【老人心理】
●生活範囲
老人というのは、年をとれば取るほど、
生活範囲が小さくなる。
小さくなるというよりは、外の世界を
もてあますようになる。
その結果として、身のまわりを小さく
していく。
それだけではない。
「あれもできない」「これもできない」と。
逃げ腰になる。
ますます生活範囲が小さくなる。
それはわかる。
が、こんな老夫婦がいる。
私の母もそうだったので、これは老人に
共通した心理かもしれない。
こんな老夫婦である。
●ある老夫婦
私の近くに、ともに85歳になる老夫婦がいる。
2人とも、数キロ離れたところにある、
有料の老人ホームに住んでいる。
ところが、である。
毎日、そのうちのどちらかが、家にやってきて、
家の窓を開ける。
開けたあと、また老人ホームへと戻っていく。
夕方になると、今度は、その反対のことをする。
そのうちのどちらかが、家に帰ってきて、
家の窓を閉める。
閉めたあと、たいていはそのまま、また老人ホームへと
戻っていく。
ときどき、家に泊まることもある。
どうしてだろう?
どうして、そんな一見、無駄に見えるような
行動を繰り返すのだろう?
●私の母も
で、私は最初、こう思った。
「家の中に、たとえばタンス預金か何かがあって、
それを心配しているためではないか」と。
空き家とわかれば、泥棒が入るかもしれない。
あるいは何か、盗まれて困るようなものが、
あるのかもしれない。
が、どうもそれだけでは、ないようだ。
先に、「私の母もそうだった」と書いた。
つまり私の母は、世間体を気にして、
店だけは、どんなことがあっても、閉めなかった。
自分自身が入院したときも、また店を預かる
兄が入院したときも、そうだった。
私が「しばらく休業しますという張り紙でも
しておけばよい」と言ったときのこと。
母は、血相を変えて、それに反対した。
店を閉めるということは、母にしてみれば、
敗北を認めるようなもの。
だれに対してというのではない。
直接的には、世間体を気にして、ということになる。
母は、人一倍、世間体を気にしていた。
もちろんそこには、自分自身に対して、という意味も含まれる。
だからどんなときでも、店だけは開けていた。
私はそう理解した。
●最後の砦
で、先の老人夫婦だが、私が知るかぎり、
妻のほうは、世間体をあまり気にしていないようだ。
夫のほうが、気にしている。
こうした心理状態というのは、私も含めて、
若い人たちには、理解できないものかもしれない。
が、そこに(小さな世界)を重ね合わせてみると、
老人特有の心理状態が浮かびあがってくる。
家の窓を開けておくというのは、あるいは店を
開けておくというのは、そうした老人たちにとっては、
最後の砦(とりで)ということになる。
もし窓を閉めたり、店を閉めたりすれば、自ら、
社会とのつながりを切ることになる。
それは同時に、自分自身が、死の待合室に入った
ことを意味する。
が、それだけは、何としても認めたくない。
避けたい。
そういう思いが、窓を開け、店を開けるという
心理へとつながっていく。
●虚勢
が、この話は、何も、老人たちだけのことではない。
よく定年退職した人が、虚勢を張ることがある。
「退職はしたが、まだ別の組織でがんばっている」と。
年賀状などに、そう書いてくる人もいる。
しかし虚勢は虚勢。
つまりこうした虚勢にしても、その中身は、
負けを認めたくないという心理によるもの。
負けを認めたとたん、そのまま老人の世界に埋没
してしまう。
だからがんばる。
ふんばる。
が、それも長続きしない。
やがて負けを認めざるをえないときがやってくる。
仕事そのものがなくなる。
健康をそこねる。
こうして加齢とともに、老人は、社会の隅へ隅へと、
追いやられていく。
ますます小さな世界に、閉じ込められるようになる。
その結果として、あの独特の心理状態になる。
毎日、家の窓だけは、開ける。
毎日、店だけは、開ける、と。
●教訓
が、このことから、私たちはもうひとつ、
重要なことを知る。
人間は社会的な動物である。
社会あっての個人ということになる。
社会がなければ、個人はない。
だから自分を、社会から切り離して
生きていくことはできない。
切り離したとたん、「息(いき)る」という
状態になる。
ただ息をしているという状態になる。
つまりその社会が、小さくなればなるほど、
心の世界もまた、小さくなるということ。
あるいは、その反対でもよい。
数学的に言えば、その人の住む社会と、
心の世界は、比例する。
●2倍の人生
もちろん心の世界というのは、広ければ
広いほどよい。
仮に2倍、広ければ、その人の人生は、
2倍、豊かになる。
3倍、広ければ、その人の人生は、
3倍、豊かになる。
そのためには、自分の住む世界を、広くする。
が、それとて、簡単なことではない。
そうでなくても、先にも書いたように、
どんどんと小さくなっていく。
広くするためには、それと闘わなければ
ならない。
いや、広くするなどということは、ありえない。
現状維持だけで、精一杯。
またそれができるだけでも、御の字。
が、闘う。
またそういう強い意思があってはじめて、
自分の心の世界を、維持することができる。
でないと、結局は、先の老人夫婦や、私の
母のようになってしまう。
●最後の最後
もっとも、その老人夫婦は、ともに85歳。
私の母も、92歳で、他界している。
平均寿命を超えている。
その年齢の老人たちの住む世界が小さいからといって、
それを批判しても意味はない。
しかし人生の(長さ)は、数字では決まらない。
(密度)で決まる。
そのことも考えあわせるなら、住む世界が
広ければ広いほど、密度が濃くなる。
人生が長くなる。
で、私たちは今、こう言って、そういう
老人たちを笑う。
「つまらないことを心配している」と。
しかし私やあなたも、そうならないという
保証は、どこにもない。
20年後の私も、ひょっとしたら、その
老夫婦のように、あるいは私の母のように、
窓だけは開けておきたい、
店だけは開けておきたいと、
がんばるようになるかもしれない。
最後の、そのまた最後の砦として・・・。
Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司
●身勝手
仕事がないと、怒る。
仕事がありすぎても、怒る。
若いときは、その許容範囲が、広かった。
しかし年を取ると、その許容範囲が狭くなる
言い換えると、孤独。
仕事がないと孤独。
言い換えると、体力の限界。
仕事がありすぎても、体力がつづかない。
だから許容範囲が、どうしても狭くなる。
今の私がそうかもしれない。
「怒る」といっても、自分に怒る。
だれに怒っても、しかたない。
が、私はがんばるしかない。
選択の余地はない。
そこにある道に沿って、その上を歩くしかない。
4月から、仕事が忙しくなりそう。
一時は、仕事を減らすことばかり考えていた。
しかしその考えは、正しくなかった。
逆に言うと、どうして減らさなければならないのか。
どうして老人をめざして、生きなければならないのか。
「がんばってやる」という思いがあるからこそ、
今朝も、歩いた。
ウォーキング・マシーンの上で、歩いた。
昨日まで10分だったが、今朝からは20分にした。
じんわりとした汗を背中に感じたとき、
それが「まだがんばれる」という実感に変わった。
暇なことを嘆いてもしかたない。
忙しいことを嘆いてもしかたない。
暇だったら、仕事を作ればよい。
忙しかったら、それを感謝すればよい。
その緊張感こそが、重要。
昔からこう言う。
『流水は腐らず』と。
こわいのは、「水」が止まったとき。
そのとき水はよどみ、腐る。
精神は、腐る。
さあ、今朝も始まった。
がんばろう!
(2010年5月16日)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 老後の生き甲斐 老人心理 老人の心理 老後問題 団塊の世代 最後の砦)
Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司
2010年2月16日火曜日
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