【生命から生命へ】(From Life to Life)
We live and die and repeat it again and again, conveying out Life to other all living creatures and things together with our consciousness.(後日、要推敲)
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あなたの生命は、ほかのありと
あらゆる生命とつながっている。
過去から未来へと、つながっている。
すべての植物から動物へと、つながっている。
それがわかれば、あなたは
もう孤独ではない。
もしあなたに「死」というものが
あるとするなら、それはあなたの
「意識」の死に、過ぎない。
もっと言えば、意識の連続性が、
途切れるに過ぎない。
だから、もしあなたが意識の連続性を、
あなたの肉体を超えて感ずることが
できたら、あなたには、「死」は
ないことになる。
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●生物の連続性
人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルにまでばらばらになり、また
別の生物や無生物の中へと取りこまれていく。
と、同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、新しい肉体を作り、生きている。
こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている。
これを「生物の連続性」という。
●命
では、死んだらどうなるか。
が、基本的には、「死」は存在しない。
その人個人の意識は途絶えるが、生命は、
姿や形を変え、別の生物の中に取りこまれて
生きていく。
虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。
この連続性を総称して、「生命」という。
●意識
個人は、その人の意識によって特定される。
「私は・・・」というときの「私」である。
しかしその私にしても、肉体のほんの一部
でしかない。
もっと言えば、脳の中を走り回る、電気的
信号の一部でしかない。
だからといって、「私」に意味がないというのでは
ない。
私が書きたいのは、その逆。
この「私」があるから、そこから無数の
ドラマが生まれ、人間の生活を、潤い豊かなものに
する。
もし「私」がなかったら、私たち人間は、そこらに
生える雑草のような存在になってしまう。
●死
では、「死」とは何か?
言うまでもなく、意識の途切れをいう。
その人の意識が途切れたとき、「私」は消える。
言うなれば、パソコンの電源を切るようなもの。
そのときから、見ることも、聞くことも、
感ずることもできなくなる。
しかし先にも書いたように、それで生命が
途切れるわけではない。
生物の連続性の中で、つぎつぎと新しい生物の
中に、生命は取りこまれていく。
あなたが過去から現在に至るまで、取りこんで
きたように・・・。
●再生
そんなわけで、「生命」を、あなたという個人の
中だけに閉じこめておくのは、正しくない。
またそういう視点で、あなたという「私」を見ては
いけない。
もっと具体的に話してみよう。
脳も含めて、上は髪の毛から、下は、足の爪まで、
私たちは長くて1年足らずで、すべてが作り替えられる。
古い肉体は、つねに便となったりして、外に排出される。
が、それは自然界でつねにリサイクルされ、無数の
生物の、一部となって再生される。
もちろんあなた自身の一部として戻ってくることもある。
●破壊と再生
こうした破壊と再生の中で、連続性をもつものが
あるとすれば、それが意識ということになる。
脳の中で、意識は、古い細胞から新しい細胞へと、
つねに伝えられていく。
あなたが子どものころの記憶があるとしても、
子どものころの脳細胞が、残っているからではない。
そのころの脳細胞は、とっくの昔に破壊されている。
今、「子どものころの記憶がある」と思いこんでいるのは、
ごく最近再生された、脳細胞の中に伝えられた電気的
信号にすぎない。
●瞬間移動(転送)
映画『スタートレック』の中に、よく「転送」という
言葉が出てくる。
これはある一定の場所から、別の場所に、瞬時に
移動することをいう。
SF映画の世界でのことだから、まともに考えるのも
どうかと思うが、その転送について、こんな議論がある。
「転送されてきた人間は、もとの人間と言えるか」
という問題である。
原理は、こうだ。
まずあなたという人間を、分子レベルにまで、バラバラに
する。
そのバラバラになったあなたを、電磁波か何かの(波)に
乗せて、別の場所に転送する。
そしてその別の場所で、もとどおりに、組み立てなおす。
そこであなたはこう考える。
見た目には、もとの人間と同じだが、しかしもとの人間は
一度死んだはず、と。
新しく再生された人間は、あくまでもまったく別の人間。
つまり転送を10回繰りかえせば、あなたは10回
死に、10回再生されたことになる。
●破壊と再生
人間の肉体は、転送という劇的な変化ではないにしても、
1年単位という時間の流れの中で、映画『スタートレック』の
中の転送と同じことを、繰りかえしている。
「劇的」というのは、映画『スタートレック』の中では、
すべてを瞬時にすることをいう。
一方、肉体のほうは、それぞれがバラバラに、長い時間をかけて、
徐々にする。
そこでもし、映画『スタートレック』の中の転送について、
あれは、「破壊」と「再生」を繰り返したもの、つまり
「一度死んで、再び、生きかえったもの」と考えるなら、
私たち自身も、同じことを繰りかえしていることになる。
「瞬時」にそれをするか、「1年」をかけてそれをするかの、
ちがいだけである。
●伝えられる意識
さらに……。
科学が進めば、(あなた)のコピー人間を作ることも、
可能になるだろう。
すでにクローン牛なども誕生している。
しかし意識は、どうか。
あなたのコピーは、あなたと同じ意識をもつだろうか。
今のところ、その答は、NO。
あなたのコピー人間は、ただのコピー人間。
たとえば私のコピーを作ったとしても、そのコピー人間が、
今の私と同じ感情をもつとはかぎらない。
というより、ありえない。
私のワイフを見て、私は逃げ回るかもしれない。
●コピー人間の意識
私が「私」と言えるのは、「意識の連続性」があるからにほかならない。
もし意識の連続性がなかったら、「私」はそのつど分断されてしまう。
たとえばクローン技術を使って、あなたのコピー人間を作ったとしよう。
見た目はもちろん、何から何まであなたと同じ人間である。
しかしそのクローン人間は、ここにも書いたように、「あなた」ではない。
意識の連続性がないからである。
同じように、先にも書いたが、あなたは日々に生まれ変わっている。
古い細胞は死に、新しい細胞が生まれる。
1年前のあなたは、どこにも残っていない。
言い換えると、今のあなたは、1年前のクローン人間といっても、さしつかえ
ない。
が、あなたはあなた。
そういうあなたは、「私は私」と言うだろう。
それが意識の連続性ということになる。
●親子
さらに言えば、親子の関係も、それに似ている。
親子のばあいは、1世代、つまり約30年をかけて、
親は自分のクローン人間を作る。
自分の子どもは、約30年をかけて作る、自分
自身のクローン人間とも考えられる。
顔や姿は、配偶者のそれと半々するということになるが、
それは大きな問題ではない。
それに意識、……このばあい、ものの考え方も、
あなたのそれに似てくる。
ただ親子のばあいは、クローン人間とはちがい、
個人差はあるだろうが、親子の間には、たしかに
意識の連続性がある。
●意識があるから私
こうして考えると、「意識」の重要性が、ますます
理解してもらえると思う。
もっと正確には、「意識の連続性」ということになる。
言うなれば、「意識の連続性があるから、私」ということになる。
「私」イコール、「意識」。
「意識の連続性」。
「意識の連続性」イコール、「私」と考えてよい。
●あやふやな意識
が、その一方で、その「意識」ほど、あてにならない
ものもない。
「私は私」と思っている意識にしても、そのほとんどが、
意識できない「私」、つまり無意識の世界で作られた
私でしかない。
意識している私は、無意識の世界で作られている私に、
操られているにすぎない。
その反対の例が、催眠術ということになる。
「あなたはキツネだ」という強力な暗示をかけられた
被験者は、目が覚めたあとも、キツネのように、
そのあたりをピョンピョンと、とび跳ねたりする。
つまり脳の中には、無数の暗示が詰めこまれていて、
それが私たちを裏から操る。
それを私たちは、「私の意識」と思いこんでいる。
・・・だけ。
意識には、そういう問題も隠されている。
●私の死
そこで再び、「死」について考える。
脳の中の意識は、脳細胞の中を走り回る電気的信号の
集合でしかない。
人間が霊的(スピリチュアル)な存在でないことは、認知症
か何かになった老人を見れば、わかる。
脳の機能が低下すれば、思考力も低下し、ついで、
意識の力も弱体化する。
「私」すら、わからなくなる老人も多い。
人間が霊的な存在であるなら、脳の機能に左右
されるということは、ありえないはず。
で、その電気的信号が止まったら、どうなるか。
それが「肉体の死」ということになる。
●すべてが消える
「死」についての説明は、これでじゅうぶんかも
しれない。
結論的を先に言えば、私たちは死によって、意識を
失う。
意識の連続性を失う。
だからこの大宇宙を意識している「私」すら、消滅する。
つまりこの大宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが深い眠りの、そのまた数万倍、深い眠りに
陥った状態を想像してみればよい。
夢を見ることもない、深い眠りである。
(それでも、微量の意識は残るが・・・。)
それが「死」に近い状態ということになる。
では、「私」とは何か。
つまりそれが「意識」ということになる。
「意識の連続性」ということになる。
●意識
結論は、もう出ている。
「意識」イコール、「私」。
「私」イコール、「意識」ということになる。
が、「意識」だけでは足りない。
「私」を意識するためには、繰り返すが、そこに
「連続性」がなければならない。
意識だけなら、空を舞う蚊にすら、ある。
あの蚊に、「私」という意識があるとは、とても
思えない。
しかしその「私」は、努力によっていくらでも
大きくすることができる一方、ばあいによっては、
犬やネコどころか、虫のそれのように小さく
してしまうこともありえる。
人間は平等とはいうが、こと意識に関しては、
平等ということはありえない。
深い、浅い、の差はある。
またその(差)は大きい。
その(差)は努力によって決まる。
そうした努力を、釈迦は、「精進(しょうじん)」
という言葉を使って説明した。
●生命の伝達
そこで生きている人間の最後の使命はといえば、
「生命の伝達」ということになる。
「意識の伝達」と言い換えてもよい。
再び映画『スタートレック』の話に戻る。
もし肉体の転送だけだったら、別の肉体をもう一個、
作っただけということになる。
あなたのコピー人間を作っただけということになる。
そこで当然、意識の伝達が、重要な要素となる。
そうでないと、転送先で、それぞれが、何をしてよいか
わからず、混乱することになる。
本人も、どうして転送されたのかも、わからなくなって
しまうだろう。
与えられた使命すら、忘れてしまうかもしれない。
あなたに接する、相手も困るだろう。
(映画『スタートレック』の中では、この問題は
解決されているように見える。
しかしどういう方法で意識の連続性を保っているのか?
たいへん興味がある。)
そこで私たちは、生きると同時に、つねに意識の
伝達に心がけなければならない。
その意識の伝達があってはじめて、私たちは、
生命を、つぎの世代に伝えることができることになる。
●意識の消滅
個人の意識が途切れることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたのほんの一部でしかない。
あなたの数10万分の1、あるいはそれ以下かも
しれない。
そんな意識が途切れることを恐れる必要はない。
●意識の伝達
それよりもすばらしいことは、あなたの生命が、
日々に、ほかの生物へと伝わっていること。
あなたの子どもに、でもよい。
ほかの生物が、日々にあなたを作りあげていくこと。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいること。
つまりあなた自身も、無数の意識の連続性の中で
今を生き、そして無数の連続性を、かぎりなく
他人に与えながら、今を生きている。
●肉体の死
死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
また別の命を構成していく。
●意識の死
肉体は、1年程度で、すべて入れ替わる。
ただ同じように、意識も、そのつど入れ替わる。
このことは、1年とか、2年前、さらには10年前に書いた自分の文章を
読んでみればわかる。
ときに「1年前には、こんなことを書いていたのか?」と驚くことがある。
あるいは自分の書いた文章であることはわかるが、まるで他人が書いた文章の
ように感ずることもある。
さらに最近に至っては、まるでザルで水をすくうように、知識や知恵が、
脳みその中から、ざらざらとこぼれ落ちていくのがわかる。
それを知るたびに、ぞっとすることもある。
若い人たちには理解できないことかもしれないが、現在、あなたがもっている
知識や知恵にしても、しばらく使わないでいると、どんどんと消えてなくなって
いく。
ついでに、意識も、それに並行して、どんどんと変化していく。
何も、肉体の死だけが死ではない。
意識、つまり精神ですら、つねに生まれ、そしてつねに死んでいる。
●死とは
もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の連続性の(途切れ)をいう。
しかし心配無用。
あなたの意識は、(思想)として、残すことができる。
たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたと、同じ意識を共有する。
たとえそのとき、私という肉体はなくても、意識は
残り、あなたに伝えられる。
●重要なのは、意識の連続性
反対に、こうも考えられる。
仮に肉体は別々でも、そこに意識の連続性があれば、「私」ということに
なる。
では、その意識の連続性は、どうすれば可能なのか?
ひとつの方法としては、SF的な方法だが、他人の意識を、自分の脳の
中に注入するという方法がある。
もっと簡単な方法としては、どこかのカルト教団がしているように、たがいに洗脳
しあうという方法もある。
が、自分の肉体にさえこだわらなければ、今、こうして私が自分の意識を
文章にする方法だって、有効である。
この文章を読んだ人は、肉体的には別であっても、またほんの一部の意識かも
しれないが、そこで意識を共有することができる。
それが意識の連続性につながる。
つまりこうして「私」は、無数の人と、意識の連続性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
もちろんそうした人たちも、また別の人たちと連続性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
人間は、こうして有機的につながりながら、たがいの生命を共有する形で、
永遠に生きる。
つまり「死」などは、存在しない。
繰りかえすが、個体として肉体の「死」は、死ではない。
●時空を超えて
さらに言えば、私という肉体はそのとき、ないかもしれない。
しかし時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。
寿命があと1年と宣告されても、あわてる
必要はない。
生き方によっては、その1年を100年にする
こともできる。
(年数)という(数字)には、まったく意味がない。
●大切なこと
大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、その事実。
あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに
途切れる。
しかしその意識は、かならず、別のだれかに
伝えられる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、
生き返る。
それを繰り返す。
そこで大切なことは、本当に大切なことは、
よい意識を残すこと。
伝えること。
それが私たちが今、ここ生きている、最大の目的
ということになる。
●もう恐れない
さあ、もう死を恐れるのをやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。
人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく
暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見ては
いけない。
そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが生命。
●日々に死に、日々に生まれる
私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、その一部にすぎない。
何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
眠るだけ。
それだけで、すべてがすむ。
あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で
生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、この地球上に生命が
あるかぎり、永遠に生きる。
しかしそれとて何でもないこと。
なぜならあなたはすでに、毎日、日々の生活の
中で、それをしている。
繰りかえしている。
あとはその日まで、思う存分、生きること。
あなたという意識を、深めること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすく
するために……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 生命論 意識論 生命の連続性 090907)
(補記)
一気に書き上げた文章なので、随所に稚拙な部分、わかりにくい部分があるかもしれない。
今はこのままにし、しばらく時間をおいてから、推敲してみたい。
(文章の一部からでも、何かを感じとってもらえれば、うれしい。)
要するに私は、この原稿の中で、「死」を(肉体の死)と(意識の途切れ)に
分けて考えてみた。
肉体の死については、何も「死」だけが死ではない。
私たちは、毎日、死に、そして生まれ変わっている。
意識にしても、そうだ。
そこで重要なのは、(意識の途切れ)ということになる。
たしかに死によって、私たちの意識はそこで途切れるが、
だからといって、それで(意識)が死ぬわけではない。
現に今、あなたはこの文章を読んでいる。
読んだとたん、私の意識は、あなたの中に伝達されることになる。
あなたの中で生きることになる。
そして今度は、あなたは私の意識を土台に、さらに自分の意識を
発展させる。
こうして意識もまた、永遠に、生き残っていく。
そこで「死など、恐れる必要はない」と書いたが、それにはひとつの
重要な条件がある。
それは「今を、懸命に生きること」。
とことん懸命に生きること。
過去にしばられるのも、よくない。
明日に、今日すべきことを回すのも、よくない。
要するに、「死」に未練を残さないこと。
とことん燃やしつくして、悔いを明日に残さないこと。
あなたが今、健康であっても、またそうでなくても、だ。
それをしないでいると、死は、恐ろしく孤独なものになる。
人間は、基本的には、その孤独に単独で耐える力はない。
……と書きつつ、これは私の努力目標である。
いろいろ迷いや不安はあるが、とにかくその目標に
向かって進んでいくしかない。
Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司
●決別、5日目
++++++++++++++++
古里と決別して、今日で5日目。
この4日間、いろいろあった。
そのせいか、今日になって疲れが
どっと出てきた。
ショックだったのは、むしろ
仲がよかった、K氏(59歳)が、
悪性リンパ腫になっていたこと。
血液のがんである。
今年で闘病生活も3年になるという。
知らなかった。
昨日、はじめて知った。
驚いたというより、3年間も
知らなかった私に、驚いた。
「最近はすぐれた抗がん剤も開発
され、数値をみながらのんでいれば、
何でもありません」と、K氏は笑っていた。
いっしょに笑いたかったが、私は
笑えなかった。
+++++++++++++++
●「私は健康だ」
「私は健康だ」と言うときには、そこにある種の優越感がともなう。
自分にはその気がなくても、相手によっては、それがイヤミに聞こえる。
とくに重病で苦しんでいる人には、そうだろう。
だから「私は健康だ」などとは、あまり人に言わないほうがよい。
それはちょうど、「私は金持ちだ」と言うのに似ている(?)。
その日の生活費に困っている人が聞いたら、どれほど不愉快に思うことか。
……といっても、つまり健康といっても、今、そうであるというだけで、
明日のことはわからない。
加齢とともに、不可逆的に健康は衰えていく。
仮に優越感をもったとしても、それは一時的。
大切なことは、今ある健康を、かみしめながら生きていくこと。
あとはその状態を、できるだけ、長く保つこと。
●苦痛
古里の話を書こうと思っていたが、健康論になってしまった。
話をもどす。
古里と決別して、先にも書いたように今日で5日目になる。
何かが大きく変わったように感ずる。
が、それが何であるか、今のところ、まだよくわからない。
平和になったというか、気が抜けたというか……。
心の緊張感は解けた。
正直に告白するが、実兄が死んだときも、実母が死んだときも、
私はホッとした。
実兄や実母の死を喜んだわけではない。
そんな気持ちは、みじんもなかった。
ただそれまでの重圧感には、ものすごいものがあった。
臨終が近づくにつれて、その重圧感が、さらに倍加した。
その重圧感が、スーッと消えた。
実のところ、実兄も実母も、それぞれ施設に入居していたから、
私への負担は、ほとんどなかった。
精神的負担も、ほとんどなかった。
ときに、「介護が、こんなに楽でいいのか」と思ったことさえある。
私が感じた重圧感というのは、実姉からのものだった。
実姉は、そのつど、狂ったように、私のところに電話をかけてきた。
それが苦痛だった。
受話器を取るたびに、手が震えた。
今にして思えば、姉は姉で、張りつめた緊張感の中で、もがき苦しんで
いたのだろう。
それはよくわかる。
わかるが、私には、どうしようもなかった。
実姉は、不満や不安をそのまま、私にぶつけた。
私は私で、包容力を失っていた。
が、それも今となっては、昔話。
1日ごとに、どんどんとそれが過去へ過去へと、遠ざかっていく。
●疲れ
講演の疲れ。
旅の疲れ。
それが今日になって出てきた。
睡眠薬の世話になっているわけでもないが、このところ毎日、9~10時間
近く眠っている。
昼間も眠い。
そのつど、軽い昼寝をする。
寝心地は、よい。
どこにいても、気持ちよくうたた寝できる。
何よりも大きな変化は、悪夢から解放されたこと。
●今後のこと
今後のことは考えていない。
考えても、あま意味はない。
なるようにしか、ならない。
なり行きに任せる。
それしかない。
実家にまつわる問題は、すべて解決した。
「すべて」だ。
親戚づきあいも、今のところ、するつもりはない。
冠婚葬祭も、遠慮させてもらう。
その前に、だれも知らせてこないだろう。
そのかわりというわけでもないが、私の方のことも、だれにも伝えない。
「私が死んでも、親戚にはだれにも話すな」と、ワイフや息子たちには、
しっかりと伝えてある。
親戚など、今の私には、「クソ食らえ」(尾崎豊)、だ。
さみしい関係だが、仮面をかぶってつきあうのも、疲れた。
もうたくさん。
いや、それ以上に、私の人生も、刻一刻と短くなっていく。
そうそう、K氏の病名を聞いたとき、驚いたのには、
もうひとつの理由がある。
「そんな病気もあったのか!」と。
ひょっとしたら、病名の数のほうが、浜松市の人口(約80万)より
多いのではないか?
「病気から身を守る」といっても、どうやって守ればよいのか。
たとえて言うなら、浜松中の人たちが、みな悪党になったようなもの。
しかもみな、中身がちがう。
先日は、ほんの半時間ほどだが、視覚野の画像が乱れた。
半円形のチカチカした模様が、視野をじゃました。
あれはいったい、どういう病気によるものなのか?
言い換えると、私たちの健康は、細い糸でぶらさがっているようなもの。
その下では、無数の病気が、「おいで、おいで」と、手招きしている。
で、私はK氏にこう聞いた。
「どうして、その病気とわかったのですか?」と。
それについてK氏は、こう言った。
首の下のリンパ腺が腫れたこと。
胃の上に腫れ物ができたこと。
それで病院へ行ったら、悪性リンパ腫とわかった、と。
そして最後にこう話してくれた。
「おかしいと思ったら、検査だけは、どんどんと受けたほうがいいですよ」と。
しかし……。
おかしいと言っても、おかしなところだらけ。
一応、今のところ自分では健康とは思うが、中身はボロボロ。
何とかごまかしながら生きている。
だからやはり、検査は受けたくない。
受けても、しかたない。
20も30も、ゾロゾロと病名が出てきたら、どうするのか!
Hiroshi Hayashi++++++++Sep・09++++++++++はやし浩司
2009年9月8日火曜日
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