ただすでに結果が出始めている。
各地でなされる首長選挙では、民主党の連敗がつづいている。
当然のことである。
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
●老人性無気力症候群
++++++++++++++++++
気力が弱くなると、何をするにも、
おっくうになる。
何か冒険をする前に、
不便であることを、がまんしてしまう。
新しいことを学ぼうとする前に、
自分の知っている古いやり方に、戻ってしまう。
無難な道を選んでしまう。
そのため自分の住む世界を小さくしてしまう。
だれかれのことではない。
私自身のことである。
加齢とともに、気力が徐々に弱く
なっていく。
それが、自分でもよくわかる。
称して、「老人性無気力症候群」。
これは私がつけた名称。
++++++++++++++++++
●無難
そこに新しい何かがあっても、わざと顔をそむけて、通り過ぎてしまう。
たとえば「方法」。
新しい方法に手を出すよりも先に、自分が慣れ親しんだ方法を優先する。
「より便利になるかもしれない」。
そんな淡い期待をもつことはあるが、あえてそれを心の中で避けてしまう。
近くに、こんな人がいる。
今では、あらゆるものを、ネットで買うことができる。
大型店で買うよりも、2~3割は安い。
その上、翌日配達。
代引きで商品を受け取るので、安心。
そのことを教えてやっても、その人は、「店で買うほうがいい」と。
返す刀で、「ネットはめんどうだから」とか、「直接、商品を見て、
自分で確かめてから買いたい」などと言う。
あるいはインターネットそのもを、毛嫌いする。
「あそこの嫁さんは、インターネットばかりしていて……」と。
「つまり、悪い嫁」と。
●私自身も
かく言う私も、若い人たちから見ると、その人とそれほど変わらない。
それが自分でも、よくわかる。
立場は逆でも、また中身はちがっても、その人と同じようなことをしている。
ときに若い人たちがしていることを、「つまらない」とか、「バカくさい」とか
言って、はねのけてしまう。
たまたま昨日も、中学生の女の子は、私の服装を見て、「ダサイ」と言った。
そこで私が「どんな服装が似合うか、絵に描いてよ」と言った。
その女の子は、しばらくすると、一枚の絵を見せてくれた。
それを見て、思わず、私は笑ってしまった。
「服は緑。ズボンは、足下までふくらんだ、とび職風。色は茶色……」。
が、それではいけない。
私は、「来週は、このかっこうで来るから、笑うなよ」と言った。
その女の子は、「笑わない」と約束した。
つまり若い人たちを笑ってはいけない。
それを繰り返していると、自分が住む世界が、どんどんと小さくなってしまう。
小さくなるだけではない。
冒頭に書いたように、へたをすれば、老人性無気力症候群に陥ってしまう。
が、こうなると、「進歩」など、もう望むべくもない。
●自己診断
そこで自分なりに、自己診断テストを考えてみた。
これは「老人性無気力症候群」の初期症状を知るためのテストということになる。
( )若いときの知り覚えた歌や、音楽を聴くことが多い。
( )「冒険」よりも、「無難」を選ぶことのほうが、多い。
( )融通がきかず、ときに無理をしてでも、伝統的なやり方を押し通す。
( )若い人たちのしていることに、興味がない。
( )過去をなつかしむことが多くなった。
ひとつの目安として、携帯電話やインターネットがある。
たぶんに手前味噌的ではあるが、60歳で、インターネットをしているかどうかを
みるとよい。
インターネットをするにも、段階的な進歩がある。
まずキーボードが叩き方を覚えなければならない。
メールの送受信ができなければならない。
ネットでものを売買できるようになるのは、そのつぎの段階ということになる。
怠けた心では、インターネットはできるようにはならない。
つまり60歳を過ぎて、インターネットを楽しんでいる人は、それだけでも
進歩的な人と判断してよい。
●ワイフの生き方
この老人性無気力症候群の恐ろしいところは、それだけではない。
一度、そこへ陥ると、あとは悪循環となって、どんどんと深みに
はまってしまう。
そうでなくても、体力の低下とともに、気力が弱くなる。
そこにある壁を乗り越える力が弱くなる。
そこで「闘う」という姿勢が、どうしても必要ということになる。
「待ち」の姿勢では、いけない。
「闘う」。
闘いながら、壁をそのつど、乗り越える。
けっして安楽な道を選んではいけない。
が、これはたいへんなこと。
私も、今、その老人性無気力症候群と闘っている。
もともと私は鬱(うつ)気質だから、鬱症状のひとつとして、無気力になりやすい。
だからそうでない人よりも、2倍とか、3倍の努力をしなければならない。
たとえばそこに何か新しいことがあれば、あえて、それに向かって進んでいく。
何でもやってみなければ、わからない。
そういうふうに、自分を奮い立たせる。
その点、私のワイフは、ありがたい。
見た目には、静かでおとなしい女性。
しかし内に秘めたエネルギーには、ものすごいものがある。
精神が安定している分だけ、行動力もある。
私を、ぐんぐんと別の世界へ引き込んでくれる。
で、最初はしぶしぶながら、私はついていく。
が、そのあと、いつもこう言う。
「してよかった」「来てよかった」と。
●では、どうするか
いくつかコツがある。
これは私自身の努力目標ということになる。
(1) 過去を回顧しない。
(2) 新しいことは、何でもやってみる。
(3) 若い人たちの世界を、いつものぞく。
(4) 不平不満、愚痴(ぐち)は言わない。
(5) いつも大きな話題について考える。
老齢期を迎えたからといって、何も生活をコンパクトにする必要はない。
明日は今日の結果として、かならずやってくる。
健康にせよ、気力にせよ、今日がんばれば、明日もだいじょうぶ。
あとはそれを繰り返す。
●子どもの世界でも・・・
ついでながら、子どもの世界でも似たようなことがある。
たとえば何かむずかしい問題を出したとする。
そのとき、「やりたい!」と言って、食いついてくる子どももいれば、
そうでない子どももいる。
問題を見る前に、逃げてしまう。
「どうせできないから・・・」と。
が「やりたい!」と言って食いついてくる子どもにしても、能力を
はるかに超えた問題だと、やはり逃げてしまう。
一度、こんなことをしてみたことがある。
その子ども(小4男児)は、かなり鼻っぱしの強い子どもだった。
生意気な子どもだった。
「どんな漢字でも書ける」と言った。
そこで私は漢字検定試験1級(小6レベル)のテスト問題をもってきて、
その子どもにさせてみた。
数学とちがって、漢字のばあい、(書ける・書けない)がはっきりしている。
いくら考えても、習い覚えたことのない漢字は書けない。
5分もすると、プライドが傷つけられたと感じたのか、ふてくされてしまった。
テスト用紙を払いのけてしまった。
で、つぎの漢字点綴試験3級(小4レベル)のテスト問題をやらせようと
した。
が、その子どもは、それに対して、拒否反応を示した。
同じようにテスト用紙を、手で払いのけてしまった。
●教訓
このことからもわかるように、「気力」というのは、じょうずに
引き出さなければならない。
これには、子どもも、(自分)もない。
やり方をまちがえると、気力そのものを失ってしまう。
「段階的に追っていくもの」と書くほうが、正確。
いきなり「ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」は、無理。
やっても挫折感が大きいと、そこで頓挫(とんざ)してしまう。
まず自分のできる範囲で、それに挑戦してみる。
それができたら、徐々に、段階を経て、レベルアップしていく。
「身の丈にあった世界」で、自分を生かす。
あとはこれを繰り返す。
老人性無気力症候群・・・こわいぞ!
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 老人性無気力 無気力症候群 老人の気力)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●一個人の自己宣伝について
++++++++++++++++
つい先日、私はある「人名辞典」サイトに、
自己紹介記事を書いた。
軽い気持ちで、そうした。
それについて、「はやし浩司は、一個人に過ぎない」
「自己宣伝にすぎない」ということで、そのまま
削除されてしまった。
少なからず、カチンときた。
若いころ、クリジットカードを申し込んだとき、
拒否されたことがある。
「審査の結果・・・なんとかなんとか」と。
久しぶりに、そのとき感じたような不快感を覚えた。
で、審査をしたという人の、ペンネームが
載っていた。
そこでその人物を検索しながら、素性を調べてみた。
が、その人自身も、名もない個人。
「教育関係の仕事をしている」などと書いてあった。
が、どうしてそんな程度の人物に、「私」が
評価されなければならないのか。
自己主張を「利益」につなげれば、
それは自己宣伝。
それはわかる。
しかし私の場合は、少し違う。
「違う」というのではない。
「少し違う」。
「少し」というのは、利益を求めない
心が、まったくないわけではないということ。
お金は嫌いではないし、何らかの形で
収入につながれば、それはそれでうれしい。
しかしこの世の中で、収入を考えないで、
何かをしている人など、いるのか。
さらに言えば、仮にそれが自己宣伝で
あったところで、それがどうして
悪いことなのか。
たとえば会社の広告。
あれなどは、自己宣伝そのもの。
「組織」と「個人」はちがうと思う人も
いるかもしれない。
ならば聞くが、どうして組織だと問題がなく、
個人だと問題があるのか。
さらに言えば、作家や画家など、個人で
プレーしている人は、どうなのか。
俳優でもよい。
「個人」も「商品」と同じで、まず「売りに出す」。
その売りに出すという段階で、どうしても
宣伝をしなければならない。
それが自己宣伝。
が、こんなことがある。
++++++++++++++++++
●マンション建設反対運動
10年近く前、近所に、10階建てのマンションが建設される
ことになった。
とたん、近隣の人たちの間から、猛烈な反対運動が起きた。
もっともこうした反対運動は、珍しくない。
が、そのマンションのばあいは、少し、ちがった。
建設予定地周辺の民家に、つぎつぎと新しい看板が並んだ。
「地獄の3丁目」とか、「のぞき見、反対」とか。
「ここは元墓地」とか、「マンション住民にも責任を取ってもらいます」
というのもあった。
中には、ほとんど隙間なく、まるで塀のように、看板を並べている家もあった。
過激といえば、過激。
ふつうの反対運動とは、かなり内容が違っていた。
●パラドックス
が、それからほぼ10年。
マンションは建設され、販売も始まった。
すでに何割かの部屋には、新しい住民が住んでいる。
が、立て看板は、そのまま。
そこはまさにパラドックスの世界。
「看板を立てるな」という、看板を立てる。
「張り紙をするな」という、張り紙をする。
それと同じ。
「美観をそこねるマンション建設、反対」という看板を無数に立てて、
美観を損ねている(?)。
が、それが悪いと言うのではない。
それぞれの住民には、それぞれの思いというものがある。
私たちの知らない、(いきさつ)もあるだろう。
どこかで話し合いが、こじれてしまった。
その可能性もある。
それに建設会社は、大手。
反対する人は、個人。
最初から力関係がちがう。
反対する人たちは、それぞれの思いの中で、自分の意思を外に向かって示す。
個人が、大手を相手に向かって、闘っている。
が、今、どうして反対運動なのか?
マンションは、先にも書いたように、すでに完成している。
しかも当初予想されたような、日照問題も、電波障害も起きていない。
マンション業者は、きちんと法律にのっとって、マンションを建設した。
●匿名
そこで私は、「反対反対の反対運動」というのを考えた。
「見苦しい看板を、撤去しましょう」というチラシを配ってあることを
考えた。
考えただけで、もちろん実行していない。
理由がある。
仮に私が、「見苦しい立て看板を、撤去しましょう」というチラシを配って
歩いたとする。
しかし「見苦しい」と思うのは、ひょっと私だけかもしれない。
周辺の人たちは、それ以上に(怒り)を覚えているのかもしれない。
それに私は、こうしたチラシを書くにしても、匿名では書きたくない。
しっかりと「はやし浩司」という実名をつけて書きたい。
匿名で、何かを書くというのは、私のやり方ではない。
そういうやり方は、卑怯者のすること。
陰に隠れて、コソコソ書くことなら、だれにだってできる。
●無私無欲
が、私のばあいは、実名を使う。
こうしてささいなエッセーを書くときも、実名を使う。
実名を使って、「私」を前に出す。
それを「自己宣伝」とは?
また書く以上、できるだけ多くの人に読んでもらいたい。
そのために、HPを開き、BLOGを書く。
もちろん実名入りで、書く。
書く以上、すべての責任は、私が負う。
が、どうしてそれが「自己宣伝」なのか?
自己宣伝と判断されるのか?
さらに言えば、私はこうしてものを書くのが、自分の墓づくりと
位置づけている。
「墓イコール、本」と考えたこともある。
しかし金儲けのために文章を書くのは、10年ほど前にやめた。
それまでの私は、稼ぐために、文章を書いた。
ものを書くことイコール、金儲けと考えていた。
(その逆でもよいが・・・。)
ちょうど不景気になりかけていたころで、出版社と印税のことでもめた
こともある。
それで嫌気がさした。
出版の世界から遠ざかった。
で、今は、フリーもフリー、まったくフリー(無料)で、文章を
書いている。
こうして書いている文章にしても、「どこかで金儲けにつながるかも
しれない」という思いは、微塵(みじん)もない。
もとから「無」の状態。
(金儲けにつながるような文章でもないが……。)
それ以上に、私は私の中から、つぎつぎと湧いてくる(思い)を、
文章にしておきたい。
だれのためでもない。
自分のためである。
またそうでないと、よい文章は書けない。
●よい文章
「よい文章」という言葉を書いたので、一言。
よい文章というのは、あとで読み返したとき、「これは私だ」と思える
ような文章をいう。
私の、心の足跡がしっかりと残っているような文章をいう。
そういう意味で、ありのままの自分を書く。
飾ったり、偽ったりしない。
そういう文章は、あとで読み返してみても、後味が悪い。
読みやすく、内容がしっかりしていれば、なおよい。
しかしそれは、他人の判断すること。
私は第一義的には、私のために書く。
私にとって、よい文章かどうかというのは、あくまでも内容。
文のじょうず、へたではない。
またよい文章というのは、たとえ内容を忘れてしまっていても、
目を通した瞬間、自分の文章とわかる。
その文章と共鳴する、「私」が、そこに残っている。
文章と「私」が共鳴する。
だから自分の文章とわかる。
●読者
そんなわけで、今の私にとって最大の励みは、読者ということになる。
読者がふえるというのは、本当にうれしい。
昨年(2009年)の5月、HPとBLOGへのアクセス数が、
累計だが、月間30万件を超えた。
それぞれのHPでは、アクセス数がカウントされる。
その累計が、「30万件」という数字である。
もちろん1人で、何回もアクセスしてくれる人も多い。
だから30万件イコール、30万人ということではない。
しかしその一方で、ハイパーリンクといって、トップページを介さないで
アクセスしてくる人もいる。
(アクセス数がカウントされるのは、それぞれのHPのトップページ
だけ。)
だから実際には、もっと多いかもしれない。
近くまた累計してみようと考えているが、昨年より減っているという
ことはない。
ちなみに、ヤフーで、「はやし浩司」を検索してみると、昨年は、12万件程度
だったが、最近(2010年4月)になって、20万件を超えた。
毎月その数は、数1000件ずつ、ふえている。
つまりこれが私の「地位?」ということになる。
私の「立場?」ということになる。
●一個人の自己宣伝
言うまでもなく世の中には、私のような個人のほうが多い。
99・99%が、そうだ。
ただ誤解していけないのは、有名人イコール、人格者ではないということ。
金持ちイコール、成功者ではないということ。
もちろん「個人」と言われる人の中には、あやしげな人も多い。
が、そういう人たちとともに、まじめに生きている「個人」までもが、
いっしょくたに、闇へと葬られてしまう。
つまりこういう形で、個人が、封殺されてしまう。
しかも悲劇的なのは、同じ個人が、同類の個人を封殺する。
言うなれば、個人の共食い。
その一方で、組織で肩書きや地位のある人を、ヨイショする。
テレビなどのマスコミで騒ぐ人を、ヨイショする。
その悲しさ。
その心の薄さ。
日本という、どうしようもないほど小さな国で、互いに足を引っ張り
あっている。
「一個人の自己宣伝」という言葉には、そういうニュアンスが隠されている。
そういう形で、つまり自分はジャッジになったつもりで、その個人を
見下す。
「どうぞ、ご勝手に!」と言って、この問題は、おしまい。
改めて自分の力のなさを思い知らされた形になったが、まだまだ時間はある。
平均寿命まで、あと16年。
まだ何かできる。
まだがんばれる。
そこに何があるかわからないが、私は私で、前に進むだけ。
『我らが目的は成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)。
改めて、この言葉を、自分の胸に刻む。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 自己宣伝 自己主張 無私無欲 文章を書く)
Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司
●「戦争」という悪魔
+++++++++++++++++++++++
戦争は、悪魔をつくる。
想像もつかないような悪魔をつくる。
今、「私はだいじょうぶ」と言っている
あなただって、戦争にばれば、わからない。
私だって、わからない。
自信がない。
先日、ある記録を読んでいたら、こんなことを
告白した女性がいた。
あの戦時下のサラエボで起きた事件である。
あるときクロアチア軍が、そこへやってきた。
そして女性ばかりを、何十名も捕虜にした。
クロアチア軍は、若い女性については、繰り返し
性的暴行を繰り返した。
年配の女性については、膣の中に銃口をつっこみ、
つぎつぎと射殺していった。
どんな光景だったか。
想像するだけで、背筋が冷たくなる。
が、そんなことをしたクロアチア軍の兵士にしても、
戦争前は、ごくふつうの兵士だったにちがいない。
そして今も、もし生きているなら、何食わぬ顔して、
平然と日々の生活を過ごしているにちがいない。
戦争の、本当の恐ろしさは、ここにある。
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