2009年9月27日日曜日

*Mind Energy

●エネルギー

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大学時代の友人のこと。
数か月前、その友人が、
交通事故訴訟で、やっと結審を迎えた。
長い裁判だった。
4~5年もかかった。
本来なら、もっと早く片づくべき裁判
だった。
が、保険会社がごねた。

この不況下ということもある。
保険会社は、支払い保険金をできるだけ安く
すませようする(?)。
そこで結果的には、裁判は、東京高裁にまで
もちこまれた。

しかし裁判をつづけるにも、それなりの
エネルギーがいる。
長くて、苦しい闘いがつづく。
いくら「勝つ」とわかっている裁判でも、
「裁判をする」ということ自体、不愉快。
裁判所へ足を運ぶということだけでも、
たいへん。
気が滅入る。
膨大なエネルギーを消耗する。
その日が来るたびに、重苦しい気分に
包まれる。

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●不正の追及

 正義を貫くには、それほどの努力はいらない。
それなりに自分を守れば、それですむ。
たいへんはたいへんだが、しかし悪の追及と比べたら、何でもない。
とくに力関係に差があるときは、そうである。

 たとえば(個人)と(組織)。
個人が、組織の悪と対峙したようなばあいを考えてみよう。
個人のもつ財力、人脈には限界がある。
一方、組織には、財力も人脈もある。
冒頭に書いた友人の交通事故裁判にしても、そうだ。

 訴えるのは、個人。
相手は巨大組織。

 地裁という下級審においても、3~4年の歳月を要した。
裁判をつづけながら、友人は、その一方で、週に3~4回、病院へ通わねばならなかった。
「首の骨のズレは、交通事故によるものではない。老化によるもの」というのが、保険会社の言い分だった。
ほかにもいろいろある。
いろいろあって、そのつど難ぐせをつけ、保険会社は、保険金の支払いをしぶった。

 保険会社という大企業にとっては、裁判といっても、事務手続きのひとつにすぎない。
しかし被害者である個人にとっては、そうではない。
そうでないことは、裁判を経験したことがある人なら、みな、知っている。
裁判でなくても、家庭裁判所の調停でもよい。
あのイヤ~ナ気分には、独特のものがある。

●トラブル

 それがどんなトラブルであるにせよ、人は、できるだけトラブルに巻き込まれるのを避けようとする。
わずらわしい。
本当に、わずらわしい。
いわんや、裁判をや!

 私も、20年近く前、貸金の返還請求というのをしたことがある。
たいした額ではなかったが、相手の男の不誠実な態度が許せなかった。
それで最終的には、民事調停ということになったが、あのとき感じた、イヤ~ナ気分は、今でも忘れない。

 それを知っているから、友人も、さぞかし不愉快な思いをしたにちがいない。
その友人は、こう言っている。

「林君、保険に入るとしても、民間の保険会社とは契約してはいけないよ。
公的な機関の保険に加入したほうがいいよ」と。

 私も、それまでに、30年近く民間の生命保険会社と契約を結んでいたが、10年ほど前、解約した。
一度、何かのことで保険金を請求しようと電話を入れたら、窓口の女子店員に、門残払いをされてしまった。
私の話すら、じゅうぶんに聞いてくれなかった。
「病気になり、後遺障害が残ったら、保険金の支払いの対象になるとあるではないか」と迫ったが、だめだった。
相手にされなかった。

 不信感がつのり、そのまま解約。

 それにしても、裁判だけで、4~5年。
最後は、東京高裁!
こんなバカげた保険会社が、どこにある!

 そうそう友人は、こうも言った。

「あいつら、とにかく保険金を払わない。
だから『裁判で争おう』と、しっかりと言うことだ。
そうすれば、払ってくれる」と。


●本漆(ほんうるし)

 実家を処分したとき、古い家財が、ごっそりと出てきた。
その中でも、価値があると思われるのは、本漆(ほんうるし)の食器類。
たいはんは、近所の人たちに無料で分けてやった。
残ったのは、この浜松へ持ち帰った。
が、何と言っても量が多い。

 そこで毎晩のように、仲のよいいとこたちに電話をかけ、それを分けてやっている。
みんな、喜んでくれている。

で、昨夜、改めて箱を見たら、「大正11年」と書いてあった。
今から100年近くも前の漆器である。
「古いもの」とは思っていたが、そこまで古いとは、思っていなかった。

 ズシリと重い。
塗りが厚いので、深みがまるでちがう。
しかも本漆。
スポンジで洗っただけで、そのまま新品のような光沢を放つ。

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