2009年9月14日月曜日

*Magazine Sep 14th 2009

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 14日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮面(ペルソナ)人間

++++++++++++++++++++

どこか、へん?
どこかちぐはぐ?
妙に、(できた人間)を演ずる。
穏やかな表情に、もの知り顔。
話し方も、ていねい。
しかしやはり、おかしい。
不自然。

+++++++++++++++++++++

●錯覚

 仮面をかぶりながら、それを仮面と気がつかないまま、その仮面を
取り外すことさえ忘れてしまう・・・。
このタイプの人を、「仮面(ペルソナ)人間」という。

 よくある例が、どこかのカルト教団の信者たち。
さも「私は、よくできた人間でございます」というような表情をしてみせる。
思想といっても、自分の思想など、どこにもない。
他人に注入された思想でもって、それを自分の思想と、錯覚する。

 何度も書くが、人格の完成というのは、日々の生活の中で鍛錬されてこそ、
はじめて身につく。
しかも10年とか、20年とか、長い年月がかかる。
しかも絶え間ない精進こそが、重要。
前に進むのをやめたとたん、そのときから、人格は後退する。
それは健康論と似ている。
日々の運動のみが、その人を健康にする。
運動をやめたとたん、そのときから、健康は下降する。

そこらのオジチャンやオバチャンが、1年や2年程度、修行(?)したからと
いって、身につくようなものではない。

●ちぐはぐさ

 ペルソナ人間を見分ける方法は、簡単。
慣れてくると、直感でわかるようになる。
どこか、へん?
どこか、ちぐはぐ?

 (外に見せる様子=外見的自己)と、(実際にしていること=現実自己)が、
分離してくる。
一方で、ケチでケチで、どうしようもない人が、他方で、毎日読経をしているとか。
あるいは、自分では1冊も本を読んだこともないような人が、説話会などで、
釈迦の話をするとか、など。

 西洋でよく話題になる仮面(ペルソナ)人間といえば、牧師がいる。
教会では神のような人間を演じながら、裏では児童虐待を繰り返すなど。
そういう点では、教職者もあぶない。
「先生、先生」と呼ばれているうちに、自分の本当の姿を見失ってしまう。

●シャドウ

 仮面(ペルソナ)人間のこわいところは、実は仮面ではない。
たいていは仮面をかぶりながら、善人を演ずるわけだが、その裏で心の
別室を作り、そこへ邪悪な自分を押し込んでしまう。
それがこわい。

 その程度がある限度を超えると、その人は多重人格性をおびてくる。
あるいは(邪悪な自分)が、たとえばそっくりそのまま子どもに移植されたり
する(ユングの「シャドウ論」)。

●ありのまま生きる

 こうした仮面をかぶるのは、しかたのないことかもしれない。
人は、だれしも、仕事上、仮面をかぶる。
私もかぶる。
あなたもかぶる。

 が、大切なことは、(1)それが仮面であると、しっかりと認識すること。
つぎに(2)日常生活のどこかで、その仮面をしっかりとはずすこと。
ありのままの自分に、もどること。
自分をさらけ出すこと。
その操作を繰り返すこと。

 (その人らしさ)とは何かといえば、(自然なふるまい)の中にある。
逆に言うと、その(自然ぽさ)が消えたとき、その人は仮面をかぶったまま、
自分を見失ってしまう。

 それに・・・仮面をかぶって生きるというのは、それだけでたいへんなこと。
エネルギーを消耗する。
疲れる。
実のところ私もそうだった。

とくに生徒や親たちを前にした、「教室」という場では、そうだった。
それもあって、30歳になるころまで、今でいう偏頭痛との闘いがつづいた。
だからある日から、それまでの仮面をかなぐり捨てた。
ありのままをさらけ出して生きるようにした。
とたん、気が楽になった。

 ・・・といっても、それができるようになるまでに、何年もかかったような
気がする。
だからこそよけいに、仮面(ペルソナ)人間が、よくわかる。
直感として、よくわかる。
で、そのたびに、こう思う。
「かわいそうだな」と。

【仮面(ペルソナ)人間・診断法】

●つぎの質問項目のうち、いくつかが当てはまれば、あなたは仮面(ペルソナ)
人間とみてよい。

( )他人の目を意識すると、緊張し、無理をすることが多い(初期)
( )精神疲労を起こしやすく、不平、不満、愚痴が多い(初期)
( )他人の前で自分をさらけ出すことができない。苦手。(初期)
( )本当の自分と、外の世界での自分が別人のように感ずる。(中期)
( )ときどき自分が何を望み、何をしたいかが、わからなくなる。(中期)
( )他人に批判されることを好まず、とりつくろい、弁解が多い。(中期)
( )自分はよい人間に思われることに満足することがある。(後期)
( )他人に、したり顔で、説教したり、相談にのったりする。(後期)
( )話し方、表情が、(よくできた人)のように穏やかで、静か。(後期)

 かなり大ざっぱに書いたので、不正確かもしれないが、自分(私)を
知るためのひとつの手がかりにはなる。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW ペルソナ人間 仮面人間 はやし浩司 自己診断法)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●運命は受け入れる

++++++++++++++++++++

それが運命なら、受け入れる。
受け入れてしまえば、なんでもない。
が、それに逆らうと、運命というのは、
牙(きば)をむいて、
あなたに襲いかかってくる。

++++++++++++++++++++

●犬の糞(うんち)

 私は犬のハナ(ポインター種)を、庭で放し飼いにしている。
家に来た時から、ずっと、そうしている。
今年で13歳になるが、そのこともあって(?)、今でも元気。

 しつけらしいしつけは、何もしていない。
食事の前に、いちど、きちんとお座りをさせることはある。
ワイフが、そうさせている。
それ以外は、芸らしい芸もしない。
ただ人間の言葉は、かなり理解できるよう。
「散歩に行こうか?」と声をかけると、シッポを振る。
「水をかけてやろうか?」と声をかけると、そのまま小屋へ逃げ込んでしまう。

 そのハナだが、大便、小便は、そのつど庭のあちこちでする。
そのため便の始末が、私たちの日課になっている。
小便にしても、小便をしたところだけ、芝生が丸く枯れたりする。
そのため庭の芝生は、円形脱毛症のように、あちこちが枯れている。

 そういうハナだが、私たちにとっては、家族。
ハナのおかげで、安心して私たちは家を留守にすることができる。

 で、今日、ハナの便を始末しながら、ふとこんなことを考えた。
「もしこの便がハナのものでなく、近所の他人の飼っている犬のものだったら、
どうだろうか」と。
「私は平気でいられるだろうか」と。
犬でなくても、ときどきやってくる、どこかの猫のものでもよい。
たぶん私は、その糞を見るたびに、激怒するだろう。
犬や猫の飼い主がわかっていれば、その家に抗議に行くかもしれない。

●同じ糞でも・・・

 同じ犬の糞である。
ハナのものだったら、・・・というより、そのことでハナを叱ったことは一度もない。
始末するのは、たしかに面倒なことだが、それをいやだと思ったことはない。
ハナの糞は、一度集めて、肥料として再利用(?)している。

 これが「運命を受け入れる」ということになる。

 一方、他人の飼っている犬や猫だったら、どうだろうか。
それがたった一度でも、たぶん、許せないだろう。
便の始末をしながら、ブツブツと愚痴を言うかもしれない。

 このばあいは、「運命を受け入れていない」ということになる。
あまりよいたとえでないかもしれないが、(受け入れるか、受け入れないか)で、
同じ(犬の糞)に対する反応が、180度、ちがう。

●プラス反応vsマイナス反応

 運命を受け入れたときの心理的反応を、「プラス反応」という。
運命に逆らったときの心理的反応を、「マイナス反応」という。
プラス反応を示すときは、なにごとにつけ、ものの考え方が、前向きになる。
肯定的になり、積極的になる。
マイナス反応を示す時は、なにごとにつけ、ものの考え方が、後ろ向きになる。
否定的になり、消極的になる。

 私はこのことを、母の介護をしていて学んだ。

 同じころ、私の知人(女性、64歳)で、彼女の母の介護をしている人がいた。
それで知り合いになり、よく情報を交換した。
その女性を。Nさんとしておく。

 Nさんの口から出てくるのは、愚痴ばかり。
「家が臭くなった」「食べ物をみんな食べてしまった」「夜中じゅう、起きている」
「徘徊するようになった」「町内会の仕事ができなくなった」「コンロの火がつけっぱなし
だった」などなど。
私は聞き役に回ることが多かった。
へたに反論すると、Nさんは、それだけでパニック状態になってしまった。

 たとえば臭いがひどいということについて、「換気扇をつけたら?」と提案すると、
「私の家は、夫のものです。「壁に穴をあけるなんて、とんでもないことです」と。
火の消し忘れについても、「コンロを、過熱防止装置付きのものにしたら?」と
提案すると、「そんな高価なものはうちでは買えません」と。

 Nさんは、明らかにマイナス反応を示していた。
が、一度こうしたマイナス反応を示すようになると、すべてを否定的にとらえ、
悪いほうに、悪いほうにと、ものごとを考えるようになる。
取り越し苦労に、ヌカ喜び・・・これを繰り返しながら、やがては精神を病むこともある。

 事実、Nさんは、うつ病薬を心療内科で処方してもらい、それを服用していた。
「ときどき、車ごと、どこかにぶつかって死にたいと思うことがあります」というような
ことを言ったこともある。

●同じ運命でも・・・

 が、運命というのは、一度受け入れてしまうと、様子は一変する。
先に書いた、犬の糞の話を思い出してほしい。
それを当り前のこととしてしまうと、あるいはその意識すらもたないでいると、
何も考えないで、犬の糞を始末できるようになる。
そうでなければ、そうでない。

 たとえば親の介護にしても、「たいへんだ」「たいへんだ」と思って、する人もいる。
しかし「なんでもない」と思って、する人もいる。

 山荘の近くに住む、S氏(男性・66歳)もそうだ。
一度、私にこう言ったことがある。
「林さん、老人なんてものはね、家のそこらに、ころがしておけばいいのですよ」と。

 ずいぶんと乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが、S氏の人間的な温もりを知って
いる人は、そうは思わない。
「自由に、やりたいように、させておくのが、老人にとっては、いちばんいい」という
意味で、S氏は、そう言った。

 が、親の介護は、たいへん。
重労働。
それは事実。
このあたりでも、『親の介護を3年すれば、兄弟関係は、破壊される』と言う。
たとえ兄弟でも、(介護する人)と、(介護しない人)とに分かれると、大きな亀裂が
入ることをいう。
ある看護師の女性が、そう教えてくれた。

●運命

 それぞれの人には、それぞれ、無数の(糸)がからんでいる。
家族の糸、親類、知人の糸、過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸などなど。
その糸が、ときとして、その人の進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」と呼んでいる。

 が、その運命というのは、そのときは、わからない。
が、自分の人生を振り返ってみたとき、結果としてそこにあることがわかる。
どこかの頭のおかしい人たちが説く、スピリチュアル的な運命をいうのではない。

 だからそのときはそのときで、懸命に、あがく、もがく。
ときに苦しむ。
が、心のどこかで、その最中に、運命をふと感ずるときがある。
「ああ、これが私の人生だ」と。

 そのとき、それが戦うべきものあれば、戦う。
最後の最後まで、ふんばる。
人間の生きる意味や、美しさは、そこから生まれる。

 しかしそれがどうしようもないものであれば、受け入れる。
受け入れてしまう。
とたん、気が楽になる。
そこにあった運命が、向こうのほうから、シッポを巻いて、逃げていく。

 要するに「いやだ、いやだ」と思っていると、それはますます(いやなもの)になる。
が、反対に、「こういうもの」と割り切ってしまうと、(なんでもないもの)になる。
私も母の介護をしているとき、こう感じたことがある。
「息子たちの世話より、楽だ」と。
私のばあい、そこまで割り切ることができた。
私の家に2年間いたが、私もワイフも、ただの一度も、愚痴を言ったことはない。

●教訓

 で、介護の問題でなくても、私たちは日々に、生活を通して、(運命)を
感ずることがある。
夫婦の問題、親子の問題、子どもの問題、近隣の人たちとの問題などなど。
そういうとき大切なことは、その運命を、(プラス反応)に変えていくということ。

 たとえば今、私は山荘で、この原稿を書いている。
その途中の道が、長さ200~300メートルにわたって、夏草におおわれる
ようになった。
地主のKさん(今年80歳くらい)が、このところ元気がない。
いつもなら、毎年、数回、草を刈っている。

 で、もう少し太陽が高くなったら、草刈り機で私は草を刈るつもり。
誤解がないように書いておきたいが、私は草刈り機で草を刈るのが好き。
楽しい。
ドサッと生えた夏草を、草刈り機でバリバリと刈ることによる爽快感は、
なにごとにも、代えがたい。
運動にもなる。
それに私は、Kさんを尊敬している。
この山荘の土地を分けてくれたのも、そのKさんである。

 ただ変数がひとつ生まれた。
実は風邪気味で、昨夜は、自分の咳で、1~2時間ごとに目が覚めた。
そのためどこか熱っぽい。
体がふわふわする。
無事、草刈りができるかどうか、今のところ、自信はない。
が、予定では、つまり気持の上では、草刈りをすることになっている。

 これが(プラス反応)ということになる。
ひとつの例として、書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 運命 プラス反応 マイナス反応 はやし浩司 運命論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●バカげた珍報道(地震報道について)

++++++++++++++++++

昨日(8月11日)、午前5時7分、
静岡県地方を、大きな地震が襲った。
かなり大きな地震だった。
静岡市周辺で、震度6~。
床から出て、テレビにスイッチを入れると、
地震報道を繰り返していた。

「津波の心配があります。
海岸には近づかないでください」と。

それを何十回も繰り返していた。

しかしそのまったく同じとき、静岡県沖を、
台風9号が通過しつつあった。
静岡県にもっとも接近したのは、同じ日の
午前9時ごろ(気象庁)。
そのとき台風9号は、御前崎の真南、約100キロ
前後のところを通過しつつあった。

が、これからが、ジョークにもならない珍報道。

「津波の高さは、50センチが予想されます。
どうか海岸地域にいる人は、海岸に近づかない
でください」と。

このジョーク、わかるか?

そのとき海岸には、5~6メートルを超える、
高波が打ち寄せていた。
これは台風9号によるもの。
その海岸に、50センチの高さの津波が来るから、
「近づかないでください」は、ない。

言うとしたら、「台風による高波に警戒してください」だ。

世の中には、常識というものがある。
どこのバカが、5~6メートルもの高さの波が
打ち寄せている海岸に、近づくというのか。
(高波を見物に行く人もいないわけではないが……。)
その高波の中にあって、50センチの高さの
津波など、誤差の範囲。

スタジオで、伝えられた数字だけを見て報道
していると、こういう珍報道になる。
私とワイフは、それを聞いて、ゲラゲラと
笑った。

ついでにアメリカに住む二男夫婦に
そのことを知らせると、こんな返事が来た。

「ヒロシさん、あなたにはユーモアの
センスがあります」(二男の嫁)と。
(Denise Hayashi
Haha! A math quiz...it's good to see that you still have your sense of humor despite all of
this! The tidal wave is shorter; did I pass? :) Please tell Akiko and Shuichi that we send
our best to you all.)

私は何もジョークを書いたつもりはなかったのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

風邪

+++++++++++++++++++

 8日の夜からだから、もう4日目になる。
どうも風邪が抜けない。
昨夜は、肺の下のほうから咳が出た。
そのたびに痛かった。 
そこで大きな中国製の湿布薬を張った。
これが効いた。
三男がシンガポールで買ってきてくれたものだ。

朝までには、かなり楽になっていた。
あとは「柴胡桂枝湯(さいこけいしとう)」(漢方薬)
と、ビタミンCで治るはず。
今は、その柴胡桂枝湯の粉末を口の中でなめながら、
この文章を書いている。

+++++++++++++++++++

●慇懃無礼(いんぎんぶれい)

 「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という言葉がある。
漢字で書けと言われても、私には書けない。
「慇懃」は、「殷」と「勤」の下に、「心」がつく。
覚えるとしたら、そういう覚え方をする。
で、「殷勤」なら、「いんきん」と読める。

慇懃無礼というのは、バカていねいな対応をしながら、相手を煙に巻くという
方法である。
が、「無礼」は「無礼」。
それをされると、かえって不愉快になる。
ときにカチンと頭にくる。

が、敵もさるもの。
自分に非を向けさせないようにして、相手を不愉快にさせる。
それが目的で、わざと慇懃無礼な言い方をする。
そういう場面に出くわすことは、多い。

●ストーカー

 ストーカーというと、男女の間だけで起こる問題と考えている人は多い。
ゆがんだ恋愛感情がもつれて、人は、ストーカー行為を繰り返すようになる。
が、実際には、それに似たような行為となると、ほかにもある。

 もう10年になるだろうか。
そのつど電話をかけてきたり、ちょっとしたモノを送り届けてくる人がいた。
最初のうちは、そのつどていねいに返事を書いたり、電話をかけたりしていた。
が、どうも様子がおかしい。
それに気づいたのは、その人が、私が話したことを、あちこちで言いふらして
いるのを知ったときのことだった。

 つまりその人は、そういう形で、私の家にさぐりを入れていた。
理由はわからない。
競争心からか?
それとも嫉妬心からか?
何かにつけ、その人は、私の家の内情が気になるらしい。

 一度、夫婦喧嘩の話をした。
そのとき私が、「うちなんか、明日、離婚してもおかしくないですよ」と話したことがある。
たまたまワイフと言い争いをしていたときでもあった。
その人はさも同情したかのような様子をしてみせ、あれこれと相談にのってくれた。
が、驚いたのは、その数日後のこと。
別の人から心配して、電話がかかってきた。
そしていきなり、こう言った。
「林さん、離婚するって、本当ですか?」と。

●矛盾

 さらにそれを確信させるようなことがあった。

その人がたいへん嫌っている人がいた。
名前をX氏としておく。
いろいろあったらしい。
その嫌っている人について、こう言った。

「私ね、弟と2人で、先日、見舞いに行ってきました」と。

 これには驚いた。
ここにも書いたように、その人はX氏を嫌っていたはず。
そのX氏を見舞ったというのだ。
あれほど、悪口を言っていた人である。
で、私が「どうでしたか?」と聞くと、こう言った。

 「私が見たところ、それほど、長くはないわね。
すい臓がんだから、もって、あと半年ね」と。

 その人は、X氏を見舞ったのではなく、様子を見に行ったのだ。
が、そういうことを平気でできる人というのは、そうはいない。
かなり心がゆがんだ人でないと、できない。

●地震

 実は、昨日も、電話がかかってきた。
たまたま留守にしていて、留守番電話に伝言が残っていた。
「地震のことを心配しています。無事でしたか」と。
実に、慇懃無礼な言い方だった。
背筋に力を入れ、まるで位の高い女性が、下僕を見下ろすような言い方だった。

 ワイフはそれを聞きながら、「また、かかってきたわね」と。

言い忘れたが、その人というのは、女性。
年齢は6x歳くらい?
私はワイフにこう言った。

 「もうぼくらのことは、放っておいてほしい」と。

 言うなれば、これもストーカー行為ということになるのではないか。
事件になるような行為ではないが、相手に与える不快感は同じ。

私「本当に心配して、電話をかけてくるんじゃ、ないんだよ」
ワ「わかっているわ」
私「今度電話がかかってきたら、地震で屋根が壊れたとでも言ってやろうか」
ワ「よしなさいよ。まともな人じゃ、ないから」
私「そうだね。無視するのが一番」と。

●無視

 慇懃無礼な言い方をするため、こちらもそれに応じて、ていねいな(?)言い方を
しなければならない。
相手は、「私には悪意はありません」という立場を、一応保っている。
つまりとぼけている。
「うちの心配は無用ですから、どうかこれからは電話など、かけてこないでください」
と言いたいが、その寸前の、スレスレのところで、電話をかけてくる。
またそういう言い方をする。

 が、しつこい。

 実は、先ほども電話がかかってきた。
ナンバーディスプレイを見ると、その番号だった。
こちらが無視すれば、かえって相手は、ムキになる。
電話をかけてくる。
以前にも、そういうことがあった。

私「うるさいね、ホント!」
ワ「何が目的なのかしら?」
私「何かの下心があるのだろうが、ぼくにはわからない」
ワ「やはり、無視するしかないわね」
私「そうだね」と。

●結論
 
 こうした行為を繰り返す人というのは、現実検証能力というか、自分を
客観的に見ることができない人ということになる。
あるいは脳の一部に、別室を作り、そこへ邪悪な心を押し込んでしまう。
そして自分は、善人であると、思い込んでしまう。
「私は、本当に心配しているから、電話をかけたのだ」と。

 ストーカー行為を繰り返す人にしても、そうだ。
「私こそが、相手を本当に愛しているのだ」とか、「相手は私の愛を理解
できないだけ」とか、勝手にそう思い込んでしまう。

 相手の迷惑など、まったく考えない。
迷惑しているということさえ、理解できない。
自分勝手でわがまま。
自己中心的で独善的。
心がゆがんでいるのは、乳幼児期の不幸な体験が原因になっていることが
多い。
つまり「根」が深い。

 このタイプの人は、他人との良好な人間関係を築くことができない。
小さなカプセルの中に閉じこもったまま、自分だけの世界を肥大化させて
しまう。
ストーカー行為を繰り返す人にしても、同じように考えてよい。
精神的に未熟というか、幼稚。
IQ論によれば、(1)他者との良好な人間関係、(2)共鳴性、(3)より
自己中心的でないことが、人格の完成度をみる、バロメーターになっている。

 そのうちの共鳴性がなくなる・・・つまり相手の苦しみや悲しみが理解でき
なくなる。
はっきり言えば、人格の完成度は低い。

ワ「じゃあ、どうすればいいの?」
私「もう60歳を過ぎているしね。どうしようもないね」
ワ「どうしようもないわね」
私「要するに、触らぬ神に、たたりなし。適当に無視して、遠ざかるしかないね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW ストーカー ストーカー行為 人格の完成度 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司 

●TOSHIBAのダイナブック(TX)

++++++++++++++++++

昨日、TOSHIBAのダイナブック(TX)を買ってきた。
使い勝手は、たいへんよい。
国内メーカーのノートブックを買ったのは、5、6年ぶり。
その間に、この世界も、格段の進化を遂げていた。

++++++++++++++++++

で、その印象。

まず国内メーカーのパソコンは、値段が割高であるという誤解。
実際、今度買ってみて、こんなことに気がついた。

(1)サービスがよい。
(2)こまかいところにまで、配慮がゆき届いている。

 それまでは、ミニノートのパソコンを3台使っていたが、
正直言って、使い勝手がたいへん悪い。
とくに、M社(台湾)の、WNは、たいへん悪い。

 タッチパッドの感度がよすぎて、指が近付いただけで、勝手に
反応してしまう。
そのためワードを使って作業をしているようなときなど、文字が
あちこちに飛んだり、カーソルが勝手にどこかへ行って
しまったりする。

 メーカーに相談しても、打つ手なし。
販売店の店員に相談すると、「紙でも張って使ってください」と。
タッチパッドに紙を張れ?
実に中国の製品らしい?

 ダイナブックでも同じ現象が起きた。
そこで電話をすると、即座につながり、問題は解決した。
方法はこうだ。

(コントロールパネル・クラシック表示)→(マウス)→(拡張)→(拡張機能の設定)
→(ポインタ速度とタッピングの設定)→(タッピングの設定)→(キー入力時の
タッピングを無効にする)

 それ以後は、イライラもなく、こうして作業ができる。
サクサクと文字が打てる快感は、なにものにも代えがたい。
気持よい。

 ついでながら、ミニノートや、安いパソコンには、こうした調整機能はついていない。
だからこう思った。
「値段が高いだけのことはあるなア」と。

 見直したぞ、TOSHIBAさん。
すばらしいパソコンを作ってくれて、ありがとう!


●パソコン

 結論から先に言えば、持ち運び用ということでないなら、
パソコンは、大きければ大きいほど、よい。
キーピッチは、19ミリ。
これをフルサイズという。
それ以上あっても、しかたない。

が、画面(モニター)は、大きければ大きいほど、よい。
12インチより、14インチ、14インチより、16インチ・・・というように。
私は今、それを実感しつつある。

 あとは目的に応じて、スペクを考えればよい。
私のばあいは、こうして文章を書くのが目的だから、それほど高い性能でなくてもよい。
ハードディスクにしても、400GBもあれば、じゅうぶん。
ゲームはしないので、グラフィックボードは、必要ない、など。

 そうそう、キーボードは、自分で実際、叩いてみること。
指の感触が重要。
私のばあい、(ENTER・キー)の右に、ページUP、DOWNのキー、さらには
テン・キーがついているのは、買わない。
打ちミスがどうしても多くなる。
そのため、気になってしかたない。

ついでに言えば、日本語ワープロとして使うときは、ENTER・キーは、大きければ
大きいほど、よい。
そのほかのキーは、めったに使わない。

 あとは相性の問題。
それは男と女の関係に似ている。
たいへんよく似ている。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●熟年・離縁

++++++++++++++++

ワイフからこんな話を聞いた。
ワイフの友人(今年、60歳、女性)が、
父親の三周忌を機に、親族と離縁する
という。
称して、「熟年離婚」ならぬ、「熟年・離縁」。

++++++++++++++++

●Yさんのケース

 ことの発端は、やはり父親の介護。
いろいろあったらしい。
その女性を、Yさんとしておく。
Yさんには、2人の兄と、1人の妹がいる。
父親の世話(?)をしていたのは、長男氏だったが、その長男氏は、毎月のように、
Yさんに、介護費用を請求してきたという。
(あとの兄弟たちにも、同じように請求していたらしい。)

 Yさんの夫は、外車販売を手掛けている。
日々に扱う金額も多い。
他人には、リッチに見える。

 Yさんは、こう言った。

「兄弟たちは、みな、私のお金をアテにしていました。
兄には、毎年、数10万円程度を渡していました。
が、それでも足りないというのです。
で、あるとき、何度も自問してみました。
『私が困ったとき、兄弟たちは助けてくれるか』とです。
が、兄弟たちはみな、口がうまいだけ。
そのつど『何も助けてくれない』と、確信しました。

 が、それでも・・・と思って、つまり自分がまちがっているのではないかと
思い、兄弟たちを観察してみました。
が、結論は、やはり同じでした。

 で、父は2年前に死に、50坪足らずの土地と、古い家を残しました。
それについて兄(長男)が、『親のめんどうをみたのは私だ』といって、
すべて自分のものにしてしまいました。

 夫の扱っている金額からすれば、車1~2台分のささいな遺産です。
それをほかの兄弟たちと、喧嘩もんかで、取り合っている・・・。
あさましいというか、情けないというか・・・。

 さらに父の死後も、兄は、私の夫に借金を申し込んできました。
私たちの財産を、まだアテにしているのですね。
それで覚悟を決めました。
三周忌を機に、兄弟たちとは、縁を切る、と。
ついでに親戚づきあいも、やめる、と。

●身辺の整理

 『遠くの親類より、近くの友』という。
それはそのとおりで、兄弟、姉妹の縁というのも、時の流れの中で、薄れていく。
子どもの世界でも、弟や妹に、はげしい憎悪の念をもっている兄や姉は多い。
「兄弟だから仲がいいはず」と考えるのは、幻想以外のなにものでもない。
みんなそのフリをしているだけ。
(もちろん仲がよい兄弟、姉妹も、多いが・・・。)

 私のばあいも、親戚づきあいをしながら、「ここまでしなければならないのか?」と
思うことがたびたび、あった。
人づきあいは大切だが、自分の主義主張、さらには哲学を捻じ曲げてまでつきあう
必要はない。
そういうことをするのも、疲れた。
「時間の無駄」と思うようになった。

 たとえば近く、実兄と実母の一周忌の法要をする。
私自身は、内々で、質素にすませたいと願っている。
が、前回の四九日法要のときもそうだったが、たがいに連絡を取り合い、
結構派手なものになってしまった。
またそういうことをすれば、この(私)が喜ぶとでも思っているのかも
しれない。

 しかし私には、意味がない。
だからといって、死者を軽んじているわけではないが、カルトもよいところ。
あるいはこれをカルト(迷信と言ってもよいが)と言わずして、なんという。

 あえて擁護するなら、「家」制度のあった江戸時代には、それなりの意味が
あったのかもしれない。
親類が「家」を中心の結束し、自分の社会的立場を、固定した。
そのために、一周忌があり、三周忌があった。
あるいはそれをうまく、利用した。
だから私が子どものころには、こうした法要は、どこかの料亭を借りて、
派手にやるのが、ひとつの習わしになっていた。

 しかし今は、時代が変わった。
冠婚葬祭という(儀式)に、疑問を感ずる人が、より多くなった。
またその流れは加速しつつある。

●再び、Yさん

 私はYさんの生きざまに、興味をもった。
私と同じ年齢ということもある。

私「そういうのを熟年・離縁というよ」
ワ「だれが言い出したの?」
私「このぼくだよ」
ワ「フ~~ン?」

私「Yさんの兄は、黙っていないだろうね」
ワ「それも覚悟の上みたいよ。
介護費用を負担していたという話にしても、Yさんの兄は、だれにも
話していなかったみたい」
私「それはずるいね」
ワ「でしょ。だから縁を切ると決めたらしいわ」と。

 熟年離婚もこわいが、熟年・離縁もこわい。
兄弟、姉妹といっても、基本的には、人間と人間のつきあい。
壊れるときには、壊れる。
幻想にしがみつくのは、よくない。
幻想にしばられるのは、もっとよくない。
だから結論は、こうなる。

『遠くの親類より、近くの友』と。

 そうそうYさんは、こういう言葉を使ったという。
「腐れ縁」と。
「腐れ縁ですから」と。
兄弟、姉妹、親戚づきあいも、その仕方によっては、「腐れ縁」になるということらしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 熟年離縁 熟年・離縁 熟年離婚 兄弟の縁 姉妹の縁 縁を切
る はやし浩司 腐れ縁)

(補記)

 このYさんの話には、つづきがある。

 最近、Yさんの長男氏からYさんに、電話がかかってきたという。
(Yさんは、この浜松市に住んでいる。
長男氏は、富山市の郊外の町に住んでいる。)

 「私が怒っているのを百も承知の上で、『元気か?』といって電話をかけてくるのね。
兄の(とぼけ)には、もううんざりです」と。

 この話を聞いて、私は私の兄のことを思い出していた。
私の兄も、とぼけがうまかった。
兄は、グループホームへ入る前、3か月間、私の家にいた。
その兄は、ワイフがひとりで風呂に入っていたりすると、風呂のドアをあけて、いつも
こう言った。
「トイレは、こっちやったかなも(=こちらでしたか)」と。

 認知症にもなっていたが、あちらのほうだけは、達者だった。
私がそれを叱ると、「まちがえただけや」と、いつも弁解していた。
今となってみると、それも笑い話のひとつになっているが・・・。

 そこに不幸な家庭があるなら、そっとしておいてやろう。
あれこれ詮索したり、内情をさぐるような、醜い行為はやめよう。
もちろん相手が助けを求めてきたら、そのときは、ていねいに応えてやればよい。

 それぞれの人は、それぞれの立場で、懸命にがんばっている。
その(懸命さ)を、少しでも感じたら、そっとしておいてやろう。
不必要な介入をしたり、説教したりするのは、もってのほか。
あなたがどんな立場にあっても、それはしてはいけない。
それはこの世を生きている人間が守るべき、最低限のマナーと考えてよい。


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