2010年2月1日月曜日

*Magazine Feb. 1st

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年   2月   1日号
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2月1日……1312号になりました。
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教師と女生徒

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数日前、どこかの高校教師が教え子と
性的関係をもったとかで、逮捕された。
高校教師の年齢は、36歳。
たびたびホテルで密会を重ねていたという。
で、それについて当の高校教師は、「まじめな恋愛
だった」と主張(=弁解?)しているという。
つまり(遊び)ではなく、(真剣)だった、と。

その男性教師に妻子がいたかどうかは、報道の
記事だけではわからない。
勤め先の高校を懲戒免職になったということは、
書いてあった。
懲戒免職は当然としても、しかしひょっとしたら、
その高校教師が主張しているように、その関係は
真剣なものであったかもしれない。
「女生徒のほうから、抱きついてきたりした」と
いうようなことも、書いてあった。

+++++++++++++++++++

●(女の子)が、「女」になるとき

 私は若いころから、幼稚園の年中児から、高校3年生まで、一日というサイクルの中で
教えている。
最近は、生徒の数も減り、以前ほど密度は濃くはいが、それでも基本的には、今も同じ。
そういう教え方をしていると、子どもの変化が、やはり1日というサイクルの中で、わか
るようになる。

 そうしたサイクルの中で、それまで(女の子)だった子どもが、「女」になっていく様子
を、たびたび経験している。
何でもない女の子でも、性的な経験をしたとたん、「女」になる。
男の子については、わかりにくい。
しかし女の子は、それがよくわかる。
おもしろいほど(失礼!)、よくわかる。
艶(なまめ)かしくなるというか、強烈な(性)を外に向かって発するようになる。
「ウフ~ン」とか言って、体をよじらせたりする。

●積極的な女の子

 早い子どもで、中学2、3年生ごろからではないか。
最近は、携帯電話を介しての男女交際も活発になってきた。
もう少し低年齢化している。

 で、私も、若いころは、それなりに「男」に見られた時期もある。
何かを教えている最中に、足先で私の足を、ものほしそうに、こすりつけてきた女の子(中
2)もいた。
電話で私を外へ呼び出した女の子(高2)も、いた。
いろいろあった。

 しかしいつもそれ以上に発展しなかったのは、相手の女の子のためというよりは、私自
身に原因があった。
私は学生のころから、女性に対して、まったくと言ってよいほど、自信がなかった。
失恋したのも、大きな痛手となった。
加えて、私の世界では、ほんの小さな(うわさ)ですら、命取りになる。
いつも気がつかないフリをして、その場をやり過ごしてきた。

●油断

 で、私は何とか無事(?)、40数年を過ごしてきた。
「何とか」と書いたのは、そういった誘惑(?)と闘うというのは、簡単なことではない。
人間がもつ欲望というのは、それほどまでに強力。
あとは油断の問題。

 ただひとつ、事件になった教師と私のちがいと言えば、学校の教師にとっては、生徒と
問うのは、向こうから来るもの。
私にとって生徒というのは、こちらから頭をさげて、来てもらうもの。
この(ちがい)が、そのまま(きびしさのちがい)となる。
それだけ。
だから今でも、「もしあのとき・・・」と考えるときがある。
言い換えると、私と先に書いた教師は、どこもちがわない。
この文章を読んでいるあなたとも、ちがわない。
あなたの夫とも、ちがわない。

 だからこういう記事を読んだりすると、その教師を責める前に、「自分でなくてよかった」
と、ほっと胸をなでおろす。

●理性の力

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、そういう教師を擁護しているのではな
い。
逮捕され、懲戒免職になったところで、だれも同情しない。

が、その一方で、「だれがそういう教師を、石をもって打てるか」という問題もある。
マスコミは、鬼の首でも取ったかのように騒ぐが、ではそのマスコミに、それをする資格
があるかといえば、それは疑わしい。
彼らがそういう事件とは無関係でいられるのは、そういう立場にいないから。
政治家とワイロの関係を考えてみれば、それがわかる。

先にも書いたように、人間の欲望というのは、それほどまでに強力。
理性の力でコントロールできるような、代物ではない。
ましてや、「女性との方から抱きついてきたりした」という状態であれば、防ぎようがない。

 ……では、どうするか?

 何度も繰り返すが、(1)厳罰主義を貫く。
(2)教師と生徒の個人的な接触の場を、なくす。

 この2点を徹底するしかない。
こうした対処法は、すでに欧米では、常識化している。
日本も早急に、欧米を見習うべきではないのか。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『ただの人』(ハイデッガー)

++++++++++++++++++

つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

++++++++++++++++++++

●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
父親というだけで、威張っている。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中
に、どれだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。
地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとす
る。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バ
カ」と思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンでいうタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きて
いく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる
人生)の出発点でもある。
生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。
先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」という
ふうに考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
お金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

+++++++++++++

「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎのは2008年4月に
書いたもの。

+++++++++++++

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a “man”, so-called “das Mann”. But
nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do
toward the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの
人は退職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳
をとれば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて
行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなっ
たことすらわからない。

先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったと
きのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつ
なぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の
次元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれ
ば、みなに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほ
ど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命を
たどることになる。

繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」
と呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●2009年12月31日夜(大晦日)

●ちょうど1年前、こんなことを書いていた。

+++++++++++++++++

Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)

+++++++++++++++++

「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
「ジーニアス英和辞典」には、「だれにでも平等に影響するもの」とある。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。

で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。

ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。

たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。

そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。

こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。

しかし元気なときには、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。

しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか。
・・・そんなことを考えるのも、年末だからかもしれない。

で、少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろした。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。

「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。

それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。

それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。

お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。

私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。

(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいく。

だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。

「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。

そしてこうも言える。

「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops each man’s clock」。

ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反省

 昨年の終わりは、かなり沈んでいた。
それでこういう文章を書いた。
(私はここ数年、年末になると決まって、インフルエンザにかかる。
インフルエンザにかかると、ものの考え方が、どうしても悲観的になる。)

で、何のために生きているかって?
いろいろ考える。
しかしいつも答は堂々巡り。
で、結論は、同じ。
「たまたま生きているから、生きていくしかない」と。
簡単に言えば、そういうことになる。
生きている以上、前に向かって生きていくしかない。
その先のこと・・・?

どう考えたところで、なるようにしかならない。
だったら今、精一杯、前向きに生きていくしかない。

 悪いことばかりではない。
いや、ここに生きているということ自体が、奇跡。
あのアインシュタインも、そう言っている。
まず、それを喜ぶ。

ものが見える。
音が聞こえる。
歩くことができる。
話ができる。
だれに対してというわけではないが、生きていることを感謝する。

 そこでもう一度、『死ねば、みな、同じ』という言葉について、考えなおしてみる。
この言葉を反対側から読むと、『生きている人は、みな、ちがう』という意味になる。
つまり、こう考えてみたらどうだろうか。

 『死ねば、みな、同じ』。
それはそのとおり。
が、だからといって、「生きていることには意味はない」と、とらえてはいけない。
『生きている人は、みな、ちがう』というところが、大切。
そこに、生きる意味があると考える。
つまりその(ちがい)を作るところに、生きる意味がある。

 そう言えば、以前、私にこう言った友人がいた。
「林君、総理大臣だってね、10年もすれば、みなの記憶から消えていくよ。
20年もすれば、覚えている人もいない。
だからね、苦労して総理大臣になっても、意味はない。
人生はね、楽しむことだよ」と。

 もちろん私たちは、名誉や地位のために生きているのではない。
名誉や地位というものがあるにしても、それはあとからついてくるもの。
ついてこなくても、構わない。
しかしそこに至るプロセスが大切。
プロセスの中から、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに、生きる価値がある。

 友人は、結論として、「楽しむこと」と言った。
それはそのとおりだが、では、どうやって、何を楽しむか。
さらに言えば、真の楽しみとは何か。
家の中でゴロゴロしながら、バラエティ番組を見ることが、その(楽しみ)とは、だれも
思わない。

 で、1年たった今、私はこう思う。

 『死ねば、みな、同じ』と言った人は、何もできなかった自分を正当化するために、そ
う言ったのではないか、と。
みなと同じように生きてきただけ。
だからそれを居直るために、『死ねば、みな、同じ』と。
つまりつまらない人生を送った自分を、そういう言葉で慰めているだけ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●12月30日

+++++++++++++++++++++++

ここ数日間は、パソコンの引っ越しに時間を
取られた。
たいへんだった。
いちばん手間取ったのは、ハードディスクの
付け替え。
ついでにWINDOW7に、内臓ハードディスクを
取りつけようとした。
しかし肝心の端子が、巨大なグラフィックボードの
下に隠れて見えない。
手鏡とライトを使って、端子にコネクターを
取り付ける。
以前、ビスタ・マシーンで同じことをして、
端子を折ってしまった。
こういうばあい、マザーボード全体を交換する
しかないそうだ。
で、数万円の追加出費。

今回は慎重にした。
無事、すんだ。

・・・とまあ、いろいろある。
いろいろあって、2日もかかった。
この文章は、WINDOW7のワードで書いている。
今のところ快調!

で、その使い勝手。
文章を書くだけなら、ビスタもWINDOW7も、
それほど変わらない。
ホームページの編集に、ホームページを開いたり
保存したりするとき、「ウ~ン、かなり速いな」という
印象をもつ。
しかしこれはOSによるのではない。
私のパソコンは、「i7の64ビットマシン」。
ハードディスクも、高速タイプに付け替えた。
それで速い。

明日から本格的に、WINDOW7に乗り換えるつもり。
あといくつか作業が残っている。

++++++++++++++++++++++++

●信頼感

 パソコンという道具は、完璧に作動しないと、どうも落ち着かない。
先ほども、WINDOW7(以下、W7)に、外付けハードディスクを付けてみた。
反応はあるが、エクスプローラーのほうで表示されない。
フォーマットもしてある。
ほかのパソコン(ビスタなど)では、ちゃんと表示される。

 そのときこんなことを考えた。
このところ(信頼性)を考えて、パソコンの周辺装置は、「日本製」を使っている。
C国製は、価格は安いが、どうも・・・?
外付けのハードディスクは、日立製の1テラバイト。
「日本製なら、だいじょうぶ」と。

 つまり日本製だと、「故障しているはずがない」という前提で、ものを考える。
あちこちをいじる。
が、これがC国製だったりすると、「ひょっとしたら、ハードディスクのほうが壊れている
のかな」と心配になる。
不安になる。
そういう点では、パソコンの世界でも、信頼関係が大切。

どこか教育の世界と同じだな、と。
パソコンの周辺機器は、多少価格が高くても、日本製にかぎる。

 で、ここからが私の性分。
今すぐ外付けハードディスクを使うわけではない。
ないが、完璧に作動しないと、どうも落ち着かない。
なぜか?

 ひとつには、パソコンという機械は、中身を見ても、何がなんだか、さっぱりわからな
いということがある。
何かの不調があったりすると、とたんに不安になるのは、そのため。
だからいろいろな機器を取り付けたり、はずしたりして、完璧さを確かめる。
パソコンの世界では、完璧であることが、何よりも大切。
ほかの機械のように、「一か所くらいなら、壊れていてもいいや」というわけにはいかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●心の温かさvs冷たさ

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今日になって、どっと忙しくなった。
朝から、動きっぱなし。
で、やっと今、……時刻は午後4時37分、
一息ついた。
疲れた。

残るは部屋の掃除だけ。
それは明日にしよう(12月30日)。

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●「心」をもたない生物

 かなりSF的な話になる。
あくまでも、SFとして読んでもらったほうがよい。
こんな話である。

 つまり、あの爬虫類には、「心」が、あるかないということ。
トカゲとか、ヘビを頭に思い浮かべてみればよい。

 たとえば鳥類のばあい、雛をほかの動物が襲ったりすると、親鳥はその敵に向かって、
猛然と立ち向かっていく。
哺乳類では、さらにはげしく立ち向かっていく。
つまり鳥類や哺乳類には、「心」がある。

 では、爬虫類はどうか。
たとえばトカゲの親の目の前から、トカゲの子どもをさらってみる。
そのときトカゲの親は、自分の子どもを守ろうと、何らかの行動に出るだろうか。
が、私が知るかぎり、トカゲが、そうした行動に出たるという話を聞いたことがない。
ヘビにしても、そうだ。

 では、魚はどうか?

 ウ~ン!

 ……魚も、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
さらに昆虫類にいたっては、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
言い換えると、爬虫類や魚類、昆虫類には、悲しみを理解する「心」がないということに
なる。

 だからといって、感情がないと言っているのではない。
喜びや怒りについては、わからない。
餌を見つけたときの攻撃心、餌を取りあうときの闘争心、餌にありついたときの喜びや満
足感などは、あるかもしれない。

が、私たち人間がもっているような(感情)は、爬虫類や魚、虫にはないと考えてよいの
では?
あるとしても、きわめて原始的なもの。
人間がもっているような感情とは、異質のものと考えるのが正しい。

●心の冷たい人

 人格の完成度は、他者との共鳴性で決まる(EQ論)。
ほかにもあるが、共鳴性が、もっとも重要。
他人の苦しみや悲しみを、いかに共有できるか。
共有できる幅の広い人を、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。

 そこでこれは極端なケースだが、自分の子どもが危機的な状況になったばあいを考えて
みよう。
どこかの国の独裁者に誘拐されたようなケースでもよい。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということにな
る。
(そんな人は、いないが・・・。)

 誘拐でなくても、他人の子どもが、目の前で危機的な状況になったばあいを考えてみよ
う。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということにな
る。

 トカゲやヘビを基準にするのも、おかしな話だが、そういう人の「心」は、トカゲやヘ
ビと同じ、ということになる。

●グレイ

 で、ここからが、SF的。
もし遺伝子操作か何かで、人間の知的能力をもったトカゲのような生物を作ったとしたら、
その生物は、どんな生物になるだろうか。
つまり知的能力は、人間並み。
「心」は、爬虫類並み。

 実は私はこのことを、映画『フォース・カインド』(The Fourth Kind)を観ているとき、
考えた。
あの映画の中では、「ふくろう」に似た宇宙人が、つぎつぎと人間をさらっていく。
そのやり方というか、やり口が、実に荒っぽい。
乱暴。
子どもだって、平気でさらっていく。
人間だって、ほかの動物を捕獲するときは、麻酔銃などを使ったりする。
しかしあの映画の中に出てくる宇宙人は、そういうことはしない。
泣き叫んで抵抗する人間を、平気で(?)、さらっていく。

 で、「ふくろう」に似た宇宙人といえば、グレイがいる。
目だけがやたらと大きく、体や、それにつづく腕や足は、異常に細い。
身長もそれほど大きくないとされる。
夜中にそこに、その生物(?)を見たら、ふつうの人だったら、ふくろうと思うかもしれ
ない。
一説によれば、あくまでも一説だが、そのグレイは、爬虫類を改造した生物ロボットと言
われている。
「信ずるか信じないかは、あなた次第」(「フォース・カインド」)ということになるが、も
しグレイが、爬虫類の「心」をもっているとするなら、ありえない話ではない。

 子どもをさらわれる親の気持ちなど、理解できない。

●扁桃核
 
 そこで私たち自身について、考えてみたい。
人間だから、平等に、人間らしい「心」をもっているというのは、ウソ。
・・・というより幻想と考えてよい。
心の温かい人もいれば、そうでない人もいる。
自分が温かいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
自分が冷たいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
そしてここが重要だが、一度壊れた心、つまり冷たくなった心は、簡単には元に戻らない。
「話せばわかる」式の発想で、説教したくらいで、冷たくなった心を溶かすことはできな
い。

 で、最近の研究によれば、その鍵を握るのが、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)とい
言われている。
何かよいことをすると、大脳のほうから信号が送られ、扁桃核が、モルヒネに似たホルモ
ンを分泌する。
そのホルモンが、脳内を甘い陶酔感で満たす。
こうして人間は、(よいことをする)ことが、(気持ちのよいこと)と知る。

 が、この段階で、扁桃核が大脳からの刺激に反応しなくなったとしたら……。
仮によいことをしても、甘い陶酔感で満たされることはない。
感情的に、無反応の状態になる。
それだけではないだろうが、「心」というのは、脳の中で、複雑なメカニズムを通して作ら
れる。
「一度壊れた心は、簡単には元に戻らない」というのは、そういう意味である。

●心のすれちがい

 平たく言えば、人間には心の温かい人もいれば、そうでない人もいるということ。
心の温かい人からは、心の冷たい人がよくわかる。
しかし心の冷たい人からは、温かい人が理解できない。
親切にしてもらっても、相手の人が、「お人好し」か、「バカ」にしか見えない。

が、その一方で、心の温かい人にも、それがわからない。
「相手は喜んでいるはず」「うれしがっているはず」と考える。
が、実際には、そうでない。
そこで「?」となる。
心がすれちがう。

 ……といっても、心が温かい、冷たいといっても、相対的なもの。
より温かい人からみれば、あなただって、冷たい人になる。
心の温かい人は、どこまでも心が温かい。
冷たい人は、どこまでも冷たい。
それこそ道端で人が倒れていても、平気でそばを通り過ぎることだってできる。
さらに冷たくなれば……。
それこそトカゲやヘビのような心の持ち主に、なってしまうかもしれない。

●では、どうすればよいか

 ここから先は、教育の問題ということになる。
たとえば幼児でも、ぬいぐるみを見せたとき、うっとりするような目つきで見る子どもも
いる。
反対に、そうでない子どももいる。
大きなぬいぐるみを与えたりすると、「かわいい」と言って抱く子どももいれば、反対に足
で蹴る子どももいる。

 それだけで心の温かさを判断することはできないが、幼児ですら、心の温かさを感ずる
子どももいれば、そうでない子どももいる。

 結論から先に言えば、乳幼児期に、親の温かい愛情に恵まれた子どもは、心の温かい子
どもになる。
この時期に、育児拒否や親の冷淡、無視、さらには虐待を経験すれば、子どもは、心の冷
たい子どもになる。

 このことは育児の常識といってもよい。
で、問題は、そのつぎ……というか、私たち自身のこと。
まず私たちは、(1)どうすれば、自分の心の温かさを知ることができるかということ。
つぎに、(2)「冷たい人間」とわかったとき、どうすれば、それを克服することができる
かということ。

 順に考えてみたい。

(1)どうすれば、自分の心を知ることができるか。
(2)自分が心の冷たい人間と知ったとき、どうすればよいか。

●自分の心を知る

 自分の心を知るというのは、実は、たいへんむずかしい。
どんな人も、自分の心を基準にして、「心」を考える。
だからどんな人も、「私はふつう」と考える。
心の温かい人は、温かい人なりに、「私はふつう」と考える。
心の冷たい人は、冷たい人なりに、「私はふつう」と考える。
だから他人の心がわからない。
自分の心も、わからない。

 が、ときどき、ゾッとするほど心の冷たい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の温かさを知る。
反対に心の温かい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の冷たさを知る。

 ただおかしなことに、心の冷たい人ほど、それを隠すためか、それとも自己嫌悪のため
か、人前では、ことさら自分のやさしさを強調することが多い。
「私、近所の独居老人のために、ボランティア活動をしてますの」と。
どこかおかしい。
どこか不自然。

一方、本当に心の温かい人は、静か。
そうした演技そのものを、必要としない。
だから心の動きも、自然。
これもその人が、本当に心の温かい人かどうかを知るための、ひとつの基準になるかもしれない。

●克服

 方法としては、(1)文化性を高める。
(2)人間性を高める。
こうした努力を、日々の中で実践していくしかない。

 文化性を高めるというのは、日々に人の心のすばらしさに感動するということ。
そのために芸術がある。
絵画でも音楽でもよい。
文学や映画でもよい。
そういうものに接して、自分の文化性を高める。

 また人間性を高めるということは、ずばり言えば、苦労をすること。
私も母の介護・・・というよりは、(母の介護そのものは何でもなかったので)、兄弟や親類と
の確執を経験して、介護の苦しみを味わった。
その分だけ、それを理解するだけの心のポケットができた。
こうしたポケットを、できるだけ幅広く、かつ多く経験する。
経験するというより、乗り越える。

 そのときは苦しいかもしれない。
しかし乗り越えるたびに、自分がもつ人間性が、広く、かつ深くなっていくのを、実感と
して知ることができる。

 私自身は、もともと、心の冷たい人間だった。
今も、冷たい。
どうしてこうなったかということについては、いろいろ思い当るところがある。
が、それはそれとして、つまり過去を悔んでも、しかたない。
心の温かい人間をめざして、前向きにがんばるしかない。

 ただ、だからといって、私に聖人のような人間を求めてもらっても困る。
常に私は、(この程度の人間)でしかない。
だから私は、ひとつ心に決めていることがある。
簡単なことである。

(1)心の壊れた人とは、つきあわない。
(2)心の温かい人は、大切にする。

 私のように心の壊れた人間は、同じように壊れた人間と接すると、自分で自分がガタガ
タと崩れていくのがよくわかる。
それがこわい。
だから、つきあわない。

●心の壊れた独裁者

 ところで話は、ぐんと現実的になる。
つい先日、韓国系のアメリカ人が、あのK国へ単独で不法入国していったという。
どこかのキリスト教団体に属する信者だという。
気持ちはわかるが、どこか狂信的(?)。
あまりにも現実離れしすぎている。
活動の仕方はいろいろあるだろう。
しかし・・・?
朝鮮N報は、つぎのように伝える。

 『・・・パクさんがK国の弱点である人権問題を取り上げ、金xx総書記を批判する手紙を
所持していたという点から、容易に解放できないとの分析もある。韓国政府当局者は「現
在米朝関係が悪いわけではないため、円満に解決されることを期待する」と語った。
一方、ロバート・パクさんが代表として活動するK国人権団体「北の同胞のための自由と
生命2009」は30日、ソウル汝矣島にある文化放送前で集会を開き、パクさんがK国
に入境する前に作成したメッセージを発表する。これには金xx政権の糾弾、K国にある
政治犯収容所の閉鎖、K国人権問題に対する全世界人の関心呼びかけなどの内容が含まれ
ている』(朝鮮N報(12・29)より)。

 こんな方法で、あのK国のあの金xxが、心を開くはずはない。
ないことは、K国情勢が少しでも理解している人なら、わかるはず。
なぜなら、理由は、簡単。
あの独裁者の心は、すでに壊れている。
壊れた人間に(善)を説いても、通じない。

 たまたまこの原稿を書いているとき、そんなニュースが飛び込んできたので、ついでに
書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の温かさ 冷たさ 壊れた心)


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