●2月5日
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●変りつつある学校
今、学校教育が、大きく変りつつある。
制度というよりは、中身が変りつつある。
たとえば今、子ども(小学生)が、「今日は
塾があるから、クラブを休ませてほしい」と
言うと、すんなりと許可がおりる。
早退ができる。
しかし今から、30年前は、そうではなかった。
そんなことを生徒が言おうものなら、即座に
教師はこう言った。
「だったら、学校をやめろ!」と。
●教師の姿勢
また指導の仕方も変った。
今では、生徒に向かって、「掃除しなさい!」と
がなりたてる教師はいない。
「掃除しましょう」(共同型)、あるいは
「掃除してください」(依頼型)、さらには
「掃除したらどうでしょう」(提案型)の言い方が
ふつうになっている(静岡県)。
こうした指導の仕方について、ある小学校の
校長はこう言った。
「現場の教師たちが、萎縮しています」と。
今では、紙を丸めて生徒の頭を叩いても、「体罰!」と
なる。
ささいな(遊び)についても、「そら、いじめ!」となる。
親が、そう言って騒ぐ。
また生徒が学校で怪我をしたりすると、担任が
家までその生徒を送り届け、わびを言うのが
慣わしになっている。
少し前までは、電話一本ですんだような話である。
●掛け算
一方、教師たちの教え方にも、変化が見られるように
なった。
ほんの15年前なら、たとえば掛け算のできない生徒
(小2)がいたとする。
そういう生徒に対して教師は残り勉強をさせてでも、
掛け算を教えた。
生徒が泣いても、教えた。
が、今は、ちがう。
教師も一通りのことは教える。
しかしそこまで。
「あとは生徒の責任」と突き放してしまう。
だから小学3年生でも、掛け算のできない生徒は、
いくらでもいる。
(一度覚えたからといって、それで安心してはいけない。
子どもだって、時間がたてば、忘れる。)
●不登校児
こうした変化がもっとも顕著に出ているのは、
不登校児の扱い方である。
20年前、30年前には、「不登校は悪」という前提で、
生徒が不登校児になったりすると、教師は家まで出かけていった。
半ば強制的に、生徒を学校へ連れていった。
が、今は、ちがう。
生徒が不登校児になっても、教師は用意されたマニュアル
通りの指導しかしない。
「無理に・・・」という姿勢は、消えた。
こうした一連の変化を、まとめて言えば、教師がサラリーマン化した
ということになる。
サラリーマン化が悪いというのではない。
サラリーマンなのだから、サラリーマンでよい。
が、それ以上に、教師たちは雑務、雑務の連続で、窒息
しかかっている。
「授業中だけが、休める場所です」と言った教師もいた。
見かけの自由はふえたが、たとえば(空き時間)にしても、
今ではほとんどない。
このあたりの中学校でも、たがいに何とかやりくりして、
週に2~3時間の(空き時間)を作っている。
私たちが中学生のころは、「1時間教壇に立ったら、
つぎの1時間は空き時間」というのが、ふつうだった。
●親たちの意識
それに合わせて、親たちの意識も変ってきた。
学校に求めるものが、変わってきた。
いわゆる学校の予備校化である。
この世界も例外ではない。
需要と供給のバランスの上で、成り立っている。
高校を中心に、予備校化は、ここ10年、急速に進んでいる。
私立高校では、予備校から講師を招いて、授業を
しているところもある。
小学校は、中学入試のため、
中学校は、高校入試のため、
高校は、大学入試のため、というわけである。
あくまでもゴールは、大学。
「モンスターママ」という、あの忌まわしい呼び名も、
そういうところから生まれた。
●反動
一方、「これではいけない」と考える教師も多い。
子どもを、もっと全人格的に評価しようという動きである。
AO入試方法が、その一例ということになる。
また学力の評価の仕方にしても、(できる子ども)から、(考える子ども)
へと、変ってきている。
中高一貫校を中心に入試問題も、大きく様変わりしつつある。
ありきたりの(ガリ勉)では、歯が立たない。
そんな問題が、ふえてきた。
列車の時刻表を見せながら、「どの列車をうまく乗り継ぐと、
目的地へ早く着くことができるか」と。
●パズル化する入試問題
が、「敵もサルもの・・・」。
進学塾が、こうした入試方法に、即、反応している。
いわゆる(見かけの考える子ども)の育成である。
というのも、(考える)といっても、傾向としては、
パズル的な問題が多くなる。
深く分析し、論理的に組み立てる問題というよりは、
直感的に即断するという問題が多い。
こうした問題は、訓練によって、かなりの程度まで、
解けるようになる。
では、その子どもの内面世界はどうか。
それを知る方法が、「作文」ということになる。
が、その「作文」にしても、1~2年も訓練すれば、
だれでもそれらしい文章を書けるようになる。
「弱い子がいたら、助けてあげます」式の、
きれいごとを並べれば、それですむ。
●欲望
要するに元凶はどこにあるかといえば、(人間の欲望)
ということになる。
わかりやすく言えば、教育そのものが、学校、親、
子どもと、三位一体となって、欲望の追求の場になっている。
学歴ではない。
欲望である。
「学歴」といっても、今では、欲望追求のための一里塚
でしかない。
20~30年前までなら、学歴さえあれば、何とか
生きていくことができた。
が、学歴を支えていた権威主義そのものが、崩壊した。
では、親たちをして、何が、子どもの教育に駆り立てるのか?
それが「格差社会」ということになる。
●格差社会
一生働いて、数百万円の財産も築けない人がいる。
その一方で、親から10数億円の小遣いをもらいながら、
みじんも恥じない総理大臣がいる。
こうしたケースは、例外であるとしても、
親たちは日常生活の、ごく身近なところで、こうした
「格差」を肌で感じ取っている。
すでに利権にありついた親は、それを手放さまいと、がんばる。
まだ利権にありつけない親は、何とかそれをつかみたいと、
これまたがんばる。
もちろんこうした熾烈な競争に背を向ける親もいる。
最初から、はじき飛ばされる親もいる。
あきらめて、近寄らない親もいる。
が、この私たちの世界では、強者はつねに発言者であり、
弱者はつねに沈黙者である。
その強者が、社会を作りあげていく。
もちろん教育とて例外ではない。
どうであれ、「格差」というのは、「不平等」を意味する。
「力のある人が、それなりにいい生活をするのは当然」
「力のない人が、そうでない生活をするのも、これまた当然」と。
ある程度の「差」については、だれもが納得している。
が、現実は、そうでない。
格差が格差の範囲を超えて、だれにでもわかる不平等に
なったとき、ここでいう「格差社会」が生まれる。
その不平等感が、社会を緊張させる。
いうなれば今の教育現場は、その緊張状態の中にある。
だれもがイライラしながら、それでいて身動きが取れない。
●社会の熟成度
忘れてはいけない。
受験競争は、子どもの心を破壊する。
それについては、何度も書いてきた。
が、最大の悲劇は、子どもの心を破壊しながら、
親にも、また教師にも、その意識がないこと。
さらに言えば、親自身も、また教師自身も、すでに破壊されている。
自分が破壊されているから、子どもの心が破壊されていることに
気がつかない。
わかりやすく言えば、日本というこの社会は、その結果。
「心の冷たい社会」になってしまった。
(上の人たち)だけではない。
(下の人たち)も、である。
言うまでもなく、社会の熟成度は、いかに弱者にやさしいかで
決まる。
弱者にやさしい社会を、熟成度の高い社会という。
そうでない社会を、そうでないという。
残念ながら、この日本は、経済力という金権と引き換えに、
人間性を見失ってしまった。
●人間性の回復
一度壊れた心は、もとには戻らない。
トラウマ(心の傷)を例にあげるまでもない。
戻すといっても、並大抵の努力ではできない。
その人自身が、それを知るというだけでも、たいへん。
そこで大切なことは、まず壊さないこと。
教育について言えば、子どもの心を壊さないこと。
これからの教育は、そうでなければならない。
また、そのためには、社会はどうあるべきかを、
考えなければならない。
このままでは、この日本は、ますます冷たい国に
なってしまう。
そうなったとき、結局は、さみしい思いをするのは、
あなた自身であるということ。
それを忘れてはいけない。
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【息子に対するいじめ】
【OMさんより、はやし浩司へ】
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小学6年生の男児に対する、いじめについて
相談が届いています。
もうすぐ卒業式。
何とか笑って卒業できれば・・・と、
母親のOMさんは悩んでいます。
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はやし浩司さまへ
内容が具体的なので、くれぐれも住所・年齢・家族構成がわからないようにお願いします。
以前、娘のことで何度か相談しお世話になりましたN県N市の、OMです。
今回は、もうすぐ中学生になる息子のことで相談したく、パソコンを開きました。
これまで娘のこと(学校でおとなしい。自分が出せない・・・)で悩むことが多く、息子に関しては、仲良しの友達もいて、先生からも誰とでも仲良くすると聞いていたので、全く心配していませんでした。
最近、娘のほうは落ち着いてきて、相変わらずおとなしいけれど、自分なりに楽しく家でも明るく学校の話をするようになり、ホッとしていました。
その矢先、今度は、息子が・・・
ある日、突然、
仲良しグループから仲間外れにあっていると、言い出したのです。
原因は何度考えてもわからない。
いつものように、休み時間に友達のところへ行くと、まるで息子が居ないかのように仲良く話しをしたり、昼休みも息子を無視して外へ遊びに行ったり・・・。
掃除の時間は仲良しグループの子と一緒なのですが、息子と二人のときは普通に話すけれど、終わると、また無視して、他ところへ行くそうです。
息子は初めのうちは何事もなかったように話しかけたりしていましたが、反応があまりにも嫌われていると、わかるので今では自分からは話しかけていません。
たまにそのグループの子から「バイバイ」程度のことは言ってくれるようですが・・・。
最近、息子は1人が少し慣れたのか、休み時間は、1人で本を読んだりして過ごしています。
登校を嫌がることは、今のところありません。
今のところ親友がいるので、心強いのですが、その親友の子にも共通の友達がいるので
いつか、親友にも無視されるのではないかと、息子は心配しています。
このまま、原因もわからず、仲間外れにされたままで、息子は大丈夫でしょうか?
グループの子になんで無視するの?、っと聞くと、余計にややこしくなったりするから聞きたくない。どうせ、嫌われているならもう関わりたくないと、言っています。
もうすぐ卒業式。
笑って卒業できないことがくやしいです。
なんとか仲良くもとに戻ってほしいのですが・・・
息子は、少し人の気持ちを考えずに思ったことを話すところがあり、友達には「もし、悪いところがあったら直したいから言ってよ」などと、仲良し子に対しては何でも話します。
でも、ちょっと苦手な子がくると、仲良しの子がいても、みんなで楽しく遊んだりできないタイプだと思います。
4月から中学になります。
違う地区からも、生徒がきます。
そこで新しく友達ができるといいのですが。
まとまりのない文章になってしまいましたが、今、息子に対して、家族としてあげることはあるでしょうか?
【はやし浩司よりOMさんへ】
●加害意識と被害意識
加害意識と被害意識。
いじめを考えるときは、まずこの2つに着目しなければなりません。
むずかしい問題ですね。
「害を与えた者は、害を受けた者の心の痛みが理解できず、いつも害を過小評価する」。
あるいは「害を与えた者は、害を受けた者がそれをいつまでも覚えていることに気づかず、すぐそれを忘れてしまう」。
わかりやすく言えば、いじめる側には、それだけの加害意識がないということ。
この意識のズレが、害を受けた人の心の傷を、さらに大きくします。
子どもの世界では、とくにそうです。
私もよく(いじめの現場)を、直接見ることがあります。
しかしそういうとき、どこまでが(遊び)で、どこから(いじめ)なのか、よくわからないというのが、実情です。
私の目の前で、堂々と、それをしますから・・・。
しかもそのときは、双方が、むしろ笑いあいながら、それをしている・・・。
あとになって、親のほうから、「いじめられた」という報告をもらってはじめて、「ああ、あのときがそうだったのか」と知ったりします。
しかし(いじめる側)にとっては、(遊び)でも、(いじめられる側)にとっては、(遊び)ではない。
そのつど(いじめられる側)は、大きく傷つきます。
●いじめ
OMさんの息子さんが、そうだというのではありません。
しかし(いじめる側)と、(いじめられる側)は、いつも一方通行というわけでもありません。
べつの場面では、(いじめる側)が、いじめられ、一方、(いじめられる側)が、(いじめの側)に回ったりします。
あるいはいじめられる前に、いじめのグループに入り、(いじめの側)に回ったりします。
子どもにとっての「仲間」というのは、そういうもので、仲間を作ることによって、自分にとって居心地のよい世界を作ろうとします。
その仲間意識を維持するために、意味のない(いじめ)を繰り返すこともあります。
この時代の子どもたちを総称して、「ギャング・エイジ」と呼ぶのも、そういう理由からです。
わかりやすく言えば、「善や道徳の通ずる世界」では、ないということです。
たとえば(いじめる側)は、その意識もないまま、面白半分で、それをしたりします。
つまり私たちおとなが考えるより、(いじめの問題)は、はるかに複雑ということです。
しかもどこか動物的。
もちろんだからといって、いじめを肯定しているのではありません。
どうか、誤解しないでください。
●では、どうするか?
(いじめの問題)は、常に(いじめられる側)の立場で、(いじめられる子どもの心)の救済だけを考えて対処する。
これは大原則です。
(いじめる側)が、いくら「いじめていない」と言い張っても、(いじめられた側)が、それだけつらい思いをしているなら、(いじめ)があるという前提で対処します。
またそういう前提で、子どものいじめを考え、(いじめられる側)の救済にかかります。
もし(いじめる側)に、加害意識がないなら、それをわからせるまで、徹底的に指導します。
これも大原則です。
しかし実際には、指導の仕方をまちがえると、かえっていじめを陰湿化させてしまうことにもなりかねません。
水面下にもぐらせてしまうこともあります。
嫉妬やひがみがからむと、さらにそうなります。
そこでもうひとつの大原則があります。
大切なことは、子どもが楽しく通学すること。
そのためには、折れるところは折れ、妥協するところは、妥協する。
この世界には、『負けるが勝ち』という格言もあります。
ほかの世界とはちがって、子どもの世界は、不合理のかたまり。
先にも書いたように、もともと道理が通ずるような世界ではありません。
ですから、結局は、つぎのような結論になってしまいます。
(1) その範囲のいじめなら、親としてつらいところかもしれませんが、子どもを慰め、励ましながら、様子をみる。
(2) その範囲を超えたら、一に、担任の先生に相談です。仲のよい友だちがいたら、その友だちの親に相談するのも大切なことです。
(3) さらにその範囲を超えたら、転校も視野に入れて、学校の先生に相談、です。
ここでいう「その範囲」というのは、あくまでもその子どもの(心の状態)をみて、という意味です。
いじめられることにタフな子どももいれば、そうでない子どももいるということです。
●列を作らない子どもたち
話は変わりますが、今、この原稿を、沼津市のホテルの一室で書いています。
今朝は、市の医師会のほうで講演をすることになっています。
夕方、沼津市に着きましたが、駅での光景を見て、驚きました。
一度新幹線で、JR三島まで来て、そこでローカル線に乗り換えて、沼津市へやってきました。
三島駅でのこと。
中学生や高校生たちで、ごったがえしていました。
が、驚いたことに、学生たちはそのあたりに、三々五々に集まっているといった雰囲気で、列を作らないのです。
私とワイフは、プラットフォームに書かれた数字を見ながら、そこへ並ぼうとするのですが、どう並んだらよいか、かなり迷いました。
先回りして、割り込むこともできない。
かといって、どこが最後尾かもわからない・・・。
「最近の若い人たちは、列を作らない」と、そんなことを知りました。
理由はいろいろ考えられます。
その第一、「急いで家に帰ろう」という意識が、希薄?
その第二、ルールを守らない。
その第三、立ち話を楽しんでいる。
その第四、早く乗って、座席に座ろうという意思がない(?)。
どうであるにせよ、それでいて電車が到着し、ドアがあくと、ゾロゾロと車内へ入ってくる・・・。
ゾロゾロ、とです。
ダラダラ・・・かな?
もともと座席に座ろうという意識もないようで、席があいていても、そのまま立ち話を繰り返しています。
私たちの世代とはもちろん違いますが、おそらくOMさんたちの時代とも、違うのではないでしょうか。
日本人が古来よりもっていた、(まじめさ)が、一本、抜けてしまったような印象をもちました。
つまり今、子どもたちが質的に変化しつつあります。
子どもたちというより、日本人が、です。
●暖かい無視
さてOMさんの息子さんの件ですが、まだ(その範囲)にいて、(その範囲)でがんばっているように感じます。
不登校ということでもないようですし、「関わりたくない」とがんばっています。
つまり(その範囲)で、息子さん自身が、懸命に処理しようとしているのが、文面からもわかります。
こういうときは、子どもの様子を見ながら、つまり暖かく見守りながら、「家庭は、そういう子どもの心を癒す場所」と考えて、無視するしかありません。
これを「暖かい無視」(野生動物愛護協会の言葉)といいます。
残念ながら、いじめのない世界はないし、いじめから逃げても、またつぎのいじめが、そこで待っています。
一方、子どもは、そういう世界を切り抜けることによって、たくましく成長していきます。
OMさんには、つらいことかもしれませんが、親のできることにも限界があるということです。
息子さんは、小学6年生ということですから、すでに思春期に入っています。
息子さんのほうは、とっくの昔に親離れしています。
そういうことも考えると、今、OMさんができることは、かなり限られてくると思います。
そこで大切なことは、
(1) ここにも書いたように、家庭を(心を癒す場所)と考えて、思いっきり、ゆるめる。
(2) よき聞き役に回り、子どもの心を解放させる、です。
生活態度がだらしなくなっても、「ああ、うちの子は、こうして心を休めているのだ」と思い、それを許します。
もちろん心の変化には、じゅうぶん、注意します。
とくに(その範囲)を超えそうなときには、注意します。
●シカト(無視)
私も高校3年生のとき、今で言うシカトで、いやな思いをしました。
あるグループが、徒党を組んで、私を無視しました。
しかし私は、そんなヤワな人間ではありませんでした。
あるとき、その中の1人がもっていた、ギターをぶったたいて、壊してやりました。
相手は相手で、私をいじめていたという意識があったのかもしれません。
何も抵抗しなかったのを、覚えています。
で、それから20年近くたったときのこと。
同窓会に出てみました。
で、そのグループが、当時のことを覚えているかなと、それなりに会話を交わしてみました。
が、だれにもその意識がないことを知りました。
つまりまったく平気な顔をしていました。
(いじめられた側)の私は、よく覚えていました。
今でも、よく覚えています。
しかし(いじめた側)は、何も覚えていない(?)。
それを知って、むしろ私のほうが、驚いたくらいです。
言い換えると、私自身も、どこかで(いじめる側)で、だれかをいじめていたのかもしれません。
気がついていないのは、私だけ、とです。
だからメールでの様子からすると、息子さんをいじめているグループには、そういう意識も希薄なまま、いじめているといった感じがします。
私があなたの息子さんなら、そういった連中は相手にしないで、マイペースで進むことだけを考えるかもしれません。
その点、同じいじめでも、(もの隠し)や、(暴力)、(恐喝)とは、質がちがいます。
今は、様子を見られたほうがよいかもしれません。
「笑って卒業できない」、悔しさはよくわかりますが、別の見方をすれば、よい「転機」にもなるのではないでしょうか。
相手はただの子ども。
小学6年生。
そんな子どもを相手に、「悔しい」と思ってはいけません。
あなた自身の精神のレベルを下げてしまいます。
●小沢一郎の不起訴処分
悔しいといえば、今の民主党。
反自民というよりは、反麻生の票が、どっと民主党へ流れ込んだ。
結果は、民主党のひとり勝ち。
その結果が今。
結局、「秘書が勝手にやったことです」と言って、小沢一郎は、逃げてしまった。
検察側は、証拠不十分ということで、一連の小沢疑獄事件にはメスを入れないまま、不起訴処分にしてしまった。
悔しいといえば、悔しいですね。
最初から現場には、自分が出ないで、秘書たちを出させていた。
おそらくあとあとのことを考えて、そうしていたのでしょう。
つまり汚れ役は秘書たちにやらせて、自分は、奥から指示だけを出していた。
そして事件が発覚すると、「私は知りません」「秘書が勝手にやったことです」と。
こういう事件が明るみになるたびに、政治家たちは、ますます巧妙になっていく。
やり方がズル賢くなっていく。
そこで「連座制」というのが生まれたわけですが、しかしこれは刑事訴訟法には、規定されていない。
あくまでも政治家のモラルの問題というわけです。
つまり私が言いたいのは、「上」がこのザマだから、どうしてその「下」がよくなるかということです。
いわんや、子どもの世界をや!
●OMさんへ
話が脱線しましたが、あなたもそろそろ子離れを始めるときです。
「子離れ」というのには、2つの意味があります。
ひとつは、あなた自身が、子どものことを忘れて、自分の人生を生きるという意味。
もうひとつは、あなたの子どもがじょうずに親離れできるように、子どもを仕向けるという意味。
さらに言えば、あなたがもっている(幻想)を、早く捨てること。
「私たちはすばらしい親子である」とか、「私は人一倍、愛情の深い親である」とかいう幻想です。
こうした幻想は、かえって子どもの足かせになるだけで、子どもの自立ということを考えるなら、好ましいことではありません。
子どもも、いつかそれを負担に思うようになるでしょう。
私もこの年齢になってはじめて気がついたことがあります。
やっと子育てが終わって、ほっとしたとき、そこでドカッと待っていたのは、老後だったということ。
老後の資金といっても、息子たちの学費で、使い果たしてしまっていますから、ほとんど残っていません。
学費だけでは、ありません。
頼まれもしないのに、100万円単位のお金を、そのつど供出してきました。
が、息子たちには、感謝の「か」の字もない。
ないというより、その余裕がない(?)。
自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
というより、目一杯の生活をするから、余裕など、生まれるはずもない。
そんな感じです。
何というバカ親だったのかと、私もこの年齢になってやっと、思い知らされたというわけです。
いえ、息子たちを責めているのではありません。
「年老いた親を、どんなことをしてでも養う」と答えた若者は、28%しかいません(総理府、2009年調査)。
イギリス人でさえ66%、アメリカ人でさえ、64%!
東南アジアの若者たちにいたっては、80~90%ですから、いかにこの数字が低いものか、わかっていただけると思います。
ここに書いた、「自分の人生を生きること」という言葉には、そういう意味も含まれています。
ついでですが、どうか、参考にしてください。
Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司
●今日の講演(歴史の生き証人)
+++++++++++++++++++
これからN市の保険医師会主催の、講演会で
講師をすることになっている。
ドクターたちの集まりだから、その道の
専門家も多い。
だからというわけでもないが、今、ひとつの
ことを考えている。
この21世紀に入ってから、教育の世界が
大きく変わってきたということ。
「変わった」といっても、制度的な変化を
いうのではない。
現在、(教育)と(心理学)と(大脳生理学)の、
この3つの分野が、融合されつつあるということ。
私たちは今、たいへんおもしろい時代に、
遭遇しつつある。
今はまだわからないかもしれない。
しかしこのあと、20年とか、30年とか過ぎたあと、
「あの時代に、この3つの分野が融合した」という
ことが、わかるはず。
たとえば子どものやる気にしても、教育の世界では、
(弱化の原理)(強化の原理)という言葉を使う。
しかし大脳生理学の世界では、辺縁系にある帯状回という
組織が、どうやらそのやる気を司っていることが
わかってきた。
さらにカテコールアミンというホルモンが、やる気に
関係していることもわかってきた。
さらに言えば、フロイトが説いた「性的エネルギー」についても、
根源は、どうやら視床下部あたりが、それを司って
いることもわかってきた。
そこから発せられる信号が、ドーパミンの分泌を促し、
もろもろの欲望も、そこから生まれる。
さらに善悪感覚にしても、ホルモンの作用によるという
ことまでわかってきた。
「悪」については、まだ未解明な部分も多いが、
「善」については、同じく辺縁系にある、扁桃核が
司っている。
何かよいことをすると、大脳の皮質部のほうから
信号が送られ、それに反応して、扁桃核が
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンである。
それが大脳全体を、甘い陶酔感で満たす。
「いいことをすると、気持ちよい」というのは、
そういう原理による。
先にも書いたように、やる気については、カテコールアミン
というホルモンが関係している。
もっとも私自身は、それがどういうホルモンであるかは
知らない。
知らないが、生き生きと活動している子どもは、
表情も輝いている。
その(輝き)こそが、カテコールアミンと、考えてよい。
私は勝手にそう解釈している。
さらに近年の大脳生理学の発達には、驚くべきものがある。
最近になって、「敏感期」「臨界期」という言葉を
よく聞くようになった。
人間の基本中の基本は、実は、0歳から7か月前後までの
間に決定されるという考え方である。
従来、「乳幼児には記憶がない」と考えられていた。
しかしこれもとんでもないまちがいであることがわかってきた。
今から10年ほど前、ワシントン大学のメルツォフ教授がそれを発表した。
むしろこの時期、怒涛のごとく、記憶が蓄積されていることがわかった。
まだある。
今度は、それまで愛着行動は、親の側からの一方的なものと
考えられていた。
しかしこれについても、実は、乳幼児のほうからも、愛着行動が
発せられていることがわかってきた。
もちろん無意識のうち・・・というか、本能的なものだが、
あの乳幼児が育ててもらえるよう、自ら親に向かって働きかけを
している。
親に向かって、(赤ちゃんらしいかわいさ)を、子どものほうからも
発信する。
それを受けて、母親は、子どもに乳をくれる。
相互に愛着行動を繰り返すので、「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」
という。
さらに、たとえば(人間性)にしても、この時期に、その基礎が
形成される。
反対にこの時期をのがすと、人間性の基礎もままならなくなる。
野生児をその例にあげるまでもない。
また人間にも、ある種の鳥類に似た、「刷り込み」が
あることがわかってきた。
この時期を、「敏感期」と、心理学の世界では呼んでいる。
一方、大脳生理学の分野では、重に、脳の神経細胞の
研究の分野から、この時期の(刺激)が、重要な意味を
もつことがわかってきた。
これはモルモットでの実験だが、(というのも、人体で
人体実験をすることはできないので)、たとえば生後
直後から、モルモットの片目を何かで塞いでしまうと、
そのモルモットの視覚を司る神経細胞は、機能を停止
してしまうという。
停止するばかりか、その塞いだものを取り除いても、
神経細胞が再生するということはない。
(一部、輪郭だけは見えるようになるという説もあるが・・・。)
神経細胞の完成しているおとなであれば、一時的に
目を塞いだからといって、目が見えなくなるということはない。
しばらくすると、機能は回復してくる。
こうした事実から、乳幼児期における早期教育の重要性を、
説く人も多い。
この時期に適切な刺激を与えることによって、子どもが
本来的にもつ「力」を、外に引き出すことができる。
そうでなければ、ここに書いたように、脳の神経細胞そのものが、
そのまま退化(「退化」という言い方が適切かどうかは
知らないが・・・)してしまう。
この時期に音楽的な刺激を受けた子どもは、音感にすぐれた
才能を発揮するようになる。
そうでなければ、神経細胞そのものが、退化してしまう(?)。
こうした現象がもっとも顕著に現れたのが、「野生児」である。
インドで見つかったオオカミ少女を、今さら例にあげるまでもない。
その後、2人の少女は、死ぬまでインド政府によって手厚く
保護され、教育を受けたが、最後まで人間らしい心を
取り戻すことはなかった。
腹が減ったときだけ、動物的な声を張り上げて、「怒った」と
いうような記録は残っている。
大脳生理学の分野では、この時期を、「臨界期」と
呼んでいる。
教育の世界でいう「敏感期」と同じに考えてよいのでは
ないだろうか。
こうして(教育)と、(心理学)と、(大脳生理学)が、
今、三つ巴になって融合し始めている。
考えてみれば、これはものすごいことではないか。
それぞれの分野で、未解明だったり、経験的にわかって
いたにすぎなかったことが、今、解明されようとして
いる。
私たちはその歴史の生き証人として、まさにその
時代の中で、それを目撃していることになる。
+++++++++++++++++++++++
●乳幼児期に作られる「私」。
私たちは例外なく、乳幼児期に「私」が作られる。
「私は私」と思っている人は多い。
しかしそれでも、その「私」は、乳幼児期に作られる。
さらに言えば、今の私は、そのころできたレールの上に乗っているだけ。
けっして大げさなことを言っているのではない。
「私」のことがわかればわかるほど、そのことがわかってくる。
言いかえると、それまでに作られる「私」がいかに重要かが、わかる。
さらに言いかえると、それまでの(子育て)が、いかに重要かが、わかる。
「私」を知ることは、それほどまでにむずかしいということにもなる。
あるいは、「おもしろい」ということにもなる。
●過去をのぞく
しかしここで誤解しないでほしい。
自分の過去をのぞいてみたとき、その過去が、仮に悲惨なものであっても、
それはそれ。
ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そうした過去を背負っている。
恵まれた環境で、何一つ不自由なく、親の豊かな愛情に包まれて育った人の
ほうが、少ない。
たいていの人は何らかの問題をもっている。
家庭騒動、両親の不和、経済問題などなど。
問題はそういう問題があったということではなく、そういう問題があったことに
気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
とくに自分の子育てで、どこかにぎこちなさを感じている人は、一度、自分の
過去を静かにのぞいてみてほしい。
子どもに対して極端に甘い親、反対に、極端にきびしい親など。
のぞくだけでよい。
あとは、時間が解決してくれる。
5年とか10年とか、時間はかかるが、時間が解決してくれる。
Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司
●意識
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織田信長は、本能寺で焼け死んでいる。
それについて、ある子どもがBLOGにこう書いた。
年齢はわからないが、漢字の使い方からして、
中学生くらいではないか。
「どうして消防自動車を呼ばなかったか」と。
それに答えて別の子どもが、「電話線も切られて
いたんじゃない?」と。
そこで先の子どもが、反論した。
「携帯電話はもっていなかったのか」と。
それについても、「電池が切れていたのかも」と。
会話がつづいた。
A「信長だろ、消防自動車くらいは、呼べたはず」
B「家が木造だったから、火の回りが早かったかも」
A「消火器はなかったのか」
B「なかったかも」と。
この2人のやり取りを読んだ別の子どもが、こう書いた。
C「お前ら、ちゃんと勉強したのか。
信長は、赤ん坊を助けるため、火の中に飛び込んだんだぞ。
それで焼け死んだんだぞ」と。
(以上、「週刊アスキー」に載っていた記事をまとめさせてもらった。)
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●「学校は、どうしているの?」
こういう記事を読むと、常識のある人なら、だれでも笑う。
あまりにも非常識というか、バカげている。
が、笑ってばかりは、いられない。
同じような無知、無理解は、いたるところで経験する。
先日も、BS放送(NHK)を見ていたら、こんなシーンがあった。
タイのチェンマイにある、屋台を紹介していた。
その屋台を、2人の子どもたちが、手伝っていた。
それを見たレポーターが、こう問いかけた。
「学校は、どうしているの?」と。
子どもを見かけると、すぐ「学校」「学校」と問いかける。
日本人の悪いクセである。
10年ほど前には、こんなシーンもあった。
同じくNHKの番組だった。
戦禍のサラエボで、逃げ回る子どもに向かって、「学校は、どうしているの?」と。
●仕送り
恐らく今の若い人たちに向かって、こう言っても、理解できないだろう。
「私は結婚前から、収入の約半分を、実家に送っていた」と。
私の親類の中には、無神経な人がいて、「そんなはずはない」と言った人もいる。
「そのお金は、どこに消えたのか」と。
私が送ったお金のたいはんは、母が貯金していた。
また別のたいはんは、母から、さらに母の実家を守る伯父に渡っていた。
伯父は定職にもついていなかった。
ほかにも、いろいろある。
が、私が書きたいのは、このことではない。
私の生まれ育った時代には、それが当たり前のことだった。
珍しくも、何ともなかった。
収入の何割かを、毎月実家へ仕送りしていた人は、いくらでもいた。
で、ここにも書いたように、そういう話をしても、今の若い人たちには理解できない。
いつも「現在」を基準にして、ものを考える。
話の内容こそ正反対だが、織田信長の時代に、携帯電話があったと思うのと、どこも
ちがわない。
●「学校」意識
織田信長の時代に携帯電話という話は例外としても、こうして並べて考えてみると、
「歴史とは何か」。
そこまで考えてしまう。
「学校」にしても、日本人がもつ「学校」意識は、明治以後の国策のひとつとして、
作られたもの。
富国強兵策のひとつとして利用された。
そういう歴史的背景があって、日本人は、子どもを見れば、「学校」「学校」というように
なった。
もちろんこうした意識は、国によってもちがう。
隣の韓国は、世界に名だたる受験国家として知られている。
その影響もあって、韓国の新聞各紙を読んでいると、「順位」が話題にならない日はない。
「韓国は、世界~位になった」「~位にさがった」と。
とくに相手が日本のときは、日本の順位と並んで、「日本に勝った」「負けた」の記事が
並ぶ。
今度のTOYOTA自動車のリコール問題についても、韓国内では連日、大々的に
報道されている。
「日本車の信頼は、地に落ちた」という記事まで載った。
●意識
私たちは、つねに自分の意識を疑う。
言いかえると、私たちがもっている意識ほど、あてにならないものはない。
ときにその意識が、そこにある(真実)を、覆い隠してしまうこともある。
とくに、作られた意識には、警戒したほうがよい。
コンビニで買ってきた本に、こんな話が載っていた。
2つの話を並べてみる。
みなさんは、この2つの話の共通点がわかるだろうか。
内容は、少し私のほうで変えさせてもらった。
(日本の中学校で・・・)
【問】「織田信長は、本能寺で、家来の( )に、殺害された」
「また織田信長は、壮大な( )を、作り上げた」
(K国の学校で・・・)
【問】「我が国の偉大かつ輝ける指導者である金xx様による賢明な指導により、
建設された、P市大通りに面したところにある、音楽室の面積は、60平方メートル
である。縦の長さは、横の長さより、4メートル長い。縦と横の長さを求めよ」
その本の中で、ある中学生は、こう書いた。
【答】「織田信長は、本能寺で、家来の(宴会中)に、殺害された」
「また織田信長は、壮大な(ロマン)を、作り上げた」
思わず笑ってしまったが、よくよく考えてみれば、この中学生の書いた答のほうが、
正しいのかもしれない。
正解は、(明智光秀)(安土城)ということになるが、どうして(明智光秀)(安土城)で
なければならないのか。
もしそうなら、ついでに、そのとき火を放った、ほかの家来たちの名前もいっしょに、
出題したらよい。
それともこの問題を出した教師は、その名前を知っているのだろうか。
またK国の数学の問題にしても、しかり。
こんな問題なら、何も長々と、金xxをたたえた文章を書かなくても、「3行ですむ」
(同書)。
ともに無駄なことを教え、それを「教育」と錯覚している。
つまりこれが共通点でである。
そしてその中で、私たちの意識は作られていく。
まとまりのない話になってしまったが、織田信長と携帯電話の話は、おかしい。
同じように、答に「明智光秀」と書かせるのも、これまたおかしい。
そのおかしさをわかってもらいたくて、このエッセーを書いてみた。
2010年2月7日日曜日
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