特集【介護と子どもの意識】
●介護と子どもの意識
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介護問題に隠れて、表に出てこないが、
その裏には、子どもたちの意識の変化
がある。
現在、ほとんどの子どもたちは、「経済的に
余裕があれば、親のめんどうをみる」と
考えている(日本)。
しかし経済的に余裕のある人は、いない。
みな、それぞれが精いっぱいの生活を
している。
つまりこの調査結果を裏から読むと、
「めんどうはみない」となる。
が、ことはさらに深刻である。
(めんどう)どころか、(老人への虐待)が、
深刻化している。
10年ほど前に書いた原稿をさがしてみる。
(10年前ですら、そうだったということを
わかってほしいから。)
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●ジジ・ババ受難の時代
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年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。
これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。
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私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババへの風当たりが強くなってきている。
若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののしる表現が、最近、目につくようになってきた。ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOGには、こんな書きこみすらあった。
「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。おかげで、こちらは2週間も入院。そのジジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。あんなジジイに、何度も見舞いに来られて、うるさくてしかたねえ。こっちは、迷惑している」と。
その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。
つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。そんな感じがする。老人医療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。加えて、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。若者たちは、程度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。
これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。「現在の日本の繁栄を築きあげたのは、私たちの世代だ」と。
しかしこれは、ウソ。団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。
たしかに結果的には、そうなった。つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝手な論理にすぎない。私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきただろうか。私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。結果として日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。
そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。
しかしこれは深刻な問題でもある。
これから先、高齢者はもっとふえる。やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上になるとも言われている。そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろうか。そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。
ジジ・ババは、ゴミ。
ジジ・ババは、臭い。
ジジ・ババは、ムダな人間、と。
そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、たいへん住みにくい国ということになる。そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるようになるかもしれない。
では、どうすればよいのか。
……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということになる。が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。親たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言っているうちに、そうなる。
中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。反対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いになる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみればよい。
「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。「親の恩も遺産次第」と考えている若者は、もっと多い。たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答えている。つまり「余裕がなければ、みない」※と。数年置きに、総理府が調査しているので、そのうち、これについての全国的な調査結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。
私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。そこでは、30~40人の老人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をしている。見た目には、のどかで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからない。
すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。補助金を削減し始めている。10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。単純に計算しても、今は30~40人だが、それが90~120人になる。
そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。またどのように考えるだろうか。
老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。ケア・センターでは、老人たちが、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。ああいうのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。
高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。そういう人たちが、手をたたいて、カラオケで童謡を歌っている! つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。また、そうであっては、いけない。
わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。社会とかかわりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。そういうかかわりあいというか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それなりにの(人間)として認められるようになる。
「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄できたか、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていはいけない。
私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に! 姿勢を低くして、若者や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。その努力を今から、怠ってはいけない。
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古い原稿を再掲載します。
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●本末転倒の世界
「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。
そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者がふえている。
97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめんどうを、あなたはみるか」と。
それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%! この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者たちの、80~90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化は、ますます進行している。
一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均27万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。
だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている! 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。
もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何をいまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。
大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランドだけで、大学を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新聞の投書)。
こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。
私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけでも、月に4万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。
(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約26・6万円。毎月の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万円。99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)
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つづいて03年(7年前)に書いた
原稿を添付します。
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●高齢者への虐待
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やはり高齢者への虐待が
ふえているという。
これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。
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医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11月~04年1月期)。
わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があったということになる。
この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。
虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。夫が虐待するケースもある(12%)。
息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。
これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということになる。
で、その虐待にも、いろいろある。
(1) 殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2) ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3) 食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4) 財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。
何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。こうした虐待は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。最近の若者のうち、「将来親のめんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理府、内閣府の調査)。
しかし考えてみれば、おかしなことではないか。今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っている世代はいない。飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。本来なら、親に感謝して、何らおかしくない世代である。
が、どこかでその歯車が、狂う。狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。
私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。
話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こんなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。
しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。言葉の虐待である。
親は、子どものためと思ってそう言う。(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言うのだが……。)子どもの側で考えてみれば、それがわかる。
子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場ではない。心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。これはもう、立派な虐待と考えてよい。
しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだいている。それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。子どもの心は、その受験期をさかいに、急速に親から離れていく。しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。
その結果だが……。
あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。あなたの周辺には、心の暖かい人もいれば、そうでない人もいる。概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、今、心の暖かい人であることを、あなたは知るはず。
一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。
私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、連続して教えたことがある。そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期にまたがって、大きく変化するのを、まさに肌で感じることができた。
この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライで、合理的になる。はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え方を、平気でするようになる。
こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えない。つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。
さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろうか。……言うことができるだろうか。あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目で、あなたの子育てをみてみてほしい。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)
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少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。
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●抑圧は悪魔を生む
イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。
心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子どもの心にあてはまる諺はない。きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。
その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつうの子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。
何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。
神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり出して、それをさせていた。
神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事件は、現場ではいくらでもある。
その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったというのだ。
この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。
親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、いわゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。
そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干渉が原因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。
一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られている。合理的で打算的になる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいということを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れてはならない。
【追記】
受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。それは事実だが、破壊された子ども、あるいはそのままおとなになった(おとな)が、それに気づくことは、まず、ない。
この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。
が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。本当の問題は、「では、なぜ、親たちは、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。
なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。
日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。学歴のある人は、とことん得をし、そうでない人は、とことん損をした。こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通して、いやというほど、思い知らされている。だから親たちは、こう言う。
「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。
つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。
しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。意識を変え、制度を変え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。
決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。おかしいことは、「おかしい」と言う。そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。
少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。しかしこれだけは言える。
あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、遅いということ。そのとき、気づいたのでは、遅いということ。今ここで、心豊かな親子関係とは、どんな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよう。
Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司
●受験競争の弊害
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受験競争の弊害をあげたら、キリがない。
問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。
そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。
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精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、他人の心情でものを考えられるかということ。つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調和性などによって決まる。
言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。
そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それだけ精神の完成度が、低いということになる。さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることにより、その人の精神の完成度を知ることができる。
子どもも、同じに考えてよい。
子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。しかしこれは遺伝子と、発育環境の問題。
それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。が、ここでいくつかの問題にぶつかる。
一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでしまう要因があること。
二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の自覚がないこと。
内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。この受験競争は、どこまでも個人的なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。子どもにかぎらず、利己的であればあるほど、当然、「利他」から離れる。そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。ばあいによっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。
……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そういう側面がある。ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をする子どももいるのはいる。しかしそういう子どもは、例外。
(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化しているだけ。
その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高邁な人たちかというと、それは疑わしい。疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)
実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。
(1) 利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2) 打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3) 功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4) 独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5) 追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6) 見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7) 人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)
こうして弊害をあげたら、キリがない。
が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこまれている。それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができない。
もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的。迎合的。
そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。
一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか心が冷たい。いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会では、生きていかれない?
これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。しかしこうした印象をもつのは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。
子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。避けてはとおれないこと。それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな違いが出てくる。
一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほしい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ある母親からの相談(2010年1月7日)
たまたま今朝、こんな相談が届いていた。
埼玉県K市に住んでいる、MSさんという方からの
相談である。
一部を変えて、そのまま紹介させてもらう。
【MSさんからはやし浩司へ】
はじめまして。
毎日先生のブログを読んでいる者です。私の子供はもう19才と17才になり、子育てという年齢ではなくなっていますが、それでも、何かと心に思うことがあり、子育てのブログを読ませていただいております。
今回、長女の成人式の問題と次女の大学受験のことで、私の気持ちがいっぱいになってしまい、自分を見失ってしまいそうなので、ご相談しました。
先ず、長女の成人式ですが、着物は娘の好みに合わせレンタルしました。今時のレンタルは早めの申し込みで、記念写真の撮影は昨年3月に済ませており、夫と私の親にはすでにアルバムを渡しております。この写真撮影の時、着物を着て帰りましたので、双方の祖父母宅に寄り、振袖姿を披露しました。
ですが、もうすぐ成人式というのに、長女は成人式には出ないと言い出しました。その時の私のショックは言葉に出来ません。長女は大学2年で、学費で精一杯の家計ですが、せっかくの成人式なので好きな着物を選ばせ、トータル20万円もしました。今、思い起こせば、着物を選ぶ時も、写真撮影の時も、娘はずっと不機嫌でした。私は娘の様子を見ているだけで吐き気がするほど、気分が悪くなってしまいました。
これも、私がそう育ててしまったのだから・・・ しっかりものの長女のこと、何か出席したくないよっぽどの理由があるはず、もうすでに振袖姿は見たし、祖父母にも披露し、アルバムも撮影済み。何が問題なのか? 長女の成人式だもの、本人の好きにすればいい・・・ と自分に言い聞かせる毎日ですが、なかなか私の気持ちに折り合いが付きません。これも、許して忘れる・・・でいいのでしょうか?
加えて、次女の大学受験で彼女のストレスが私に向けられ、毎日眼が回りそうです。不安で不安で仕方ないようです。
私が高卒で、ずっと学歴にコンプレックスを持ち、子供には大学に行ってもらいたいと、小さい頃から学歴が大事と間違って育ててしまったのがいけないのでしょうね。
夫はいうと、我関せずとばかりに、遠巻きにしております。
こんなことで・・・と笑われてしまいそうですが、中学生の時に、長女、次女とも本当に大変な時期があり、頭の固い私が変わらざるを得ない事態となりました。それから、子育てに自身がなくなり、これは共依存なのか?、と思うようになりました。
何かにつけ、私のしていることに自信がないのです。
何か良いアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。
【はやし浩司よりMSさんへ】
まず先の「介護と子どもの意識」を読んでみてください。
今のあなたの考え方も、少しは変ると思います。
簡単に言えば、親の私たちは、子どもに対して(幻想)をもちやすいということ。
その幻想を信じ、その幻想にしがみつく。
「私たち親子だけは、だいじょうぶ」と。
しかし実際には、子どもたちの心は、親の私たちから、とっくの昔に離れてしまっているのですね。
親は子どもの将来を心配し、「何とか学歴だけは・・・」と思うかもしれない。
しかし当の本人たちにとっては、それが(ありがた迷惑)というわけです。
いまどき、親に感謝しながら大学へ通っている子どもなど、まずいないと考えてよいでしょう。
それよりも今、大切なのは、自分たちの老後の資金を切り崩さないこと。
あなたにかなりの余裕があれば、話は別ですが・・・。
お嬢さんたちもその年齢ですから、今度は、あなた自身の年齢を振り返ってみてください。
そこにあるのは、(老後)ですよ。
今は、まだ(下)ばかり見ているから、まだ気がついていないかもしれませんが、あと5~10年もすると、あなたも老人の仲間入りです。
では、どうするか。
つい先日、オーストラリアの友人が、メールでこう書いてきました。
「子どもたちには、やりすぎてはいけない。社会人になったら、お(現金)をぜったいに渡してはいけない」と。
同感です。
私もずいぶんとバカなことをしましたが、それで私の子どもたちが、私に感謝しているかというと、まったくそういう(念)はないです。
息子たちを責めているのではありません。
現在、ほとんどの青年、若者たちは、同じような意識をもっています。
だから私の結論は、こうです。
「よしなさい!」です。
娘の晴れ着など、娘が着たくないと言ったら、「あら、そう」ですまし、そんなバカげた儀式のために20万円も浪費しないこと。
親の見栄、メンツのために、20万円も浪費しないこと。
それよりもそのお金は、自分の老後のためにとっておきなさい。
子どもというのはおかしな存在で、そうしてめんどう(?)をみればみるほど、子どもの心は離れていきます。
それを当然と考えます。
20年ほど前になるでしょうか。
ある父親が事業に失敗し、高校3年生の娘に、「大学への進学をあきらめてくれ」と頼んだときのこと。
その娘は、父親にこう言ったそうです。
「借金でも何でもよいからして、責任を取れ!」と。
そこで私がその娘さんに直接話したところ、娘さんはこう言いました。
「今まで、さんざん勉強しろ、勉強しろと言っておきながら、今度は、あきらめろ、と。
私の親は、勝手すぎる」と。
率直に言えば、これは「共依存」の問題ではありません。
あなたはまだ「子離れ」できていない。
つまりは精神的に未熟。
それが問題です。
あなたは子離れし、自分は自分で、好きなことをしなさい。
自分で自分で、自分の人生を見つけるのです。
つまりあなたはあなたで前向きに生きていく・・・。
その点、あなたを(遠巻きにして)見ている、あなたの夫のほうが、正解かもしれません。
ずいぶんときびしいことを書きましたが、そのためにも、前段で書いた部分を、どうか読んでみてください。
私たち自身の老後をどうするか?
お金の使い方も、そこから考えます。
二女の方の学費にしても、子どものほうから頭をさげて頼みに来るまで、待ったらよいでしょう・・・といっても、今さら、手遅れかもしれませんが。
本人に勉強する気がないなら、放っておきなさい。
今のあなたには、それこそ重大な決意を要することかもしれませんが、そこまで割り切らないと、あなた自身が苦しむだけです。
どうせ大学へ入っても、勉強など、しませんよ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●介護問題と子どもの意識
介護保険は、すでにパン状態。
政府は税金をあげることだけを考えている。
しかしそれよりも重要なのは、子どもの・・・というよりは、日本人の意識を変えていくこと。
今のままでは、日本の介護制度は、その根底部分から崩れる。
「心」がない。
心がない介護制度など、またそれによってできる施設など、刑務所のようなもの。
「死の待合室」と表現した人もいる。
そんな施設に入れられて、だれがそれを「快適」と思うだろうか。
どうして日本人の心は、こうまで冷たくなってしまったのか?
脳のCPUの問題だから、冷たくなったことにすら、気づいていない。
みな、自分は、(ふつう)と思い込んでいる。
またそれが(あるべき本来の姿)と思い込んでいる。
このおかしさ。
この悲しさ。
ここに転載させてもらった、MSさんのケースは、けっして他人ごとではない。
私たち自身、あなた自身の問題と考えてよい。
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最後にもう一作。
ある母親の嘆きを、掲載します。
10年ほど前、中日新聞に掲載してもらった
原稿です。
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●親が子育てで行きづまるとき
●私の子育ては何だったの?
ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。
『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。
旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・五〇歳の女性)と。
●親のエゴに振り回される子どもたち
多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。もう少し深刻な例だと、こんなのがある。
これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。
「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。
●投書の母親へのアドバイス
冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。
●親の役目
親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)よき友としての親の三つの役目である。
この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。
が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 介護問題 子どもの意識 子離れ 子離れできない親 私の子育ては何だったの 私の人生は何だったの 私の子育ては、何だったの 親の悔悟 介護問題)
Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司
**************BW教室CM
はやし浩司***************
2010年1月7日木曜日
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