●人間不信
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ゆらゆらと揺れるカーテン。
その向こうに、乾いた庭の落ち葉が見える。
台風が、現在、太平洋上を、関東地方に向かっているという。
湿り気を帯びた、あやしげな風。
それがパタパタと、庭をせわしく走り抜けている。
だれもいない朝。
ワイフは、午前中はクラブに出かけて、今はいない。
時間は、先ほどから止まったまま。
私はぼんやりと時の流れに身を任す。
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●自業自得
「人間不信」というと、(私)の問題と考える人は多い。
まちがってはいない。
しかし「人間不信」には、もうひとつの意味が含まれる。
相手の人から見て、私は、どう見られているかという問題である。
「相手の人は、私を信じているか」と。
人は、他人を信じ、同時に、他人に信じられてこそ、「人間不信」という問題を
克服することができる。
他人に信じられない人が、己の人間不信を嘆いても、それは身勝手というもの。
そういうのを、言葉はきついが、『自業自得』という。
●孤立感
今、ふと我に返る。
私の周りには、だれもいない。
私はひとりぼっち。
孤独ではないが、孤立。
孤立感。
この孤立感は、いったい、どこからくるのか。
再びゆらゆらと揺れるカーテン越しに、庭の落ち葉を見る。
土の色と化した、葉っぱの死骸。
それがところどころで、小さな山を作っている。
それを見ていると、孤立感が、カプセルとなって、私をすっぽりと包む。
●基本的不信関係
「他人を信じられない」と嘆いても、意味はない。
「他人に信じられない」と嘆いても、意味はない。
だいたい私は、私自身を信じていない。
ふわふわとした人生観。
焦点のぼやけた哲学観。
だれにでもシッポを振る、捨て犬のような根性。
「私は私でいたい」といくら願っても、そのつど、世の動きに、そのまま流されてしまう。
原因は、基本的不信関係。
心理学では、そう説明する。
乳幼児期の貧弱な家庭環境が、私をして今のような私にした。
これは生まれついた、脳みそのシミのようなもの。
簡単には取れないし、また取れるようなものでもない。
本能に近い部分にまで、刷り込まれている。
●心の傷
だから私には、(その人)がよくわかる。
『同病、相、憐れむ』といったところか。
私に似た人に出会うと、「ああ、ここにも、心のさみしい人がいる」と。
一見、朗らかで、明るい。
快活で、幸福そう。
しかしそれは仮面。
精一杯、無理をしている。
そういう人を見ながら、私は、いつもこう思う。
「この人は、自分の心の傷に気がついているのだろうか」と。
あるいは傷があることにさえ、気がついていない?
「かわいそうな人だ」とは、思うが、どうしようもない。
私自身だって、どうしようもない。
●信じられるのは、お金だけ
私はよい夫を演じているだけ。
よい父親を演じているだけ。
ワイフにしても、私を信じていない。
息子たちとなると、さらに私を信じていない。
私は、自己愛者。
愛他的自己愛者。
自分勝手で、自己中心性が強い。
プラス、わがまま。
心の中身も、さみしい。
いまだに「信じられるのは、お金だけ」と。
そんな人生観を崩せずにいる。
だからみんな、去っていく。
楽しそうな顔をしたまま、去っていく。
●希望
ゆういつの救いは、パソコン。
こうしてパソコンに向かって、心の内を書く。
真新しいパソコンで、キーボードに触れているだけで、気持よい。
その気持よさに陶酔しながら、孤立感をまぎらわす。
このパソコンの向こうには、私に共鳴してくれる人もいるはず。
数は少ないが、「私もそうだ」と思ってくれる人もいるはず。
今すぐには無理かもしれない。
しかし何か月か、何年かを経て、いつかどこかで、だれかが共鳴してくれるかもしれない。
「文」には、そういう「力」がある。
私にとっては、それが希望。
孤立感を癒す、ゆいいつの方法。
●自分の中のボロ
しかしどうして私は、こうまで人に裏切られてばかりいるのか。
「人を信じよう」と思ったとたん、そこで裏切られてしまう。
相手は、最初から私をそういう人間と思って、近づいてくる?
それとも最初から、私をまともな人間と思っていない?
そんな人間関係に、ボロボロとまではいかないにしても、もう疲れた。
「信じられたい」と思いつつも、その努力にも限界がある。
私ももうすぐ、満62歳。
このところザルから水がこぼれ出るように、人々が私から去っていく。
それが実感として、よくわかる。
あの人も、この人も……と。
理由がわかっているだけに、私としてもなす術(すべ)もない。
「歳を取る」ということは、こういうことかもしれない。
自分を支える気力そのものが弱くなる。
孤立に弱くなるというのではない。
自分の中のボロが、そのまま表に出てきてしまう。
それが周りの人たちを、遠ざけていく。
●捨て身
「今日、1日だけでもいいから、ワイフを信じてみよう」と、今、思った。
だまされてもいい。
裏切られてもいい。
・・・ワイフは、そういうことはしない。
それはわかっているが、こうなれば捨て身で、ワイフと接してみよう。
気を張れば張るほど、疲れるだけ。
ワイフも疲れる。
「信じてもらおう」などと思う必要はない。
「信じてやろう」と気を張る必要もない。
ただひたすら、「捨て身」。
何も考えない。
何も求めない。
こうしてぼんやりと、時の流れに身を任す。
どうせ今の私には、それしかできない。
それしかすることもない。
そうそう心なしか、庭を行き交う風が、強くなったように思う。
カーテンの揺れが、それに合わせて、大きくなった。
さあて、今日もこうして始まった。
まだ朝のニュースは見ていないが、今ごろは選挙一色のはず。
自民党が歴史的敗北を期した。
……となってみると、今まで、あんな党がどうして50年間も、
日本に居座っていたのか、居座ることができたのか、
その理由がよくわからない。
2009年8月31日(月曜日)
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司
●980円の時計(脳の中の脳)
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近くのショッピングセンターでは、毎月
30日に、「みそか市」というのが開かれる。
この日は、商品を選んで特別に安く、ものが
売られる。
1万円の自転車とか、6000円の掃除機とか、など。
その中に、9800円のソーラーバッテリーで
動く腕時計(電波時計)というのがあった。
ググーッと物欲が湧いてきた。
が、ここで「待ったア!」。
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●作られる意識
最近の脳科学の進歩には、めざましいものがある。
その中のひとつが、これ。
実は(意識)というのは、それを意識として意識する前に、
脳の別のところで、つまり無意識の段階で、その意識の原型が作られる。
私たちが「意識」と呼んでいるのは、実はその無意識に操られてできた意識
ということになる。
もう少しわかりやすく説明しよう。
●物欲
私はその腕時計がほしくなった。
腕時計など、この10年以上、身につけたこともないのに、ほしくなった。
で、ワイフに「あとで、この時計を買いに行こう」と誘った。
が、実はこのときすでに、脳の別のところでは、「買わない」という意識が
作られていた。
もちろんそれは無意識の世界でのこと。
無意識の世界で、別の反応が起きていることなど、私には知る由もない。
意識の世界では、「ほしい」「買いたい」「買いに行こう」という意識が働く。
●無意識の世界の反応
で、ショッピングセンターに出向く。
時計売り場に立つ。
時計を見る。
「どこかジジ臭い」と、私は思った。
「重そうだ」と、私は思った。
で、結論は、「買わない」。
……と書くと、「どうして無意識の世界の反応が、あらかじめ君には
わかったのか?」という質問が出てくるかもしれない。
私は無意識の世界では、「どうせ店に行っても買わないだろう」と反応していた。
無意識の世界での反応だから、意識の世界で、それがわかるはずがない。
わかったとたん、それは無意識ではなくなる。
●訓練
ところが、である。
少し自分の脳みそを訓練すると、無意識の世界での反応が、おぼろげならも、
自分でわかるようになる。
そのときも、そうだった。
コマーシャル(DMチラシ)を見たとき、私は意識の世界では、それを
「ほしい」と思った。
が、同時に、脳の別のところで、モヤモヤとした感覚が、それをじゃました。
それは「迷う」という反応とは、ちがう。
意識の世界では、はっきりと「買う」という反応を示していた。
が、そのモヤモヤとした感覚の中に、「買ってはだめ」とか、「買ってもむだ」とか
いう(思い)が、あるのを感じた。
言葉ではない。
感覚的な反応である。
それが無意識の世界の(反応)ということになる。
●嘘発見器
私は実物を見たことがない。
嘘発見器なるものに、触れたこともない。
しかし映画などでは、よく見かける。
その嘘発見器だが、今では、脳の奥深くで起きる反応を見分けることが
できるそうだ。
だからいくら意識的に嘘をついても、脳の別のところが、別の反応をそてしまう
ため、それを嘘と見抜いてしまう。
そこで……。
ここからはあくまでも映画で知った話だが、一流のスパイともなると、嘘発見器を
だます技術を身につけるのだそうだ。
本当かどうかは知らないが、もしそういう訓練があるとするなら、それは無意識の
世界をだます訓練ということになる。
が、そういうことはありえることだと私は思う。
訓練すれば、無意識の世界をコントロールし、ばあいによっては、だますこと
もできる。
その反対の側位にある反応が、催眠術ということになる。
●催眠術
催眠術については、今さら、改めて、ここに説明するまでもない。
あの催眠術を使えば、心の奥の奥、深層心理までコントロールすることが
できる。
こんな実験を、私は、直接、目撃したことがある。
実験者(催眠術師)が、被験者(女性、30歳くらい)にこういう暗示を与える。
「あなたは目をさましたあと、隣の部屋に行って、ハサミをもってくる」と。
で、そのあと被験者は催眠術から解かれ、我に返る。
が、そのあとのこと。
被験者は席を立ち、隣の部屋に行こうとする。
それを見ていたほかの人が、「どこへ行くのですか?」と聞くと、
「ちょっと、隣の部屋まで……」と。
そこで「どうして隣の部屋に行くのですか」と聞くと、
「ハサミを取りにいくのです」と。
「なぜ、ハサミを取りにいくのですか?」
「あら、……どうしてかしら?」
「ハサミで何を切るのですか?」
「でも、ハサミを取りにいかなきゃ……」と。
その女性は、自分の意思でハサミを取りに行くようにみえた。
が、実際には、他人によって作られた(暗示)に、操られていただけ。
ハサミが、なぜ必要なのか、それについては、まったく考えていなかった。
●もうひとりの「私」
乳幼児期(0~2歳)から幼児期前期(2~4歳)にさしかかってくる
と、子どもは、「いや」という言葉を連発するようになる。
母「お外へ行こうか」
子「いや」
母「じゃあ、おうちの中で遊ぼうか」
子「いや」と。
そういう子どもの反応を観察していると、子どもの意思というよりは、
子どもの意思そのものが、さらに奥深い意識によって操られているのがわかる。
何も考えず、条件反射的に「いや」と言う。
子どもの心の中で、自立に対する意識が芽生え始めているためと考えてよい。
その意識が、親の言いなりになることに対して抵抗する。
同じような現象がおとなの世界でも、見られる。
私のワイフでも、虫の居所が悪くなったりすると、何かにつけて拒否的な態度
を示すようになる。
私への嫌悪感が、ワイフを裏から操る。
「あれもいや」「これもいや」となる。
●残った物欲
……ということで、9800円のソーラー電波時計は買わなかった。
が、ここでまた別のおもしろい反応が、脳の中で起きた。
視床下部の指令を受けて、ドーパミンが放出された。
そのドーパミンが、線条体を刺激した。
私の線条体の中には、物欲に反応する受容体ができあがっている。
「何かほしい」と思うと、それを自分の意思で止めることがむずかしくなる。
アルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見たときのような反応が、脳の
中で起きる。
ニコチン中毒の人が、タバコの煙をかいだときのような反応が、脳の中で
起きる。
それが何であれ、この反応が一度起きると、簡単には止められない。
そのモノがほしくなる。
とくに私は、デジモノに弱い。
9800円の時計については、買うのをやめたが、「時計がほしい」という気持ちは、
そのまま残った。
そこで私がしたことは、その横にある、安物の時計を買うことだった。
値段は、980円。
10分の1の値段。
ベルトが布製の、けっこうしゃれた時計だった。
色は茶と白と黒の組み合わせ。
小ぶりで、軽いのも、気にいった。
で、買った。
その日は、一日、その時計を腕につけて遊んだ。
こうして物欲を満たし、やがて私の脳は、落ち着きを取り戻した。
Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司
●9月の抱負
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明日から9月。
講演の季節。
私は最近、講演に招かれると、できるだけ
先方の地で、そのまま旅館に泊まるようにしている。
来週は、F県のN町と、伊豆半島のA温泉で、
それぞれ一泊することになっている。
楽しみ……というより、そういう楽しみを
用意しておくと、心もはずむ。
講演旅行も、ずっと楽しくなる。
言い忘れたが、私はいつもワイフを連れて行く。
ワイフの趣味は、旅行。
それを満足させてやるのも、夫の役目。
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●料理は最低
N町の旅館では、鮎の塩焼きが出るという。
A温泉では、伊勢海老の姿焼きが出るという。
結構な料理だが、私たち夫婦は、基本的には小食。
回転寿司でも、2人で、7~8皿が限度。
ときには、6皿。
それ以上は食べられない。
だから旅館を予約するときも、料理はいつも最低の料理を注文する。
追加料理は、なし。
不要。
そのかわり、風呂の設備のよい温泉を選ぶ。
湯質がよければ、文句なし。
●幻覚
今日、はじめて、私は(幻覚)なるものを見た。
子どもたち(小4生徒)たちにワークをさせていたときのこと。
シーンと静まり返っていた。
そのとき私は腕組みをして、目を伏せていた。
たぶん、そのとき眠ってしまったのだと思う。
ほんの瞬間のできごとだった。
目をさますと同時に、ななめ右前の子どもを見た。
見たというより、目に入った。
そのときのこと。
その子どもの背後に、黒いスーツを着た男が立っていた。
その男が、見た瞬間、くるりと体を回すと、そのままドアのほうへ
音もなく消えていった。
私は思わず声をあげた。
「どちらさんですか?」と。
今から思うと、それは幻覚だった。
脳の中で、夢と現実が、ごちゃまぜになった。
が、私はワイフにそれを話すまで、それが幻覚だったとは思わなかった。
あとでワイフに電話をして、そういうものを見たと話すと、ワイフは、
「ヘエ~、あなたは幻覚を見たのね」と言って笑った。
幻覚?
もしそうなら、私は生まれてはじめて、幻覚を見たことになる。
あるいは脳みそが、とうとうおかしくなり始めたのか?
死ぬ直前の母も、よく幻覚を見ていた。
理屈の上では、視覚野を通して入ってきた情報と、夢として見る
情報が、脳のどこかで交錯したと考えられる。
実に奇怪な経験だった。
で、その話を子どもたちにすると、私が真顔だったせいもあるが、
何人かが、「先生、こわい!」と言い出した。
「本当にこわいのか?」と聞くと、「こわい」と。
1人の子ども(男児)は、体を小刻みに震わせていた。
「冗談かな?」と思ったが、本当に震わせていた。
いつもは大胆な言動で、みなを笑わす子どもが、である。
それを見て、「そういうこともあるんだ」と思った。
Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司
2009年9月1日火曜日
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