●荘子(370BC~286BC)
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荘子はある日、夢を見る。
その夢の中で、荘子は、胡蝶となり、
楽しそうに飛び回る。
その夢から覚めたとき、荘子は、
こう考える。
「荘子が夢の中で胡蝶になったのか?」、
それとも「胡蝶が夢の中で、荘子になったのか?」と。
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●胡蝶の夢
荘子の、この『胡蝶の夢』の逸話を読んでいると、そのうち何がなんだか、わけがわからなくなってくる。
だから荘子自身も、「どちらでもいい」と、結論づけている。
「どのみち、すべては無なのだから」と。
もう一度、荘子の見た夢について考えてみよう。
具体的に、あなた自身が見た夢として考えてみる。
あなたはどこかの切り株にもたれて、うたた寝をする。
そのとき、夢を見る。
あなたは一匹の蝶が空を飛ぶ夢を見る。
その蝶は、フワフワと風に乗って、楽しそうに飛んでいる。
が、ふと気がつくと、蝶だと思っていたのは、実はあなた自身であった。
あなたは蝶のように、あるいは蝶の姿のまま、空を飛んでいた。
そこで荘子は考えた。
「自分が蝶になったのか」、それとも「蝶が自分になったのか」と。
●現実と非現実
(現実の世界)であるにせよ、(非現実の世界)であるにせよ、どこからどこまでが(現実)で、どこから先が(非現実)なのか、よくわからないときがある。
私自身は、現実主義者と思っている。
サルトル風に言えば、(存在)と(認識)を基本に、ものを考え、その上に論理を積み重ねている。
そのため、そうでないもの、たとえば占いとか、まじない、迷信、霊(スピリチュアル)などというものを、まったく信じていない。
星占いや、血液型による性格判定にしても、そうだ。
しかしこのところ、(生きていること自体)が、何か、夢の中のできごとのように感ずることが、多くなった。
つまり「私たちは、ひょっとしたら、とほうもないほど非現実の世界に生きているのではないか」と。
たとえばそこに今、見えているものについても、たまたまそう見えるから見ているにすぎない、と。
言い替えると、今、そこに見えているからといって、それをそのまま信じてもよいものか、と。
あるいは実際には、私たちには、見えないもののほうが多いのではないか、と。
よい例が、私たち自身の(過去)ということになる。
●夢
(現実)は、常に、(過去)の結果でしかない。
(現実)は、今、ここに(存在)するものである。
それはその通りだと思う。
しかし(過去)などというものは、どこにも存在しない。
しないが、私の記憶の中には残っている。
その(残っている部分)が、今、こうして振り返ってみると、まるで夢の中のできごとのように思えてくる。
そう、まさに(夢)。
私は子どものころ、父の酒乱でつらい思いをしたが、そうしたドラマでさえ、今、振り返ってみると、夢の中のできごとだったように思えてくる。
結婚してからのこと、子育てを夢中でしていたころのこと……、すべてが夢の中のできごとだったように思えてくる。
言い替えると、今、子ども時代を過ごしている子どもにしても、子育てに奮闘している親にしても、やがてすぐ、夢の中へと消えていく。
「消える」というよりは、今の私のように、(夢の中のできごと)のように思うようになる。
そしていつか、あなたも今の私と同じようなことを言うかもしれない。
「過去を振り返ってみると、すべてが夢の中のできごとのように見える」と。
●再び、現実主義
これは老人の共通した心理かもしれない。
そこにあるのは、(過去)ばかりで、いくらさがしても、(未来)が見つからない。
だから勢い、(過去)を振り返ることが多くなる。
で、その(過去)はというと、記憶の中にあるだけ。
だから、「まるで夢のよう」となる。
若い人なら、このあたりで思考を停止して、今度は(未来)を見る。
(過去)は(過去)として、それを踏み台にして、(未来)に目を向ける。
しかし老人には、その(未来)がない。
だから(過去)を振り返りながら、「まるで夢のよう」と思いつつ、それを拡大解釈し、今、ここにある(現実)まで、「まるで夢のよう」と考えてしまう。
(この間、1時間ほど、すぎた。
あれこれ考えた。
で、スーッと、頭の中が整理されていくのを感じた。)
しかしこの考え方は、まちがっている。
言うなれば、ジー様のたわごと。
いくら歳をとっても、またいくら死に近づいても、私たちは、(現実)を手放してはいけない。
(現実)を手放したとたん、私たちは(死)に向かって、まっしぐら。
そう、そういう意味では、このところ、私はたしかに弱気になっている。
そこにある(現実)から目をそらし、(夢の中の世界)で生きようとしている。
晩年の母がそうだった。
毎日、朝夕、欠かすことなく仏壇の前で手を合わせていた。
暇さえあれば、仏壇の金具を磨いてばかりいた。
そこにある(現実)を見失うと、そういう生き様になる。
●結論
数回にわたって、『夢と現実』について書いてきた。
中には、「林(=私)は、いったい何を考えているのだ」と思った人も多いかと思う。
事実、私自身も、一連のエッセーを書きながら、ときどき自分でも何を書いているかわからなくなった。
だからこの話は、ここまで。
考えるだけ、無駄。
簡単に言えば、たわいもない夢を見ただけ。
その夢に振り回されただけ。
「無」といっても、荘子が説く「無」と、サルトルが説く「無」とは、概念がちがう。
「無」と考えて、けっして、虚無主義に陥ってはいけない。
私は私で、年齢など気にせず、その日が来るまで、前向きに生きていく。
今、そこにある(現実)の中で、戦って戦って、戦い抜く。
それが私の、今までの生き様だった。
これからも、それが私の生き様。
さあ、今日も始まった。
心機一転、がんばるぞ!
みなさん、おはようございます!
(2010年2月28日、明日から3月)
Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司
2010年2月28日日曜日
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