2010年1月9日土曜日
*The Direction of Common Sense
●左右の感覚
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時事通信に、一枚の写真が載っていた。
興味ある写真だった。
時事通信の記事は、つぎのように伝える。
『・・・戦車が進む雪原の沿道に「中央高速道路、春川ー釜山、374キロ」と書かれた標識のほか、韓国南部の都市「金海」の表示もあった。韓国の高速道路を進撃するのを想定しているとみられる』(以上、時事通信)と。
つまりあのK国が、軍事訓練をしたという。
そのときの写真が公表された。
写真には、どこか時代遅れの小型の戦車(TANK)
と同時に、「中央高速道路、春川ー釜山、374キロ」と
書かれた看板が載っていた。
それについて、時事通信は、「韓国の高速道路を進撃する
のを想定しているとみられる」とコメント書いている。
いつものことだから、記事自体には、興味はない。
興味をひいたのは、写真のほうだった。
戦車は、向かって左側から、右側に走っていた。
またそういう写真だった。
その写真に私はひきつけられた。
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●常識?
私はその写真を見たとき、一瞬、「あれっ!」と思った。
「向きが逆ではないか?」と。
つまり報道された写真どおりとするなら、戦車は、北、つまり中国、もしくはロシア側に向かって進んでいることになる。
そういう印象をもった。
K国が、韓国を「進撃する」というのなら、向きは、向かって右側から左側にしなければならない。
が、そのすぐあと、私は私のまちがいに気づいた。
日本から見れば、たしかにおかしい。
しかし一度、K国の首都のP市に視点を置いてみると、そうではない。
この(向き)でよいことがわかる。
P市に住む人たちなら、何もおかしく思わないだろう。
●進撃?
こんなことはありえないが、そこで私は、こう考えた。
あくまでも想像上での話である。
仮に私が住む遠州地方と、東北地方が、戦争状態になったとする。
そのとき私が、プロパガンダ(情宣)用の写真を撮ることになったとする。
そのとき私は、東北に向かう戦車を、どちらの向きにするだろうか、と。
このばあい、私なら、戦車の向きを、向かって左側から右側に走っている写真を載せる。
(もちろんその写真を張る場所にもよるだろうが・・・。)
右側から左側に走っている写真だと、何だか退却しているような感じになる。
もう少しわかりやすくするために、図示してみる。
(→■→)・・・東北地方に進撃(矢印は戦車が進む方向)
(←■←)・・・東北地方から退却
こうした感覚には、個人差がある。
だから逆に考える人もいるかもしれない。
あるいは東北地方に住んでいる人なら、どちらの向きにするだろうか。
●老後の親
こうして考えてみると、私たちがもっている常識的な感覚というのは、ずいぶんといいかげんなもであることがわかる。
そのとき、自分がどういう立場にいるかだけで、それがいとも簡単に、ひっくり返ったりする。
こういう例は、多い。
たとえば親と子どもの関係。
私たちの時代には、子どもが老後の親のめんどうをみるという意識は、当たり前のことだった。
常識以上の常識だった。
が、今は時代が変わった。
子どもたちの意識も変わった。
もう13年も前の調査だが、「老後の親のめんどうをみる」と答えた青年男女は、5人に1人もいない(内閣府調査)。
それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%!
この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。
さらに東南アジアの若者たちの、80~90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている(1997年)。
●親子関係
こう書くからといって、私の息子たちを責めているのではない。
批判しているのでもない。
私の息子たちも、今の若者たちの、ワン・オブ・ゼム。
その息子たちと会話をしていても、老後の私たちのめんどうをみるという気持ちが、まったくないことがわかる。
そういう雰囲気さえ、ない。
「家族を大切にする」とは言うが、今の若者たちにとっての「家族」というのは、自分と配偶者、そして子どもたちでつくる家族をいう。
そこには親の姿は、どこにもない。
影もない。
むしろ立場は逆で、子どものほうが、親に援助してもらうのが、当然と考えている?
わかりやすくするために、それを図示してみると、こうなる。
(親←子)・・・私たちの世代の考え方(矢印は援助の方向)
(親→子)・・・今の若者たちの考え方
●私たちの老後
私たちは、私たちの老後を、そういう前提で考える。
幻想こそ、禁物。
もしあなたが、まだ幼い自分の子どもをみながら、「私はだいじょうぶ」「うちの子にかぎって・・・」と考えているとしたら、幻想以外の、何物でもない。
実は、私もそう考えていた。
心のどこかでそれを信じていた。
だからこと学費について言えば、身銭を削って、息子たちに与えてきた。
どれだけ苦労しても、「苦労した」という泣き言を、息子たちに言ったことはない。
むしろ余裕があるような顔をして、息子たちには心配をかけないようにしてきた。
が、そんな親の気持ちなど、息子たちというより、今の若者たちには、通じない。
だから私はあえて言う。
『必要なことだけはしなさい。その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる』(注)(バートランド・ラッセル)と。
(注:イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872~1970)は、こう書き残している。
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる』と。)
●ものの考え方
遠州地方から東北地方を見る。
反対に東北地方から遠州地方を見る。
それだけで、戦車の向きが逆になる。
同じように、若者たちの世界から老人を見る。
老人の世界から若者たちを見る。
それだけで、ものの考え方が、180度変わる。
どちらが正しいとか、正しくないかということを論じても意味はない。
ただ言えることは、私たちも、かつては若者であったということ。
そして今の若者たちにしても、確実に、いつかは老人になるということ。
が、今の若い人たちに、いくら警告しても意味はない。
若い父親や母親にしても、そうだ。
「それは幻想ですよ」といくら説いても、意味はない。
この問題だけは、自分が老人になってみないとわからない。
まず、苦労に苦労を重ねて、自分の子どもたちを育ててみる。
学費を払ってみる。
その結果として、それぞれが自ら発見していく。
今、言えることは、それだけということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 内閣府 親のめんどう バートランド・ラッセル)
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