●老人大国(これは、たいへんなことになるぞ!)
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A町での講演会を終え、浜松駅を出たときのこと。
デパートの地下にある、その店に行こうとして、一瞬、足を止めた。
私とワイフは、カレーライスを食べるつもりだった。
見ると、老人、また老人……。
そこはまさに老人のたまり場だった。
年齢は70~80歳前後。
そういった老人たちが、長椅子を占拠し、
そこにズラリと座っていた。
何かを食べたり、たがいに話し込んだりしていた。
あと15~20年もすると、日本人の3分の1が、そうした高齢者になるという。
が、そこはすでに3分の1以上が、高齢者だった。
私はその異様な光景に、驚いた。
「何だ、これ!」と思った。
が、つぎの瞬間、私もその仲間であることを知って、口を閉じた。
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●老人ファッション
昨日、眼鏡屋でこんな女性を見かけた。
その女性は、店員と、何かを話していた。
前かがみになっていたので、背中の下が大きく割れ、ジーパンの端から、中のパンティが
見えていた。
シマシマのピンクのパンティだった。
ついでに言うと、上から、大きな毛糸の帽子、黒い毛皮のコート、それにジーパン。
ひざまで届くような、長いブーツをはいていた。
私は「最近の若い人は……」と思った。
「平気で下着を見せる!」と。
が、横に座って、私は我が目を疑った。
顔半分を覆うようなマスクをしていたので気がつかなかった。
が、若い女性と思ったその女性は、50歳は超えたの年配の女性だった。
全体が茶髪で、髪の毛の一部を、紫色に染めていた。
こういうとき「男」というのは、「しまった!」と思う。
「若い女性と思って、損をした!」と。
どうしてそう思うのか、わからないが、そう思う。
●落差
似合うか、似合わないかということになれば、似合うはずがない。
見た目はともかくも、見た人は、その(落差)に驚く。
その女性の服装は、どう見ても、10代後半、もしくは20代前半の、未婚の
女性のものだった。
うしろ姿だけを見たら、だれだって、そう思う。
私だけではない。
いっしょにいた、ワイフだって、そう思った。
驚いた。
が、だからといって、年配の女性が、そういう格好(かっこう)をしてはいけないとか、
そういう失敬なことを書いているのではない。
落差。
その落差が、問題。
たとえば50代の人が、それなりの格好をしているなら、まだよい。
しかし50代の女性が、10代の女性のマネをして、どうなる?
つまりそんなことをしても、若い人たちに、バカにされるだけ。
……というのは、書き過ぎ。
しかし老人は老人としての、ステータスを確保する。
「これが年の功」と言えるようなものを用意する。
極端な言い方をすれば、若い人が、老人を見習う。
あるいはマネをする。
そういうものを示してこそ、私たちは老人、つまり「Aged People」。
「円熟した人」ということになる。
ファッションについて言えば、老人臭くない、老人ファッションというものが、
あってもよいのでは?
若い人たちが着る服を着れば、それでよいというものではない。
●駅前で……
駅前といっても、それぞれコーナーらしきものが、できあがっている。
大きく、若い人たちが集まっているコーナー。
老人たちが集まっている、コーナー。
老人たちは、デパートの地下、その出入り口のところに集まっている。
集まっているというよりは、先にも書いたように、占拠している。
地下には、スーパーマーケットや、食料品店が並んでいる。
買い物をしたついでに、そこへみなが集まるのだろう。
見方によっては、のどかな風景。
しかし異様は、異様。
私はそれを見て、「これは、たいへんなことになるぞ!」と思った。
その第一。
老人たちが、若い人たちと、融和していない。
それはちょうど、日本の街角で、それぞれの外国人が集団を作ってたむろしている様子に
似ている。
そうでない人たちを、はじき飛ばしてしまうかのような、排他性すらある。
が、それは同時に、若い人たちから見れば、そのまま差別意識につながる。
もっとも今は、まだよい。
デパートの出入り口という一部。
しかしそれが日本中の、いたるところでそうなったら、どうなる?
目的意識もない老人たちが、ブラブラとうたるところで、たむろするようになったら、
どうなる?
そのとき若い人たちが、私たち老人をながめて、「どうせ老人だから……」と、
寛大に見てくれるだろうか?
結論を先に言えば、老人は老人として、やるべきことがある。
そのやるべきことをして、老人は、老人である。
身勝手で、自己中心的で、自分勝手な老人は、「老人」ではない。
いわんや終日、デパートの出入り口に陣取って、世間話に夢中になる老人は、「老人」では
ない。
そんなことばかりしていたら、それこそ、私たちは社会のゴミになってしまう!
それがわからなければ、逆に、年少の子どもたちが、デパートに出入り口あたりで、
たむろしていたら、あなたはどう思うだろうか。
おそらくあなたは、子どもたちに向かってこう言うにちがいない。
「君たち、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。
だから私は言いたい。
「老人たちよ、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。
●まとめて老人
このところ、急速に肩身が狭くなってきているのを感ずる。
ときどき生きているのが、申し訳ないような気分にすら、なる。
現実問題として、長生きをすればするほど、みなに、迷惑をかける。
介護制度にしても、この先20年、悪化することはあっても、よくなることはありえない。
いくら私一人ががんばったところで、若い人たちは、私を区別してくれない。
区別できない。
「まとめて老人」と考える。
そうなったとき、私やあなたの生きる場所はあるのか。
あるいはどう生きたらよいのか。
本来なら老人というのは、人生の先輩として、知恵や経験を若い人たちに伝えていく
立場にいる。
そうした老人がむしろ逆に、若い人たちに、バカにされるようなことばかりしている。
自分たちだけで、小さな世界をつくり、そこにたむろしている。
冒頭に書いた女性にしても、そうだ。
そういう服装を見て、若い女性たちは、どう思うだろうか。
だから「これは、たいへんなことになるぞ」となる。
やがて私たち老人は、(社会のゴミ)となってしまう。
が、そうなっても、私たちには、それと戦う気力も体力もない。
財力もない。
虐待されるようなことになっても、私たちは、それを受け入れるしかない。
現に今、老人虐待が、あちこちで問題になっている。
やがてそれが世間一般で、おおっぴらになされるようになるかもしれない。
●では、どうするか?
何度も書くが、老人たちは自ら(やるべきこと)を定め、それを(現実にする)。
この両者を一致させることを、「統合性の確立」という。
けっして、現在の立場に安住してはいけない。
「人生の先輩」として、若い人たちの上に、君臨してはいけない。
デパートの出入り口にたむろするくらいなら、カニばさみと、ポリ袋をもって、
街の清掃くらいしたらよい。
「街のガイドをします」というような小さなネーム・カードを、胸につけるだけでも、
外から来た人には助かる。
「私は料理のプロです」「中国語の通訳ができます」というカードでもよい。
その気になれば、何だってできるはず。
それを「私は人生を終えました」と、居直ってしまう。
居直って、奥にひっこんでしまう。
自分のしたいことだけをする。
私は、それではいけないと言っている。
若い人たちから見て、「やはり、ジーチャン、バーチャンは、必要なのだ」と。
そういう存在感を作る。
でないと、「3分の1」という数字を乗り越えることはできない。
やがてすぐ、日本人の3分の1が、その老人になる。
Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司
●年長児(数の学習)
年長児の学習風景を、そのまま紹介します。
Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司
2010年2月20日土曜日
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