2010年2月27日土曜日

*When I woke up in a morning

【夢と現実】

(注:不完全な文章で申し訳ありませんが、そのまま公開します。
読み終えたあと、「林(=私)は、何を言わんとしているのか、よくわからない」と、どうか怒らないでください。
書いた私自身が、よくわかっていないのですから……。)

●夢

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数日前、こんな夢を見た。
目を覚ます直前のことだった。

私はどこかの小道を歩いていた。
その小道のそばに、土手があった。
段々になった墓が立っていた。
3段に分かれていた。
古い墓で、墓石の間には、大きな隙間があった。

その隙間を見ると、宝石がいっぱい詰まっていた。
大きなダイアモンドもあった。
オパールやルビーもあった。
サファイアもあった。

みな、何かの呪いがかけられた宝石という。
だれかにそう言ったわけではないが、
私には、それがわかった。
宝石を持ち帰ったら、不幸になるという。
手で触れるのも、よくないという。

私は、その場を離れようとした。
が、土手の反対側を見ると、
道の下に川が流れていた。
美しく、澄んだ川だった。
それほど深くなかった。
底がよく見えた。

で、歩きながらその川を振り返ると、
川の底で、キラキラと何かが
光っているのが、わかった。
よく見ると、それも宝石だった。
私はそれ拾うべきかどうか、迷った。

が、そのときのこと。
ときどきこういうことがあるが、
私はそれが夢であることに気づいた。
「これは夢だ」と。

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●これは夢

 夢を見ながら、それが夢であることに気づくことが、ときどきある。
眠りが浅いときに、そうなるらしい。
それはそれとして、そのときも、それが夢であることに気づいた。
それだけではない。
私はこう考えた。

 「目が覚めたら、宝石は消える」と。
そのとき私は、川の中に入っていた。
指の爪ほどもある大きなダイアモンドを、何十個も、集めていた。
「どうすれば、このダイアモンドを現実の世界に持って帰ることができるか」と、
一方で、そんなことを考え始めた。

 おそらくすでにそのとき、私は半覚半眠の状態だったと思う。
「目を覚ましたくない」という思いが、強く働いた。
同時に、「この宝石は、私のものだ」「だれにも渡したくない」と、そんなことまで考えた。

●目を覚ましてから

 目を覚ましてから、夢の中の自分について考えてみた。
心のどこかに、「惜しいことをした」という余韻が、まだ残っていた。
で、最初に考えたのは、どうして私が「呪い」を気にしたかということ。
日ごろの私は、そういった類(たぐい)のものは、まったく信じていない。
占い、予言、まじない、霊の存在など、今流行のスピリチュアル的なものは、
認めていない。
生理的な部分で、拒絶反応を示す。

 そんな私が、夢の中で、「呪い」なるものを、本気で信じていた。
これはどうしたことか?
が、これには、2つの理由が考えられる。

 私は子どものころは、幽霊の存在を信じていた。
よく覚えているのは、家の前に、「髪結いさん」という、日本髪を専門に結う美容院が
あり、その美容院の男が、よく幽霊の話をしてくれたこと。
夏の夜などは、みなが道路に長椅子を並べて、その男のする話に耳を傾けた。
楽しかったが、恐ろしかった。

 つまりそのころの「私」が、心のどこかに残っていて、それが夢の中に出てきた。

 もうひとつは、反動形成。
本来の私は、そうした霊的なものにあこがれているのかもしれない。
まじないひとつで、この世の中を思い通りに動かすことができたら、そんな楽しいこと
はない。
「超能力のようなものがほしい」と思うこともある。
しかし私の中の理性が、すかさず、それを否定する。
「そんなもの、あるか!」と。
そこで私は、自分の本心とは、まったく正反対の自分を演ずる。

 が、夢の中では、ありのままの自分が出てくる。

●エス

 つぎに私の貪欲さ。
夢の中で私は、川に戻り、ダイアモンドを拾い集める。
そのとき始終、だれかに横取りされるのではないかという不安感を覚えた。
かなり強い不安感だった。

 いやな根性!
貪欲のかたまり!
日ごろの私は、そういう根性と、いつも闘っている。
そういう自分が、夢の中では、そのまま出てきてしまう。
赤裸々というか、フロイト流に考えるなら、(超自我)(自我)(エス)うち、
(エス)の部分だけが、そのまま夢の中で、拡大して出てくる。
(エス)というのは、動物的な欲望をいう。
そのため知性や理性によるコントロールが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 これはおもしろい現象だと思う。
が、だからといって、それが原点にある「私」というわけではない。
「私」であるとしても、それはあくまでも「私」の一部。

●現実との混だく

 が、そのうち、こんなことを考えるようになった。
「これらの宝石を、現実の世界へもってくる方法はないか」と。
私はそのとき、目が覚めれば、宝石が消えてしまうことを、知っていた。
子どものころ、そういう夢をよく見た。
夢の中で、何かほしいものを手に入れるのだが、目が覚めたとたん、それが消えて
しまう。

 貪欲さは、そのままだった。
私はだれかが川の中に入ってくるのを、警戒した。
すでに私は、袋いっぱいの宝石を手に入れていた。
それでも警戒した。
「明日の夜、もう一度、来よう」と思った。
「それまで宝石は残っているだろうか」とも、思った。

 夢の世界というバーチャルな世界(仮想世界)と、現実が、混だくしていた。
が、私は必死で、夢にしがみついた。

●連続性

 と、そのときのこと。
ふと、私はこう考えた。
今までにない経験だった。
私は、そこが夢の世界ということは、よくわかっていた。
やがて目が覚めるということも、よくわかっていた。
同時に、手にした宝石も消えることも、よくわかっていた。
そこで、「では、夢の世界の中で、目が覚めたとき残っているものはないのか」と。

 夢の中では、私は、川の中に立っていた。
その情景も、目が覚めれば、消える。
すべてのものが、消える。
が、その中でも、現実の世界と連続性をもったものはないか、と。

 私はそのときすでにほとんど目が覚めかかっていたと思う。
夢の世界から、現実の世界へ……。
そのとき私は気がついた。

 こうして(考えている部分)だけは、夢の世界から、現実の世界へとつながっている、
と。
夢の世界で、私は、「残っているものはないか」と考えた。
つまりその考えた部分は、目が覚めても、現実の世界で、残っていた。

 私は目を覚ました。
覚ましたあとも、その夢について、ずっと考えつづけた。

●生きる力

 夢の中では、深層心理の、その奥に隠された部分が露出してくる。
フロイトはそれを利用して、「夢判断」という診断法を確立した。
ふだんは心の奥に隠れ、意識としてのぼってこない意識が、夢として現れる。
数日前に見たその夢にしても、そういう夢だった。

 貪欲な私。
だれかに奪われるのではないかという不安感。
それに焦燥感。

 全体としてみると、それが私の生き様を象徴している。
つまり原点には、そういう「私」が、確かにいる。
その私を、知性や理性が、包み隠している。
表面的に見れば、私はそれなりの常識人かもしれない。
そのように、行動している。
が、私だけが特殊とは考えにくい。

 私が夢の中で見た貪欲さにしても、それはあらゆる人が共通してもっているものと
考えてよい。
フロイトは、それを「性的エネルギー」と言った。
ユングは、それを「生的エネルギー」と言った。
その貪欲さが、(生きる力)の根源になっている。
貪欲さを否定してしまったら、その人は生きることそのものをやめてしまうかもしれない。

 が、本来なら、ここで私のもつ知性や理性が、働かなければならない。
「みなと、宝石を分けあおう」とか、「少しだけ拾って、あとは残しておこう」とか。
しかしそこは夢。
脳の働きそのものに、限界がある。
私は、そこまでは考えなかった。

●あとがき

 数日前の夢だったが、今でも、その夢を思い出すたびに、ふとこう思う。
「ひょっとしたら、今のこの現実の世界も、夢のようなものではないか」と。
言い替えると、「夢の中の世界が、本当の世界であり、現実のこの世界が、バーチャルな
世界ではないか」と。
どちらが本当の世界で、どちらがバーチャルな世界と決めることはできない。

 このことは、現実を、「死」と対比させてみると、よくわかる。
私たちは、死ぬことで、すべてを失う。
「あの世」があるならなおさらで、私たちはあの世へ、ゴミひとつ、チリひとつ、もって
いくことはできない。
「死」によって、私たちはそのまま消えてなくなってしまうと考えるなら、なおさらである。

 そこでたとえば過去の強大な権力を手中に収めた独裁者たちは、(現実)を、(あの世)へもっていくことを考えた。
秦の始皇帝を例にあげるまでもない。
つまり私が夢の中で、宝石を現実の世界へ持ち込もうと考えたように、秦の始皇帝は、
現実にあるものを、(あの世)へ持っていこうと考えた。
この発想は、夢の中の宝石を、現実の世界へもってこようとした私のものと、どこも
ちがわない。

一見すると、正反対の行動に見えるかもしれないが、中身は同じ。

●虚像

 私の身の回りには、無数のモノがある。
価値のないものが多いが、中には価値のあるものもある。
しかしそのモノにしても、分子と光が織りなす、虚像に過ぎない。
それを見て、判断している、私の脳みそにしても、分子と光が織りなす虚像に過ぎない。
つまり虚像である「私」が、虚像である「モノ」を見ている。

 死んで「私」を作り上げている分子がバラバラになれば、(死ななくても、毎日、肉体の何%かは、バラバラになっているが)、私はその(モノ)すら、見ることはない。
つまり消えてなくなる。
さらに言えば、私が夢の中で見た「宝石」と、現実に今、こうして見ている「モノ」は、
どこがどうちがうというのか。
区別できないというより、区別するほうが、おかしい。

●非現実主義

 ……と考えすぎるのは、危険なことかもしれない。
こうしたものの見方を総称して、非現実主義という。
これがさらに進むと、神秘主義となる。
狂信的なカルト教団の多くは、その神秘主義の上に成り立っている。

 しかし心のどこかにそういうものの考え方を、入れておくことは、けっして無駄なことではない。
というのも、私たちは日常生活の中で、現実に、あまりにも毒されすぎてしまっている。
現実に毒され過ぎるあまり、ものごとの本質を見失ってしまっている。
そういう例は多い。

 たとえばそこに山のようにある宝石を見ながら、私は金持ちだ。
私は成功者だ。
私はすぐれた人物だ、などと思ってしまう。
そしてその返す刀で、そうでない人たちを否定する。
その人の、人間としての価値まで否定する。

●光陰、矢のごとし

 どうであるにせよ、私には、不思議な夢だった。
いろいろ考えさせられた。
目を覚ましたあとも、そのまま、夢の内容について考えた。

 で、最後に一言。

 中には、「たかが夢ではないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし今の私のように、平均寿命まで、あと15、6年という人間にしてみると、
今まで生きてきたことが、夢の中のできごとのようにも思えてくる。
長い、短いという判断もあるが、まさに『光陰、矢のごとし』。
数日前に見た夢が短くて、今まで生きてきた人生が長かったとも、これまた言いにくい。

 つまり「現実とは何か」、それが加齢とともに、ますますわかりにくくなる。
結論を言えば、そういうことになる。

●終わりに……

 何ともまとまりのないエッセーになってしまった。
そこで最後に、改めて、このエッセーを通して、何が書きたかったかを、整理してみる。

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
が、途中で、それが夢とわかった。
そこで私はその宝石を、何とかして、目を覚ましたあとの現実の世界にもってこようとした。
しかし目が覚めたとたん、手に握っていたはずの、宝石の入った袋は消えていた。

 しかし人生も残り少なくなってくると、今まで生きてきたこと自体が、夢の中のできごとのように思えてくる。
実際には、(夢)と(現実)が、区別しにくくなる。
ここで私が死ねば、あの世へ入ったとたん、(あくまでもあの世があるという前提での話だが)、今、私がもっているものは、すべて消える。
あの世へは、ゴミひとつ、チリひとつ、もっていくことはできない。
ちょうど夢の中で手に入れたものを、何一つ、現実の世界にもってこれないように、だ。

 つまり私は、(夢の世界)から目を覚まし、(現実の世界)に戻ることによって、(死)を模擬体験したことになる。
言い替えると、その夢を通して、私は、宝石に象徴される、モノや財産が、いかにむなしいものであるかを、改めて知った。
人間が本来的にもつ貪欲さにしても、そうだ。
さらに言えば、名誉や地位、肩書きにしても、そうだ。

 が、その中にあっても、ゆいいつ連続性を保つものがある。
夢の世界と現実の世界の間で、つながっているものがある。
それが「意識」、あるいは「思考」ということになる。

 このことを拡大解釈すると、こうなる。

 仮に私が死に、肉体が滅んだとしても、私が今もっている意識や思考は、この文章を通して、その読んだ人に伝わっていく。
つまりその時点で、私は、この文章を読んだ人の中で、生き返ることになる。
死を克服したことになる。

 ……とまあ、突飛もない結論になってしまった。
たぶんに手前味噌的な結論で申し訳ないが、今は、そう思うことによって、自分をなぐさめることにする。
というのも、ときどき、こう思うことが多くなった。
「毎日、こんなふうに、エッセーを書いていて、何になるのだろう」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

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