●帰すう本能(The Last Home)
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晩期の高齢者たちは、ほとんど例外なく、
「~~へ帰りたい」と、よく言う。
母もそうだったし、兄もそうだった。
母は、自分が生まれ育った、K村の実家に、
兄は、やはり自分が生まれ育った、M町の実家に。
私の30年来の友人も、昨年(08年)に亡くなったが、
その友人は、九州の実家に帰りたいと、いつも言っていた。
こうした現象から、みな、人は死が近づくと、自分の
生まれ育った実家に帰りたがるようになると考えてよい。
それをそのまま「帰すう本能」と断言してよいかどうかは、
私にもわからない。
というのも、記憶と言うのは、加齢とともに、新しく
記銘された分から、先に消えていく。
古い記憶ほど、脳の奥深くに刻まれている。
そのため歳をとればとるほど、子ども時代、さらには
幼児期の記憶のみが残るようになる。
だから「帰る」となると、幼児期に育った世界へ、となる。
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●私の場合は、どうか?
私もあと10~15年もすると、そうした老人の仲間入りをする。
うまく特別養護老人ホームに入居できればよし。
そうでなければ、独居老人となり、毎日悶々とした孤独感と闘いながら、暗い日々を送ることになる。
そのときのこと。
私は、どこへ帰りたいと言うだろうか?
理屈どおりに考えれば、私は、生まれ育ったM町の実家に帰りたいと言い出すにちがいない。
M町の記憶しか残らなければ、そうなる。
が、私は子どものころから、あのM町が、嫌いだった。
今でも、嫌い。
そんな私でも、その年齢になったら、「M町に戻りたい」と言いだすようになるのだろうか。
●放浪者
私は基本的には、放浪者。
ずっと放浪生活をつづけてきた。
夢の中に出てくる私は、いつも、行くあてもなく、あちこちをさまよい歩いている。
電車に乗って家に帰るといっても、今、住んでいるこの浜松市ではない。
この家でもない。
もちろん実家のあるM町でもない。
ときどき「これが私の家」と思って帰ってくる家にしても、今のこの家ではない。
どういうわけか、大きな、ときには、大豪邸のような家である。
庭も広い。
何百坪もあるような家。
見たこともない家なのに、どういうわけか、「私の家」という親近感を覚える。
が、たいていそのまま、目が覚める。
が、その家は、いつもちがう。
つぎにまた見るときは、今度は別の家が、夢の中に出てきたりする。
つまり私は基本的には、放浪者。
●M町の実家
ここ5、6年は、ときどき、M町の実家が夢の中に出てくることが多くなった。
表の店のほうから中へ入ると、そこに母がいたり、兄がいたりする。
祖父や、祖母がいたりすることもある。
先日は、家に入ると、親戚中の人たちが集まっていた。
みんな、ニコニコと笑っていた。
もちろんいちばん喜んでくれるのが、私の母で、「ただいま!」と声をかけると、うれしそうに笑う。
兄も笑う。
が、私は、実家ではいつも客人。
私の実家なのだが、実家意識は、ほとんど、ない。
●徘徊老人
こう考えていくと、私はどうなるのか、その見当がつかない。
認知症になり、特別養護老人センターに入居したとする。
そんなとき、私は、どこへ帰りたいと言うだろうか。
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたは、まちがいなく、徘徊老人になるわよ」と。
つまりあてもなく、あちこちをトボトボと歩き回る老人になる、と。
しかしこの意見には、異論がある。
先にあげた友人にしても、九州出身だったが、いつも浜松市内を徘徊していた。
距離が遠いから、まさか九州まで歩いて帰るということはなかった。
しかし気持の上では、九州まで歩いて帰るつもりではなかったか。
今にして思うと、友人のそのときの気持ちが、よく理解できる。
●さて、あなたはどうか?
さて、あなたはどうか?
そういう状況になったとき、あなたなら、どこへ帰りたいと言いだすだろうか。
たいていの人は、自分が生まれ育った実家ということになる。
確たる統計があるわけではないが、90%近くの人が、そうなるのではないか。
が、残り10%前後の人は、帰りたい場所もなく、浮浪者のように、そのあたりをさまよい歩く。
ところで徘徊する老人は多いが、そういう老人をつかまえて、「どこへ帰るの?」と聞くと、ほとんどが、「うちへ帰る」と答えるという。
たぶん、私も、「うちへ帰る」と答えるだろうが、その「うち(=家)」とは、どこのことを言うのだろうか。
帰りたい家があり、その家が、あなたをいつまでも暖かく迎えてくれるようなら、そんなすばらしいことはない。
しかし現実には、住む人の代もかわり、家そのものもないケースも多い。
こう考えただけでも、老後のさみしさというか、悲哀が、しみじみと心の中にしみ込んでくる。
「老人になることで、いいことは何もない」と、断言してもよい。
そういう時代が、私のばあいも、もうすぐそこまで来ている。
(付記)
最近、ワイフとよく話し合うのが、「終(つい)の棲家」。
で、結論は、終の棲家は、この家の庭の中に建てよう、である。
街の中のマンションも考えた。
病院やショッピングセンターに近いところも考えた。
しかし、私たちの終の棲家は、どうやらこのまま、この場所になりそう。
今、別のところに移り住んでも、私たちは、そこには、もうなじめないと思う。
頭の働きが鈍くなってきたら、きっと、今のこの家に帰りたいと、だだをこねるように
なるだろう。
だったら、終の棲家は、ここにするしかない。
・・・というのが、今の私たちの結論になりつつある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 終の棲家 帰すう本能 帰趨本能 徘徊 徘徊老人)
2009年9月24日木曜日
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