2010年1月20日水曜日

*Essays

●毅然とした授業

60歳を過ぎて、やっと、だ。
やっと毅然とした授業が
できるようになった。
年の功というのではない。
経験が豊かになったということでもない。

はっきり言えば、「どうでもよくなった」。
だから毅然とした授業ができるようになった。
それまでの私は、どこか、経営第一主義。
いつも親や生徒のご機嫌をうかがいながら、
授業をしていた。
それがどうしても、自分の教え方の中から抜けなかった。
親イコール、スポンサー。
生徒イコール、お客様。

しかし60歳を過ぎるころから、それが
どうでもよくなった。
「来たかったら、おいで」式の授業に変った。
「やめたければ、やめな」式の授業に変った。

親に媚(こび)を売ることも少なくなった。
なくなったわけではないが、少なくなった。
同時に親の視線を感ずることもなくなった。
「生徒がいなくなったら、おしまい」。
それでもよいと考えるようになった。

どうあがいたところで、こうした仕事ができるのも、
あと10年。
5年かもしれない。
だったら、もう他人に遠慮することはない。
私は私なりの教え方をすればよい。

もっとも仕事は仕事。
そこはギブ&テイクの世界。
生徒あっての教室。
普通人としての常識まで失ったわけではない。

が、同時に、こうも考えるようになった。
最近になって、学生時代の友人たちが、どんどんと
退職していく。
退職といっても、みな、本物の退職。
一度、リストラされたり、退職したあと、
第二、第三の就職先で働いていた。
そういう友人たちが、本当に退職していく。
つまりは、仕事から完全に離れていく。
年賀状にそう書いてきた人もいる。

そういう人たちが、それを喜んでいるのか、
それともさみしく思っているのか。
それは私にもわからない。
が、私のばあいは、年金といっても、国民年金だけ。
もらっても、月額、6万4000円前後。
しかも、もらえるとしても、まだ3年先。
隠居など、とても考えられない。

だからこう思う。
「1年でも長く働くことができたら、もうけもの」と。
つまり今年、満63歳になるから、私は、3年分、
もうけたことになる。
つまりそういう思いがあるから、「もう、いいや」
という気持ちも生まれてくる。
「仕事がなくなっても、いいや」
「3年、みなより長く働くことができただけでも
御の字」と。

が、だからといって、授業がいいかげんになった
というわけではない。
実際には、その逆。
1日、1日が、真剣勝負。
1日だって、いいかげんな授業はしたくない。
できない。
そのため、こうも考える。
「その価値がわからないような親の子どもは、教えない」と。
もっと言えば、「それでも生徒が去っていくというのなら、
それも結構」と。

こういうのを居直りというのか。

もちろんカラ元気ではいけない。
恐らく、家庭教育と呼ばれる世界で、私ほど
勉強した人間はいない。
経験も豊富。
少なくとも、「この人は、私よりすごい」と
思えるような人に、この10年以上、出会ったことがない。
が、これは私のうぬぼれか?

しかし何度心の中で反復しても、いつも結論は、同じ。
私は、うぬぼれてはいない。
だからこう思う。
「私の授業の価値がわからないような人は、いつでも
去ってもらって結構」と。

・・・ということで、この年齢になって、
はじめて毅然とした授業ができるようになった。
自分流の教え方を、押し通すことができるようになった。
やっとできるようになった。

で、今日も、こういうことがあった。

小学x年に、K君という男の子がいる。
最近、粗放な態度が目立ってきた。
反抗的というよりは、挑発的。
俗にいう、(ツッパリ症状)が出てきた。
すさんだ目つき。
ぞんざいな、ものの言い方・・・。

おとなを、なめきったような態度。
何かを指示しても、「ウッセーナー」
「ダマレヤー」と。
が、そのK君が、ルールを破った。
すかさず私は、3分の残り勉強を命じた。
「1回注意されたら、3分の残り勉強」と、
決めている。

が、みなが帰るとき、K君が、またまたルールを
破った。
私の指示を無視し、間を抜けて帰ろうとした。
私はK君をうしろから、抱きかかえるようにして、
つかまえた。
「君は、まだ帰れない」と。

するとK君は、またあの態度を、露骨に示した。
「帰らせろヤア、このバカヤロー」と。
私は、「60を3回、数えたら、放してやる」と、
それだけを繰り返した。
が、K君は、応じなかった。

ジリジリとした押し問答がつづいた。
「数えろ!」
「いやだ!」
「数えろ!」
「いやだ!」と。

と、そのときK君が、猛烈な勢いで、私の体を
蹴ってきた。
すかさず、私も、K君を抱いたまま、数倍の力で、
蹴り返した。
私という(おとな)の蹴りである。
衝撃は大きかった。
とたん、K君は、シュンとなった。
泣き声になった。
そして小さな声で、数を数え始めた。

このタイプの子どもには、一度は、おとなの
(こわさ)を示したほうがよい。
経営ということを考えるなら、そのまま
帰したほうがよい。
こういうトラブルがあると、子どもはたいてい、
塾をやめる。

もちろん体罰ということになるが、親が
それを騒ぐなら、さっさと私のところを
去ればよい。
それが塾である。
学校とは、ちがう。
学校は、去ることができない。

が、それ以上に、私は、そのときK君には、
体罰が必要と感じた。
そこは教師と生徒の関係ではない。
男と男、人間と人間の関係。
まともな指導をしていて、暴力を振るわれた、
必要なときは、やり返す。
だまって受け止めていたら、かえって
K君のためにならない。

つまりこうした指導ができるようになったのも、
「もう、いいや」という気持ちがあるからに
ほかならない。
「やめたければ、やめろ」と。

残された時間は、少ない。
だからもう妥協したくない。
私は私の教え方をする。
私は私の人生を生きる。
それで生徒がいなくなったら・・・。
そのときは、そのとき。
私も、本物の退職をする。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●1月19日

+++++++++++++++++

今日は火曜日。
とくに意味があるわけではない。
予定もない。
しかし今日は、忙しかった。
いくつか、心にひかかる仕事が残っていた。
それを一気に、片づけた。

そのため朝、4時に起きた。
(朝の4時だぞ!)

で、それを終えたのが、8時ごろ。
そのころワイフが床から起きてきた。
書斎へお茶を届けてくれた。
おかげで仕事は、すべて片づいた。
すっきりした。

++++++++++++++++

●ある養子縁組の悲劇

 昨日、こんな相談があった。
少し話がわかりにくい。
こういうこと。

 Aさん夫妻には、子どもがいなかった。
その地域では、昔からの土地持ちで、かなりの資産家だった。
そこでAさん夫婦は、両もらいの形で、養子縁組をした。
その地域では、「一組(いっそ)養子」という。
(以下、「養子夫婦」と書く。)

 夫になった男性は、妻の遠い親戚にあたる人だった。
妻になった女性は、夫の遠い親戚にあたる人だった。
しばらくは、うまくいった。
が、2、3年もすると、たがいの間に不協和音が流れはじめ、10年もしないうちに、養子夫婦は、家を出てしまった。
以来、10年以上、別居状態がつづいている。
行き来はない。

 で、最近(2年ほど前)、Aさんの妻がなくなってしまった。
Aさんも、体調を崩し、現在は、有料の老人ホームと自宅を、行ったり来たりしている。
本来なら、養子縁組で入った夫婦が、(子)として、Aさんの世話をしなければならない。
が、その夫婦は、知らぬ顔。
そこでAさんが、キレた。
「養子縁組を解消する!」と。

●孫まで・・・

Aさんには、2人の弟と妹がいた。
その2人が、Aさんを支持した。
支持したというより、「自分たちは、家を出るとき、遺産相続をしてもらっていない」「養子夫婦に遺産を相続するな」と、騒ぎ出した。
その2人の弟と妹には、それぞれ、3人と1人の子どもがいた。
これらの孫まで、その騒動に参加してきた。
「おやじの取り分をよこせ」
「おふくろの取り分をよこせ」と。

 が、一度組んだ養子縁組は、簡単には、解消できない。
法律的にも、むずかしい。
また養子夫婦にしても、Aさんが死ねば、莫大な資産が、自分たちのものになる。
おいそれと養子縁組に解消に、応ずるわけにはいかない。
そこで相談があった。
「どうすればいいか?」と。

●修羅場

 そこはまさに泥沼の世界。
修羅場。
この種の話は、こじれると、とことんこじれる。
Aさんの弟や妹にしても、Aさんの味方というわけではない。
ここにも書いたように、「遺産分けしてもらっていないから、遺産分けしろ」と、Aさんに迫っている。
Aさんとしてはそうしたいが、しかしその前に、養子縁組を解消しなければならない。
が、その気力もない。
元気もない。
このままでは、莫大な資産は、そのまま養子夫婦のものとなる。
少しずつ土地を売却して、弟と妹に贈与するという方法もあるが、弟や妹は、それでは満足しない。

 さあ、どうするか?

●バラバラ

 この種の家庭騒動は、多い。
多いというより、どこの家でも起こっている。
金額の大小は、ほとんど、関係ない。
億単位の財産を争っている家庭もあれば、わずか数百万円の財産で争っている家庭もある。
その結果、たいていのばあい、兄弟関係は、バラバラになる。
親戚がからんでくると、親戚関係も、バラバラになる。

・・・という話は、以前にも書いた。                                               

 そこでこう考える。
この種の問題は、「こじれたら、どうしよう」と考えるのではなく、「こじれるのが当たり前」という前提で考える。
つまりあなたが親で、多少なりとも残せる財産があるなら、「こじれるのが当たり前」と考える。
またそのための準備だけは、しっかりとしておく。
たとえばほとんどのケースでは、名義書き換えが必要な、土地、建物、債権類などが原因で、騒動が起こる。
こうした資産は、できるだけ現金化するか、あるいは、遺言書でしっかりとその処分の仕方を決めておく。

 さらに一歩進んだ考え方をするなら、こうなる。

『兄弟は、他人の始まり』と。

 そういう前提で、兄弟のあり方を考える。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●パソコンの自作

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前から一度は、してみたいと思っていた。
それがこのところ、グググーッと、胸の
中でふくらんできた。

「PCfan」(最新号)という雑誌を買って
きたのが、きっかけだった。

それがパソコンの自作。

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●守りから攻めに

 今まで、パソコンと言えば、(守りの一手)。
新しいのを買うとしても、完成品を選んで買っていた。
ときどき、ハードディスクを取り換えたり、CDトレイを丸ごと交換したりはしてきた。
メモリーを増設したり、USB端子を増設したこともある。
しかしその程度。

 言うなれば、与えられた餌だけを食べている、飼い犬のようなもの。

●TK-BS時代

 私がはじめてパソコンに出会ったのは、今からもう35年以上も前になる。
TOSHIBA製だったと思うが、「TK-BS」という、パソコンというよりは、モニターもない、ただの数字を示す機械が発売になった。
命令を8進数か何かで打ち込むと、何らかの答を出してくれた。
当時は、「マシン語」という言語を使って、プログラムを組んだ。

 今から思うと、本当にチャチな機械だった。

 で、そのあとすぐ、PETとか、APPLEとかいう、モニター付きのパソコンが売りに出された。
ともに35万円前後もした。
 私は、PET2000という機種を、買った。

●機械の臭い

 今でもそうだが、パソコンという機械は、最初電源を入れると、プーンと、独特の臭いが返ってくる。
電線が軽く焦げるような臭いである。
あの臭いをかぐと、条件反射的に、グググーッとくる。
脳の線条体に、そうした受容体ができているらしい。
つまり、あの臭いが、たまらない。
好き!

 同時に、マザーボードの基盤。
何がなんだか、さっぱり訳が分からないが、あれを見ていても、それを感ずる。
ぞくぞくとする。
TK-BS時代の名残りである。
TK-BSという機械は、基盤がそのまま外に、むき出しのままだった。

 ・・・というわけで、雑誌を読んでいたら、無性にパソコンを自作してみたくなった。
ひとつずつ、納得のいくパーツを集めて、それを組み立てる。

●能動的に・・・

 今までパソコンが不調になるたびに、あたふたするだけ。
で、メーカーに電話をかけたりして、解決していた。
あの屈辱感というか、敗北感は、それを感ずる人にだけにしかわからないだろう。
が、考えてみれば、それも私の姿勢に原因があった。
冒頭に書いたように、(守りの一手)。
つまり依存性がついてしまった。

 が、自作すれば、その依存性を自分から抜くことができる。
わかりやすく言えば、パソコンを自分の奴隷のように、支配することができる。
この先、新しいOSが発売になっても、そのつどマザーボードを取り換えたりして、それに対処することができる。
省資源にもなる。

 そう言えば、あのモニター一体型のパソコンだけは、買わないほうがよい。
パソコンを捨てるとき、同時にモニターも捨てることになる。
もったいない!
同じように、パソコンを自作できるほどの力が身につけば、新製品が出ても、パーツを取り換える程度のことで対処できる。

 ・・・とまあ、勝手なことを考えている。
プラス、ボケ防止には、よい。

 そう言えば、昨日こんなことがあった。

●A3コピー

 我が家にもコピー機はあるが、B4まで。
A3コピ-となると、近くのコンビニまで行かねばならない。
そこでのこと。

 前の男性が、コピー機を前に、おろおろしていた。
年齢は私と同じくらい。
どうやら操作方法がわからないといった様子だった。

 で、私は声をかけてくれたら助けてやろうと、一歩、前に出た。
が、それを多分、その男性は誤解したらしい。
「早くやれ!」と、私が言っているように思ったらしい(?)。
照れくさそうに笑いながら、ぶつぶつ何かを言いながら、その場を去っていった。

 私の年代には、パソコン恐怖症の人は、多い。
スイッチ類が並んでいるのを見ただけで、逃げてしまう人もいる。
タッチパネルの操作すら、苦痛の人もいる。
実際には、キーボードを見ただけで、ぞっとするという人もいる。

 そういう人がどうこうというわけではないが、この私だって、1年もパソコンと遠ざかっていたら、そうなるかもしれない。
勘が鈍ってしまう。

 だからあえて挑戦してみたい。
パソコンの自作。
ヤルゾー!

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